北奥法律事務所

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2023年

廃墟建物を作り出した金融機関の貸手責任による解体費用の負担の提言

先般、「日本のアマルフィ」と呼ばれる和歌山の風光明媚な海岸近くに長年放置されていた廃墟旅館の解体が、多額の公費を投じて開始されることになったとのニュースが流れていました。

【速報】『日本のアマルフィ』にある「廃旅館」長年放置…倒壊おそれで解体作業始まる 和歌山・雑賀崎漁港近く 費用約7000万円は国や県などが負担(MBSニュース) – Yahoo!ニュース

この種の問題では、自ら責任をとれない事業に融資をして公費負担の結果を生じさせた金融機関≒担保権者に、一定の範囲(最大5割とか)で、撤去の連帯責任(補償義務)を負わせる法制度があってよいのでは(それにより、金融機関は無謀な融資の回避や借主監督、早期適正譲渡などの努力を行うようになる)と考えます。

こういった「原状回復に関する融資者(金融機関)・出資者の監督責任」はメガソーラーなどでも用いられるべきだと思います。

平成の前期には、当時、米国で流行していた金融機関の貸手責任論が盛んに議論されていたのですが、今ではすっかり聞かなくなり、残念です。

我国では、代表者の家族とか、およそ責任を取れない者に巨額の負担を課して「連座させて潰す」ために保証制度が濫用されてきましたが、保証とは、本来「借主を監督できる後見役となりうる大物」こそが引き受けるべきものです

税金投入が強いられる「社会に生じた負の遺産」に関しては、その事業を開始させた金融機関や出資者などが、負の遺産の発生を防げなかったことへの責任を一定程度とるべきだ、という社会意識ないし政策の喚起が必要と考えますが、どうでしょう。

雨に翻弄される日印の自転車たち

今から少し前、梅雨明け直前の時期の話です。

その日は相談担当のため弁護士会に赴かなければならず、毎度ながら20年前に購入した登山用雨具を着用して豪雨の中、自転車で向かいましたが、そういうときほど、滅入る気分を吹き飛ばすため、

ガンガンいぐべ ぶっ放すべ~♪
センジョーコウスイタイ!

などと脳内熱唱して走行することにしています。

・・・などと書くと不謹慎だなどとお叱りを受けるのかもしれませんが、歌詞に防減災や避難、自然の猛威への畏敬などを盛り込めば、世評に十分耐えうる作品ができそうな気もするので、どなたかチャレンジいただければ幸いです。

ともあれ、被災された秋田の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

最近の担当日(弁護士会に行かなければならない日)は雨天率が高く、よほど会内で歓迎されているのかなぁと涙が出そうですが、新規のご依頼をいただける(かもしれない・・)貴重な機会でもありますので、めげずに失踪・・ではなく疾走し続けたいと思います。

ところで、その日の朝、事務所付近を走行していたところ、インド系(ドラヴィダ人?)と思しき濃いめの肌の男性が多数、自転車で北上しているのを見かけました。

ちょうど小雨から本降りになりかけたタイミングでしたが、彼らの誰も雨具を着ておらず、日本で自転車通勤するなら雨具が必要ですよ、濡れると身体に悪いですし(勤務先で調達してあげたらどうですか、ワークマンとか)と思わずにはいられませんでした。

震災以前に市内に大増殖したインド系レストランは最近はあまり見かけなくなったので、あの自転車の男性達がどのような仕事や生活をなさっているのか皆目見当もつきませんが、彼らにせよ日本人にせよ、互いに地域社会内で安全・安心に暮らしていくためにも、もっと法制度や実務の整備が必要なのではないかと改めて感じました。

 

ウイルス禍で生じていたDV等の問題と駆け込みホテルなどの解決策

ウイルス禍の真っ最中であった3年ほど前の話ですが、学校の休校と企業の自宅待機(リモート)が長期化した結果、自宅内にストレスを抱えた家族内で虐待問題が生じたとの報道が時折とりあげられていました。
「子どもに手をあげた」親からの相談相次ぐ 名古屋のNPO | NHKニュース

家族全員を自宅に長時間、閉じ込めることで、家庭内の感染リスクのほか、以前から家庭が抱えていた問題が子供など家庭内弱者への各種DV被害の形で発現することは、世界中の報道で予測されていたことですが、それに関する実効性のある予防策などのニュースを目にすることがないまま終わったように思われ、残念に感じます。

