金魚が魅せる奇の華と、ジブリ広告が伝える時代の転換点
半月ほど前の話になりますが、夏休みの一環として、東京・日本橋の「アート・アクアリウム」という金魚展と、六本木ヒルズで開催されている「ジブリ展」に行きました。
「アート・アクアリウム」は、特注の巨大な水槽に膨大な数の高価な金魚を泳がせて鑑賞するというもので、今年が10周年であることやテレビで取り上げられたことなどから、大盛況で入場まで1時間近く待たされましたが、それなりに見応えがあり、「金魚が描く美の世界」を鑑賞させていただきました。
http://artaquarium.jp/nihonbashi2016/
今回はじめて知ったのですが、金魚はもともと鮒(フナ)の一種で、中国で突然変異として生じた種を千年以上に亘り継承、繁殖させ、種類を増やしてきたものなのだそうです。
このように、偶然に生まれた「変わり種」の価値を認め、育む文化が盛んになれば、やがては社会に様々な華が咲き誇るというのは、金魚或いは芸術に限らず、社会一般に当てはまることではないかと思います。
wikiでさっと調べたところ、金魚の本場・中国では、文化大革命の時期に、金魚産業が敵視され壊滅的な弾圧を受けたとのことで、そうした光景と文革時代の「共産党中国」の画一性(没個性・文化弾圧)的なメンタリティにも視野を広げると、「奇なるものが花開いた存在」としての金魚に、なおのこと親近感を抱くことができそうな気がします。
私自身、子供の頃より時に周囲から孤立するような「変わり種」の典型で、それが、悪戦苦闘を経て曲がりなりにも自分の個性を生かすことができる仕事につくことができていますので、こうしたイベントが、個性の多様さを大切にすべきというメッセージを伴ってくれればと感じずにはいられないものがあります。
そんなことを思いながら一句。
いろどりは 奇を愛でる世に 咲き誇る
次に、「ジブリ展」に行きましたが、こちらは、ラピュタのオープニング?に出てきた巨大な飛行艇の模型(部屋一杯を占める規模のサイズのもの)が見応えがあったほか、ジブリ(鈴木敏夫氏ら)が、トトロ以後の映画の宣伝文言にプロ(糸井重里氏)のコピーを採用するようになった経緯などを述べたところが、特に印象に残りました。
http://www.roppongihills.com/tcv/jp/ghibli-expo/
実際、ナウシカやラピュタのポスターに付された宣伝文言(コピー)が、トトロ以後のジブリ作品と比較すると宣伝に関する考え方が非常にかけ離れているというか、ナウシカ・ラピュタの宣伝文言が、今の感覚から見ると非常に古臭く時代遅れのように感じました。
とりわけ、この2作品そのもの(映画の内容)が現代人の感覚から見ても今も色あせない魅力を持っているだけに、宣伝文言との落差が、ある意味、ショッキングにすら感じました。
パンフレットをもとに具体的に書きますと、ナウシカ・ラピュタのメインのコピーは次のようになっています。
風の谷のナウシカ:少女の愛が奇跡を呼んだ。
天空の城ラピュタ:ある日、少女が空から降ってきた・・・
これに対し、「トトロ」以後のコピーは、代表的なものを挙げれば次のようになっています。
となりのトトロ :このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。
魔女の宅急便 :おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。
おもひでぽろぽろ:私はワタシと旅に出る。
紅の豚 :カッコイイとは、こういうことさ。
耳をすませば :好きなひとができました。
もののけ姫 :生きろ。
千と千尋の神隠し:トンネルのむこうは、不思議の町でした。
風立ちぬ :生きねば。
前者(トトロ以前)と後者(トトロ以後)で強く感じるのは、後者は、コピーの文言・内容が、主人公又はそれに準ずる者(内心を代弁する何か)が作品の本質(核心的なメッセージ)をモノローグ的に述べ、それを読み手にストレートに伝えたいという姿勢が顕著になっているのに対し、前者にはそうした姿勢を全く感じません。
例えば、「トトロ」なら、サツキとメイが、現在、或いは大人になった姿で、「このへんないきものは・・」などと語りかける光景を誰もが違和感なく感じることができる(何より、「サツキとメイ」自身が誰よりもトトロが今も日本に存在して欲しいと願っている)ことは、間違いないことと思います。
魔女の宅急便も、未熟な少女として魔女修行の旅に出た主人公が、小さな挫折や落ち込みを経験しながら逞しく育っていくという作品(作り手)の核心的なメッセージを主人公のモノローグの形をとって伝えていることは、一見して明らかで、他の作品も、そうした「わかりやすさ」がコピーに強く反映されています。
