多世代交流と家庭の葛藤を通じて学ぶリーガルマインド

もう終わってしまいましたが、夏休みにはご自身の実家に帰省し、三世代や四世代が揃って楽しい時間を過ごされた方も多かろうと思います。

私自身は父が実家の承継者のため帰省にはあまり縁がありませんでしたが、中学1年の冬まで曾祖母が存命で(享年99歳と聞いています)、最期まで自宅で暮らしていましたので、当時のことは相応に覚えています。

曾祖母は私の出生直後(当時90歳)に大怪我をして歩行不能になり寝たきりを余儀なくされたのですが、私の実家は曾祖父母が商人として人並み外れた努力をして作り上げた家なのだそうで、「二戸では相応の規模の商家」の象徴的存在として、地域の多くの方から敬われていました。

私が幼稚園か小学1~2年くらいの頃、ある程度は意思疎通が可能であった曾祖母は、私と兄(3歳上)をベッドの枕元に呼びつけることがしばしばありました。

その際は、私が隣室で待つように言われ、枕元には兄だけが立ち、曾祖母は「立派な人になりなさい」的な話(当時の兄談)を数分ほど何やらムニャムニャ宣った後、兄が小遣いを渡され、次いで、私が呼ばれて小遣いを渡される、というのがお決まりの光景でした。

小遣いは100円程度で、金額に違いがあったかは記憶にありません(たぶん、同じ額だったとは思います)。

ともあれ、私はこの「儀式」が子供心にあまり好きではありませんでした。言わずもがなですが、自分が差別されているように感じたからです。

裏を返せば、幼年期の私は、誰のどんな教育によるものかは分かりませんが「兄弟だろうと誰であろうと天地に人の上下無し」的な感覚(戦後民主主義思想?)を多少なりとも持っていたのだろうと思います。

ですので、幼い私一人だけが、家族はもちろん多くの方々に立派な人格者として尊敬されていた曾祖母を、若干のわだかまりを抱きながら、誰にも言うことなく小さく見つめていたような気がします。

で、何のためにこの話を書いたかと言えば、もちろん、曾祖母ないし実家の悪口を書きたかったわけではありません。

司法試験受験生(大学及び浪人)時代が典型ですが、私は実家から強い経済的庇護を受けて育っており、正直なところ司法試験に合格したその瞬間まで、ただの一度も「金に困った」経験をしたことがありません(後日、修習末期にペルー旅行で生活費を使い果たして本当に困ったことが一度だけありますが・・)。

ボーイスカウトや学習塾、域外の高校進学なども含め、二戸という片田舎で生まれた少年としては、かなり恵まれた育ち方をしたことは間違いないと言ってよいと思います。

但し、物心ついたときから「貴方と兄とでは役割や立場が全く違う、貴方は家から出て行かなければならない人間である」ということは、陰に陽に強く言われており、経済的庇護も、そのことと不可分一体のものだろうと感じて生きてきました。

ですので、感謝したくてもしきれない、わだかまりのようなものを絶えず抱いていたような気もします。

そして、曾祖母の件でも述べたとおり、そうした実家の論理に一定の合理性や必要やむを得ない事情を感じつつも、他方で、それと異なる論理(正義)も自分にはかけがえのないものとして感じており、その「相対立する二つの正義」に揺さぶられ、時に戸惑いながら育ってきたのだろうと思っています。

私は大学で憲法の勉強をはじめて間もなく、その年に司法試験に合格された非常に優秀な先輩に「憲法学とは、相対立する二つの正義について、どちらかが一方的に正しい、間違っているというのではなく、双方ともかけがえのないものだという前提に立って、現実に即した調和点を探る学問である」という趣旨のことを教わりました。

もとより、離婚訴訟であれ企業間紛争などの類であれ、多くの事件が「正義と悪の対決(悪い相手方を懲らしめろ、やっつけろ)」ではなく、互いに相応の正義(事情)があり、また、程度や濃淡の差はあれ互いに残念な事情も抱えており、それらを全て見据えた上で、自身の立場を踏まえつつも落としどころを探るのが望ましい仕事のあり方である、ということは、皆さんもご存知のところかと思います。

そのように考えれば、期せずして、私は弁護士としての適性を育みやすい環境にあった(広義の教育を受けた)ということも言えるのかもしれません。

果たして今、自分がそうした「いつかは深く考えることができるかもしれない環境」を次世代に提供できているのか、大変心許ないところではありますが、皆さんにおかれても、そうした観点も含めて、帰省或いは多世代交流の意義などというものを考えていただければ幸いに思っています。