数年前、盛岡市内の某著名ビジネスホテルが、所在する地域の小学4年生を対象に宿泊体験の企画(参加する子供が夜にホテルに来て宿泊し、そのまま朝に登校するというもの)を行ったことがあります。

例えば、ウイルス禍が再発しホテル等が再び閑古鳥などという事態が生じたときは、いっそ「駆け込みホテル宣言」でもしていただき、自宅で過ごすことに支障のある方を受け入れてもよいのでは(内容に応じて一定の利用費は公的補助)と思いました。

また、休業居酒屋なども、そのような方を対象に食事を提供等するサービス(同上)を行うなどという形で、関係者を救済すると共に仕事や金の流れをつくる努力があれば良かったのではと思います。

そのような形で、公的ニーズと民営サービスを繋ぎ合わせる工夫が、現在の状況下でも色々と求められているのではないかと思われ、関係者のご尽力を期待したいものです。

思想や情念が対立する社会の中で、君たちはどう生きるか

大学2~3年頃の私は、浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」シリーズを片手に、同書が薦める膨大な書籍群を古本屋に探しに行くような日々を送っていました。

そのリスト群に「君たちはどう生きるか」も含まれており、当時購入していましたが、後回しにしたまま現在に至っています。

ただ、昨年頃、久しぶりに浅羽氏の著作が読みたくなり、

「君たちはどう生きるか」集中講義

なる本を見つけたので、購入して一気に読んでしまいました。

私は数年前に一世を風靡した「君たちは~」の漫画版も読んでおらず(子供に見せようと思って買ったものの誰も読んでない、がっかり家族・・・)、プレイ前に攻略本ばかり買いたがる、駄目ゲーマーのような人生というほかありません。

ともあれ、浅羽氏の本は、

「このマンガは、主人公にとって色々な意味で「萌え~」になる原作の憧れのヒロインを登場させなかった、ろくでなしのク○本だ!」

との一喝から始まり、諸々の理由から、

「君たちはどう生きるか」とは、子供のいじめや悔恨だけをテーマとするような、底の浅い(説教じみた)物語なんかじゃない、

ロマン溢れる革命思想(皇帝推戴を到達点とするボナパルティズム?)≒ナチス等に悪用される以前の善良?なファシズムの代弁者としてのヒロインと、人類社会全体の調和を目指す理性的な合理主義=ソ連等のインチキ共産主義ではない、本物のマルクス主義?の担い手としてのおじさんの二人が、主人公コペル君(戦前日本の進路)を取り合って争う、天才達の壮大な恋愛頭脳戦・・・もとい、思想対決の物語だ

(そして、それは、たぶん、今も形を変えて続いている)

という、独自?の解釈を展開したものとなっています。

このような話を聞いて興奮する人はどこにもおらず、大半はドン引きするか、珍獣として面白がるか、というのが世の常かとは思いますが。

ともあれ、先般公開された巨匠制作の同名タイトルの映画を今後ご覧になる方々も本書を一読されてみてはと思い、田舎の珍獣のはしくれとして、紹介させていただきました。

 

義理に生きる日本人と、正義に生きる偏屈者

私の名前は「義和」ですが、亡父から、祖父が「義勝」と名付けようとしていたのを父が「義和」案を推して決まったという話を聞いたことがあります。

どうして「勝」ではなく「和」にしたのかという肝心の点を聞きそびれてしまったのですが、私自身は自分の名前を非常に気に入っています。

というのは、私にとって、「義」とは正義の義、「和」とは平和の和を指し、2つの言葉=理念は相対立するものの、だからこそ私の人格や生き方に決定的な役割を果たしていると感じるからです。

もとより、争いは正義を主張する者同士の間に起こるものであり、平和とは、暴力・抑圧による欺瞞の平和を別とすれば、正義と正義の衝突の後の相克と調和・止揚の先にこそ存するものです。

よって、正義と正義(光と影の双方を背負う者同士)の対立と調和という問題(ひいては対決と調和の双方を創出する営み)は、正義や平和を扱う全ての職業人にとって、要諦というべき事柄だと思います。

