懐かしき未来は名古屋城の礎石の中に~名古屋編②~
10月の名古屋出張(学童保育の全国大会の出張)に関する投稿の2回目です。今回は、全国学童保育研究会の開場前に名古屋城に行ってきましたという件を書きたいと思います(大至急の仕事が少し片付き、久しぶりに、ブログ書きたい病になっています)。
名古屋には花巻空港を朝の早い時間に出発し、午前中には市内に着きましたので、昼に始まる全国研の前に可能な限り城内を見ておきたいということで、すぐに名古屋城に行きました。
まずは二の丸庭園のパフォーマンス集団(武将隊の方々)をチラ見しつつ、一部復元に伴う公開がなされて間もない本丸御殿に向かい、次いで、天守に入城しました。当日は文句なしの晴天で、天守閣の展望台からは伊吹山をはじめ周囲の眺望を楽しむことができ、大満足でした。
恥ずかしながら、これまで名古屋城については不勉強で、消失や再建の時期などはほとんど把握していませんでしたが、戦時中も昔の雄姿を止めていたことや戦災(米軍の大空襲)で「落城」さながらに焼失したこと、戦後まもなく市民の熱意や募金を通じて再建されたことなどが、よく分かりました。
焼失前に撮影された写真も初めて見ましたが、白黒写真で垣間見た限りでも、現在のコンクリート製より遙かに風格があるように感じました。もちろん、現存していれば、姫路城と並んで(規模からは、姫路城以上に)日本を代表する城郭として世界に冠たる名声を得ていただろうと残念に思います。
我国は敗戦で多くのものを失い、それと引き換え?に多くのものを得ましたが、焼け落ちる名古屋城の写真が、まるで名古屋ひいては日本の戦後の復興のための人柱になったかのような、戦慄というか身震いするような感じがしました。
ところで、名古屋城(天守閣)の入口付近に、陸前高田の子供達を招待した企画に関する展示パネルが掲示されていました。
言うまでもなく、陸前高田は東日本大震災津波における最大の被災地の一つであり、市の中心部が津波により丸ごと壊滅させられるという、米軍の空襲と同等以上と言ってよいほどの凄まじい被害に遭いました。もちろん、街のシンボルである高田松原も完全に失われ、「一本松」のみを残すのみとなったことは皆さんご承知のとおりです。
それだけに、「あまりにも大きな外力(大国との総力戦や巨大災害)により、街の大切なものを多く失った者同士」という点で、名古屋と陸前高田は共通するところがあり、両市が交流などを深めていくことは大いに意義があるのではないかと思われます。
陸前高田には、市内の著名事業者の方々が従事する「なつかしい未来創造」という復興まちづくり企業があるとのことですが、自動車産業などを通じて戦後の「物づくりニッポン」を牽引すると共に、現在も本丸御殿を復元し、さらに天守閣の復元も構想している名古屋の地は、「なつかしい未来の創造」という点では、陸前高田をはじめとする三陸の被災地にとっては、ある種の先輩格というべきなのかもしれず、戦後の名古屋が辿った成功や反省などの体験の成果を、三陸にも還元するような営みが盛んになればと願っています。
そんなことを考えながら一首。
懐かしき未来は名古屋の城で待ち 努力と熱意の有無を見定む
ところで、名古屋には、大学の先輩で同じ年に司法試験に合格し、その頃に大変お世話になったKさん(弁護士ではありませんが広義の同業である法律実務家)がおられるので、これ幸いとばかりに、夜にはKさんに十数年ぶりにお会いしてきました。
Kさんには、合格から修習開始までの期間に中央大の某団体(S法会)で答案練習会(司法試験の模試のようなもの)の内部スタッフ同士として奴隷労働?に明け暮れていた当時、一緒に呑みに誘っていただいたことがあるのですが、貧乏な合格者同士のはずなのに?なぜか、京王線の千歳烏山にある「純米大吟醸と高級酒肴ばかりの贅沢居酒屋」に連れて行かれ(しかも妙に盛り上がって2時間以上呑んでました)、「人生で行った居酒屋3本の指(ナンバーワン?)」といって良いほど大満足の反面、財布が空っぽになり、泣きそうな思いをして帰ったことがありました。
そのため、今度も凄いお店に連れて行かれるのだろうかとビクビクしていたのですが、最近は私がブログやfacebookで貧乏ぶりを吹聴しているのに気を遣っていただいたのか?B級グルメの名店と地元の庶民派居酒屋さんという組み合わせで、「懐に優しい食い倒れツアー」になりました。
ともあれ、Kさんが「現場の指揮官」として野武士のように奮闘されているお話などを伺っていると、懐かしさと共に、私も法律実務家のはしくれとして、私なりに地域の未来を切り開いていかなければならないとの思いを新たにしました。
そんな様々な「懐かしき未来」が交錯する名古屋の地にいつの日かまた訪れて、次代の様々な可能性や努力の種について考えを巡らせることができればと思います。