小保内一族のルーツを求めて(後)~南部藩の古文書から考える~

標題のテーマに関する前回の投稿の続きです。

Webで偶然見つけたのですが、盛岡市中央公民館で保管されている南部藩の古文書群に、前回の話とは違った形で、小保内源左衛門が登場しているのでは?との想像をかきたてるものが存在しているようです。

この古文書群の内容を整理して紹介するディープなサイトがあり、南部藩に仕えた諸氏の来歴などを説明しているのですが、その中に「生内(おぼない)賢一郎家」を紹介するページがあります。そこに「生保内源右衛門」なる御仁が登場し(左ではなく右なのが残念ですが)、同人又はその親族が秋田と二戸の双方と関わりがあると記載されているのです。
https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=50624

古文書を紹介する内容のせいか、矢鱈に人名が登場し噛み応えのある文章ですが、本稿に関連する部分を要約すると、次のような事柄が書かれています。

①古文書Aによれば、秋田(角館)出身の高橋信真は福岡(二戸)で南部利直(信直の子で、南部藩では名君と謳われる初代盛岡藩主)に登用され、名字を変えて生内(おぼない)信真と名乗った。信真の直系は孫の代に家禄没収に遭ったが、庶子が明治まで家臣?として存続し、末裔が雫石に住んでいる。

②生内信真の先祖は四国の出身で、信濃を経て佐竹家や戸沢氏に士官していたが、信真の親の代?に角館城が落城し戸沢氏が没落したため岩手(南部家)に士官したものである。

③古文書Bによれば、信真の父方の叔父に「生保内源右衛門」がおり、同人の子も源右衛門と名乗っていた。源右衛門の素性の説明は無い。諱(名前)の記載もなく、通称の「源右衛門」しか記載されていない。なお、古文書Aには信真の父・信家の兄の信忠は角館落城後も角館に留まり佐竹家に仕官したとあり、信真の叔父で「秋田から岩手に移住した者」の記載はない。

④古文書Cによれば、南部信直は、秀吉の小田原征伐に参陣する途中に、仙北で小保内禅門の館に宿陣した(※この「仙北」は、仙北町=盛岡ではなく秋田の仙北郡を指すと考えられる)。その際、信直は禅門の子を召し抱えた。なお、小保内禅門と高橋(生内)信真一族との関係は不明(記載なし)。

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高橋信真が秋田出身とされることから、信真の叔父の「生保内源右衛門」も秋田にゆかりがあると思われますし、稲荷神社の記録に伝わる小保内源左衛門も、素直に考えれば南部信直・利直時代の人物であることは間違いありません。

わざわざ「(信真が)二戸で仕官した」とある点にも、本家(小保内一族)との何らかの繋がりを感じさせる面があります。

「盛岡で居場所を持てず二戸にやってきた小保内源左衛門」と「二戸で南部家に仕官し(恐らく)盛岡に移住したものの孫の代に家禄を失った生内信真」も、二戸との関わりや盛岡との相性の悪さ?などから、ビミョーな類似性を感じます。

もし、この生保内源右衛門が実在するとして、この御仁が稲荷神社(本家)の始祖たる小保内源左衛門義信と同一人物(どちらかが誤記?)と言えるのであれば、これらの古文書からも、本家は秋田出身と裏付けられると共に、小保内と名乗る前は、高橋と名乗っていた(しかも四国に先祖がいた?)という話になります。

なお、本家の始祖の小保内源左衛門は秋田城介=安東通季?の家臣とされているのに対し、こちらの古文書では角館を拠点とする戸沢氏の家臣となっています。

ただ、前出の「湊合戦」の際には戸沢氏も安東通季に加担していたとwikiに表示されているため、「安東実季(檜山安東氏)に敗れて秋田の支配権を失った一派」と捉えれば、双方は共通することになり、その点は興味深く感じます。

ともあれ、このサイト記事のみを根拠に「源右衛門と源左衛門が同一人物だ」などと推測するのは無理があるでしょうから、現時点では妄想の域を出ません。

ちなみに、上記①~④のうち、②は史実ないし一般的な歴史認識に照らし誤った記載が多々含まれています。角館城をWebで調べると、戦国・織豊期に落城したとの記録は全くなく、角館城主たる戸沢氏は敗亡や没落はせず、関ヶ原(対上杉戦の北方戦線)での働きが不十分だとして常陸に減転封されたに過ぎず、その後、山形県新庄の藩主として存続しています(他にも、数世代に亘り生じた出来事の時系列に関する記載に不合理さを感じます)。

ただ、高橋(生内)一族が戸沢家の家臣だったなら、奥州仕置の際に失職して南部藩=仙北町に来た可能性はありうるのでしょうし、戸沢家臣時代に戸沢氏の勢力下にある田沢湖町(旧生保内村)の領主だったのなら、私の父が田沢湖町で聞いたという伝説にはピタリあてはまります。

