北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

盛岡広域圏など

中央大学の志(こころざし)と「Think Global, Act Central」

今回も旧ブログに平成19年に投稿したものの再掲です。当時は、まだ盛岡青年会議所に入会して3年目ほどの身であり、何もかもが懐かしい思い出です。

***

先日、盛岡JCのメンバー(OB含む)のうち中央大学出身者の方だけで集まりがあり、私も参加してきました。

集まりといっても10人弱程度の人数でしたが、盛岡JCで理事長など重要役職を担ってきた方が少なくなく、今にも幽霊会員になりそうな怠け者の私とは大違いというか、中央大学の面目躍如といった感がありました。

で、その中で、ある大物OBの方が、

「自分が盛岡JCの運営をしていた十数年前、『Think Global,Act Local』という言葉を盛んに提唱したが、『Local』というのは『Central』(中央)の対義語で、田舎・辺境という意味があってよくない。

その後に興った地方分権の流れからは、『Act Regional』と言っていれば、先駆的なものとして評価されたのではないか」

と仰っていました。

ただ、「Regional」というのは、地域・地方といったこと(地理的概念)を意味する言葉のようですので、地球全体のことを学んだ上で、そのことを、どのような観点・姿勢でもって地域に活かそうとしているのかまでは伝わってきません。

そこで、地球全体のことを学んだ上で、自分達の地域から新しい物事を起こして地球全体をよりよく変えていく起爆剤にしようという気概を抱くのなら、「Regional」ではなく、自らが新たな時代の中心たらんとする「Act Central」とでも称するのが適切ではないかと思いました。

そもそも英語として成り立っているか分かりませんが、意訳?すれば、

地球全体のことを考え、我こそが社会の中心たらんと全力を尽くせ

といったところでしょうか。

秦の始皇帝や清朝、或いは明治維新を引き合いに出すまでもなく、歴史の変革は、辺境の民が中央の文明と辺境の知恵、或いは外国の新たな潮流などを学ぶことによって、新たに作り出されることが少なくありません。

地方のリーダーとして生きる人達には、『Think Global , Act Central(from your region)』とでも標榜し、大都市圏に隙あらば新たな時代の中心に取って代わらんとする野心や気概を持っていただきたいものです。

中央大学とひっかけた洒落の類じゃないか、という話はさておくとして・・・(笑?)

(2007年4月6日掲載の内容を微修正)

 

ペットの里の「惜しい感」とポテンシャル

今年の9月のことですが、岩手山麓にあるペットの里に初めて行きました。施設には、猫カフェと犬舎があるそうですが、当方家族は猫派のため、猫カフェのみ若干拝見しました。

利用料金の定めがなく「お気持ちで寄付をどうぞ」とのことですが、ペット保護の篤志家の方々はともかく、一般客にはかえって敷居が高くなる(ので、1回目に見栄を張った額を出し、結果として再訪しにくくなる)感じがあり、「どうしたら良いか分からない方には、○円をお勧めしています」などと言ってくれた方が有り難いな、と思いました。

建物は、外観はとても立派なもので、かつて著名大企業の保養所として使用されていたものとのことですが、私が伺ったときは建物内には整理や廃棄等を要すると思われる物品類が雑然と置いており本格的な清掃が必要な状態にあると感じたので、その点は残念でした。

私は盛岡市中心部にある猫カフェ「もりねこ」には過去に数回、入口周辺だけ出入りしたことがありますが、とても清潔で整然としている「もりねこ」と比べて、施設内は改善を要する点が色々とあるのでは、と素人目にも感じるところはありました。

ただ、従事するスタッフの方々からマイナスの印象を受けることは全くなく、熱意をもって真面目に従事されているのだろうという印象は強く受けました。

ですので、これは、恐らく現場のスタッフさん側の問題ではなく東京?の運営サイドで対応すべき面が強いのでしょうから、その方々はぜひご検討いただければと思います。

ただ、現実問題として、施設整備を行き届かせようとすれば相応のカネを要するでしょうが、運営サイドにその面倒を見るだけのカネを賄うのが難しいという問題があるのかもしれません。

