東北の異端児、郡山の夢と現在(いま)~H21再掲~
先日の日経新聞(プラス1)で、郡山の温泉や安積歴史博物館が取り上げられていました。私は、平成21年に一度だけ、郡山の中心部に行ったことがあり、その際、上記の博物館などを見た感想を、2回に分けて旧HPの日記に掲載したことがあり、折角なので、再掲することにしました(少しだけ表現を修正しています)。
***********
平成21年7月に東北弁連の定期大会が郡山市のホテルで開催され、東北弁連の公害対策環境保全委員会も実施されることから、岩手枠の委員となっている私も、参加してきました。委員会そのものは、各県の現在のトピックスを簡単に出席者が説明した程度のものですが、他の委員の先生方の出席率が非常によく、私=岩手会ばかりがすっぽかすのも後が怖いことなどから、半ば仕方なく行っているというのが正直なところです。
で、いつもは新幹線で通過するばかりの郡山の街に初めて踏み入れたということで、4時間程度とはいえ、郡山観光に勤しむことにしました。
まず、弁連大会の会場のホテル「ハマツ」から徒歩10分ほど、市役所に面した場所に「開成山公園」という大きな公園と大きな神社があり、そのすぐ近くに、「開成館」という歴史的建造物があったので、そちらを見てきました。恥ずかしながら郡山についてはほとんど知識がなく、郡山にゆかりがある「安積疎水」という言葉だけを聞いていたので、そのことについて知りたいというのが目的でした。
詳細は省略しますが、安積疎水というのは、人口の巨大水路を造り猪苗代湖の湖水を郡山方面に送り込んで水田開発をしたという大規模灌漑施設であり、明治初期に巨費を投じて着工されたのだそうです。開成館をぜひ訪れて見て頂きたいですが、水利の乏しい郡山一帯(安積平野)に大規模開拓を行いたいという当時の人々の切実な要望があり、これが、当時の失業武士対策や富国強兵策等に追われていた大久保利通らを動かして実現にこぎ着けたとのことで、なかなか壮大なドラマがあったのだと初めて知りました。
また、私がこれまで郡山という都市のことをあまり知らなかった理由も、そうしたことと関係があるのだろうと得心できました。私のような多少とも歴史に関心のある東北人にとっては、盛岡、仙台、米沢、会津若松といった武士の時代に拓かれた都市には馴染みがありますが、郡山や青森のような、明治後に開拓された都市には、あまり馴染みがありません(その点は、東北人の根底にある、明治政府へのある種の反発心もあるでしょう)。
ただ、一方で、その都市で現に努力してきた住民からすれば、開拓を推進した明治政府の要人こそが自分達の生みの親なわけで、盛岡などでは到底考えられない「大久保利通や政府から派遣された開拓に尽力した県令等に対する顕彰」が盛んになされていることに、とても東北とは思えないと驚くと共に、感慨深いものがありました。
と、同時に、自らの都市を米国西海岸の主要都市になぞらえて、開拓精神の大切さを強調し市民を鼓舞しようとする開成館の解説パネルの筆者(市役所の関係者でしょうか)の熱い文章を読んでいると、盛岡のような、良くも悪くも歴史の重みが街を沈滞化させていると言えないこともない街の住人からすれば、羨望を禁じ得ない面もありました。
戦後日本が、米国との戦に負けたからこそ得たものがあるように、郡山という都市は、東北が薩長新政府に負けたからこそ得たものという面は否定しがたいように思われます。だからこそ、そうした歴史を郡山だけではなく東北全体の資産として東北人が共有し、複眼的視野をもって開拓精神というものを学んでいく必要があるのではないかと感じさせられました。
開成館の後、後述(次回記載)の「安積歴史博物館」に立ち寄り、そのまま30分くらい歩いて駅まで戻り、駅前の高層ビル「ビックアイ」から展望を楽しんで、帰途に就きました。盛岡と違って街の中心部に水と緑が溢れる公園が点在しており、最近できたらしい「21世紀公園」では子供達が芝生を走ったり遊具を楽しんでいた点や自転車向けの道路整備がなされていた点なども、非常に好ましく感じました。
ただ、駅前はシャッターが目立つなど、ご多分に漏れず郡山も経済的にはそれなりに苦労しているようでもあり、開拓精神を発揮して頑張って欲しいと思わずにはいられませんでした。