それが弁護士という職業の本質に関わることは申すまでもないことでしょうし、そのことを弁えず自派の利害ばかりに目を向けて他方の正義や調和に視野が及ばない者は、法律家としては良質な仕事をしているとは言い難いと思います。

そんなわけで、私は、自分の名前を他人様に説明する際は、「正義の義と、平和の和」と必ず述べています。

ところが、これまで他の方が私の名前を説明するのを聞いていると、「義理の義と、平和の和」と仰ることが非常に多くありました。

それを聞くと、その方にとって「正義」よりも「義理」の方が身近な(親和性がある)言葉・概念なのだろうと思わずにはいられませんでしたし、そうした方が多いため、正義という言葉・概念は、まだまだ日本人には馴染めない面があるのだろうとも感じました。

感覚的な話になりますが、義理は、一対一であれ多数であれ、対人関係を前提とした言葉であり、多くの方には「世間」(最近は「空気」と呼ばれる)という日本的な概念と非常に親和性のあるものと言ってよいと思います。

言い換えれば、世間(空気)や義理の根底には自分に身近な者で形成されたコミュニティ(帰属集団)による集団的な明示・黙示の意思決定を重視する思想(広義の集団主義)が存するはずです(このような考え方は、「菊と刀」などでも触れられているようです)。

他方、「正義」という概念には、「千万人といえど我行かん」という、自分が信じる理念のためなら徹底した孤独にも耐えて闘う覚悟も要求する面があり、個人主義に馴染むことは間違いありません(だからこそ相対立する正義が殺し合いをせず共存・調和できるよう、裁判や選挙などを通じた対決・決着のための法制度があると言えます)。

そもそも、正義という言葉(概念)は、日本よりも、中国(関羽でおなじみ)や西洋(いわゆる法の正義)の方で確立した概念だと思いますが、双方とも、日本よりも遥かに個人主義思想の強い風土だと思います。

そう考えると、義理よりも正義という言葉に馴染んでいる私は、日本人的ではない偏屈さの持ち主ということになるのかもしれませんし、そうした面も含め、この名が授けられた瞬間から、法律家という生き方が天職になったのかもと思うところはあります。

ただ、名付け親である私の父は、日本的な親父の最たる御仁で、およそ西洋或いは中国的な個人主義にはほど遠い、世間様と共に生きる人でしたので、人の世は実に不思議なものだと感じないでもありません。

或いは、父にとっては「義理の義と平和の和」だったのかもしれませんが、作者の意図はどうあれ、私は頑なに「正義の義と平和の和」として生き続けたいと思っています。

 

盛岡の外縁・中心にある「アラジンのランプとスライム」と街の将来像

盛岡の街を取り囲む道路を地図で見ると、アラジンのランプのような形状になる路線と、スライムのような形状になる路線があります。その中心に盛岡駅があり、敷地の南西に20年以上手つかずの広い空き地がありますが、東京の汐留のように何らかの大規模開発をしても良いのではと残念に感じています。

この話題に関心を持っていただける方は、長文にはなりますが、以下の内容をご覧いただければ幸いです。

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盛岡駅の南西には、JRの用地と思しき広大な空き地(線路跡地)があります。東京なら汐留のようなもので、駅に直結する大規模開発が可能でしょうし、この場所は見方によっては現在の盛岡のど真ん中にあると言えなくもないので、長年放置されているのは勿体ないと思います。

それこそ、今年に移転候補地が決まるのであろう市役所と共に桜山エリアの飲食店なども一緒に引っ越して、官民複合施設を作っても良いのでは?などと思わないでもありません。

以下、現在の盛岡にとって街の中心はどこかについて考えたことを交えて、この空き地のことを述べます。

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まず、グーグルマップで盛岡の地図を見ると、末尾に引用した図のとおり中心部に2つの環状線らしきものがあり、いずれもユニークな形状をしていることに気付くはずです。

一つ目(外側)は、4号線と46号線の分岐(高松交差点)を起点に4号線(盛岡バイパス)を時計回りに南下し、南大橋を越えた直後に盛岡西バイパスに接続する道路に分岐し、西バイパスを西進・北上して西大橋を渡った後、盛岡イオン交差点を右折し46号線沿いに高松交差点まで戻る、というルートであり、これを結ぶと、アラジンのランプのような形状となります。