他方で、私が拝見した限りでは(ペットの里のFBページも含め)、地元関係者が運営のため支援しているという話が出てきません。地元などの有志・篤志家が食糧(餌類)などの差入をなさっているそうですが、施設整備の支援もあれば良いのではと感じてしまいます。

例えば、地元(雫石や滝沢、繋など)の犬猫大好きな中高生が既存の部活との掛け持ちクラブとして「犬猫部」を作り、同じく犬猫大好きな地元の信頼できる方の引率で2週間に1回ほど?の頻度でペットの里に赴き清掃や施設整備など様々な支援活動を行い、ご褒美?に犬猫と触れあって帰る、とすれば、相応に入部希望者が殺到するかもしれません(便乗して同級生の女の子と過ごしたい野郎共の入部希望を含め)。

また、「年に1回くらいなら、そうしたボランティア活動ができる(したい)。もともと犬猫好きだし(メンバーの多くが飼ってるし)」という団体は相応にあるのではと思いますが、上記のクラブや支援住民が母体或いは窓口・仲介役をつとめていただければ、受け入れなどもスムーズに出来るのではと思われます。

それこそ盛岡市内のロータリー・ライオンズなどであれば、土日の午前に1~2時間ほど中高生の部活と一緒に支援活動→「犬猫ふれあいタイム」の前後に敷地或いは近隣でBBQ等で打ち上げ(メシ代はRC等の奢りで)、とすれば、割と実現容易な企画になりそうな気もします。

また、ペットの里は、地域限定(地元民向け)というより、高い理念のもと、全国(世界)に発信することを目的とした施設と認識していますので、そうであれば、犬猫飼育等に強い関心を持つ全国・世界の関係者が、この施設を目的に訪れるような「目玉コンテンツ」が必要では(例えば、愛好家や修学旅行生などが犬猫と一緒に?寝泊まりして世話体験ができる宿泊施設とか、プロ等が学びに来るような最先端の専門施設とか?)と思いますが、そうしたものを見かけなかったのも、少し残念に思いました。

かの「オガール紫波」は、プロ選手が利用を希望する「ハイレベルのバレー専門体育館」を、バレーの専門家でもある社長さん達の高度の営業活動や人脈を通じて現に世界からプロ選手などを集客しているとのことですが、そうした「ピンホールマーケティング」の努力がこの施設にはもっと必要なのでは?と感じました。

と同時に、そのような努力が現に行われて実を結べば、この施設は雫石や岩手山南麓等(盛岡西北部)エリアの旅行客などが、小岩井農場などと共に行程の不可欠の訪問先の一つとすることも期待できるはずで、そうした「夢のような話」を、施設関係者と地元関係者が、もっと語り合って実践の努力をしていただければ良いのに、とも思いました。

ともあれ、(私と違って?)犬猫大好きの皆さんにとっては沢山の犬猫達に囲まれて十分満足できる施設だと思いますし、そうした「惜しい感」或いはポテンシャルを見出すためにも、皆さんも一度、ペットの里に訪れてみてはいかがでしょうか。

追憶の欧州とドイツ料理

高1の夏、入試の褒美として、母に「欧州中央(独墺瑞仏)10日間弾丸格安?ツアー」に連れて行って貰ったことがあります(私を口実に本人が欧州旅行をしたかっただけかもですが)。

当然ながら、成人前に海外に行ったのは後にも先にもそのときだけです。

最後に2日だけ滞在したパリも素晴らしかったですが、私は最初の3日間を過ごしたドイツの方が性格(民族気質)的に親近感があり、高校時代は「そこそこの外語系大学に進学→ドイツ留学→中堅商社の現地駐在員→日本と縁を切り独語圏に骨を埋める」という人生に憧れがありました。

残念ながら?憧れは幻に終わる人生になりましたが、そんな事情もあり、いずれはドイツ料理のお店で当時を懐かしむ時間が持てれば・・と思っていたものの、その機会に恵まれないまま、この歳になってしまいました。

というわけで、ゴー券の御利益もあり、先日、現在の盛岡では唯一と思われるドイツ料理のお店に初めて伺い、ようやく年来の希望を叶えることができました。

旅行の際は、中世の宝石箱とも言われるローテンブルグのレストランで昼にいただいた極太のソーセージなどが大変美味しかったことを覚えています。

可能なら、またドイツなど欧州方面に旅行できればと思いますが、時間云々もさることながら、これから十年ほどは「そんなの絶対無理」と感じる綱渡りのカネ負担の日々が続くので、夢のまた夢というのが残念な実情です。

