木伏緑地の華々しい新装開店と、歴史の彼方に消えた?先人達の魂
先日、所用のついでに、先日に全面改装された北上河畔にある「木伏緑地」に立ち寄ってきました。
木伏緑地は以前から小さな公園(後記参照)でしたが、Park-PFIという手法により、多数の民間店舗を公園内で営業させ、その営業利益を元手に公園の整備を行ったのだそうで、オープン時に盛んに報道されたとおり、横浜ベイエリアあたりから飛び出てきたようなお洒落な飲食店が立ち並び、江戸期(京文化移植)以来、都会が大好きな盛岡市民の方々には好評を得ているようです。
が、これから寒くなる一方なので、紺屋町あたりにありそうな、イケてないおじさんなども気軽に立ち寄れる「おでんと熱燗のお店」も配置した方がよいのでは、と余計なことも思ったりしました。
ところで、この界隈(緑地)の北側には「谷藤翁顕彰碑」なるものが建立されています。谷藤翁といっても現職の盛岡市長さんではありませんが、谷藤市長の直系のご先祖さんであることは間違いないはずです。
碑文によれば、明治の初期に盛岡駅が開設された際、当時は夕顔瀬橋以南に道路がなく、北側の往来は「盛岡駅→開運橋→材木町→夕顔瀬橋」という迂回を強いられるなどしていたため、盛岡駅北面の大地主で実業家でもある谷藤家の当主が、私費を投じて盛岡駅(開運橋西袂?)から夕顔瀬橋までの道路を開設したので、それを顕彰するのだと書いてありました。
そして、その際、その道路が「木伏街道」と呼ばれたのだそうで、これが木伏緑地の名称のもとになったようです。
この「木伏」という字、これまで、てっきり「きぶせ」だと思っており、今回初めて「きっぷし」という呼び方だと知ったのですが、聞いた瞬間、それってアイヌ語由来なのでは、と思って調べたところ、やっぱりそうだ(そして、このエリアの元々の地名だった)ということが分かりました(下記引用の「もりおか歴史散歩」の記事を参照)。
https://blogs.yahoo.co.jp/fiwayama/12270884.html
余談ながら、FB上で「盛岡駅に勤務する人達が住んでいたから、切符士が転じて木伏になったと聞いた」と投稿されている方を見かけたのですが、「切符士」で検索しても、そのような言葉自体が出ませんでしたので、恐らくは噂話の類かと思われます。
ともあれ「木伏緑地」なる名称を誰が付けたのか分かりませんが、アイヌ語(きっぷし)と漢語(りょくち)の相性が良くないというか、実に言いにくい(音のつながりが悪い)ので「きぶせ(りょくち)」に読み替えた方が楽だというのが正直なところではあります。
が、盛岡市内にはアイヌ語=古代からの地名がほとんど残存していないので「きっぷし」なる地名は貴重で、味気ない「緑地」の方を他の言葉に代えるべきと思われます。
「きっぷしひろば」など、和語とくっつけるのが手っ取り早そうですが、広場などというありふれた言葉では有り難みがないので、いっそ、アイヌ語で、この場所に相応しい名称(河畔の台地にあたるような言葉)があれば、それを拝借するのが良いのでは、と思ったりします。
wikiによれば小さな集落をアイヌ語で「ポンコタン」というのだそうで、例えば「キップシ・ポンコタン」などと改名?するのも良いかもしれません。
ところで、この場所は少し前まで「啄木であい道」と称され啄木とその関係者の歌碑群が設置されていましたが(引用サイト等を参照。検索すれば同種記事は多数出てきます)、現在それらは全て姿を消しているようで、「であい道」の面影は全くありません。
http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/takudeaimiti.html?fbclid=IwAR0FsQP_DkO4L3Nxe3G09ugrEQ_E-Uw1kZCOSF8GJCkyi9NZYXIKEhSfJaU
歌碑群はどこかに移設されたのか、それとも無残に廃棄されてしまったとでもいうのか、少し検索した限りでは該当記事が見つからず全く分かりませんが、これを撤去したのは、早計だったのではと感じます。
というのは、「緑地」の飲食店群はそれなりに「都会のオサレ感」が満載ではあるものの、その周囲には、悠々と流れる北上川や少し離れて望む開運橋などを別とすれば、殺伐というか、お店しかオサレ感を出すものがなく、芸術云々など他のオサレ装置がない(言い換えれば、空間全体のオサレ設計が足りない)ため、オサレ感目当てに来た人にとっては物足りないというか、実に寂しい感じがします。
例えば、飲食店群が並んでいる通り(緑地の本体)の下にある河川敷の草原部分に、それら石碑をセンスよく再配置(移設)すれば、階段を降りて歌碑を見に行かなくとも、店舗群(丘の上)から歌碑群を見てオサレ感を相応に満足させることができるのではないか(ちょっとした石碑公園=プチ石神の丘感が出るのでは)という感じがします。
もちろん、(増水時を別とすれば)時間のある人はついでに降りて歌碑群を見に行けばよいでしょうし、岩手公園まで行かなくとも、北を眺めさえすれば「ふるさとの山に向かいて言うこと無し」と勝手に呟いても様になりますので「ここでしか得られないナッタ鬼感」を味わえるのではと思われます。
さらに言えば、この草原(河川敷)部分は夜間は真っ暗ですので、土日など盛況の際はLEDで歌碑群や川面などを照らせば、夜も華やかな雰囲気が多少は出るのではと思います。
啄木であい道は、盛岡市内(中心部)には、啄木新婚の家(と盛岡城の歌碑)しか啄木遺産(ゆかりの場所)がないという点を踏まえて、住民と来訪者に「啄木ワールドをもっと伝えたい」との思いで作られたのではないかと思われます。
それだけに、緑地がオサレ改装すること自体には何の異議もないものの、「啄木であい道」の姿を抹殺してしまうことには疑問を感じざるを得ません。
啄木であれ、さらに古い先人達であれ、その息づかいを何らかの形で残しておくことが今回の改装の際に留意されるべきではなかったか(それが十分になさず、都会的なものの移植に止まっていることが、上記の「物足りなさ」の背景にあるのでは)などと感じないこともありません。
もし、今も歌碑が残っている(どこかに保管されている)のであれば、そのような「歌碑の生かし方」を関係者の方々には考えていただきたいところです。