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壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第8回 あとがき

壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」第8回 あとがき


前回まで「秀三博士の足跡を今、映画化した場合に想定されるシナリオ案」を6回に分けて連載してきました。すべてご覧いただいた皆さんには御礼申し上げます。

今回は「あとがき」を少し書き、次回に参考文献、その次に映画化に関する賛同者募集、最後に私自身のことについて少し書きますので、最後までお付き合いのほどお願いします。

ラストシーンを世界遺産登録の記念式典としたかったこと、博士の顕彰に留めずに現代の日本人とシンガポール人が良好な関係を築く姿も描きたかったことから、「男たちの大和」などを真似して現代編を追加したのですが(「永遠のゼロ」も現代編から始まると聞いていますが、映画も小説も見たことがありません)、現代パートは要らないとか、史実とかなりズレてるとか、色々とご批判はあろうかと思います。

もちろん、「元ネタ」であるコーナー博士の著作には、秀三博士がリー・クアンユー首相と接点があったなどという記載はありませんし(さすがにないでしょう)、本編の「ヤン」のような華人と深い交流を持ったとの話も出てきません。

当然ながら、秀三博士と辻政信・陸軍参謀の対決などという話も、史実とは乖離していると言わざるを得ないでしょう。もちろん、彼らの立場の相違などからは実際にあってもおかしくない話であり、大河ドラマ感覚で言えば許容範囲の脚色だとは思っていますが。

そうした点も含め、あくまで本職の方(作家さんや映画の脚本家など)に博士の物語について手っ取り早く関心を持っていただくための「叩き台の叩き台」に過ぎませんので、「こう書いた方が面白くなる」といった建設的なご意見(他のシナリオ案)がありましたら、ぜひお願いします。

現代パートを割愛するのであれば、端的に、コーナー博士の著作(次回に紹介します)を原作として脚本化するというのも一つの選択肢だとは思います。

ただ、その場合「コーナー博士の視点で秀三博士ら日本人学者や徳川侯爵らの尽力を描く」というも物語になりますが(著書によれば徳川侯爵は今回のあらすじ案のイメージよりもっと早い段階で登場しています)、侯爵ら他の日本人にも相応の力点を置かざるを得ず、「秀三博士の物語」として構成するのが困難になるという問題があります。

また、それ以上の難点として、コーナー博士を起点とする物語だと「旧支配者(英国人)と新支配者(日本人)との交流の物語」になってしまい、華人をはじめとする現地住民らの視点がぼやけてしまいます。

映画を作るなら「現代のシンガポールに継承され国民統合のシンボルの一つにもなっている学術資産・文化財に対する日本との特別な絆の再確認」という形にするのが、現代日本人(及びシンガポール人)向けの映画を作る上では最善と思いますが、コーナー博士の著書のままの物語だと、そのコンセプトに沿ったシナリオを作るのは難しいと考えます。

このような観点から、現代パートを設けた上で、シンガポール侵略による最大の被害者であり建国の立役者となった華人達の中から架空?の「準主役」をもうけるべきだと考えたというのが、私のシナリオ案ということになります。

ただ、せっかく現代編を設けるなら、より社会的なメッセージ性の強い展開を考えるべきなのかもしれず、その辺はプロの方にお願いしたいところです。

また、今回のシナリオ案は、比較的、善良なイメージで博士を構築していますが、次回で紹介する荒俣氏の著作では、博士の姿を学問への真摯さと共に、奇人変人かつ特殊な野心(軍などの干渉を廃した、戦前の理化学研究所のような学者達のユートピア、さらには軍とは異なる別種の「大東亜共栄圏」を自らの政治的手腕で作ろうとしたというもの?)を抱いた山師であるとして描かれています。

そのような見方にも大いに共感する面があるだけに、博士の異形さにもっと焦点をあてたシナリオも考えてよいのではと思います。

いっそ、辻参謀も単純な悪役として描かずに彼なりの大東亜の夢を追い求める姿も示し、辻参謀と秀三博士の2つの理想が対決するような場面に焦点を当てれば、面白みが増すのかもしれません(しかし、彼が主導した華人大虐殺という巨罪も、決して忘れてはいけません)。

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(H29.5追記。博士の敬称について)

ところで、この「あらすじ案(及びあとがき)」では「秀三博士」という呼称で統一していますが、冒頭で述べたとおり、これは厳密には正しくないかもしれません。

というのは、博士号(現在は大学院卒で当然に取得されますが、戦前は「末は博士か大臣か」の言葉に象徴されるとおり、帝国大学の一部の教授にしか授与されず大臣なみに稀少なものです)を授与されたわけではないからです。

コーナー博士の著作(中公新書)で「田中舘教授」と表示されているのは、そのためだと思われますが、博士が実際に「教授」に就任したのはごく短期間であり、本件当時の肩書「講師」ですので、これ(教授)も便宜的な表現だと思います(後記の「業績と追憶」は「先生」で統一し「博士」は一切用いられません)。

ただ「先生」はあまりに一般化した敬称ですし、現代人の感覚からすれば正式名称としての「博士(はくし)」はともかく、学術面で高い業績を収めた人=賢者を顕彰する一般的な敬称としての「博士(はかせ)」が、秀三先生には相応しいと感じ、一連の文章では、これで統一させていただきました(「東方の三博士」などと同じ用語法としてご理解願います)。

或いは、敬称のあり方すら一筋縄でいかない点も、博士の天衣無縫さを示すのかもしれません。

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