アイヌとイスラムの異同を踏まえて日本と人類の未来を論ぜよ~函館北方民族資料館の呼ぶ声~

先月の函館旅行の最終投稿です。今回、函館北方民族資料館にはじめて行きましたが、そこで不思議な発見(気づき)がありました。

ここは、アイヌ民族(アイヌ人)をはじめとする北方の諸民族に関する文化の紹介(大半はアイヌですが)を目的とする施設です。

と書くと「俺はアイヌじゃないし興味もないね」と仰る方も多いのかもしれませんが、日本人は弥生7~8:縄文2~3の割合の混血民族であり、アイヌは縄文の末裔の典型である上、とりわけ岩手(北東北)は本土では縄文の血を濃く残す地域でもありますので、岩手人はアイヌ(や琉球など)に対し関心や親近感を持つべきではと思っています。

館内には、著名俳優でありアイヌの末裔である宇梶剛士氏の司会によるアイヌ文化の紹介ビデオも放映されており、私は全部視聴したかったのですが、引率し甲斐のない同行者らの要求で、やむなく駆け足の観覧となりました。

で、展示品を見ているうちに、アイヌ民族の衣装は線状の紋様が非常に多く(というか、大半が線状の紋様・装飾になっていて)、これまで考えたことがありませんでしたが、どことなく、イスラムの幾何学模様(アラベスク)に似ているのでは、と感じました。

その上、アイヌ文化には肖像(絵)を書く文化がなく、「絵を描くと描かれた者が悪さをする」と考え、絵を描くこと自体を忌避する思想があるのだそうで、これも、偶像崇拝(人の絵を描き、礼賛すること)を禁ずる(忌避する)イスラムに通じるものがあります。

そのため、双方の文化を比較した研究・考察などが世に出ていないのかと思い、「アイヌ、イスラム、比較」などと検索してみましたが、それらしい文章などは全く見つかりませんでした。

もしかすると「まだ世の光が当てられていない埋もれたテーマ」なのかもしれず、ぜひ、これに取り組む研究者の方が登場することを願わずにはいられません。

それこそ、(現在はさておき)昨年までの函館は「中国・台湾・韓国の旅行者のカネで経済が成り立っていた社会」と評しても過言ではないでしょうが、もし、イスラム圏の人々に「ここに、イスラムに似たもう一つの文化がある」との認識を育ませることができれば、全世界で数十億に達し、これからの百年で、キリスト教圏(欧米人)に取って代わるのかもしれない、巨大なイスラム圏の人々が「新たな潜在的観光客層」として登場することになります。

ですので、函館ひいては北海道全体にとって、「アイヌとイスラムの異同という視点(それを研究しPRすること)」は、アジア人観光以上に、新たな巨大な金脈になりうるとすら言えるのかもしれません(別に、函館市アドバイザーに就任なさった某さんに向けて書いているわけではありませんが・・)。

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それはさておき、その上で、素人なりに「アイヌとイスラムとの異同」に関し思ったことを、1点だけ述べておきます。

私はイスラムに知見のある人間ではありませんが、イスラムが肖像画(なかんずく預言者の肖像画や銅像その他の造形物)を禁忌とするのは、詰まるところ、唯一神の絶対性(と唯一神との唯一の接続者である預言者)を守るためであると理解しています。

いわば、絵であれ他の造詣物であれ「これが神だよ」と説明される物が作られると、それが「新たな神」などとして一人歩きしたり、やがて多神教への回帰になるなど、唯一神への信仰が揺らぐ事態になるのを忌避したのではないかという理解です。

これに対し、私の知る限り、アイヌには「唯一神への信仰」なるものは存在せず、むしろ「万物に神宿る」の汎神論を徹底した思想(信仰)と理解しています。

アイヌは、上記の理由(描かれたものが魂を持ち亡者のような行動に及ぶとの思想)から、人物だけでなく、あらゆる物に対し写実画を禁じ、絵画の概念すら存在しない(抽象化した表現しか認めない)と聞いています(木彫りがあるので「人物像」を全否定しているわけではないのでしょうが、一定の抽象表現は施されているように思われます)。

いわば「徹底した一神教」がイスラムで「徹底した汎神論」がアイヌという点で、双方は両極にあると共に、「徹底」という点では類似しているのかもしれません。

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ところで、もう一つの「人類を代表する一神教」であるキリスト教は「神のもとの平等」という観念を通じて人類の本質的平等を案出し、科学技術の発展を通じて、近代人権思想(人間中心主義)に辿り着きました。

イスラムも、(西洋で中世は王権や教会権力との闘争や妥協、せめぎ合いがあったように)カリフなどの世俗的権力がかつては存在しましたが、本質的には「神のもとの(イスラム信者の)平等」という観念に立つことは間違いないと思います。

これに対し、汎神論に立つアイヌ(古代人の末裔)は、人間中心主義(人間の本質的平等を掲げる反面、人間の福利さえ実現できれば、他の存在に相応の被害・負担・抑圧が生じても構わないとの思想)を排し、「万物(自然)を尊び、万物と共に歩む」という思想に立っていることは間違いありません。

そして、現代社会が、強大になりすぎた人間の活動により世界の存続自体が脅かされており、その修正が求められている状況にあることは、流行り物のSDなんとかに論及するまでもなく、申すまでもない話です。

近年、突如としてアイヌ文化が注目されウポポイのような名所(新施設)ができたのも、根本的には「万物に神宿る」というアイヌの思想が、人間中心主義の行き詰まりを打開する可能性があるのではと感じる人が増えてきたことを示すものと言えます。

話が「イスラムとの比較」から逸れてしまいましたが、そうした「アイヌの思想の中核」とイスラムの思想の中核になることを比較すると、双方にとって新たに見えてくるものもあるかもしれません。

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ところで、私は数年前に突如、「日本国憲法には、人間の尊厳(13条)だけでなく、人に非ざるあらゆる存在(万物)の尊厳(13条の2)を掲げるべきだ」と感じるようになり、ささやかながら、ブログなどで、それ(憲法改正=新設)を提唱しています。

残念ながら、現時点ではネットの片隅で埋もれる日々ですが、願わくば、これを提唱する書籍を出版し、この思想を世に問いたいと思っていますし、その際には、その思想を共有している方々、とりわけアイヌ、琉球、そして蝦夷の末裔を自認するであろう方々には、賛同を呼びかけることができればと思っています。

冒頭にも書きましたが、日本人には、弥生人(人間中心主義=天皇のもとの平等)だけでなく、縄文人(万物の尊厳)の血も流れています。

汎神論(あらゆる物に神性や魂が宿るとの思想)は日本人の固有の精神だと述べる人も珍しくありません。

そのことを再確認し、世界にむけてご自身が何をできるか、すべきかを考えるためにも、ぜひ、皆さんも北方民族資料館に訪ねていただければ幸いです。

余談ながら、1階に掲示されたアイヌ絵(和人がアイヌの人々を描いた絵)を見ると、アイヌには眉毛が凄まじく太い(また、彫りも深い)人が多いと感じます。

そのような「眉の極太で彫りも深い人」で私がすぐ思い浮かぶのは西郷隆盛ですが、西郷さん=薩摩人も縄文の血を多く受け継ぐ人々と言われています(ただ、大久保利通は、典型的な弥生顔のように見えますが・・)。

西郷さん=薩摩人が維新期に大活躍したように、縄文の血も、活かし方次第では、維新のように日本人ひいては人類が新たな時代を切り開く原動力になるのかもしれません。

そうしたことも含め、縄文の血を引く人々が、根底にある思想を活かしつつ活躍する社会が開かれることを、願っているところです。