田子の浦にて歌聖と戯るの記
旧ブログで掲載していた、平成25年1月に静岡県富士市にある「ふじのくに田子の浦みなと公園」を訪ねた件について、再掲しました。
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万葉集に登載されている山部赤人の歌は、教科書でも必ず取り上げられていることもあり、これを知らぬ日本人はいないと言っても過言ではないと思います。
田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける
私にはこれを訳すだけの力はありませんので、ネットで検索される代表的な訳を引用すると、次のように述べられています。
大和朝廷の官吏である山部赤人が東国に赴任する際に田子の浦付近から見た雄大な富士の姿に心打たれて、素朴な感動を高らかに詠み上げたものと理解されているようです。
“田子の浦を通過し視界が開けた場所まで出てみると、富士山の高いところには真っ白い雪が積もっていた”
田子の浦は、静岡県富士市の太平洋に面する付近にある海岸であり、その港は、現在は同県有数の工業都市たる富士市の玄関口として、企業の工場や油槽所、港湾関連施設などが立ち並んでおり、詩情を感じることがあまり期待できない状況が何年も続いていました。
私は、ご縁あって何年も前から時折、富士市周辺を訪れているのですが、最初に訪れた際、「ここは山部赤人の歌で有名な田子の浦なので、きっと風光明媚な公園などがあり、先人を顕彰しつつ市民の詩情を育成しているに違いない」と思っていました。が、ガイドブックを見てもそれらしい記載を見つけることができず、大いに残念に思ってきました。
で、今年の元日は時間が出来たので、数年前に入手した「富士市観光マップ」を片手に、山部赤人の歌碑がある場所に向かうことにしました。
歌碑の存在は何年も前から知っていたものの、マップによれば、歌碑は、港湾地帯の隅にひっそりと設けられているように見えることもあって、これまでは優先的に行こうとする意欲が湧かなかったのですが、今年は富士市に点在する史跡巡りツアー(平家越=富士川合戦記念碑など)の一環として、行ってみることにした次第です。
ところが、現地に行ってみると、大変驚かされました。
富士市は、そこ(田子の浦東端の太平洋岸)に、「ふじのくに田子の浦みなと公園」という都市公園を造営しており、土砂の埋立による防潮堤としての活用を兼ねた高台の見晴らしのよい公園として、平成25年の春頃?の完成を目指し、整備を行っていました。
それまで田子の浦港の一角で不遇を託っていた山部赤人の歌碑も、公園の中心部に移設され、付近からカメラを向けると、歌碑の背景には富士と愛鷹山だけが綺麗に収まります。
人の背丈よりも遥かに大きい歌碑は、ストーンサークルの石柱やオベリスクの類を見ているようでもあり、このような視界が開けた場所に設けられるのがよく似合います。
振り返ると、駿河湾全体を見渡すような広大な海岸線に、太平洋の白波が打ち寄せている壮大な光景を目にすることができ、伊豆半島西岸の荒々しい断崖も、手に取るように見ることができます。
波打際がテトラポット群となっている点だけが残念ですが、砂浜の護岸のためやむを得ないのかもしれません。
公園の造営そのものに関しては、観光客が知ることが出来ない、綺麗事だけでない地元の事情もあるのかもしれませんが、率直に言って、この光景は、新富士駅で途中下車しタクシー又はレンタカーで往復するだけの価値はある、なかなかのものだと言えると思います。
そんなわけで、甦りつつある和歌の聖地・田子の浦を素朴に祝って一首。
青空に映ゆる白嶺に白波に 田子の浦から詩情ふたたび
これだけでは物足りないので、蝦夷の末裔の1人として、歌聖への返歌の真似事のつもりで一首。
蝦夷らも うらみを捨つる白雪を 田子に見ゆるはいつの頃から
大意:大和朝廷に祖国を滅ぼされた東国の民=蝦夷(えみし)には、田子の浦から富士を高らかに詠み上げた山部赤人の歌すらも、勝者の凱歌のように感じ、哀しみを深めずにはいられなかったのではなかろうか。
しかし、そんな彼らも、田子の浦から見える白雪を纏った美しい富士の姿を目にすることで、過去のわだかまりを捨て、新しい社会(統一国家・日本)のために己が身を尽くすようになったに違いない。
東国の人々も西国に行き来するようになり、雄大な富士の姿を目にして、そんな思いを共有できるようになったのは、いつの頃からであろうか。
皆さんも、ぜひ一度、訪れて歌聖と戯れてみてはいかがでしょうか。
富士市におかれても、駐車場や子供向けの遊具等だけでなく、気の利いたカフェテリアなどの整備も検討いただければと思います。