もう一つ(内側)は、夕顔瀬橋の北側(梨木町)の交差点を起点に、中央通→内丸→中ノ橋通→南大通→明治橋→中央公園→アイスアリーナ→太田橋→夕顔瀬橋というルートで、これを結ぶと、右=東側の形がやや崩れているものの、ドラゴンクエストのスライムによく似た形になります。

ちなみに、市役所前から明治橋を一直線に結ぶ道路を作ると、均整のとれたスライムの形になります。

外側線はすべて片側二車線道路で形成された環状線と形容するに相応しい道路で、東京で言えば環状七号線に匹敵するように感じます。

内側線もバスセンター交差点から明治橋までを除いた大半の道路が片側二車線となっており、東側はほぼ全域が現在の盛岡の中心部を貫いているので、東京で言えば明治通りに似ています。

明治通りは、西側が渋谷・新宿など東京の主要部を貫く一方、東側は台東区や墨田区などマイナーなエリアを通るので、東西が逆ですが、その点でも明治通りに通じる面があります。

そして、この二つの環状線のど真ん中に盛岡駅があり、盛岡駅前通から盛南大橋→西バイパスへ向かう道路が、真ん中で東西を分割していると言えます。

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ただ、大半の盛岡市民の感覚として、盛岡駅が街の中心とは考えておらず、盛岡城・市役所・中ノ橋エリア(藩政以来の街区)こそが中心で、駅は街の西端、その先(西側)は郊外だ(街の東端は八幡宮や四号線)というのが、長年の一般的な理解だと思います。

が、果たして、今もそうだと言えるか。

車社会の定着の影響もあるでしょうが、市民ないし盛岡広域圏民の多くが、従来の中心部(大通~肴町)以上に前潟・盛南をはじめ郊外の様々な商業施設を日常的に利用しており、中心部は、分散する商圏の一つに過ぎないと感じる市民も珍しくないように思われます。

また、内丸・中ノ橋エリアを中心と捉えると、北が高松交差点、南が明治橋、東が4号線で西が盛岡駅というのが「昔からの盛岡中心部」となりますが、この同心円だと東側が岩山山麓で終了し(岩山以東は街どころか住宅街すらありません)、この同心円の西側(北西・南西)に過去数十年間に形成された広大な開発地を擁していることに照らしても、街の捉え方として、歪さが否めません。

このように地理的(地政学的?)に見れば、分散開発された各エリアとほとんど等距離で繋がっている盛岡駅周辺が、現時点では「まちの中心」と位置づける方が適切ではとも思われます。とりわけ、点在する新興開発エリアに住んでいる方々にとっては、内丸地区よりも、自分達のまちの中心という気持ちを持ちやすいと思います。

ただ、現時点で官公庁をはじめ様々な機能が内丸周辺に集約され、民需の点でも、繁華街や高級飲食店などは大通・菜園や中ノ橋・八幡エリアに集中していますし、人々の意識としても、今も中心はこのエリアでしょ、と感じる方が大半だと思われます。

よって、まちの中心が変わる(取って代わる)のではなく、伝統的な中心地区の役割を大切にしつつ、駅前周辺を地域全体の運営や再開発の要として機能強化を図るといった、二拠点的な考え方(旧市街と新市街、或いは伝統地区と新興地区)が望ましいのでしょう。

それこそ、パリの旧市街と新市街のように、伝統地区は高さ規制や既存建物保護を徹底して従来建物の景観や歴史的文化を保護し、高度開発は駅前などの新興地区で引き受ける、という役割分担もできるはずですし。

まあ、このような話は、恐らくマリオス・アイーナが企図された20年以上前から検討され、様々な理由で頓挫し、現在の「駅西の惨状」などと言われる状態に至ったのかもしれませんが。

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ともあれ、以上の観点、とりわけ二つの環状線の中心という点で見れば、冒頭に指摘した盛岡駅南西の広大な空き地は、開発適地として大きな潜在力を有するように思われ、これが20年以上、延々と放置されているのを残念に感じます。

この空き地は、すぐ南が雫石川・北上川・中津川が合流する河畔地帯なので、街の伸びしろ自体は大きくはないものの、相応の高層建築物を作れば、三川合流点の美しい景色を眺望でき、駅から至近にあることも含め、汐留や六本木ヒルズのような複合施設に向いているエリアなのではと感じます。

