一番不肖の弟子から人生の恩師・合川幹男先生への追悼の辞
昭和50年代から長年に亘り二戸地域の子供達のため学習塾・二戸ゼミナールを主宰されてきた、合川幹男先生が急逝されたことに伴い、先日、葬儀等に伺ってきました。
私は小学3年から中学3年まで二戸ゼミに通い続けた上、県外の高校に入学後も、帰省のたびに何度も何度も押しかけては事実上の補習をお願いしたり、大学時代などには授業の終了後に酒食をご馳走になりつつ何時間も話し相手になっていただきました。
多くの方に導いていただいた私の人生の中でも最大かつ圧倒的な影響を受けた方であり、名実とも人生の恩師と呼ぶべき方です。
地元のご出身である合川先生は、福岡高校から東北大学(工学部か理学部のどちらか)に進み、卒業後は日立のエンジニアとして第一線で活躍されていたそうなのですが、ご実家の事情で地元に戻らざるを得なくなり、若くして二戸ゼミを開設されました。
学生時代にバックパッカーとしてユーラシア大陸横断などという凄まじいことをなさっていた先生にとっては、大舞台で活躍する機会を失うという意味では残念なことだったかもしれませんが、我々片田舎の子供達にとっては、地元から東北大まで進んだ方に親切丁寧な指導を受ける僥倖に恵まれ、私が中学を卒業する頃からは、多くの卒業生が盛岡一高をはじめ市外の難関校に進学するようになりました。
もちろん、難関校進学を目的とした塾ではありませんので、地元の福岡高に進学する方が大半だったとは思いますが、誰もが感服する先生の快活で高潔な人柄や包容力の大きさも相俟って、数十年間、二戸地域にとってかけがえのない存在として子供達や社会を導いてこられました。
萩に松下村塾あれば、当地に二戸ゼミあり。
幕末に会舗社あれば、当代に二戸ゼミあり。
日本を動かすような大物を輩出したわけではないかもしれませんが、私にとっては、先生のおかげで、社会内で世のため人のため真っ当に生きることができる人間になれたという自負があり、二戸にとって不世出の巨人・偉人であることは間違いありません。
後半生のマラソンなどに限らず、知る人ぞ知る福岡中学校初代応援団長として驚くような創設秘話があるなど、塾以外の面でも、常人ならざる逸話に事欠かない方だと聞いています。
ただ、田舎あるあるの一部の地元高至上主義者の方々からは、学業に秀でた子供達を次々に市外に送り出す「ハーメルンの笛吹き男」だと、目の敵にされたこともあったとか、なかったとか・・・
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ともあれ、私は開設時から3~4年目ほど、まだできて間もない頃に入塾したので、一番最初の寺子屋のような古い小さな建物もよく覚えていますが、本来は4年生からを対象とする塾に、母が「この子は学業で身を立てることでしか生きられない子だから」と無理にお願いして、3年生のうちに4年生向け(1学年上)のクラスに入れていただきました。
小学生のうちは1学年上と同じ学年の2つの教室にかけもちで通っていたのですが、中学からは年上のクラスだけに通い、中学2年で「卒業」するまで、どうにか1学年上のクラスでやりぬくことができました。
ただ、恥ずかしながら中学3年がゲーム漬けの自堕落な生活になってしまったせいか?秋頃から「自宅で遊んでるくらいなら来なさい」と出頭命令を受け、2年ぶりに同学年の塾生達と卒業まで一緒に過ごしたので、合計6年半(小学時代は2学年かけもち)も二戸ゼミで過ごしました。
最終学歴等で私より遙かに優れた方々は沢山おられますし、世界的に活躍されている著名経営者の方も卒業生にはおられますし、私と同じように公私とも多大な恩義を受け、恩師として慕っているOBは星の数ほどおられますが、授業以外の関わり等も含め、先生と一緒に過ごした時間の長さ、濃さという意味では歴代の生徒さん達の中でも一番ではないかと思っていますし、受けた影響の大きさも含めて、勝手に一番弟子を自称しています。
何より、先生との出逢い、薫陶がなければ、こうした恵まれた人生を送ることはありえず、発達障害くずれのなれの果てとして、今頃は引き籠もりか社会不適合のまま悲惨な最期を迎えたであろうと痛感するだけに、誰がなんと言おうと、数多の教え子達の中で私が一番、先生に感謝している人間だと思っています。
この仕事をしていると、どうして貴方はそんなにも頑張れるのかと、驚きと感謝の言葉を頂戴することもあります。
私が合川先生から慈愛を注がれ薫陶を受けた人間だから、というのは、その答えの一つであることは間違いありません。
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と同時に、先生からかけていただいた期待に到底応えきれていないという意味で、私は一番の不詳の弟子だとも思っています。
子供の頃、先生が何度か仰っていたことでよく覚えているのは、明治維新は江戸や京都の人々ではなく、薩長などの田舎で育った若者達が熱情をもって成し遂げたものだ、今も、田舎から出て行く若者達が社会全体のためにできること、都会の人達には見えていないが君なら見えるものがあるはずだ、君はそれを目指しなさい、というものでした。
ただ、私は結果として都会で生きる人生は選ばず(若しくは選べず)、岩手に帰ってきて、地域の人々向けの、ある意味、小さな仕事に明け暮れる日々を送っています。
或いは、数年の都会生活を経て二戸に戻ってきた合川先生が、私にとってのロールモデルだったことも、影響の一つなのかもしれません。
とはいえ、片田舎で育ったからかどうかは分かりませんが、この仕事を通じて、誰も言おうとしないけれど、社会全体のため実現すべきではないかと考えていることは間違いなくあります。
そのことはWebでも何度か触れてきましたが、この国は、社会で掲げるべき正義の一つを法としてきちんと掲げることができていない、自分はそのために汗をかくべきではないかと感じながら、諸事に追われて何年も無為に過ごす体たらくとなっています。
合川先生も逝ってしまった今、私に残された時間も、さほど長くはないのかもしれません。
何をどこまでできるかはさておき、いずれ、先生に胸を張って会いに行けるよう、悔いの無い後半生でなすべきを成し遂げていきたいものです。
最後に、合川先生の安らかなご冥福を改めてお祈り申し上げると共に、長年に亘って地域の子供達のため献身的に尽くしていただいたその高尚なる生涯に、そしてご家族の皆様のお力添えに、心から敬意と感謝を申し上げます。
【追伸1】
余談ながら、合川先生の生き方は、維新期に時代の傑物らの知遇を得て歴史の片隅に名を残した私の総本家の先人・小保内定身氏に多少なりとも通じるものがあるのかもしれません。そうした歴史の繋がりにも目を向けていただければ幸いです。
【追伸2】
後日、FBでの私の投稿に、通塾同期(1学年先輩)のKさんから先生への追悼文となる長文コメントを寄せていただきました。こちらへの転載は差し控えますので、塾関係者などご覧になりたい方は、私のFB投稿(コメント欄)にてご確認下さい。