日本国憲法の根本原理を語るメルケル首相と、安倍首相との好対照
トランプ氏が米国大統領選挙に当選したことに伴って、警戒から歓迎まで様々な観測や他国関係者の言動などに関する記事が入り乱れていますが、ドイツのメルケル首相の同氏への祝辞を取り上げた下記のネット記事には、憲法学を学んだものとして、強く印象を受けました。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/219486/111100022/?P=1
メルケル首相の祝辞は、選挙期間中に外国人やマイノリティへの辛辣ないし敵対的な言動が多く見られたことを踏まえて、トランプ氏に個人の尊厳を守るように強く迫ったものとなっており、記事では、そうした発想ないし表明もないまま手放しで迎合している感のある安倍首相と好対照(というか、日本の対応は残念なものである)と述べられていますが、恐らく日本の法律家の多くが、同じような感慨を抱いたはずです。
大学で憲法を勉強した人にとっては、日本国憲法の最高原理(根本目的)が個人の尊厳(13条)であることは自明・常識ですが、私の頃の小学校の授業では「国民主権、平和主義、基本的人権」は出てきたものの、個人の尊厳は聞いた記憶がなく、他に、教育・報道・政府広報等の類を問わず、そうしたことをきちんと国民に伝えているようなものを見た記憶がありません。
ですので、上記の「常識」感覚が一般の方には浸透しているだろうかと不安に感じたりもする、というのが正直なところです(条文の位置や体裁にインパクトを欠く点にも原因がありそうに思いますが)。
ブログ等で人様の悪口を書くのは好みませんので(本業で十分です)、安倍首相の祝辞にあれこれ申すつもりはありませんが、個人(人間)の尊厳が冒頭に来ているというドイツ基本法や国のリーダーがご自分の言葉で尊厳のあり方を語っている光景をいささか羨ましく感じます。
と共に、翻って、ドイツ基本法では個人の尊厳が第1条に設けられているのに対し、日本国憲法の第1条は象徴天皇制を掲げており、天皇制云々の当否はともかく、こうした日本国憲法の仕組みや諸外国との対比などという観点も含めて、改めて色々と考えさせられる面があります。
象徴天皇制(及びそれを担う人的実在としての昭和・平成の両天皇)の有り難みを享受してきた戦後日本は、「王殺し(革命)の国」の淋しさを感じずに済む反面、公というもののあり方について、ある種の他力本願的な体質を持たざるを得ない(それが国民にとっての「分相応」になってしまう)という弊害を生じさせているのでしょうか。
或いは、安倍首相とメルケル首相の祝辞の違いについて、単純に前者を批判するばかりでなく、そうした観点も交えて考えてみるのも意義があるのかもしれません。