北奥法律事務所

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25日

新天皇陛下のご即位と万歳三唱の現在

先日皇居で行われた即位礼正殿の儀は、私もTV中継を拝見していましたが、ある方が「万歳三唱に少し違和感がある。それよりは君が代を歌った方がまだよいのでは」と仰ったのを機に、あれこれ考えが頭をよぎりました。

私の場合、儀式内容そのものに特段意見があるというわけではないのですが、TVのコメント等で「高御座は古代から用いられていた」とか「平安絵巻云々の装束等」の説明ばかりが繰り返されているのを見ると、「おことばも総理の寿詩も万歳三唱も、幾ら何でも当時は無いでしょ(明治以前に太政大臣が祝辞を述べたなんて話があるのでしょうか?)、そちらの方(大日本帝国が始めたことや個々の行為の由来や意義など)や平安朝~明治までの話には、どうして触れないんですか(TVで扱えない理由でもあるんですか)」と、その点ばかり気になって、後で少し調べていました。

恥ずかしながら、万歳三唱の由来も存じなかったのですが、wikiによれば、もともと中華皇帝の寿命を「万歳(1万年)」と称したのが言葉の発祥で、日本では大日本帝国の草創期に練兵場で軍人が明治天皇に向かって歓呼したのがきっかけとなり、それまで天皇に対し群衆が歓呼する言葉(様式)がなかったため、明治政府の検討を経て定着したのだそうです。

で、万歳(三唱の歓呼)とは「天皇陛下の健康と長寿を(臣下が)祈念すること」とのことですので、括弧内の部分はさておき、(本質的には古代から中世、現代に至るまで)日本国統合の象徴的権威であり続けた天皇の役割に照らし、国民が万歳三唱をする(弥栄を言祝ぐ)こと自体が、直ちに間違っているという印象はありません(但し、天皇と中華皇帝は役割・本質が全く異なるため、その点はどうかとは思いますが)。

ただ、それでも「天皇陛下を人民(の代表たる総理)が仰いで万歳三唱する光景」に一定の違和感が生じざるを得ない(複雑な気持ちを抱く人がいる)のは、やはり15年戦争(大東亜戦争=日中・太平洋戦争)の出征風景やバンザイ突撃に象徴される、全体主義的な(「みんなの都合」で個人や他者に理不尽な犠牲を強いた挙げ句に敗亡した)悲惨で暗い時代の記憶が、今も国民に共有されているからなのだと思います。

言い換えれば、万歳三唱という言葉・儀式ないし意味自体に罪はないものの、あまりにも残念な使われ方をされてしまったため、「ケチがついた」と言わざるを得ない面があるのではと感じています。

万歳三唱は、平成(上皇)の即位式でも行われましたが、昭和は戦前も戦後も(たぶん右も左も)、良くも悪くも集団主義(悪く言えば全体主義)の時代ですから、その総括がなされていない状況で、海部首相が万歳三唱をすることに違和感を呈する人は、(反政府ないし反自民など、一定の立場のある方を別とすれば)あまりいなかった(そのような声は、戦争の記憶がまだ色濃く残っていた割に、ほとんど出なかった)のではと思います。

これに対し、平成は(個人主義とまで言うかは別として)良くも悪くも集団主義が解体されていった時代なので、それなのにまだ万歳三唱なのか(今もそれしかないのか)、と違和感(時代遅れ感?)を感じた国民は、少なくとも平成元年よりは多くいたのではないか、というのが私の印象でした。

私は万歳三唱の間の今上陛下の表情をずっと拝見していましたが、その際の表情は、TV解説者がしきりに強調していた「自然体」というよりは、ある種のぎこちなさというか、硬いものであった(少なくとも、万歳三唱されて喜んでいるという様子ではなかった)ように感じましたし、それが「重責を担う緊張感によるものだ(に過ぎない)」という理解だけで良いのか、「国民一人一人の喜怒哀楽に寄り添う」ことを象徴のつとめとして掲げた平成・令和の両天皇の姿勢などを踏まえて色々と考えさせられる面があったように思います。

そうであればこそ、昭和の時代はまだしも、平成の30年間(或いはこの1年間)に「次も万歳のままでいいのか、天皇制を言祝ぐ、ケチのつかない別な言葉(儀式)を考えるべきでは」という議論があって良かったのかもしれません。

それこそ、現在の即位式のあり方に批判的な左派勢力などから即位式のスタイルに関する新たな提案があっても(そうした形で議論の先鞭を付けても)良かったと思いますが、政治関係者がこのテーマで世論喚起するのは難しいでしょうから、いっそ社会派志向のあるお笑い芸人とか文化人の方々などが、万歳三唱に代わる現代の=新天皇に相応しい別な言葉(儀式)を考える試みなどがあってよいのではと思ったりもしました。

また、本当は、こうしたこともTVでは議論されるべきでしょうから、一局くらいは、せめて儀式の直後にでもそうした朝生的な討論番組を行ってもよいのでは、とも思ったりしました。

ともあれ、こうした儀式を拝見すると、改めて、天皇は現在もなお神の依代としての役割を期待されている(国家・国民により担わされている)のだろうと、その重責に対し、ある意味、気の毒に感じます。

見方によっては、天皇もまた、万歳のかけ声と共に、理不尽な役割を強いられている存在なのかもしれませんし、陛下の表情は「今も(社会統合のため)現人神(依代)を必要とし続けることに、皆さんは本当にいいのですか?」と語っていると解釈する余地もあるのかもしれません。

そして、そうした感想と共に、この制度(いわゆる国体)の数十年、数百年後の姿について色々と考えさせられたという点で、TV特番を拝見したこと自体は大いに意義があったと思います。