集団的自衛権を巡る、逃げる自由と戦略的思考

盛岡駅構内(フェザン南館)のさわや書店では、しばらく前から「今でしょ」で有名な林修氏が強く推薦する書籍として、岡崎久彦氏の「戦略的思考とは何か」(中公新書)が山積みで販売されています。

冷戦時代真っ只中の昭和58年頃に刊行された本ですが、日露戦争前後の極東諸国の情勢や国情を論じた冒頭部分などは古さを感じさせない内容となっており、そうした話は15年前に「坂の上の雲」を読んだ後はほとんど勉強していませんでしたので、先日、購入して少しずつ読んでいます。

日本を取り巻く諸外国の近現代の動向に関する基本的な知識やそれを前提とする安全保障に関する理解を得たい方にとっては、学ぶところが多い本だと思いますし、「戦略的思考」を学ぶ教材としても著名人が推薦するだけのことはあるのだろうと思います。

ところで、著者(元外交官)のことは殆ど存じませんでしたが、ネットで少し調べたところ、情報分析を専門とする親米保守派の論客として著名な方で、最近では集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定にも強い影響を与えたという趣旨の記事が多く出ていました。

上記の書籍でもその話は取り上げられており、「米国民はフェアネスを問題にするから、日本が犠牲を払わないで自由民主主義の恩恵にだけ浴そうとすると、アメリカから見捨てられるおそれがある」、「大事なときにアメリカを不利にするかたちで日本が非協力、中立の態度をとると、米国民は怒り、米国のコミットメントがなくなり中立をした瞬間に、その中立がいつソ連に侵されるかわからないという事態が生まれる」などという米国の学者の発言に触れるなどして、日米同盟堅持・強化の観点から集団的自衛権の必要性が示唆されています。

この点は、尖閣諸島問題で、1、2年前に「日米安保条約が尖閣に適用される」ことについて日本政府(ひいては日本国民)が米国高官から言質を取ることに腐心していたことなどを思い起こすと、諸外国の事情(中国の国力の違いなど)はともかく、日本の置かれた立場については、30年前とほとんど変わらないという感じがしてきます。

また、イデオロギーを排したパワーポリティクスの観点から見た現実として、黒船来航以来、日本は世界で最強の力を持ち続けてきた英米と連携しているときは上手く行き、英米と疎遠、険悪になると賢明な政治的判断能力を失い迷走する、それは、「クラスの中で最優秀のグループに入っていれば、的外れの勉強をしたり怪しい情報に振り回されずに済むのと同じことだ」という点が強調され、その延長線として、日米同盟が強固なもので、対立国(当時はソ連、現在なら露・中・北朝鮮でしょうか)に付け入る隙がないことを内外に示すべきだといったことなどが書かれています。

ところで、集団的自衛権を巡っては、当然のことながら?日弁連(の憲法委員会)は、「現行の憲法9条が集団的自衛権を容認していると解釈すること」について、憲法の解釈の限界を超える=9条に反する公権行使だとして強く反対しており、改憲による集団的自衛権の明記にも反対している(要するに、手段を問わず、集団的自衛権という結論に反対)と思われます。

私も名ばかり委員となっている岩手弁護士会憲法委員会も、日弁連の方針に強く賛同する方々が集まっており、先日、集団的自衛権に反対する立場を鮮明にした学者の方(早稲田大の水島朝穂教授)の講演会を企画、実施しています。

私自身は、9条問題に関してはガチガチの護憲派・改憲派いずれにも親近感を持つことができないため、企画が「運動」の様相を呈してくると、汗もかかずに身を引く傍観者的対応になってしまうのですが、委員会でタダ飯(会費に基づく会議の弁当)に与かっている以上、不義理をするわけにもいかず、参加して拝聴してきました。

講演では、①憲法は権力(日本政府)を拘束する制度だから、改憲はそれに拘束されない国民に許されるもので、政府自身が憲法の改変を行おうとするのは断じて許されない、②憲法の基本理念に属する規定の改変は、国民にも許されない(9条の改正否定を含むかは不明)、③米軍の空襲の際、多くの人が、逃げるのを禁じられて実現可能性のない無用の消火活動を強いられ焼死を余儀なくされた。これは敵前逃亡を禁じてその場で上官が銃殺するのと同じである。集団的自衛権を容認すれば、次に導入されるのは軍法会議であり、それは「上役の命令に従わない者はその場で殺される」社会に逆戻りする道で、そうした点(庶民の逃げる自由の確保)からも集団的自衛権は断固反対すべきである、といったことなどが論じられていました。

私の聞き落としかもしれませんが、「反対の根拠」として主張されているのは、上記のとおり、専ら「国家権力(及びその追従者)による暴走抑制の必要」であり、前掲書籍で論じられているような、隣接国の軍事行動のリスク(米国と共同した潜在敵国に対する軍事的プレゼンスによる戦争抑止の必要や、その立論を排斥するのであれば、その代替となるリスク対策の手法)といったこと(いわば、自国の権力者ではなく外国の軍隊などから逃げる自由)には、触れていなかったと思います。

