壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り
映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第5回です。
***
秀三がヤンに渡した水彩画は5、6枚ほど。そこには幼少期を過ごした福岡町(現・岩手県二戸市)や旧制中学時代を過ごした盛岡、そして岩手山などの風景が描かれていた。
秀三はヤンに語り続ける。
君も華人なら杜甫の春望は知っているだろう。国破れて山河あり。今、イギリスが築き上げて君臨してきた植民地帝国は負け、間もなく日本も負ける。しかし、山河は残る。
70年前、日本では国家の進路を巡って国を二分する争いがあり、私の故郷はその闘いに負け、多くの人が辛酸を嘗めた。しかし、それを乗り越えて、今や国の舵取りに関わっている者も少なくない。
私も故郷の辛酸を忘れず、また、故郷の美しい風景が心の拠り所だと思って、こうして絵に描いて手元に置いていた。
君たちも、日本の占領による辛酸を乗り越えて、シンガポール人としての郷土愛を育み、アジア、そして世界に大輪の花を咲かせて欲しい。その志を共有する証として、この絵を受け取って欲しい。
秀三は続けて、三人の男を描いた鉛筆画について説明した。その線画は、日本人、アジア人、西洋人と思われる3人の男が談笑する姿を描いたものだった。
お分かりのとおり、これは、私、君、コーナー君を描いたものだ。この絵は、日本人も、イギリス人も、君たちシンガポール人も、皆が対等な関係を築いて仲良くやっていけるという、さほど遠くない未来を描いたものだ。
もちろん、これまで日本人やシンガポール人はイギリス人から多くのことを学んできた。しかし、いずれは逆になるときがくる。学問の前では皆が対等。一生懸命学ぶ者同士が互いに先生だ。ぜひ、そのつもりで君も学問を続けて欲しい。
秀三は、そのように述べた上で、ヤンに自分がこれまでどのようにして植物園や博物館の運営資金を調達したのかを教えた。それは、軍関係者が知れば絶対に許すことができないようなものだった。そして、秀三は続ける。
私が君たちの支援をしていることは、決して誰にも伝えてはいけない。残念ながら戦争が終わった後も、それを日本の社会が理解できるようになるまでは時間がかかり、それまでは、その話は誤った形で伝わり、徳川侯爵をはじめ、この植物園を守ってくれる他の人々にまで迷惑を掛けることもあるかもしれない。
だからこそ、そのことは後任の日本人学者にも伝えてはいけない。君がここ(植物園)に残るなら、抗日活動とは何の関係もない、私とも特別な関わりはない、何も知らない現地スタッフとして振る舞って欲しい。
そのためにも、私がここで成し遂げたことがあれば、それは徳川侯爵や後任の日本人、コーナー君ら英国人学者をはじめ、すべて他の人の手柄にして欲しい。
秀三はそのように告げ、清々しい笑みを浮かべていた。この戦争の題目として掲げられた「八紘一宇」すなわち諸民族の自立と世界の協和。戦争に利用された悲しい言葉。
自分こそが、陛下そして明治日本が目指した本当の「諸民族の自立と世界の協和」のために闘っているとの自負があったのだ。
ヤンは、それに対し「先生の言いたいことは分かりました。しかし、自分はいつの日か先生の真意を社会に伝えます。それが、私の後の世代になったとしても。」と述べた。秀三は何も答えず、静かに微笑むのみであった。
すると、そこにコーナーも現れた。コーナーは「さきほどの話の大半は聞こえていました。水くさいじゃないですか、自分も秘密は守りますから安心して帰国して下さい。ですが、私も本国に戻った後に、必ず先生の功績と変人ぶりだけは書きますよ。」と述べた。
その上で、コーナーは「先生は本当はこの地に止まり、自らの手で、新しいシンガポール、そしてアジアを作りたいのではありませんか?」と尋ねた。
秀三は一瞬ニヤリと不敵な笑みを浮かべつつ、その後、寂しそうな様子を見せながら、私はそんな身の程知らずなことを考えるような人間じゃないよ、まあ、もっと若いうちにここに来ることができれば、別の考えもあったかもしれないが・・・、とだけ語った。
***
徳川侯爵や同行した京大を代表する植物学者・郡場寛教授(青森市出身)らの到着後は秀三は目立つことは極力控え、侯爵や郡場教授らを支えて、まるで昼行灯になったように静かに過ごした。
侯爵や郡場教授らもシンガポールの貴重な文化財を守り植物園や博物館の研究環境を維持するとの志は共有しており、侯爵の資金力や政治力のもと、これまで以上に良好な待遇が得られた英国人学者らもヤンら現地スタッフらも安心して業務を続けることができた。
しかし、侯爵らの到着以来、秀三とヤンは互いに知らん顔をしており、コーナーも研究の補助以外のことでヤンと関わることもなかった。
秀三の出国の日。今も表向きは日本軍の協力者を務めているリーが見送りに来た。
リーは、相変わらず鋭い目をしつつ、ヤンからすべて聞いている、先生のことは忘れないが、先生の頼みだから忘れたことにして頑張る、自分達が新しいシンガポールを作るので安心して帰国して欲しい、日本人はこの地で多くの悪行を重ねたが、先生のような人もいたということは、きっと両国の未来には大切な礎になるだろう、と告げた。
秀三は笑いつつ、リーに、きっと君は、将来のシンガポールを背負って立つ男になるだろう、こんな戦争で命を落とすことがないよう、我が身を大切にして、しっかり勉強して欲しいと告げた。
リーが後のシンガポールの初代首相にして現在の同国を作り上げた大功労者であることは言うまでもない。
日本に戻った秀三は、その後はシンガポールとは何の関わりも持たずに、本業である火山学、地質学の研究活動などに従事しつつ、癌のため67歳で死去した。昭和新山を世に知らしめた三松正夫を支援しその功績を世界に広めたことが、秀三の最後の仕事となった。
コーナー博士はその後も日本人学者らと共に現地で研究を続け、日本軍の降伏時には、英国軍に拘束された郡場教授らの釈放を嘆願するなど、日本人学者らとの友情は一貫して続いた。
帰国後はキノコ類の研究などで世界的権威に上り詰めたが、昭南島での経験を世に伝えるべきとの使命感から、しばしの時を経て秀三や徳川侯爵らの功績を顕彰した書籍を出版し、日本でも翻訳、紹介された。ただ、秀三がヤンたち抗日華人の支援をしていたことは伏せておいた。
ヤンは秀三の帰国後も植物園のスタッフとして従事しつつ目立たないように抗日運動への関わりも続けていた。
日本の敗戦後、リーに協力しシンガポールの国作りのための政治運動にも身を投じたが、多民族国家であるシンガポールにおいて、諸民族の自立と個人の自由を強く唱えたヤンは、強力な指導者による規律と統制を重視するリーと対立するようになり、リーの他の政敵との争いに巻き込まれるような形で政府に身柄を拘束され、社会の表舞台からは姿を消した。その後、植物研究を生かした薬学などの世界に身を投じたが、病を得て失意のうちに60歳ほどで世を去った。
ヤンが秀三から受け取った水彩画や鉛筆画は、ヤンの子や孫に引き継がれた。秀三と過ごした物語と共に。
(以下、次号)