震災1年目に考えたこと(H24.3再掲)
先日、震災5年目の日を迎えて考えたことについて書きましたが、震災からちょうど1年目の平成24年3月に書いた文章を再掲することにしました。
**********
それぞれの1年目
震災から1年を経過したこの日(平成24年3月11日)、私自身は当番弁護士の担当日で遠方を含む複数の警察署に接見に向かったり、家族が通っているピアノ教室の発表会の付添を余儀なくされるなど、震災とは何の関係もない一日を過ごすことになりました。
ただ、地震発生時刻がピアノ教室の発表会の最中でしたので、その際は参加者全員で黙祷を捧げることができ、その点は良かったと思っています。
遠方の警察署から帰宅した後、facebookやブログなどで様々な方がこの日にどのように過ごしたり、どのような情報を発信しているのか、興味深く拝見しました。
沿岸の方々は言うに及ばず、盛岡の方も日本JCによる被災者追悼などを目的とする大きなイベントがあったこともあり、震災絡みの多くの投稿を拝見しました。
私のfacebookでの「友達」は、東北地方の他県の方はごく少数しかいませんが、その方々も被災地の方か否かに限らず震災関連の投稿をしておられました。
他方、東北以外の地にお住まいの方からは震災関連の投稿はほとんどなく、何人かの方が、普段どおりの日常に関する投稿をなさっていました。
そのことを非難するつもりもなければ非難する立場でも勿論ないのですが、そうした光景は、やはり一種の風化というか、温度差なのかなぁと思わずにはいられないものはありました。
もちろん、私自身を含め、身内などが犠牲者になったわけでもない立場では、いつも通りの日常を送ること自体が震災に負けないことの表明だというスタンスも当然正しいと思いますので、何一つ間違っていないとは思うのですが、盛岡の方が次から次へとfacebookに震災関連の投稿をしているのに対し、他の地域からそうした声が出ないのは、ある意味、不思議な感じもしたことは事実です。
私の盛岡の「友達」は、同県人としての同胞意識もさることながら、JC関係者など被災地支援に関わってきた方が非常に多く、私がこうした投稿を書いているように、何か言わずにはいられない方々という面がありますので、そうしたことも割り引かなければとは思います。
ただ、「地震の揺れの程度」では盛岡も東京もほとんど差がなく、帰宅難民という点では首都圏の方が苦労された方も多いと思いますが、不思議なほど震災について何かを語ろうとする投稿を見かけませんでした。
或いは、津波や原発に直面した本当の被災者の方に遠慮して、ご自身の経験については投稿を差し控えたのかも知れません。
それに対し盛岡の方々が次々に投稿をされていたのは、実際に支援活動などに携わる中で、心理的なものを含めた被災地との距離が近くなってきたことによるのではないかと思います。
実際、盛岡の方の投稿も、ご自身のことではなく被災地=沿岸についてのものばかりであったことは言うまでもありません。
私自身も、はじめて被災地を訪れた頃、津波でズタズタにされた街並みを見て、在りし日の姿を思い出し悔しくてたまらなくなったり、その後、何度も被災地の避難所などを通って相談に従事し様々な方のお話を伺ったことなどが、走馬燈のように思い出されました。
これまで、私自身が当事者として経験していない終戦記念日や原爆投下日、阪神大震災の発生日などについて、敢えて何かを記すに値するだけの特段の感慨を抱くことは無いに等しかったと思います。
これに対し、3月11日については同時代の当事者に準じる立場として、これからも特別な日として心に残っていくのだと思います。
3月11日という日に対する受け止め方は様々だと思いますが、大自然に対する人間の小ささ、儚さと、犠牲者への哀悼の念や被害に挫けず努力を続ける必要性を感じさせる日として、多くの方に生き続けていけばと感じています。