上記の講演に限らないと思いますが、自衛隊(軍事力)や国民統制の強化に反対する立場の主張は、「国内向けの主張(権力抑止)」という意味では、外国の攻撃もさることながら、自国の権力行使に晒される一般庶民の立場としては、傾聴すべき点は多々あるのですが推進派の主張する「必要性を基礎付ける国外事情(中国の軍拡や対外的膨張、北朝鮮の不安定さや米軍の規模縮小など)」に対し、集団的自衛権(自衛隊の活動領域の拡張)以外の方法で、どのように立ち向かっていくのか(或いは、必要性を基礎付ける事実が存在しないというのであれば、その根拠を含め)については説得的な解説を伴わないのが通例で、その点は残念に感じてしまいます。

反面、上記の点(軍事力強化等)を推進すべき立場の方々も、私は講演等の類は聞いたことはありませんし不勉強なので偉そうなことは言えないと思いますが、必要性(外国の脅威)の説明に力点が割かれ、反対派の方々が主張する「権力暴走の抑止策」について、国民性(集団主義など)も視野に入れた十分な配慮が論じられることは、あまり無いようにも思われます。

そのため、結局、双方とも、それぞれの正義を論じるに止まり、主張が噛み合わないと感じることが多く、ノンポリ無党派の庶民としては、双方の主張ともそれなりにざっと拝見し、社会全体の視野から自分の周辺までを考えて、そうした論点に関する判断をしていくほかないのかなと思っています。

ただ、上記書籍を読んでいる最中だからかもしれませんが、安全保障は相手(外国)のある話なのだから、国内問題だけを論じられても違和感は拭えず、隣接諸国の軍事的脅威にどのように向き合い、国家や領土の維持存立と国民の安全を守るのかという点は、きちんとした説明やその前提としての実践をお願いしたいところです。

個人的には、国民の多くが周辺諸国に軍事的脅威を感じる事態になれば、軍事力等の強化を国民が支持するのは不可避なのだから、それに反対したいのであれば、国内であれこれ言うだけでなく、自ら対象国の人々と様々な形で接触し、その国と我が国との相互依存関係=その国にとっても戦争等の手段を取ることが他の選択肢よりも明らかに損になるような関係を構築するための努力をすべきでないのかと常に感じています。

そうした意味では、盛岡の人々がロシアにさんさ踊りに行くなどというのは、言葉であれこれ言うよりも遥かに価値のあることだと思いますし、そうした営みに参加できる方々を羨ましく感じる面があります(もちろん、敗戦時のソ連参戦で満州などで国民の多くが悲惨な目に遭ったという歴史も学んだ上での交流という視点は持っていただきたいですが)。

日弁連(弁護士会)でも、アジア諸国の法律家団体と交流しているという話は伺っていますが、現在のところ、ごく一部の方々の小規模な営みに止まっているようです。仮に、各地の弁護士会が、アジア諸国の法律家団体などと交流を盛んにし、「立憲主義のインフラ輸出」的な営みにつなげることができたり、協力関係にある団体(中国の弁護士会など?)がその国の軍部などの強硬派を抑える力を持つこと(それを支援すること)を通じ、周辺諸国の内部で安全保障(平和)に絡む問題にプラスの影響力を行使できるようになれば、それこそ、「俺達(文民)がアジアの安全保障を守るから、軍人やその追従者に出番はないよ」と、国民に説得的に言えるようになるのではないかと思われ、そうした営みがなされないことを残念に思っています。

講演でも、自民党のハト派の重鎮や(維新等を除く)各野党が結集して安倍政権を倒して欲しいとのお話もありましたが、民主党政権が倒れた理由は、(原発事故を含め)国家的・対外的危機に立ち向かえない(託せない)政権だと国民に見なされたという点が最も大きいはずで、自民政権を倒し安定的な別の政権を構築したい(させたい)なら、安全保障等に関する代替手段を説明すると共に、権力を託すに足る信頼と実績を支援者自身が積み上げるほかないのではないかと思われます。

それがなされず、国内問題としての「権力の抑止」のみを主張するに止まるのであれば、国民一般としては、そうした主張をする方々は、国策そのものに反対する(代替手段を実践する)のが真意なのではなく、追認を前提に弊害の抑止と現体制下の平和による果実の配当を求めることを目的とした補完勢力に止まるものと理解するのが適切なのだろうと思います。

そうした意味では、弁護士会がそのような営みに関わっている本当の理由・意義は、反体制派の暴走の抑止を通じた体制の補完(大きな論点では意見表明などの場を与えて不満を解消させ、小さな論点では地道に得点を稼ぐことを通じ、体制の維持を前提とした緩やかな変革を目指す?)という見方もできるのかもしれませんし、案外、それこそが、弁護士業界の伝統的な戦略的思考なのかもしれません(それが今後も続くかはさておき)。

ところで、講演を拝聴しながらそんなことを考えていた矢先、前掲書籍の著者である岡崎氏が亡くなられたと報道されていました。ご冥福をお祈りすると共に、「権力の不安を感じつつ、現在のところは米国との同盟を基調とする安全保障に依存する見地から、政府の適切な権限行使に期待するほかないと考える一般庶民」の立場としては、本書で記されているように、戦略的思考を一部の限られた国策の決定権者だけに委ねる(庶民が戦略的白痴の惰眠に陥る)のではなく、広く国民一般が共有し、そのことで、軍事・外交について国家が誤った選択をしないことに資することができるよう、多少なりとも学んだり考えたりしていきたいと思っています。