壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時
映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の第4回です。
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間一髪、辻の部下による狙撃は失敗に終わり、秀三は軽傷に止まったが、治療が遅れたことなどが原因で高熱を発し、一時は生命も危ぶまれる事態になった。
そんなとき、ヤンが植物園内に自生していたある植物をもとに薬を煎じて飲ませたところ、熱が一気に引いて、急速に体調が回復した。
その薬草はまだコーナーら英国人学者にも知られておらず、一部の地元民しか知らなかった。ヤンの父は漢方の造詣の深い華人医師で、マレー系の地元民との交流を通じ、その薬草を生かすことを知っていたのだ。
その頃、秀三の負傷を知った山下司令官は「陛下の名代」が軍人に狙撃されたことに狼狽し、黒幕と目される辻を転出させることにした。
辻は「そんなのは虚言でしょう。陛下の言葉を偽ることこそ許し難い大罪」と抗議するも、山下は「私は陛下が生物学に造詣が深いことを知っている。田中舘が私心なく文化財などの保全に奔走する姿も見た。だから、私はあの男の言うことを信じる。たとえ、順番が逆だったとしても、だ。」と告げた。
辻は転出が決まり、それと共に華人の弾圧は以前より多少は緩和されるようになった。
他方、軍に遺恨を生じさせた状態を続けるのは秀三の本意でなく、秀三と違って豊富な財力を持ち、危うい方法ではない形で資金提供をして施設や人材の維持ができ、かつ軍と融和できるだけの人物に後任を委ねるべきだと当初から考えていた。
その人物として白羽の矢を立てたのが「虎狩りの殿様」こと尾張徳川家の当主・徳川義親侯爵である。
秀三は、銃撃の少し前に一時帰国した際、義父である貴族院議員・田中舘愛橘(もと東京帝大教授にして、地球物理学の権威であり、日本の物理学の創始者の一人。二戸市出身)に、シンガポールの学術・文化資産の保全を託す政界の大物を動かすことができないかと相談していた。
そして、愛橘博士が推薦したのが、博士と同じ貴族院議員仲間で、ジョホール王国のスルタン(マラッカ海峡の本来の領主)とも懇意にするなどマレー社会への造詣も深いと聞いていた徳川侯爵であり、秀三にとっても意中の人であった。
かくして、秀三は愛橘博士の斡旋で徳川侯爵と面談し、かねてより同じ思いを共有していた侯爵の快諾を得て、あとは侯爵が相応の人材を選抜し派遣するのを待つばかりとなっていた。
やがて、秀三の回復後、侯爵が自ら植物学・博物学の権威である学者らを引き連れてシンガポールに赴任するとの連絡が届いた。
秀三の役割は終わった。シンガポールを去るべきときが来たのだ。また、辻が軍関係者を通じて学会にまで手を回し、秀三をシンガポールから駆逐しようとしているとの噂も秀三には聞こえてきた。これ以上、軍と表だって事を構えるのは得策ではない。
侯爵が到着する直前のある夜、秀三は、植物園内にある執務室のバルコニーにヤンを呼び、ヤンに語りかける。
この戦争は間違いなく負ける。植民地の解放を謳うこと自体は間違っていないが、言っていることとやっていることが全く合っていない。シンガポールでマレー人やインド人を優遇し華人を弾圧しているのも、詰まるところ軍の都合で行っているに過ぎず、植民地の主が入れ替わっただけの話に過ぎない。
こんな状態は長くは続かない。きっと、あと3年もすれば日本は負ける。その際、シンガポールもマレー半島も一旦はイギリスの植民地に戻るかもしれないが、日本に惨めに負けたイギリスにもはや威光はなく、それも長くは続かない。すぐにアジア人の自立の時代が来る。
その上、この街は華人やインド人など移民だらけの特殊な都市で、マレー半島など周辺地域と一緒にやっていくのも難しいだろう。間違いなく、この街の人々が、シンガポール人として自立して国を営んでいかなければならない時が、あっという間に訪れる。
だからこそ、君達は「シンガポール人とは何か、どうして自分達は周辺国から独立・自立し、多民族が力を合わせて国を運営していかなければならないのか」という国家・国民のアイデンティティと統合の問題に直面せざるを得ず、それを解決しなければならない。
この植物園や博物館に保存されている貴重な文化財や学術資産、美しい花々は、間違いなく、その解決に役立つはずだ。日本人学者やコーナー君達が去った後も、君達はこの志を忘れることなくこれらを保全し、国づくりに生かして欲しい。
そう述べて、秀三は、幾つかの水彩画と三人の男を描いた鉛筆画をヤンに渡した。
(以下、次号)