余談ながら、訪問したお店は一皿あたりのボリュームが割と大きく、3~4人で伺うには丁度良いのですが、相応の年齢の夫婦2人だけだと種類をこなすのが厳しいと感じました。

可能なら、量も単価も控えめな小盛りメニューも作っていただければ幸いです。

盛岡北RCと岩手女子高IAとの懇談会と「RCのきほんのき」

以前にも投稿したことがありますが、私が所属する盛岡北ロータリークラブは「インターアクトクラブ(IA)」という形で岩手女子高のJRCクラブさんと協力関係にあります。

ただ、詳細は存じないものの、私が入会した10年近く前の時点で、すでに相互の交流は希薄になっており、毎年12月の当クラブのクリスマス会に部員さんと顧問の先生をご招待して手話を用いた歌唱を披露いただくこと以外には、特段の関わりはない状態が続いています(今は、ウィルス禍のせいで、それも絶えています)。

私は3年ほど前に2年間だけIA等の担当委員長を務めましたが、そうした経緯や私自身の多忙さもあり、名ばかりの状態が続きました。

ただ、何もしないのもどうかということで(ある年の会長さんから、活性化を促されていたこともあり)、一度、IAにアンケート調査を行うと共に、その結果を踏まえて会員5名ほどで岩手女子高にお邪魔し懇談会を行ったことがあります。

その際にIA(高校生)向けに作成、配布したレジュメを、折角なので本ブログでも載せることにしました。

うわべだけの綺麗事は好みませんので、「どうしてロータリーには金持ちが多いのか」「バブル崩壊で人数が減った」など、敢えて「本音トーク」的なものも書いていますが、反面、ロータリーの本部?から「こいつは問題児だから懲らしめろ」などというお達しが出ないか、少し不安に思わないこともありません(笑?)。

当日は、敢えてレジュメの棒読みはせず、「宮澤賢治の思想とロータリー運動との関係」について話をしたのですが、それよりも、当方の会長さんが紹介した海外留学支援の説明の方が好評を博していました。

***********

(目次)
第1 ロータリーとは何か、どのような活動をしているか
第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

※ 本レジュメには、ロータリーなどの「公式見解」ではない個人的な見解が多数含まれていますので、取扱にはご注意ください。

第1 ロータリー(RC)とは何か、どのような活動をしているか
 1 RCの発祥と発展など

1905年に米国シカゴ(ミシガン湖畔の大都市)で執務するポール・ハリス氏(弁護士)が、仕事上の付き合いのある友人同士の相互交流(親睦グループ)として計4人で結成したのが発祥。

その後、1920年代頃から「単なる親睦ではなく、団体または構成員個人として社会への奉仕を実践すべき」と掲げたことが契機になって賛同者が増えて戦前戦後の米国の躍進なども相俟って世界中に広がり、現在は200カ国以上の国々に3万以上のクラブが存在し、120万人以上の会員が所属している。

 2 国際RC(世界全体)や各地RCの活動や実情

RCは、会員内部の懇親や相互扶助(クラブ奉仕)のほか、対外的な活動として、地域社会や青少年、国際社会などへの奉仕を理念に掲げ、その一貫として様々な活動を行っている。

典型的な例では、地域の若者(高校生など)の海外留学を支援(費用補助)したり海外の有為な若者の留学を支援するなどの活動を行うほか「大がかりではないが地域の美観・景観などを良くするための小規模な設備」などの設置(北上河畔の花壇など)といったものを行っている。

国際RCが世界的に行っている取り組みとしては、かつて深刻な難病として数十年前の日本をはじめ世界中に蔓延していた「ポリオ(小児麻痺)」の撲滅のための活動などが行われている。

 3 日本のRCの活動や実情(どうしてロータリーは「お金持ち」が多いのか)

もともとRCは事業活動を行う者同士の親睦を目的として始まったが、日本で最初にRCの結成を提唱したのが三井物産(日本を代表する総合商社の一つ)の経営者(米山梅吉氏)であり、地域を代表する大物経営者(要するに、お金持ち)を中心に広がったことに基づく。

