平成10年頃の盛岡修習の様子と思い出
半年ほど前の話で恐縮ですが、岩手弁護士会の広報にエッセイを投稿せよとのことで、以下の文章を寄稿しました。勝手ながら、本ブログにも転載させていただきます。
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1 はじめに
先般、K先生よりエッセイを投稿せよとのご指示を受けました。内容は自由とのことですが、私の場合、共働きなどの事情から本業と兼業主夫業に追われて会務等にほとんど参加しておらず、若い先生方には「あなた誰?」と思われているでしょうから、自己紹介的な文章を書かせていただくことにしました。
ただ、単なる自己紹介ではつまらないでしょうから、私が盛岡で修習生をしていた平成10年頃の様子を題材にすることにします。私は修習生のお世話を仰せつかることがなく、現在の修習制度や修習生活の実情などを伺う機会がありませんが、当時と今では大きな違いがあるでしょうし、不快に感じる面もあるかもしれませが、法曹養成制度のあり方なども視野に入れて?お気軽に読んでいただければ幸いです。
2 実務修習開始まで
私は二年修習制の最後の年である52期の修習生でしたが、当時は7月中旬に前期修習を終え、下旬に実務修習が始まりました。私は二戸市の出身ですが県外の高校に進学したこともあり、修習先は盛岡を第1志望としましたが、そのような変わり種は私だけで、書いていないのに配属されたと嘆いていた地元出身の方もいました。
この年の盛岡配属は4名で、2名が現役、2名が卒業2年合格(男性3名、女性1名)となっており、出身大学も、私が中央で他の3名が東大、早稲田、慶応という綺麗?な組合せで、各人のキャラも、「地味で地道」の私をはじめ、各大学のカラーを体現しているような印象を受けました。
3 検察修習
盛岡に限らず当時の小規模庁は検察修習から始まりました。地裁での開始式のあと、地検に移動するのかと思いきや、反対側の岩手医大に引率され、いきなり遺体解剖に立ち会うことになりました。さすがに、その晩の歓迎会では刺身を見ながら複雑な思いを禁じ得ませんでしたが。
4人だけの修習生が4ヶ月間も地検のお世話になるため、修習生向けとも言える一般的な窃盗、傷害、覚せい剤自己使用の類だけでなく、殺人や嘱託殺人、金融機関での業務上横領など、重大ないし複雑な事案が個々の修習生に配点され、取り調べ等をさせていただく機会がありました。
また、三席検事が手掛けていた元大物県議による特別背任事件の強制捜査を盛岡地検総出で行うことになり、我々も現地に同行して差押物件の確保や整理などに従事したことも、強い印象に残りました。
この頃は修習生4人だけで行動することが多く、私の実家に全員が泊まりに来て、翌日に一緒に北山崎をはじめ沿岸の名所を廻って盛岡に戻ったことなど、楽しい思い出も沢山あります。指導検事(四席)の方も、厳しくも面倒見のよい親分肌の方で、公私とも大変お世話になりました。
4 弁護修習
私はI先生のご指導を受け、訴状など幾つかの起案を担当させていただきました。修習生の指導担当であるK先生、O先生にも、様々な行事や他の先生方からの講義の引率等をはじめ、大変お世話になりました。
ただ、12月から3月というスキーシーズンと重なる上、とりわけ弁護修習は勉強よりも見聞・体験することが重視されたせいか?全員が週末はスキー三昧の日々で、K先生や若手の検事の方々に大変お世話になりました。
一度、私がI先生の事務所で朝方まで境界絡みの訴訟の控訴趣意書を起案して帰宅した後、徹夜明けで皆と一緒に安比に行ったのですが、帰りの温泉で気を失って倒れ、ご一緒した三席に盛楼閣で焼肉を奢っていただく話がフイになってしまったことがあり、今も申し訳なく思っています。
余談ながら、三席は検察庁の飲み会で、「クリントンをはじめ弁護士が国を牽引している米国に見習い、君達が政治の世界に打って出て、法の理念に基づく正しい社会が形成されるよう頑張るべきだ」と仰っていたのですが、予想通りというか、我々ではなくご自身が霞ヶ関を「脱藩」して、政治の道で活躍されています(岡山2区選出の山下貴司議員です)。
また、クリスマスの際、まだ弁護士登録されて間もないS先生から「お一人さま」の面々(4人全員だったかは忘れました)に声をかけていただき、ご自宅でご馳走になったこと(大葉を刻んだ豆腐のサラダが強く印象に残り、その後も自分で作って食べていました)なども懐かしい思い出です。