可能であれば、三川合流点エリアの景観等を整備したり、盛南大橋北端から清水町方面に北上川を横切る新たな橋を作れば、利便性も向上し渋滞回避にも資すると思いますし。

最近になって、敷地内(線路近く)に小規模な構築物の工事が始まったようで、近いうちに何かできるのかもしれませんが、このエリアの価値からは、圏域全体の新たな中核ないし求心力となりうる大規模施設を考えてよいのではと思われ、構想だけでも何か話をぶちあげる人がいればと残念に思います。

今年の市長選や市議選でも、そうした点も話題にして盛り上げてくれる候補者がいればと願うときもありますが、高望みなのでしょうか? 

建長寺には登山もリスもござんすよ

前回(日帰り出張に伴う北鎌倉プチ周遊編)の続きです

円覚寺を出た後、道沿いを歩いて建長寺に向かいました。

道路の反対側から、北鎌倉駅に向かう鎌倉学園(建長寺に隣接する学校で、桑田佳祐氏と堺正章氏の母校)の沢山の生徒さん達が下校してきたので、重い鞄を抱えた身で細い路地で何度もすれ違わなければならない羽目になりました。

ともあれ、その末にようやく建長寺に辿り着いた後、堺氏が若い頃に活躍された西遊記、そして仏道に人生を捧げた三蔵法師を演じられた不世出の女優さんのことなども思い出して一句。

堅調なみちに花咲く建長寺
サザンカにナツメを偲ぶ孫悟空

建長寺は蘭渓道隆により開山された鎌倉五山第一位の寺院です。

建長寺は鎌倉五山の筆頭に相応しい壮麗な仏殿を備えています。

釈迦苦行像。
思春期はシャキャも痩せたいバラモンで(某漫画より)。

建長寺は、総門や山門、仏殿、法堂、庫裏などが一直線に並んで建築されており、中国で成立した禅宗の本来の建築様式とのことですが、初めて見る者には、まるで艦隊が連なるような奇妙で不思議な印象を受けます。

私は平成11年の夏に中国に旅行したことがありますが、一直線に巨大宮殿が次々と現れる紫禁城の光景に似ているように感じました。

詳細は存じませんが、中国には建物を一直線に建築するのを好む文化ないし思想があるのかもしれません。

この寺院の敷地をはじめ、北鎌倉一帯が谷間の細長い土地なので、一直線に建物を建てることに馴染みやすいのでしょうが。

ちなみに円覚寺には「一直線感」はなく、むしろ谷の両側に建物群がへばりついている印象を受けましたが、創建時は建長寺と同様に一直線状になっていたそうです。

**

建物群の最後のあたりで、お江の方の廟所に用いられていたという壮麗なる門扉がありました。というわけで、大河ドラマで活躍された若き日の樹里氏が奏でる一句。

唐モンでジャズの代わりに数珠やるべ。


その後、まだ残された時間があるということで、寺院の裏の「奥の院」的なエリアを目指すことにしました。

沢山の階段を上らなければならず、疲労の末に一句。

登山やな北鎌倉の半僧坊

鎌倉市街を見下ろす光景は、旅に達成感や稀少体験を求める方に、至上のよろこびを与えてくれるでしょう。

ここを目指す方は、間違っても、ノートPCや使いもしない勉強道具(判例雑誌など)を大量に入れた鞄などの重い荷物を持つことなく、軽装でいらして下さい。

下山中に、よい子の皆さんを癒やすひとときを授かり一句。

五山にはリスもおいででござんすよ

かくして建長寺をあとにし、そのまま徒歩で鎌倉駅に向かいました。

裏側から立ち寄った夕暮れの八幡宮は平日おデートの皆さんがウジャウジャしていたのでツルッとスルーし、そのまま「おまけ」を経て新幹線ギリギリの時間でしたが、東京駅で猛ダッシュし、どうにか、遅れずに帰宅できました。