そのため、現在も日本のRCは、企業経営者や高度専門家(医師等)、地域内の大企業の幹部社員など、いわゆる地元の名士さんが会員となっていることが多く、一般庶民(私を含む)から見れば、敷居の高さを感じる面がないとは言えない。

しかし、これは世界共通のこと(RCが前提としていること)では全くなく、海外では、ごく普通の企業のごく普通の立場の従業者が、男女を問わず会員として多く参加する例も多いそうであり、日本のRCのあり方が「当たり前」と考えるのは正しいことではない。

そうしたことも含めて、RCのあり方は次世代に託されている面がある。

第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
 1 盛岡北RCの発祥と現状など

盛岡では、1939年(昭和14年)に盛岡ロータリークラブが結成され、1958年(昭和33年)に盛岡RCの一部会員が脱退(分裂?)するなどの形で盛岡北RCが結成された。

その後も、数十年間は、盛岡RCや盛岡北RCから分かれる形で新たなRCが幾つか結成され、現在、市内(盛岡広域圏内)で計8個のRCが存在している。

なお、喧嘩別れ等の話は特には聞いておらず、親睦団体という性質上、1個の大規模団体よりは、親しい仲間が個別に結成する複数のRCが地域内に並立する方が望ましいとの考え方がとられたものと思われる(ちなみに、東京に3つの弁護士会が存在するのは会長選挙を巡って昔々に喧嘩別れしたからと言われている)。

盛岡北RCは最盛期(平成元年頃?)には80名以上?の会員がいたものの、現在(5年ほど前頃から)は36名前後(40名弱)の会員数に止まっている。

これは全国的な傾向であり、30年前は、バブル経済などの影響で地域の有力・著名企業の経営者や役員などがこぞって加入したものの、バブル崩壊後にそれらが撤退したため、本気でRCが好きな人達(とバブル崩壊後も会費支払が可能だった人達)が残ったという面は強い。

ともあれ、盛岡北RCでは、より多くの会員の加入を望んでいる状態である。なお、現在の会員は各種の事業を営む会社の経営者や幹部社員、専門職(医師など)が多い状態である。

 2 盛岡北RCの「奉仕活動」について

盛岡北RCでは平成18年頃から令和元年頃まで、盛岡市のこども科学館の近くにあった原野(市有地)を借りて「どんぐりの森」と称する植樹・整備事業を行った。

これは、「盛岡は市内に緑が少なく、子供達が地域で自然に触れあう機会が乏しいので、そのきっかけ作りにしたい」などという理念のもと行われた事業であった。

「どんぐりの森」は令和元年頃に終了し市に返還され、一部が現在も活用されている。

第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
 1 インターアクトクラブとは何か、インターアクトとローターアクト

RCでは、「ロータリーの理念(社会奉仕など)を若い世代に伝え、理解を得ると共に将来のRC或いは社会全般の担い手として育成する」ことを目的に、各地RCに、若年者を構成員とする関連団体を設置することを推奨している。

インターアクトクラブは、そのうち12~18歳まで(中高生)を対象とするもので、他に18~30歳までを対象とする「ローターアクトクラブ(の制度)」も存在する。

ローターアクトは、将来のRC会員候補になりうる社会人との親睦を深めることが目的とされやすいが、インターアクトクラブは「奉仕活動を目的とする活動を行っている生徒(学校のクラブ等)の支援」を目的に結成されることが多いようである。

 2 岩手女子高インターアクトクラブについて(掲載は割愛)

 3 日本各地(及び、岩手・宮城地区)のインターアクトクラブの活動など

回覧資料のとおり、①子供やお年寄り、留学生などとの交流・支援事業(RC側も設営等で協力)、②各種の募金活動(同?)、③その他、地域内の様々な慈善活動(同?)、などが行われている(ようである)。

 4 ライラ(RYLA)について

ライラは、RCの各地区(盛岡の場合、岩手・宮城のRC全部で構成される地区)ごとに年1回の頻度で行う「インターアクトクラブ及びローターアクトクラブのための1泊2日の研修大会」であり、岩手又は宮城県内の研修施設を借りて行っている。講演を聴いてグループ討論などをすることなどを内容とし、交流行事(身体を動かすもの。スポーツ的な?)も行われるようである。

