ゲスの極みの外部不経済に泣かされたり悩まされる人々(後編)
不貞問題については、明確な証拠が突きつけられない場合などに不貞そのものやその程度などを巡って全面否認する例も時折みられます。
そのように特定の事実関係(幅のある事実も含めて)が争われた場合、裁判所としては、争点たる事実Aの存否について「争いのない関連事実のうち、Aの存否の判断に影響しうる事実群(肯定方向に働くB群と、否定方向に働くC群)」を先に確定させ、次いで、証拠によりAの存否に判断しうる他の事実群(肯定方向に働くD群と否定方向に働くE群)の存否を確定させ、その結果により、BないしEを総合的にみて経験則に基づきAの有無を認定する、というのが基本だと思います。
特定の事実を巡って当事者の証言が全面対立することも時には見られますが、「コテコテの虚偽の証言」の類はさておき、各人のメンタリティなどに起因して事実認識(認知)に様々な歪み(バイアス)が生じ、同じ状況に直面しても認識する事実の内容が甲と乙とで微妙に(時には大きく)ずれることで、そのような「供述の対立」が生じることも珍しくありません。
そのことは、裁判に限らず普段の家族・友人間の会話などでも当たり前に生じることだとも言えるでしょう。
そうした意味では、法廷傍聴などに限らず裁判ドラマなど通じて、事実の存否が争われる光景とご自身の日常的な光景などを比較しながら、「事実の存否や内容に関する適切な判断のあり方」に考えを深めていただければと思います。
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ところで、「ゲス不倫」報道に言及するまでもなく、この種の話題はイエスの時代から現在に至るまで古くて新しい投石(第三者による過剰な糾弾)の問題があり、未だに社会の底の闇の深さを感じるというか、それで良いのだろうかと思うところはあります。
我が業界にも、周囲の不安や猜疑心を煽り自分の正当化に固執し、物事を混乱させてまで目先の駆け引きや勝利を優先するトランプ大統領型?の弁護士は珍しくありませんが、私自身はそうした「相手をとことん痛めつけてでも勝つ」路線ではなく、適切なルールを踏まえつつ、各人のやむを得ざる事情を踏まえた対立の止揚と調和を目指すオバマ大統領のようなスタンスの方が性に合っています。
もちろん、そうした方向を意識せざるを得ない特殊な事案(相手方の行動に著しい問題があり強い反省や糾弾を相手に求めなければならない対決色の強い事案)を受任することもありますので、その場合は、どのような方法をとれば裁判所にその点の理解が得られるか、日々悩んだり自身を発憤させるよう努めたりの繰り返しにはなりますが。
不貞問題に限らず交通事故から企業活動被害なども含め、加害者・被害者どちらの立場でも仕事をするのが普通の町弁ですので、依頼主の立場や事件の事情に即した適切な主張立証を意識しつつも、特殊事案を別とすれば、相手方当事者の真っ当な心情への配慮も意識した仕事ができるのが望ましいと思っています。
先日、中野信子氏の「サイコパス」という本(文春新書)を読みましたが、虚偽の言動を平然とまき散らす悪質な不貞行為者に限らず、社会の様々な混乱や人の尊厳の蹂躙などを招く御仁に対し、どのように向き合っていくか(関わりを避けるべきかも含め)を考える上で、色々と参考になるように思われます。
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610945