盛岡と2つの福岡の三角関係
先日知ったのですが、福岡市に「旧日本生命九州支店」という文化財があるそうで、その外観は、盛岡市の岩手銀行旧本店と非常によく似ています。
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/51
http://www.iwatebank.co.jp/restroom/legacy/nakano/index2.html
ご存知の方も多いとは思いますが、これらの建物は明治の著名建築家・辰野金吾の設計によるもので、我が国には辰野式と呼ばれる、同種のデザイン(色遣い)の建物が幾つかあります。
それはさておき、同じルーツのよく似た建物を持っている都市同士ということで、この話題を起点に、福岡市と盛岡市が何らかの交流を図ってもよいのではと思いますが、そのような話が過去にあったかは存じておらず、前例がないのでしたら、どなたか考えていただければと思わないでもありません。
とりわけ、両市は、古くは江戸時代初期に、栗山大膳という人物(「軍師官兵衛」で登場する腹心・栗山善助の子)を介して関わりがありますので(黒田官兵衛の現存する唯一の兜が、栗山大膳を経て盛岡南部家に寄贈され、現在は盛岡歴史文化館=盛岡市が所有しているそうです)、そうした話を色々と集めて、両市民の関心を高める工夫をしても良いのではと思います。
私は残念ながらまだ福岡市には行ったことがないのですが、福岡市には、北東北三県のアンテナショップがあるとのことですので、例えば、そうした店舗に、上記のような「福岡市等と共通する話題」を集めたコーナーを常設するなどしてもよいのかもしれません。
ところで、以前も書いたかもしれませんが、盛岡の実質的な創設者というべき南部信直公は、当初は青森県田子町の領主で、その後、岩手県二戸市を舞台とする南部家の跡目争い(秀吉・家康連合軍が絡んだ大戦争)に勝利し、その際、一旦は二戸を本拠とし、その地を「福岡」と名付けた後、浅野長政の勧めで移転し、移転先の地(不来方)を「盛岡」と名付けたと言われています。
福岡市の方は、黒田長政が関ヶ原の勝利で筑前を拝領した際、黒田家の実質的な発祥地である備前(岡山)東部の福岡という街(名称の成立は平安~鎌倉期とのこと。刀剣の名産地だそうです)に因んで名付けたそうですが(wiki情報)、果たして、岩手の方の「福岡・盛岡」の命名の由来に、そちらの福岡が何らかの形で関わっていなかったのだろうかと想像を膨らませてみるのも、歴史の一つの楽しみ方かもしれません(残念ながら?奥州征服軍のメンバーには、黒田父子は含まれていないようですが)。