壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第7回 あらすじ案⑥現代編2(終章)~そして花々は今も咲き続ける
映画化を目指す連載企画「世界遺産・シンガポール植物園を守った二戸人、田中舘秀三博士の物語」のシナリオ案の最終回です。
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そして、物話は現代に戻る。
現代の当事者である「孫のヤン」は、ここまで描かれたような詳細な話ではなく、自分が父を経由して断片的に聞いていた話を千代に説明した。
千代は、子供の頃に二戸出身である父が田中舘愛橘博士の話を矢鱈にしていた上、中学校の修学旅行で昭和新山や有珠山などに行ったことから、田中舘秀三博士が昭和新山の名付け親だということを知っていた。秀三博士がシンガポールの植物園や博物館を守ったという話は初めて知ったが、違和感なく了解できる話だった。
千代がヤンから見せられた3人の男を描いた線画の裏には、次の言葉が付されていた。
民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ
万国の民が集いし島に建つ 新しき世を目を閉じて見る
千代は、改めて、この会社(出向先の顧問企業)、そしてシンガポールの役に立ちたいと強く思った。そして、ヤンに、敵対的買収からこの会社を守りたい、自分にも手伝わせて欲しいと頼んだ。
ヤンは、先日、千代が提出したレポートを取り出し、評価できる点、的外れな部分などを講評した上で、今この闘いが直面している論点の幾つかについて説明した。
事務所に泊まり込み、大量の書類や文献などに埋もれながら解決について悩む千代。すると、この事件が日本で裁判に持ち込まれた場合、相手企業にとって、ある大きな手続上の問題が発生することに、日本での最近の判例や議論などを通じて気づいた。
ただ、この事件で適用される法律(準拠法)がどこの国のものになるのか、また、その国の法律や判例などでは敵対的買収に対し同じ制約が生じることになるのか、そこまで(特に後者)は千代にも分からない。
ともあれ、千代がそのことをヤンに報告すると、ヤンはその話が今回の件でも通用すると述べて、近日中に予定されている相手企業及び代理人との交渉に、千代も同行するようにと告げた。
そして交渉当日。圧倒的に有利な状況を作って得意満面の相手方陣営に対し、ヤンが針の一刺しのように千代が指摘した問題を指摘し千代も補足説明したところ、相手方陣営は狼狽し、その場は一旦解散となった。恐らく、当方の全面勝利は無理でも、悪くても痛み分けに止まる形での解決は期待できるだろう。
その後、千代は、ヤンの理解・支援のもと、出向先の社内で多くの良質な経験に恵まれた。シンガポール有数の法律事務所とも幾つか関わりを持ち、移籍を誘われたこともあった。
そして帰国。見送りの空港で、ヤンは、あのときに千代に見せた水彩画と鉛筆画を、盛岡の街を描いた1枚の絵だけを除いて千代に手渡した。
これらを生かすには、自分が持っているよりも君が持った方が良さそうだ。ただ、盛岡を描いた1枚は君の故郷でもあるので記念に残しておきたい、と。
帰国した千代を待っていたトーマスは、出向を命じた理由を説明した。一つは、事務所が来年にもアジアの中心拠点としてシンガポール支店の設置を予定しており、その下準備として若い弁護士を派遣して現地の業務に精通させると共に重要顧客である顧問先と強固な信頼関係を築くこと、もう一つは、千代の採用にも関わっていたトーマスが千代を選んだ特別の事情と、その証となる1枚の絵だった。
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物語は2015年にシンガポール植物園が世界遺産登録され、園内で記念式典が行われたところで幕を閉じる。
リー・シェンロン(李顯龍)首相は、ステージ上から居並ぶ要人・招待客たちに向けて登録の意義を語りつつ、次のように述べた。
この植物園はシンガポールの創設者・ラッフルズ卿が開設し、我国の独立後は国家と国民の力により守り育ててきたものである。そこに至るまでには、この植物園が戦争の被害により消滅する危機に直面したこともあった。
しかし、その際、身の危険を顧みず自身の利益を求めることもなく、この植物園をはじめシンガポールの多くの学術資産や文化財がアジア、そして世界人類にとってかけがえのない宝であり、後世に引き継がれるべきであるという純粋な思いから守り抜いた人々がいたことを、世界遺産登録という輝かしい時を迎えるにあたり、すべてのシンガポール人、そして人類全体が銘記すべきである・・・
シェンロン首相の視線の先には、千代の姿があった。
出向を終えて帰国した千代は、ヤンから聞いた話をもとに、自分なりにシンガポールの歴史や大戦時の出来事、秀三らの活躍などを勉強し、自分の経験も交えて秀三の物語を出版したところベストセラーになった。そして、ほどなくシンガポールにも伝わり、「植物園を守った恩人に縁のある者」として、世界遺産登録にあたり、この式典に招かれていたのだ。
千代の隣にはヤンがいた。
ヤンの祖父の戦後の苦闘なども千代の著作を通じてシンガポール国民に知られ、緩やかながらも民主化や国民の自由の拡大を進めるシェンロン首相の方針もあって再評価されるところとなり、政府からヤンも特別に招かれていたのだ。
スピーチを求められた千代は、シンガポールの人々への感謝を交えつつ、このように語る。
私が生まれ育った盛岡は、「我、太平洋の架け橋にならん」と述べて、世界の平和と人々の相互理解を目指し、国際連盟の事務次長まで務めた偉人を輩出した。
秀三博士と共に、その偉人(新渡戸稲造博士)を尊敬する自分も、ささやかながらでも、日本とシンガポール、アジア、ひいては世界全体の人々をつなぐ一人になれるよう、今後も努めていきたい、と。
式典の後のパーティの場で、リー・シェンロン首相が千代に「いいスピーチでしたね。ご存知だと思いますが、私の父も、もとは弁護士でした。貴方も、ぜひ我が父のように次の時代の日本を支えるような生き方を目指して頑張って下さいね。」と語りかけてきた。
千代は御礼を述べると共に首相に向かって「ご褒美をいただけるのでしたら、一つ、おねだりをさせて下さい」と述べた。
植物園の主要施設であるナショナル・オーキッド・ガーデン(国立ラン園)には世界中の著名人の名を冠した新種のランが展示されていますが、秀三博士の名を冠したランはあるのでしょうか?もし未だに存在しないのでしたら、ぜひ新たなランに博士の名を冠すると共に、末永く博士の顕彰をしていただけないか、と。
首相は少しばつの悪い苦笑を浮かべつつ、すぐに快諾し、世界遺産登録記念に相応しい、美しいランを開発し、秀三博士の名を冠して園内の一番立派なところに飾ろうと答えた。
これに対し千代は、いえ、美しい花も立派な場所に飾ることも博士には似合いません、素朴で目立たず道ばたに咲いているような花、でも、周囲の花々を引き立て風景全体を輝かせるような花、そんな花を開発したときに、ぜひ、博士の名を冠していただければ幸いです、と述べた。
千代が、いまどこで何を目指して生きているのか。そのことは劇中では語られず、皆の想像に委ねられている。(おしまい)