マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(後編)

昨年末の鎌倉来訪に関する記事の後編です。

源氏山を東側から下山し、寿福寺に立ち寄った後、しばらく南下して鶴岡八幡宮に着きました。

鶴岡八幡宮は今回の主要目的地ということで、宝物殿を含め、可能な範囲で神社内を色々と拝見しました(が、話題の大河館は2時間待ちで諦め、国宝館は休館中で残念でした)。

鎌倉の象徴であり武家の守り神とも称されるこの神社は、源頼義により創建され頼朝の手で現在の姿となったもので、蝦夷の末裔たる東北人にとって仇敵の神殿という面があることも、忘れてはいけません。

と同時に、源氏(河内源氏)宗家はこの地で無惨な最期を迎えたわけで、そのこともまた、この神社の業の深さを感じさせるものと言えます。

ともあれ、千年前に時代に翻弄された人々の鎮魂を祈って一句

しめなわに禍福あざなす鶴ヶ岡

また、源実朝が落命した八幡宮の階段にて、山形県鶴岡市で先日生じた雪害事故も脳裏をよぎって一句。

この坂はまさかの雪が仇となり

その後、私にとっては今回の主要目的地にあたる「頼朝と義時の墓所」(法華堂跡)に行きました。

事前に勉強せず行きましたので、最初に上った頼朝の墓の区画に義時の墓もあるのかと右往左往しましたが、ほどなく、双方は別の場所に設けられており、それぞれ別の階段から上る必要があることが分かりました。

鬱蒼とした頼朝の墓(江戸期に整備されたもの)に比べて義時の墓所(跡地)の方が広々としており、また、頼朝は狭い区画に一人だけの墓となっているのに対し、義時の墓所の奥は三浦一族の供養墓があり、区画上部にも大江広元らの供養墓があるなど様々な施設で賑わっており、ここでも「頼朝のドス黒い孤独」を感じざるをえませんでした。

ともあれ、大河ドラマの様々な場面を思いつつ、鎮魂の丘にて義時が義和に囁く一句

その時は義を以て為し報い待て

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その後、丘を下りて、鎌倉幕府の終焉の地に向かいました。

北条氏の天下は頼朝の死と義時の権力闘争(勝利)から始まり、東勝寺での高時一族の自刃にて終わる。もって盛者必衰の理をあらはす。

近時の研究(中公新書・亀田俊和「観応の擾乱」など)によれば、鎌倉幕府の倒壊(主要武士群からの支持喪失)は、土地利権をはじめとする武士同士の紛争を解決する役割(訴訟処理機能)を幕府=鎌倉政権が果たしていない(ので政権担当能力がない)と評価された点が大きかったのだそうです。

翻って現代はどうか。

この仕事をしていると、現在の司法制度の残念な部分を否応なしに感じさせられ、当事者の不満や失望を垣間見ることは多々あります。

高時の自刃跡とされる光景は、或いは、裁判所や司法関係者、ひいては立法のための努力をしない国民全体の近未来の姿なのかもしれません。

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最後に鶴岡八幡宮の小町通り商店街に戻り、通り奥のカフェ・ミルクホールにて名物のプリンを頂戴しながら一服した後、ほどなく帰宅しました。

商店街には「神社のあとはジンジャーで」なるキャッチコピーを付した幟があり、どうせなら、寅さんの口上のように、こんな感じで言葉を並べた方が面白いと思いました。

神社のあとはジンジャーで
お寺で御法度ジントニック
天ぷらアタればテンプルへ
モスクで食べたやモクズガニ

そしてプリンはプリンシプル。

24年前、私が所属していた司法修習52期6組では、地元ご出身のTさんによる「魅惑の日帰り鎌倉ツアー」が開催されました。

Tさんは、数年前から研修所の刑事弁護教官として熱血指導に邁進されつつ、オウム真理教の末端著名信者を巡る刑事事件で無罪判決(実行者との共謀関係を否定)を勝ち取るなどの輝かしい活躍をなさっています。

かたや、当方は今や田舎の片隅で数多の名も無い赤字仕事に追われつつ事務所の運転資金に喘ぐ日々。まさに日暮れて道遠しというほかありません。

湘南の海が眩しく見えるのは、或いは、誰もが可能性に満ちあふれていたのかもしれない、あの日々への執着への裏返しなのかもしれません。

あたかも、この街がかつて武士の都であったように。

皆さんは鎌倉で、何を感じましたか?

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