ハーロックに垣間見る、戦後日本の現実と幻想

先日、妻に「キャプテンハーロックの映画を見たい。ガッチャマンと違って超映画批評でも悪く書かれていなかったから、いいでしょ」と凄まれ、数年ぶりに映画館に入りました。

私は、「銀河鉄道999」は、幼少時に少しだけ見たことがありますが、キャプテンハーロックは見た記憶がなく(岩手で放送していたのでしょうか?)、ストーリーもほとんど知りません。

そんなわけで、家族全員、事前知識がないまま拝見したのですが、作品の面白さ云々とは別なところで、少し考えさせられるところがありました。

この年になると、若い頃は勉強していなかった太平洋戦争(大東亜戦争)について色々と本を読むことがありますが、余計な知識が付いてしまうせいか、「戦艦を題材にした昭和の名作」を見ると、そこに大戦の敗亡のトラウマのようなものがあるのでは、そして、そのことが、作品が大衆に受け入れられた要因の一つを形成しているのではと勘ぐってしまう面があります。

ネタバレ等のお叱りを受けない程度に少し具体的に言えば、物語の冒頭で、ハーロックの戦艦(アルカディア号)が、敵側の戦艦と戦うシーンがあり、そこで、敵側は戦闘機を多数繰り出すのですが、アルカディア号には戦闘機がありません。

結局、アルカディア号に、戦闘機の攻撃などではビクともしない非常識に強靱な仕組みがあるため、膨大な数の戦闘機も敵戦艦も蹴散らして粉砕し、その後は宇宙戦艦同士の戦闘シーンばかりで、戦闘機は映画の最後まで出てくることすらありませんでした。

そうしたシーン等を見ていると、「海軍の勝敗の帰趨が艦隊戦から航空戦に完全に移行したとされる大戦末期に、世界最強だが時代遅れとも言える戦艦大和を建造し、結局、米軍機に袋叩きに遭って撃沈されたトラウマを引きずっている作者ないし日本人が、戦闘機なんぞ何するものぞという日本海海戦以来の大艦巨砲主義の幻想にすがりたくて、このような作品で溜飲を下げているのだろうか?」と考えてしまいます。

ところで、映画の後半では、ハーロックが、もう一人の主人公というべき重要な登場人物に向かって、「幻想にすがるな、現実を直視せよ」と強調する場面がありました。中身は書けませんが、過酷な現実を直視し、そこで新たに生まれた小さな希望を大きく育てていくべきだと言いたかったようです。

ただ、私の場合、上記の冒頭シーンがどうしても心から離れず、航空戦という現実に目を背けて、艦隊戦(大艦巨砲主義)の幻想を追っているように見える作品が「幻想にすがるな、現実を直視せよ」と語るのは、矛盾というか、ある種の滑稽さを感じずにはいられませんでした。

この点は、善意解釈?すれば、作り手は、その矛盾を承知の上で、「ヤマト」を含め、判官贔屓のように「単独行動する巨大戦艦の英雄譚」を欲せずにはいられない(或いは、昭和の時代に、そうせずにはいられなかった)日本人のメンタリティに向き合って欲しいと言いたくて、大艦巨砲主義の体現者のようにも見えるハーロックに、敢えて、「現実と向き合え」などというセリフを言わせているのかもしれません。

いわば、ハーロックは鑑賞者に向かって「自分こそが貴方にとっての幻想なのだ。オレにすがるな」と言っているのかもしれません。

最近では、憲法改正論議も下火になりつつありますが、自民党の改正案のようなものに賛成するかどうかはともかく、少なくとも、敗戦により日本人に生じた様々なトラウマと適切に向き合っていくのでなければ、日本国憲法の理想主義もかえって活かされることはないのでは、などと余計なことまで考えたりもしました。

ちなみに、このような話を少しばかり妻にしたところ、「そんなのは意見や解釈であって感想ではない。家族で映画を見に来たのだから、まともな感想を述べよ」と叱られました。

ま、意見や解釈の類だとしても、陳腐なものだとは思いますが・・