安積疎水と朝河貫一、そして新渡戸稲造 ~H21再掲~
前回と同様、平成21年に郡山を訪れた際に作成した旧HPの日記の再掲です。
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前日分の続きですが、「開成館」を出た後、少し離れたところにある「安積歴史博物館」に行きました。ここは、旧制安積中学の校舎を博物館化した建物で、鹿鳴館の様式を模して作った?とのことで、相応に価値のある建物だそうです。旧制中学は現在の安積高校の前身だそうで、隣接して高校の施設がありました。
展示内容は、開成館と重なっている部分があったり、OB向けの展示等もあり、概ね地味な印象でしたが、安積中学の出身者である歴史学者の朝河貫一博士に関する展示については、強く惹きつけるものがありました。
朝河博士は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した歴史学者で、若いうちに米国に渡り日本人初の米国大学(エール大)の教授になり、学者として業績を残しただけでなく、日露戦争の際、「調停役」となった米国内で日本の立場や米国が調停をなすべきことなどについて盛んに説いて廻るなどして、戦争終結を背後で支えたり、太平洋戦争直前には、要人向けに開戦回避の努力を重ねていたなど、多大な功績があったのだそうです。
私も、お名前はどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、業績等について知ったのは初めてで、その点は大変有意義に感じました。
朝河博士は、開拓途上にあった安積平野の一角の貧しい家庭に生まれたものの、早くからその才能が見出され、篤志家等の支援もあって、旧制安積中学から早稲田大学に進み、海外に亘って才能を開花させたとのことですが、明治新政府の集大成が日露戦争であるとの観点に立てば、明治政府が尽力した安積疎水による開拓が、巡り巡ってこうした形でも花開いたのかと、歴史の深さ、さらには郡山という街が歴史の中で果たした役割というものを感じずにはいられませんでした。
ところで、朝河博士とほぼ同時代に活躍し、同様に日露戦争などの際に米国内で尽力したとされている国際人として、盛岡出身の新渡戸稲造博士の存在を挙げないわけにはいきませんが、残念ながら、上記の博物館では、朝河博士と新渡戸博士との交流の有無等に関する記述は見受けられませんでした(この点は帰宅後に気づいたことなので、見落としたかも知れませんが)。
明治政府が造った開拓地郡山から生まれた朝河博士と、明治政府に散々な目に遭わされた敗戦国盛岡から生まれた新渡戸博士。同時代に国際人として活躍するという点では、同じような生き方をし、同じような業績をあげながら、その2人のバックグラウンドは、対極そのものということができます。
この点の比較研究をすれば、面白い本が一冊書けると思いますので、どなたか頑張っていただきたい(すでにあるということであれば、ぜひ教えていただきたい)ところです。
余談ついでに、7月上旬の岩手日報の夕刊に、朝河博士の特集記事があり、メジャー級といってよい新渡戸博士と同様、もっと知られるべき人だと改めて思いました。