***

以下、おまけ。

夕方に鎌倉駅前に辿り着いたので、某愛読者のクレームを覚悟しつつ、久方ぶりに孤食の居酒屋放浪記をすることにしました。

隣のボックスに耳障りなしゃべり口調のあんちゃんがいて、

「俺は弁護士ではないが本人訴訟の達人だ、少額訴訟ならお手のものだ」

云々と、同席者に自慢げに話し、交通事故?とか個別分野でも講釈を初める声が延々と聞こえてきたので、

隣にホンモノの弁護士がいるんだけど・・・

と言いに行きたい衝動に少しだけかられました。

が、急がないと新幹線に間に合わないこともあり、半ば耳を塞ぎつつ、日本でここでしか食べられない?黒酢黒ゴマ蕎麦と三浦半島名物の三崎マグロの輪切りテールオーブン焼き、そして特雌鳥の炭火焼きと鎌倉ビールを、大変美味しゅういただいて帰りました

次は、できれば一人ではなく一緒に食事を楽しめる方と来たいものです。

 

大船観音と円覚寺にて菩薩のご縁を祈願するの記

半年前の話で恐縮ですが、仕事で神奈川県に出張でき(日帰りですが)、折角の機会ということで前後の時間に近隣の寺院を見に行きました。年末年始にも鎌倉に日帰りで行きましたが、大河ドラマ効果?か、神奈川へのご縁が続いています。
マチ弁が鎌倉来たりてエセ歌人(前編) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

まずは、東海道線からもよく見える大船観音にて、21年ぶりの機会を大観音に感謝しつつ更なる御利益を祈願して一首

大船に乗ったつもりで気がつけば 菩薩足りぬと南無阿弥陀仏

観音様というのは「世を観て」救う存在だそうですが、当方も社会の様々な問題の解決に関わりつつ、今なお修行僧というのが実情のようです。

幾とせも世を観て聞いて働けど なお苦しめと今も悶える

大船観音は、昭和初期に世相浄化と観音思想の普及を目的に着工されたものの、ほどなく中断され、大戦後の昭和30年代に再開・落慶され、戦没者の鎮魂と世界平和を祈って建立されたという経緯を辿ったようです。

ともあれ、観音像自体は、半身のみ地面から生えてきたような特異な容姿をしており、

戦災の涙を吸うた白筍が 平和願いて生え聳えたり

と形容するに相応しいのかもしれません。

***

その後、出張仕事を無事済ませ、北鎌倉の名刹に辿り着いて一句。

良き人に縁が来ればと円覚寺

国宝・円覚寺舎利殿は入口が閉じられ、普段は近づけないようです。全容を知りたい方は横浜市中心部の歴史博物館へどうぞ。

次に、北条時宗の廟所とされる佛日庵を訪ねました。円覚寺は、北条時宗が南宋の高僧・無学祖元を招聘し、創建した寺院です。

かつて外国の侵略から国を護った執権は、いま、同じ苦難に立ち向かう異国の人々に次のような一句を告げているかもしれません。

国難のときは気丈に胸を張り

敷地内には、夢窓疎石の作庭を今に伝えるのどかな光景なども広がっていました。

次世代に春を託して梅の花

・・・これが梅かどうかは私には分かりませんが(近くの建物で梅は咲き始めてました)

丘の上には国宝とされる梵鐘があり、表面には「国泰民安」なる碑文が刻まれているそうです。

「国民を二つに割るとはケシカラン。安泰を逆さまにしており、日本国民への呪詛だ!」などと言い出す人もいたりするのでしょうか?

(以下、次号)

 

相続財産管理をめぐる様々な不動産登記と負動産処理の実情

今回は、相続財産管理人の登記業務などに関する宣伝・・・というより愚痴です。

ここ1~2年、相続財産管理人で、通常の弁護士業務では馴染みの無い様々な登記と、登記申請の必要書類の取得のための交渉などを色々としなければならない事案が幾つかありました。

先日終わったⅠ事件では、山間部の別荘地帯にある買い手のつきにくい土地で、ウチならなんとかなるかもと仰る不動産屋さんにお願いして5年以上実を結ばず、受任から10年も経て、ようやく国庫帰属手続で完了したのですが、国への移転登記に先立ち、相続財産法人への名義変更のほか、

α 当該土地に付された根抵当権の抹消登記(休眠権利者企業への訴訟)
β 当該土地に付された買戻特約の抹消登記(登記原因証書の作成その他)

