弁護士の死神営業と泣いた赤鬼
最近になって、社会派ブロガーで有名な「ちきりん」さんのブログや著作を読むようになりました。
先日は、延命治療の技術進歩により「本人が必ずしも延命を望んでいないのに、誰もそれを止めることができない(勇気や制度がない)との事情から高額な医療費を(若い世代に)負担させ、何十年も延々と延命をするような例が、今後、続出して巨大な社会問題になるのではないか」という趣旨のことが述べられていました。
尊厳死を巡る問題については、法律業界でも古くから議論され、ネット上でも多数の論考などを見かけることができますが、私自身は関わった経験等がないこともあり率直に言って不勉強で、今のところ大したことを述べることはできません。
ただ、単純に、ちきりんさんのブログに即して感じたことだけを言えば「本人も望まず、社会的にも不要有害と言わざるを得ない長期延命治療を関係者に無用の負担等を生じさせない形で止めさせる制度」が必要なのだろうとは思います。
それは、言うなれば、医療技術上は長期延命が可能な方に対し、「死」を宣告する(延命治療の中止による死亡を法的に正当化する)ような手続であり、それが「誰しもが、やりたいとは思わない嫌な決断だが、社会通念上は必要とされる仕事」だというのであれば、それに従事(主導)すべき立場にあるのは、法律実務家というべきではないかと思います。
酷い例えだとお叱りを受けるかもしれませんが、延命治療の中止判断(決定)は、それに従事する者に慎重な姿勢と重い決断を伴う「死の宣告」にあたるという点で、死刑判決と似たような面があり、後者が法律家(裁判官)が行うとされている以上、前者についても、法律家こそが担うべきだと言ってよいのではないかと思います(ちなみに、「執行」は、適切な方法で医療関係者に行っていただくことは、当然です)。
もちろん、そのような制度を作るのであれば、「必要」が生じた場合に、関係者の(本人の事前届、近親者、医療従事者や検察官など)の申請に基づいて、何らかの「審査会」的なものが設けられ、そこで延命治療の中止の当否について判断することが想定されます。
当然、そこでは、単純に本人の同意があるから中止だとか、近親者の同意がないからダメだなどというのではなく、ご本人の人生経歴や治療経過など、中止の当否を巡って斟酌すべき様々な要素を適切な事実調査を踏まえて判断するという形になるのではないかと思います。
このような「様々な事実の調査・整理を含む、諸要素の総合的な価値判断」は、法律実務家が得意とするところですし、「死」という判断の重さに照らしても、一般の方が軽々に従事できるものでもありません(その点は、重大事案における裁判員裁判の当否を巡る議論も参考になるかもしれません)。
もちろん、利害関係者などによる不服申立(最終的には裁判所の司法判断を含む)もあってしかるべきだと思います。
なお、費用については、なるべく自己負担が望ましいので、審査制度の利用額を定めた上で、延命治療の長期化を希望しない方が事前に予納するとか、何らかの保険制度に組み込むなどの方法が適切だと思います(最後の綱は、法テラスでしょうか)。
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で、どうして今こんな話を延々と書いてきたかというと、そのような制度が社会に必要とされているのであれば、給源たる弁護士業界(なかんずく日弁連)が、制度設計をした上で制度の導入に向けて積極的に提言・運動してもよいのではと思うのですが、私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません(単に不勉強で存じないだけかもしれませんが。なお、法案への反対意見の類なら日弁連HPなどで拝見できます)。
変な話かもしれませんが、仮に、そのような「審査会」が設置される場合、医師であれ、他の何らかの資格商売であれ、或いはお役人(公的機関)であれ、弁護士以外にも、「自分にそれを担わせて欲しい」といった「ライバル」が出現することは予測されますし、TPPなどを引き合いにするまでもなく、新たな制度を構築する場合は、なるべく早期に制度設計を巡る議論に参加、主導しないと「置いてけぼり」となることは、容易に想像できることだと思います。
ただ、逆の見方として、この制度が、死という人間にとって最も忌避したいはずの事態をダイレクトにもたらす意思決定であり、しかも、重大犯罪者ではなく、全うに生きてきた方のための手続という性質上「究極のケガレ仕事」と言えなくもなく、そのような制度を導入すべきだ(しかも、自分に担わせて欲しい)などと言い出せば、「お前は死神か。おぞましい奴だ」などという批判を世間から受けてしまうのかもしれません。
そうした意味では、この仕事は、ちきりんさんの見立てからすれば、社会的必要性が認知されれば膨大な需要を生じさせる可能性がある一方で、「貧困に喘ぐ町弁業界を一挙に救済する、素晴らしいブルーオーシャンだ!」などと無邪気にはしゃぐ話になるはずもなく、色々な意味で、弁護士(法律家)という職業の悩ましさ、本質に迫る話ではないかと感じる面はあります。
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ところで、法律家が「死」に関わるのは、重大犯罪の刑事事件だけではありません。相続は言うに及びませんが、それ以上に、「企業のお葬式」としての倒産事件には、申立代理人であれ破産管財人であれ、多くの町弁が日常的に関わっています。
裏を返せば、ほとんど弁護士を利用される機会がない小規模な会社さんなどにとっては、弁護士と関わるのは倒産のときだけという面が無きにしもあらずで、そうした方から見れば、我々は、「企業が死を余儀なくされるときだけ関わる連中で、必要かもしれないが、嫌悪・忌避すべき死神のような存在」ということになるのかもしれません。
恥ずかしながら、私の場合、中小・零細企業向けの仕事をもっと沢山お引き受けしたいとの希望がありつつ、人脈の無さなどの悲哀から、東京時代とは比較の対象にならないほど、そうした機会を得ることができていないので、せめてもの営業活動?ということで、企業経営者の方々が集まる団体さんに参加することもあるのですが、遺憾ながら、何度出席しても、あまり親しい関係などを築くことができずにいます。
人付き合いや「他愛のない和やかな会話」が苦手な私のキャラの問題も大きいのでしょうが、接する方々の雰囲気を見ていると、弁護士という存在が「敷居が高い」という形容よりも、忌避すべき存在として意識されているように感じないこともなく、ある種の悲哀を感じる面はあります。
著名な児童文学作品(童話)で、「泣いた赤鬼」という物語がありますが、弁護士は、「人々を守る仕事をする(かつ、守りたいと思っている)一方、人々からは忌避されやすい面がある」という意味で、この作品の主人公である赤鬼に、よく似ているのかもしれません。
そのように考えると、以前にも取り上げた「日弁連ニコニコCM」は、赤鬼が、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておくようなものだと感じてしまいます。
日弁連CM問題と、今こそアピールすべき弁護士像を考える
さすがに、同業の先生に「青鬼よろしく筋の悪い裁判を私が面識がある企業の方々に起こして下さい。そうすれば、私はその裁判に勝って、自分が良い鬼だと知ってもらい、仲良くしてもらうことができます。」などと、お馬鹿な頼みをするわけにもいきませんが、さりとて、私が赤鬼くんのような看板を立ててもそれが奏功するとも到底思えず、どうしたものやらと嘆くほかなしというのが、お恥ずかしい現実のようです。