庄内から善政の光景と庶民の魂を考える(象潟・庄内編4)

鶴岡の藩校致道館は、庄内藩の降伏協議の舞台にもなった重要な施設ですが、すぐ隣には、近未来的な外観を備えた鶴岡市民文化会館(荘銀タクト鶴岡)が聳えており、双方が並び立つ光景は、江戸と現代が鋭く交錯しているように見えます。

このような光景は、岩手・盛岡では見たことがなく、稀有なものであると共に、若い世代への教育的な効果という点でも、意義が大きいと感じました。

大戦争で連戦連勝を経て天下に降伏し、城下も藩も保全された庄内藩。
一進一退の中で降伏し、責任者は斬首され多くの辛酸を嘗めた南部藩。
城の包囲戦では負けることなく天下に降伏し、何もかも失った九戸城。

何が三者の運命を分けたのか。
本間家の財や最新の軍備、名将・鬼玄蕃、そして西郷隆盛の有無だけか。

答えの一つは、藩主が領民から強く支持されていた(根底に、善政で領民も相応に豊かに暮らしていた?)ことにあるかもしれません。

その企画展が、致道博物館で行われていました。

藩の転封を反対し既存の藩政を求める大規模な領民運動などというものは、飢饉と一揆が繰り返された南部藩では到底考えられません。

そうした事情も、庄内藩の戊辰の健闘を支える力になったのでしょう。

明治以後も領主(酒井公)が領民により神格化され祀られている荘内神社(鶴岡城址)も、その現れかもしれません。

酒井家よりも遙かに長い歴史を持つ南部藩(南部本家)には、藩主一門を領民が崇敬する思想はついに生じなかったと思います。

盛岡城址の桜山神社も信直公らを祭神としており、「四柱を祀る」という形式の共通性を含め、荘内神社に相当する施設と言えますが、住民の総意で創建されたと強調する荘内神社サイトの紹介文と桜山神社サイトの創建経緯に関する文章を見ると、住民との結びつきに温度差があるように感じます。

「よそ者」の酒井家は地の利(西回り航路)を活かし人の和(地元の豪商や藩士・領民の協力)を得て、天の時(戊辰戦争)にも屈指の足跡を残しました。

その姿は、数百年も北東北に君臨した南部家を擁しながら、平泉以後は、天下に轟く逸話に縁の薄い歴史を続けた岩手の民にとって、眩しく見える面はあるかもしれません。

反面、明治後、庄内からは天下を動かす政治家等がほとんど生じておらず(唯一の例外が石原莞爾でしょうか)、これに対し岩手は宰相など多くの人物を輩出してもいるわけで、そうした対比も興味深いものと言えるでしょう。

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これまで数回に亘り、象潟・鳥海の自然と酒田・鶴岡の栄華や軌跡について、取り上げてきました。

ただ、庄内は、貧困や苦難に生きた「おしん」の舞台でもあります。

私は、弁護士登録直前の平成12年3月、リマの街角で、地元の沢山のペルー人達と一台のテレビを囲んで、「おしん」の最終回を見ていました。

きっと、私の弁護士人生も試練の連続になるのだろうと思いました。

酒田随一のオサレ施設となった山居倉庫内には、今もあの曲が流れています。

私はおしんのテーマ曲を聴くと、身震いがして泣きそうになり、1週間以上、延々と口笛を吹きたくなる症状が生じます。

重度の「おしん病」患者であることは間違いないでしょう。

皆さんも象潟・鳥海や庄内(酒田・鶴岡など)に旅してはいかがでしょうか。

霊峰の麓には、おくりびとに限らず、意外な出逢いや発見があるかもしれません。

芭蕉の足跡から詩情を掻き立てられることもあるかもしれません。

以上をもちまして、象潟・庄内編は終幕です。

多数の投稿にお付き合い下さり、ありがとうございました。

最後に、帰路の川下り街道にて、同行者にもおしんの爪の垢を煎じて飲んで欲しいの一句

さあ勉強、寮へと急かす最上川

~完~