盛岡青年会議所の卒業に寄せて
JC(青年会議所)は入会資格を40歳までとしているため、盛岡JCの12月の例会は、必ず年限に達した会員の卒業式として行われています。
平成17年入会の私もついに年限に達し、7日の例会にて卒業させていただくことになりました。
私は、主として仕事と家庭の都合により3年目(平成19年)頃から本格的な参加が困難になり、一部の行事だけに顔を出す程度の関わりしかできませんでした。
例外として、平成19年に出会った岩手県知事マニフェスト検証大会だけは、私らしさを発揮でき、JCも私を求めていると思うことができる唯一の機会だと思って、平成21年、23年の際にも相当にエネルギーを投入して関与しましたが、そんな身を嘲笑うかのように、23年は開催目前に震災が発生して中止となり、その後、マニフェスト現象の廃れに伴い、行事自体が立ち消えとなってしまいました。
入会時に一番お世話になった方は、その年の終わりに信じられない話で退会を余儀なくされ、その後も、同期で特に親しくなった方に限って入会早々に継続困難な事情が生じ退会や休眠をしてしまったり、大いにお世話になった方にありえないはずの不幸が生じたこともありました。
今も、どうしてこんな出来事ばかり起きたのか、参加環境の問題に限らず、どうして自分とJCとの間には引力ではなく引き離す力ばかりが働くのか、不思議でしょうがないと思わずにはいられません。
まあ、引き離す力ばかり働くという面では、弁護士会も似たようなものと感じており(こちらは親しくなった方に不幸が起きたわけではありませんが)、恐らく、そのような星を持って生まれてきた人間なのでしょう(高校入試のときの呪いなのだろうかと思わないでもありませんが)。
ともあれ、今さら愚痴を言っても仕方のない話で、すべて自分の責任として受け止めるほかありません。
卒業式では、僭越ながら私も卒業生の一人としてスピーチをさせていただきましたが、緊張等で言えなかったことが4点あり、そのうち3点について、他に述べる機会もありませんので、勝手ながらここで述べたいと思います。
ここからは、盛岡JC関係者向けの内容になりますので、他の関係の方は、基本的にスルーしていただければと思います。
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一つは、現役会員の方にお伝えしたかった、清水先輩(元盛岡JC理事長)の言葉です。
私が、まだ幽霊会員にはほど遠かった平成18年当時、私は、新入会員の勧誘等を担当する委員会(拡大委員会)の幹事をしていましたが、担当副理事長が清水さんで、同窓の先輩ということもあり、色々とお話を伺う機会がありました。
そのとき、清水さんがよく話していた言葉で、頭から離れずに覚えているのが、「JCに沢山参加できる者は、参加したくても参加できずにいる人の気持ちをよく考えて欲しい」というものでした。
当時の私は、幽霊化するつもりなど毛頭なく、「私のような余所者が、その土地の人間になるのに3代かかるのを、1代で達成できるのがJC」などと嘯き、休眠して全然参加しようとしない同じ委員会の方に、自分達がこんなに時間を犠牲にして頑張っているのにと不満すら持っていました。
しかし、それから1年も経たずに幽霊化に陥り、一部の行事等だけ辛うじて申し訳なさそうに出てくる身になり果てると、上記の言葉が肌身に浸みてきます。
JCは、参加できる人を中心に動かしている組織なので、諸行事の戦力として参加できず、かつ、行事の設営に直接役立つ特殊技能も持ち合わせていなければ、JC以外の場(生い立ちや仕事等)で中心戦力の方々と人間関係を築いていることもない私のような身では、どうしても、次第に居場所がなくなってしまうことは避けられません。
それだけに、たまに参加した行事で何人かの方から暖かく声をかけていただけると、とても救われた気持ちになり、またいずれ復活したいとの気持ちを持ち続けることができたのではないかと思います(といっても、結局は一部の行事だけ辛うじて出てくる中途半端な状態を解消することはできませんでしたが)。
私の知る限り、参加環境に恵まれない人間に暖かい態度で接する文化がある団体は、JC以外には存じません。
そうした意味でも、この文化は絶やさずに大切にしていただきたいと思っています。
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第2点は、私から1期あと(平成18年)に入会した方々への感謝です。
もともと、平成16年に東京を引き払う以前から同業の先達にJCを勧められていたこともあり、JC関係者に誰一人として知人等のないまま、強い意欲を持って入会し、当時は強い期待をかけていただいた私でしたが、結局は、その期待に応えることができませんでした。
