震災の12年前に北の国から告げられていた警告と、誰も気づかなかった岩手

前回投稿の続きですが、本業で首が廻らない状態が続いたことなどから、更新が大変遅くなりました。

昭和新山を麓から拝見した後、ロープウェイで有珠山に向かいました。

修学旅行の際は、麓(昭和新山)は晴れていたのに、有珠山(ロープウェイ山頂)は悪天候で酷くガスに覆われ、荒涼とした景色を若干垣間見た以外は真っ白だったという記憶しかありません。  

それから37年。この日は申し分の無い晴天で、有珠山も洞爺湖も昭和新山も羊蹄山も噴火湾も渡島駒ヶ岳も、すべて一望することができました。

37年前に比べ、山頂周辺は緑がかなり多くなっており、自身ともども時の経過を感じずにはいられませんでした。

有珠山が数十年に1度、必ず域内のどこかで噴火を繰り返しているという話を聞くと、100年に一度は必ず大津波が起きている、あの地域のことを思わずにはいられません。

有珠山が最後に噴火したのは平成12年。写真は、その際に生じた、通称「有くん火口」。蔵王ではありません。

同様の事態を何度も経験していた当地の人々は、予兆を適確に把握し直ちに全住民避難などを実施したことで、人命が全く失われなかったのだとか。

それから11年後、何が起こったか。その間、我々に「次は自分達の番だ」と呼びかけた者は、一人でもいたのか。

有珠・洞爺の経験を岩手・宮城・福島ひいては日本がきちんと学んでいれば、震災の光景は全く違ったものになったであろうことは想像に難くありません。

火山学・地理学などの巨人であった田中舘秀三教授が今世にあれば、有珠の火山と同じく、三陸にも同じ周期で津波が来る、これに備えよ現代人、と呼びかけたことでしょう。

私の知る限り、震災前に岩手でそのような警鐘を鳴らす人は全くいませんでした。

或いは、後世の岩手に生きる我々が、秀三教授を媒介としてこの地の人々と交流を続けていたとすれば、誰からともなく「次は三陸、そなえよつねに」との注意喚起の声が現れていたのかもしれません。

有珠・洞爺編は今回で終了です。ご覧いただきありがとうございました。