37年ぶりの昭和新山と果たせぬ課題

前回(導入部)に続き、洞爺湖・有珠山編の第2回です。

1日目は長万部をチラ見しつつ2時半に洞爺湖に到着したので、世にも珍妙な某公園を経由して火山科学館やサミット記念館などにお邪魔した後、洞爺湖畔で宿泊し、翌日には昭和新山エリアに向かいました。

昭和新山と聞いてミマツダイヤグラムを思い出す人は幾らでもいますが、火山学の素人である三松正夫氏の懇請に応じて長期に亘り専門的な助言・指導を続け、新山の名付け親にもなった、田中舘秀三・東北帝大教授(二戸出身・盛岡一高・東京帝大卒。映画化あらすじ案を当方ブログ掲載中)のことを知る人は、ほとんどいません。

洞爺湖の火山科学館など域内の多くの施設が三松氏の偉業を讃えていますが、残念ながら、田中舘教授の貢献について触れたものは全く見かけませんでした。

ただ、三松氏の足跡を詳細に紹介・顕彰することを目的とした「三松正夫記念館」なら、きっとそのことに触れているはず。
そう思って、昭和新山エリアに到着した直後、私にとっての実質的な目的地である三松正夫記念館に真っ先に伺ったところ・・・

なんと、閉館していました・・しかも、何の張り紙もなく・・
というわけで、怒りのアイヌ像。

が、このまま終わりというのもいかがかと思い、お土産館の守衛さんに訪ねたところ、運営者にご不幸があったとのことで、臨時休館中とのことでした。

これでは致し方ありません。
というわけで、鎮魂を祈るアイヌ像(再)。

可能なら、二戸や盛岡のRCなどが資金を持ち寄り、秀三教授の功績を顕彰し昭和新山の物語に果たした役割を伝える何らかの営みをしても良いのでは。

そのように感じつつ、37年前に比べ煙が全然なくなり緑が増えた昭和新山を堪能した上で、次の目的地・有珠山に向かいました。
かつて我々も利用した集合写真用の木製雛壇(当時と同じ場所にあった)が、昔のまま?放置されている光景も垣間見つつ。