他方、ナウシカもラピュタも、上記のコピーは、全くもって主人公等のモノローグという形になっておらず、「少女の愛が奇跡を呼んだ」などと、第三者が、外部的・客観的な目線で作品の内容を語るような文言になっています。
また、「奇跡を呼んだ」などという文言も、作品内容からすれば確かにそのとおりなのでしょうけど、何というか、心に突き刺さるものを感じません。
ナウシカやラピュタは、科学文明(人智で社会を作り替え人間の願望を際限なく叶えることができるという思い上がり)への警鐘や、それと対置する自然(がもたらす価値)への畏敬、礼賛を意識して作られているというのが一般的な理解かと思いますが、そうしたものへの想いも、これらのコピー(「奇跡」「空から降ってきた」)からは、微塵も感じません。
それだけに、悪く言えば、コピーが作品世界を愚弄すらしているのではないかという不快感や違和感すら受けるところがあります(ナウシカもラピュタも主人公の内面世界にさほど踏み込まず、昭和的なスーパーヒーロー像に沿っていますので、作品世界と乖離しているわけではないと評すべき面もあるかもしれませんが)。
そのような感覚を踏まえて上記のパンフレットを読み返すと、トトロ以後は、ジブリの総責任者というべき鈴木敏夫プロデューサーが、糸井重里氏を起用してコピーに強いエネルギーを注ぐようになったのに対し、最初の2作品は、制作部門への従事(狭義のプロデューサー業務)で手一杯で、コピーをはじめとする広告的なことは「ヤマト」や「銀河鉄道999」の広告などに従事していた方々に任せていたという趣旨のことを述べていることが、その答えになるように感じました。
すなわち、ナウシカ・ラピュタは、1970年代(昭和の時代)のアニメの全盛期を担ってきた方々が、その感覚で映画宣伝のあり方を考え、従事しており、第三者の目線で、おおまかな映画の雰囲気やインパクトのあるシーン(少女の奇跡、空から降ってきた)を伝えることが広告のコンセプトになっていたのに対し、トトロ以後は、主人公の内面世界やそれを前提とした作品のメッセージを抽出し、限りなくストレートにそれを伝えることが、広告のコンセプト(現代に相応しい「売れる=消費者の心を揺さぶる」やり方)であると認識され、実践されるようになるという、大転換が生じたのではないかということです。
私自身はナウシカやラピュタを映画館では見ていませんが、ガンダム(もちろん初代)の映画版は映画館で見た記憶がありますので、さきほどネットでガンダムのポスターを調べてみたところ、やはり、ポスターに付されたコピーの内容は、ナウシカ・ラピュタと同じコンセプト(第三者的かつ叙述的で個人の内面世界に立ち入ることはしない内容)で描かれていました。
そう考えると、トトロ以後のコピーを「今どき」と感じ、それ以前のコピーを古臭く時代遅れのものと感じること自体、私自身が、「個人の内面と向き合うべし」という現代人の感覚或いは「ジブリが仕掛けた宣伝戦略」に洗脳?されているという見方も成り立つのかもしれません。
パンフレットには、トトロ以後の宣伝の手法(コピー)について高畑監督が鈴木プロデューサーに対し違和感を述べたり、鈴木氏自身、大衆消費社会向けのプロパガンダ的な手法ではないかと述べている下りもあり、「個人の内面をテーマにする」というトトロ以後のジブリの広告展開が、個人が様々な帰属集団(大家族、地域社会、企業云々)から切り離されてバラバラになり、何らかの拠り所を求めていた現代社会のニーズに適合していた(だからこそ宣伝の仕方によっては危ういプロパガンダになりうる)という面があったことは、確かなのだろうと思います。
裏返せば、昭和の時代にはそのようなニーズが社会内になかった(主流ではなかった)からこそ、トトロ以前の映画では現代とは違ったコンセプトでの宣伝文言が採用されていたのでしょう。
「ジブリ展」そのものは、ゴーギャンの作品世界を意識した最新作の紹介や、ラピュタなどで描かれた「空へと向かう人類の夢」を具現化したジオラマ模型など様々な見所がありますが、そうした「時代」と「広告」の関係を感じたという点が、私にとっての収穫だったように思いました。
現在、ジブリは作品制作を止めつつありますが、以上に述べたことも考えると、或いは、単に宮崎監督らの高齢という問題に止まらない新たな時代の転換点が生じ、そのことも影響しているということなのかもしれません。
先日、大ヒット上映中の「シン・ゴジラ」を拝見しましたが、同作では、「エヴァ」で主人公の内面世界のドロドロを描いた庵野監督が、一転して、日本人・日本社会が個人ではなく組織・集団の力でゴジラという超絶的な力に立ち向かう姿を描いていました。
ひょっとしたら、次の時代のトレンドは、「脱・個人」、ひいては現代社会で様々な既存集団の解体などによりバラバラになった(ように見える)個人の新たな帰属集団への再構築(そうした意味での、新たな社会の創出)といったものになるのかもしれませんし、そうした営みは、すでに着々と始まっているような気もします。