岩手・宮城のRC内に、「IA・RAに特に力を入れているクラブ」が幾つかあり、そうしたクラブが中心となって運営がなされている(ようである)。

第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

既述のとおり、インターアクトクラブには、ロータリークラブという資源を生かした様々な活動を行う可能性がありうるところではあるが、現時点でそれがなされていると言えるとは必ずしも言い難い。

学業優先など、時間の確保に困難が伴うことはやむを得ないところではあるが、ぜひ、この機会・資源を生かして「関わってよかった、自分ひいては社会のためになることができた」と思える何かに繋げていただければ幸いである。(以上)

 

「街もりおか」から田中舘秀三教授の顕彰と映画化を目指して

先般、盛岡市のタウン誌「街もりおか」(2022年9月号)に、下記の文章を掲載いただきました。

数年前にも寄稿したことがありますが、一度、田中舘秀三教授の物語で投稿できればと思って運営の方に相談したところ、快諾をいただいた次第です。

このテーマで文章を書くのも最後の機会になるかもしれず、関心のある方はご覧いただければ幸いです。

【忘れられた盛岡出身の偉人・田中舘秀三の顕彰と映画化を目指して】

皆さんは、明治初めに二戸で生まれ、旧制盛岡中学を経て東京帝大に進み、大戦前後に地理学などの分野で活躍した田中舘秀三・東北帝大教授のことは知っていますか。

ミマツダイヤグラムで世界に名を轟かせた三松正夫氏に火山観測の方法などを指南し、昭和新山の名付け親になった学者さんと言えば、ご存知の方もおられるかもしれません。

しかし、秀三氏が歴史に果たした役割はそれだけに止まらず、太平洋戦争の開戦直後、旧日本軍の侵攻により陥落したシンガポールに突如、単身で現れ、大英帝国が長期に亘り築いた貴重な学術資産や当時の先端的産業研究施設としての植物園(同国唯一の世界遺産である、現在のシンガポール植物園)などを戦争の混乱に伴う散逸や消失の危機から守り抜いた功績があることは、一部の歴史愛好家を除いて、ほとんど知られていません。

この物語は、同国到着直後の秀三氏が、欠かすべからざる相棒として軍に直談判し釈放させ、秀三氏と共に奔走した英国人研究者(コーナー博士)が執筆した、「思い出の昭南博物館」(中公新書)にも詳しく描かれています。

私は平成29年に3日だけ同国に旅行したことがありますが、その少し前に偶然その話を知り、この功績は多くの人々に知られるべきと感じるようになりました。そして、何を血迷ったか?帰国便の中で、突如、「顕彰のための物語を作って映画化を目指したい」と思い立ち、長文のあらすじ案を作成して、当事務所のブログで連載しました。

もちろん、中公新書の内容をなぞっても仕方ありませんので、公知の史実と反しない限度?で壮大感動巨編に仕上げるべく、様々な工夫をしています。

例えば、シンガポール華人大虐殺を行った張本人であり、旧軍の「悪の?カリスマ」としても名高い辻政信参謀との対決や、若きリー・クアンユー(建国の父)との邂逅など、幾つかの見せ場を考えました。また、他作品の真似と言われそうですが、導入部では現代パートを設けて、主人公が秀三氏の物語を偶然知り・・・という展開にしています。

今も、あらすじ案は事務所ブログに載せていますので、興味のある方は、「田中舘秀三物語」などと検索してみて下さい。また、ご希望の方は当事務所Webサイトからメールを送信いただければ、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

といっても、「田舎の町弁として地域社会と人々に全力で尽くす」との旗印?のもと、多数の赤字仕事に追われ事務所の運転資金を稼ぐのに汲々とした日々を送る私には、小説を執筆する能力も余力もありませんので、作成したものは「映画化を目指すあらすじ案」に過ぎませんし、残念ながら、5年を経た現在もWebの片隅に埋もれるだけの有様です。

可能でしたら、読者諸氏や本誌の発行などに携わっておられる本職の方々に本格小説を執筆いただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
                    
