裁判所による手続的虐待?の光景とマチ弁の愚痴(後)
前回、表題の内容で仕事の愚痴(家裁で酷い目に遭っている話)を延々と書かせていただきました。
恥ずかしながら、この件をfacebookに投稿したとき、家裁から「こんな事件で、なんでそんなことまで延々と要求されるのか」という理不尽感が積もり積もって軽い適応障害(鬱気味)を起こしており、誰かに話を聞いていただかないと身が持たないと感じ、恥ずかしながら投稿した次第でした。
幸い、ご覧になった方から暖かい反応をいただいたほか、家裁実務に精通されている本職筋の方からも、私が「こうあるべき」と考える方針を概ね支持する(それが家裁の通常の取扱である)とのアドバイスを著名文献の引用付きでいただき、どうにか回復できました。
数十年放置された厄介案件に可能な限り適正な形で決着を付けるため、改めて、理不尽に屈することなく、できる限りのことをするつもりです。
世間ではほとんど知られていませんが、相手方が何ら争っておらず、事件の内実や法の趣旨に照らして実益もないとしか思われない案件で、裁判官が、手続的に非常に重たい作業や理不尽としか言いようのない無理難題を強いてくることがある(しかも、それが、実務の大勢と異なる判断を前提としていたりする)ことは、弁護士等なら多少はご存知かと思います。
もともと裁判所には、救済=権力発動を求めてくる人間に対し、あれこれと注文を付け、とことん虐め抜いて、その上で裁判官が満足できた(これ以上、ケチを付けようが無いと判断した)場合に限って、ようやく救済を認めるというような「完璧を期すという名の下の、陰湿ないじめ体質」のようなものがあるように感じています。
その背後にある「司法消極主義」は、もしかすると、司法の謙抑性などという綺麗事ではなく、「江藤新平(司法の頭目)が大久保利通(行政の頭目)に斬首される」という形で、日本の司法部門が発足時に酷い目にあったことなども根底にあるのかもしれません。自分達が虐待されたから国民も・・などと、つまらないことを言いたいわけではありませんが。
もちろん、争いのある本格的な刑事事件の立証責任のように、裁判所が厳しい姿勢で臨むからこそ社会の適正が保たれる場面も多くあることは確かでしょうから、結局は、厳しく対応すべき場面と緩やかに対応するのが望ましい場面を適切に使い分ける姿勢を、もっと裁判所に持っていただきたいという点に尽きるのでしょう。
ともあれ、一部の裁判所・裁判官が、法や制度の趣旨に照らして疑義のある過大・不相当な負担を強いてくる「手続的虐待」とも呼ぶべき光景については、現代社会における司法部門のあり方がそれでよいのかという観点から、もっと広く知られたり、議論があってよいことではないかと思っています。
また、裁判所が行う特定の取扱自体は正しい(やむを得ない)のだとしても、その取扱(考え方)が世間はおろか業界一般にも事前に告知されておらず、従前に認められていた方法で提出したところ、不意打ち的に「そのやり方は認めない」という取扱を裁判所が平然と行ってくることにも、強い疑義を感じます。
まるで、一部の権力者が「現在、通じる手法」の知識ないし決定権を独占し、限られた人間(自身に靡く者?)だけに提供しているような印象すら受けますが、そのような光景は、国民主権や法の支配の理念に悖るものというほかありません。
他ならぬ裁判所で、そうした光景が当たり前のように繰り広げられていることに暗澹たる気持ちを抱かざるを得ませんが、努力と執念で乗り越えていく以外に、そうした実現する方法も存在しないというのが、現実なのかもしれません。
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ところで、私の個人的な趣味である「替え歌」をしばらく投稿していませんが、近日中に、渾身の大作の発表を予定しています。
可能であれば、原著作権者の許諾をお願いし、相応の経費を投じてでも世に問うてみたい(その価値がある)と思っている作品です。
いっそ、弁護士を辞めて、芸能界に打って出てもよいかもしれません(笑)。
ただ、私には、そうした作品を世に送り出すためのノウハウ等が全くありませんので、ご覧になった方で賛同いただける方がありましたら、その際に、業界筋の方にもお声がけいただければ?幸いに思っています。
ともあれ、乞うご期待!?