が必要となり、国庫帰属の条件(お約束)で、構図で隣接地所有者らを沢山調べて「引き取っていただけますか」のアンケート調査(当然、拒否か無視)をしなければならず、1円にもならぬ仕事(国庫帰属は対価ありませんので)のため膨大な作業に追われ、他に相続財産の全く無い事案(限られた予納金のみ)ということもあり、タイムチャージ換算で予想どおりの大赤字事案となりました。

また、Ⅱ事件では、被相続人Aの自宅が、いずれも故人である両親BやCの別々の名義の土地や未登記建物などで構成されており、まとめて売却するには、売買契約の許可申立の前に

①解体済みの旧自宅建物・甲1の建物滅失登記(業者滅失証明書は当然無し)
②現自宅建物・乙1の所有権保存登記登記
③現自宅土地・乙2の所有権移転=相続登記(A→C)
④旧自宅敷地・甲1の相続登記その1:B→A・C共同相続
⑤旧自宅敷地・甲2の相続登記その2:A持分のC相続
⑥自宅土地建物と旧自宅敷地の相続財産法人への表示変更登記

を行わなければならず、いずれも、弁護士が通常取り扱う仕事ではないため、法務局のサイトや文献などを色々調べて自分なりに登記申請書案を作成して法務局に相談→あれこれ言われて修正等→再相談→あれこれ、という作業を余儀なくされました。

これまで名義変更登記(や清算人選任など)以外はほとんど行ったことがなく、経験値がかなり上がりましたが、所詮、弁護士は登記の専門家ではありませんので、「俺は登記も分かる弁護士だ」などと叫んで司法書士さんと競争しようなどという発想・能力は微塵もなく、他の多くのレア事件(一生に一度くらいしか出逢わない類型)と同様、資格取得マニアの人のように、他に活かす機会もなく終わってしまいそうな気もします。

他にも、田園地帯の廃屋敷地等しか財産がない(ので相続放棄された)Ⅲ事件で、解体費用超過などを理由に不動産業屋さんに匙を投げられ、ダメもとで多数の近隣所有者を調査し照会したところ、運良く「タダ同然なら引取可」との回答を一人の方からいただき、譲渡に向けた準備を行っているものの、農地(実情は原野)が含まれているので、非農地証明による地目変更登記が必要になり、諸々の交渉の末、先日、地目変更を終えてこれから譲渡の作業に入るところです。

こうした事案に限らず、近時は、膨大な作業をこなさなければならないのに報酬(受任費用)は限られた金額しかいただけない大赤字事案が多く、株高云々で繁栄を謳歌する方々などは遠い世界のように感じるほかありません。

Ⅱ事件だけは、諸般の事情で珍しく黒字の期待が持てるものの、報酬審判は1年以上先なので、それまで滅んでなるものかと、某所で撮影した花火写真で自身を慰めつつ、ぢっと手を見る日々です。

追憶の沖縄と縄文の記憶

先日は、沖縄の慰霊の日(沖縄戦の実質終結日)とのことで、関連する行事のニュースが流れていました。

私は沖縄にはたった一度だけ平成27年に那覇地裁に仕事(尋問)で行ったことがあり、もともと、沖縄に行く本土人は、ひめゆりの塔と平和祈念公園に行かなきゃ駄目だろうと思っていた手前もあって、到着後、急遽、レンタカーを借りて行ってきました。

残念ながら、アウトレット大渋滞のため通常より大幅に到着が遅れ、ひめゆり平和祈念資料館の入館締切時刻には間に合いませんでしたが、平和記念公園の岩手の塔をはじめ、夕暮れ時に様々な戦争関連の慰霊碑を拝見することができました。
沖縄放浪記(那覇出張と「残念な小話」) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

子供の頃、私のすぐ近所には「りゅうちゃん」という、きっと蝦夷の直系の末裔なのだろうと感じる、縄文人のDNAが濃そうな歳上の男性が住んでいました。

とても善良な方で、少年期に色々とお世話になりましたが、沖縄には、りゅうちゃんとそっくりな顔立ちの人が街中に沢山いて、びっくりしました。

双方の土地で異なる時代に生じた戦災達から学ぶことに限らず、岩手と沖縄が縄文の血で繋がっていることに、もっと多くの人が関心を持ってよいのではと、今も感じています。

縄文を巡る岩手と沖縄の共通性については、出張後に書いたこの投稿もご覧いただければ幸いです。
琉球王国と北奥政権の栄光と挫折、そして再起するものたち | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)