余談?ながら、本家=稲荷神社の当主(神職)は、稲荷神社サイトによれば、源左衛門の子・定義を筆頭に、江戸時代には「定●」という名前を名乗る(2文字の最初に定の字を用いる)のが通例となっています(理由はわかりません)。他方、生内信真の子孫は、江戸末期頃から数代に亘り「定●」という名前を名乗っていたようで、不思議なものを感じます。
歴代宮司について(1) : 呑香稲荷神社ブログ (blog.jp)

ともあれ、本家の始祖たる小保内源左衛門義信の正体(出自)を考える上で、このサイトの文章が様々な示唆ないし想像をかきたてる面があることは言うまでもありません。

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以上で小保内源左衛門義信の出自を探る考察を一旦終えますが、もう一つ、純個人的に、大変興味深い事実に気づきました。

私の名前は「義和」で、兄も漢字2文字で「義」が名前の先の方に用いられている(漢字1文字違い)ので、兄弟そろって「義」の字が使われているのですが、私の実家(数代前に総本家から分かれた家)の家系には、そのような名前=名前に「義」の字が用いられている方は全くいません。

また、本家の家系図を見ても、始祖の源左衛門義信と子の定義以外に「義」の文字が用いられた者(当主たる神職)がおらず、不思議なほど「義」の字が使用されていません(まあ、特に理由もないのでしょうが・・)。

そのような中、私の父が自身の子供二人に、一族の始祖たる源左衛門義信と同じ「義から始まる漢字2文字の名前」を命名したことには、不思議というか、興味を掻き立てられずにはいられません。

残念ながら父は数年前に亡くなり、私は生前に聞きそびれましたので(兄も聞いていないとのこと)、この点に関する真相究明は困難です。

ただ、以上に述べたことを踏まえると、もしかすると、父は何らかの理由で、子供達に一族の始祖と同じ「義から始まる漢字2文字の名前」を定めたいと考えたのではないか、と妄想せずにはいられない面があります。

では、仮に、その「妄想」が本当だったとして、どうして父はそのようなことを考えついたのか。以下も全くの想像ですが、折角なので、とことん妄想してみようと思います。

私の実家は曾祖父が商家として身を立て(盛岡なら三田一族にあたるような、地元で最も著名な商家で奉公し独立したと聞きました)、祖父の代に最盛期を迎えたものの、頑張りすぎた反動?で祖父の晩年に斜陽となり存亡の危機に直面したこともあったそうです(私が物心ついた頃には、危機は去り緩やかな衰退期に向かっていました)。

そのような状況下で家業を継承する前後に我々を授かった父は「ここで家を潰してなるものか」という緊張感と闘っていたと思われ、本家=一族の始祖の加護を欲して「義」の字を子供達に付すことを思いついたのではないか。

これが、現時点では立証困難な妄想の終着点となります。

ただ、そのように妄想すれば、実家を離れ「新たな家を建てるべき立場」になった私にとって、一族の始祖と同じ「義」の一字を授けてくれたことは、相応に意味や価値があるように感じます。少なくとも、他の名前を授かった場合と比べ、親近感は全く異なると言ってよいでしょう。

故郷の秋田を不本意な形で離れ、第二の故郷となるはずだった?盛岡に馴染めず、何らかの理由で二戸に落ち着き、城跡の一角にある神社の神職として、大戦争で荒れ果てた地域の鎮守となった小保内源左衛門義信。

小さな商家の次男として生まれ、故郷(二戸)に身の置き場がなく、都会にも馴染めず、盛岡=主君を滅ぼした敵が作った都(二戸人は政実公が主君ですので信直公は主の敵です)で身を立てることにした小保内義和。

この二つの物語が交差する有様を眺めつつ自分のなすべきことを考えてみるというのも、多少はおもしろいのではと思います。

この物語をみていただければ、どうして私が北奥法律事務所(北東北のために働く弁護士)と名乗ったのかという理由も、若干はご理解いただけるかもしれません(もちろん、以上の理由で考案したのではなく、直感で思いついただけですが)。

余談ながら、私の実家の親族には盛岡に定住した方がほとんどおらず、実家以外で本家から分かれた他の方々を含め、この一族には「盛岡で身を立てた方」がいるのか知りません(本家にこれほどの歴史があるだけに、些か不思議に感じます)。

そのことも、私が盛岡で生きることに何らかの意味や価値を与えてくれるのかもしれません。

皆さんも、ご自身のルーツを探る旅に出かけると共に、その果てに、自身のあり方を深める物語に辿り着いていただくことを願っています。