JCでの責任を果たせなくなった私に代わり、本来なら私がその責任を果たすべき時期に、その役割を担う一番の中心となったのは、私が拡大委員会の不肖の幹事としてお会いした、本年度の浦田理事長をはじめとする平成18年に入会した方々でした。
ですので、この方々には、今も頭が上がらないという気持ちを強く持っています。と同時に、その方々に限らず、その後にJCで活躍された皆さんには、羨望や嫉妬ではなく、感謝とお詫びの気持ちしかありません。
反面、そのような気持ちのまま、卒業することを余儀なくされましたので、本当は、卒業式に登壇する資格もないのですが、卒業式を迎えることができなかった大恩ある先輩へのけじめとして、恥を忍んで参加させていただいたというのが、正直なところです。
ただ、拡大委員会で親しくなれた新入会員の方々がJCの中心メンバーとなり、その活躍ぶりを嬉しく感じることができる面があったからこそ、辛うじて卒業式まで心が折れずに済んだのではと思われ、その意味で、あのとき、幹事を拝命できて本当に良かったと思っています。
ところで、私にとって、「後から来たのに追い越され」という経験をしたのは、このときが初めてではありません。
平成9年に司法試験に合格した際の体験記でも書いたことですが、卒業2年目という、当時の中央大生としては比較的早い時期に合格できた大きな理由の一つが、その前の年(私にとっては卒業1年目)に、同じ受験サークルに加入していた2人の後輩が在学4年で合格したことでした。
もちろん、薫陶という意味でなら、多くの先輩方に多大な薫陶を受けましたが、運悪く合格が遅れた方も含め、自分にとっては雲の上の方々でしたので、何を聞いても自分には縁遠い人の話という実感がありました。
2人の後輩は、私よりも才能に恵まれた人達だということはよく知っており、現役合格そのものには全く驚きませんでしたが、一番、心に刻まれたのは、自分は彼らがまだ法律のことを何も知らないときの姿を知っている、その彼らが、私よりも物凄い質量の勉強をして先に合格していく姿を間近で見て、自分は彼らよりも遥かに才能が劣るのに、彼らがこなした勉強量すらこなしていない、それでは嘆く資格すらないではないか、ということでした。
そして、それ以来、1年間、本当に死に物狂いで勉強したところ、不思議な運と勢いが生じ、十分な学力も備わっていなかったのに合格してしまいました(反面、分不相応な合格者として苦労と心労を背負う羽目になりましたが)。
翻ってJCですが、残念ながら、今回は、私も1期下の方々の勇姿に背中を学んでJC運動に邁進する、という流れには進めませんでしたが、地域社会に生きる右でも左でもないノンポリ的な法律実務家として、JC的な理念のもと、地域のためにできること、すべきことは幾らでもあるとは思っており、その際、この方々の姿が、自分にとっては大きな指標、目標になると思っています。
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3点目は、企業人という立場からのものです。
先日、同じく元理事長である金子先輩から、「小保内は青年経済人として頑張ったのだから、JCの事業への関わりに悔いが残ったとしても、恥じることはない」とのお言葉をいただきました。
実際、「弁護士として盛岡に事務所を構え、岩手(ひいては北東北)の人々の役に立つこと」が、私の前半生の目的ないし存在意義そのものでしたので、この10年間、様々な方が困難を解決していくためのお手伝いを地道に続け、曲がりなりにも大過なく事務所を維持できたことは、今も心からホッとしています。
また、当事務所は弁護士1人で支えている雇用の数も岩手では最も多い部類に属しており、その点は、5年程前までの岩手に厳然と存在した弁護士過疎や債務整理特需による受注過多という特殊事情があったとはいえ、ささやかながら誇りとするところです。
現在、数年前とは町弁業界を取り巻く状況が大きく変動し、この体制を来年も維持できるか正念場を迎えていますが、JCに十分な関与できなかった分、せめて弁護士そして企業人としては、多少の悪あがきも含め、自分を支えて下さる方々に恥じることのない生き方をしなければと思っています。
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卒業式の懇親会で、卒業生の面々が、JCの思い出を川柳にして詠むという一幕がありました。
残念ながら、私にはあの場で詠むに相応しい言葉が思いつかず、他の方のお力を借りてお茶を濁すような対応をしてしまいましたが、色々と言葉が湧き上がってくることも抑えられませんでした。
そんなわけで、洒落の類かどうかはさておき、幾つか思い浮かんだ言葉を紡いで、私なりの卒業のご挨拶とさせていただきます。
卒業の前日もまた事務所泊
月明かり悔い残してか光る頬
閑かなる骨身に浸み入る皆の声
寒空に逝く兵は道半ば
果たされぬ夢が脳裏をかけ廻る