5 民事裁判修習
裁判修習は、民裁と刑裁で二人ずつに分かれ、2ヶ月交替で1人の裁判官(部長と単独専門の判事)のご指導のもと、起案などに明け暮れます。
さすがに、民裁修習ではそれなりに勉強漬けの日々でしたが、ご夫婦で判事をされていたOさん(ご主人)が、「小保内君は、この点の勉強が足りないね」と仰ると、間髪入れずに「これを読んでみて」と、裁判官室の本棚から本を5冊以上取り出して山積みにされることが何度もありました。
しかも、申し合わせたように?家裁にいらした奥様(判事)にも、「小保内君の顔は、いつ見ても勉強してなさそうに見える」と言われ、トホホと思いながらも、勉強モードに頭を切り換えないと大変なことになると恐怖し悪戦苦闘していたのをよく覚えています。
おかげさまで、弁護士登録以来、今も、法律論で勉強不足と感じたときは、文献等を山積みにして色々と読みながら起案する習慣が染みついています。
この頃、K先生のご結婚と独立開業が重なり、結婚式の二次会や新事務所での開業パーティに呼んでいただいたことも、懐かしい思い出です。
6 刑事裁判修習
恥ずかしながら、私は諸事情(一応、不祥事の類ではありません)によりこの時期に急遽、東京で就職活動を開始することになりました。幸い、一度お会いしただけで内定をいただける先生もおられましたので、2度ほどの上京で就職先を確定できたのですが、その間は全くと言ってよいほど修習に身が入らず、折角、無罪判決を予定している事件の起案を勧めていただいたものの、起案できず簡易なレポートの提出で終わってしまったことが、今も悔やまれます。
5年以上前にお会いした修習生の方から、当時すでに、地方に配属された修習生の多くが何度も上京を余儀なくされ、重い負担を強いられているとの話を伺ったことがありますが、就職活動と修習の両立を修習生に強いるのは無理があり、修習開始までに就職先を内定させるなど、修習中は修習に専念できる文化が根付いて欲しいと思っています。
刑裁修習の最後に、現在と同様に修習生による模擬裁判がありましたが、当時は前後の期の修習生と一緒に行っており、1年目と2年目の2回、経験できました。
1年目で検察官を担当した際は、被害事実を法廷で否認した被害者証人の特信性立証(被告人の知人から金品を受け取った等の証言の引き出し)ができず、弁護人を担当した51期の方々に惨敗したものの、2年目で弁護人を担当した際は、被告人役を担当した53期のOさんの熱演もあり、無罪判決をいただくことができました。
被害者立会の実況見分調書に被害者の証言と相反する記載があり、法廷でその点を指摘したものの同期で検察官役のI君の剣幕に圧倒されるという一幕があったのですが、53期の裁判官役の方からその件を考慮したとのコメントをいただき、法廷は迫力だけで決まるものではないと感じたのを覚えています(ただ、監督役のK裁判官からは、どうして有罪じゃないのと言われて自信を無くしましたが)。
7 その他、最後に
私の誤解でなければ、当時と現在の修習制度の大きな違いとして、前後の期と交流できる機会ないし程度の有無が挙げられると思います。
当時は盛岡に一緒にいる期間が数ヶ月もありますので、私は51期の盛岡修習の方々から感銘を受ける機会が多々ありましたし、53期の方からも、(私はさておき)52期の面々から良い影響を受けたという話を頂戴したことがあります。現在の仕組みを把握できていませんが、修習生が前後の期の方々と継続的に交流できる機会は、必ず設けていただきたいものです。
当時は、「弁護士になった後は、どうせ仕事漬けの毎日になるのだから、今のうちに遊んでおくように」と言われ、私自身、己の至らなさもあって概ねそのような日々を送ってきました。
それだけに、長期休暇など、ここでは省略した他の出来事も含め、修習生の頃の様々な思い出が、その後の自分の支えになった面も大きいと感じています。
現在の方々は、修習開始前に多少ともそうした機会を持つことができるのだろうとは思いますし、修習直後の弁護士の眼前に広がる世界自体が、当時と今とでは様変わりしていますが、実務修習が法曹養成の根幹である(べき)ことは微塵も変わりないと思います。
指導等に携わっておられる諸先生方におかれても、盛岡配属の全ての修習生が岩手に来て良かったと思って法曹人生をスタートできるよう、OBの一人としてご尽力をお願い申し上げる次第です。