弁護士・北奥法律事務所代表 小保内義和

【備考】

掲載された文章には、秀三教授のお名前に「しゅうぞう」というフリガナが振られていますが、一般的な読み方は「ひでぞう」と思われますので、ご留意下さい。

 

帰ってきた?田中舘秀三物語と「街もりおか」

昔から私の投稿をご覧いただいている方なら、私が5年前に、

世界遺産・シンガポール植物園と同国の多数の学術資産を大戦の混乱から救った、田中舘秀三・東北帝大教授(二戸・盛岡出身)の物語(映画化を目指すあらすじ案)

を掲載したことを覚えておられるかもしれません。

この件では、盛岡北RCや二戸RCの卓話でお話しさせていただいたこともありますが、その後はWebの片隅に消えるだけの残念な状態が続いています。

数年前、某映画の制作時にプロデューサーの方が盛岡北RCで寄付募集をしていたので、せめてもの悪あがきということで、ささやかな(私には小さくない)額の寄付を行い、その代わり、「あらすじ案」を監督にお渡し下さいね、とお願いしたものの、当然ながら?何のレスポンスもなかった・・ということもあり(渡して下さったことは間違いないそうですが)、懐かしい思い出です。

私も、半ば忘却の彼方だったのですが、少し前、盛岡のご出身で長年、他県の大学で教鞭を執られていたという元大学教授(ご専門は東南アジア文化研究とのこと)の方から、

この話をこのまま埋もれさせるのは勿体ない、また運動してはどうか

との激励のメールを頂戴しました。

私も、このまま終わるのは残念という気持ちもあり、先日、タウン誌「街もりおか」の運営に関与されている方が執筆者募集をしているのを見かけたため、投稿させて欲しいと申し出たところ、了解を受け、先ほど、原稿を提出しました。

恐らく、7月か8月の「街もりおか」に、掲載されるのではと思います。

当時、作成した「あらすじ案」は、PDFで保存していますので、ご希望の方は、Eメール(当サイトの「お問い合わせ」コーナーからも送信可能)でお申し出があれば、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

これが最後の悪あがきになるかもしれませんが、可能でしたら、メディア?等の業界関係者と面識のある方は、「こんなネタもある」と伝えていただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

 

薄く延ばした卵とじの「ひっつみ」が世に出る日を求めて

半年ほど前にFB投稿した記事の掲載も、ようやく最後です。この日(半年前のある日)は、昼に裁判所に所用があり、近くの北ホテルのレストラン窯で「ひっつみ定食」を美味しくいただきました。

ただ、大事なことなので何度でも言いますが、私の実家では「卵とじ」のひっつみを長年、愛食してきましたので、市内等のどこにも卵とじのひっつみを提供して下さるお店がない光景は、とても残念に思っています。

盛岡の方々は卵とじに馴染みがないのかもしれませんが(津軽の貝焼き味噌のように、卵とじは青森の文化かもしれません)、ひっつみは卵とじをした方が何倍も美味しいので、市内の飲食店関係者の皆さんにおかれては、プラス100円等で「卵とじサービス」を前向きにご検討いただければ幸いです。

あと、欲を言えば、キノコも椎茸ではなくナラタケ(二戸等ではカックイ。盛岡ではボリと呼ぶそうですが、カックイの方が音がいいと思います)にしていただければ、なお有り難いです(ナラタケ+鶏肉の組み合わせは、ひっつみ・蕎麦・雑煮など、どれにも抜群に相性が良いです)。

関連して、昔々に書いたこちらの記事もご覧いただければ幸いです。
「ひっつみ」に関する照会とお願い | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

***

以上のFB投稿に、地元の先輩でもある二戸の著名人Kさんから「うちも昔は卵とじのひっつみだった(が、今は、見かけなくなった)」とのコメントをいただきました。

苦節四十数年、私の実家以外で、卵とじのひっつみを食べたことがあるという方に初めてお目にかかり、感動するばかりでした(笑)。やはり、二戸には、そのような食文化があるのかもしれません。

ともあれ、ぜひKさんの影響力で二戸や盛岡などの飲食店の方々に勧めていただければとお願いしました。

また、ひっつみは巨大な鍋に、ひっつみを可能な限り薄くのばし、グツグツした状態でひっつみを投入

→その後、グツグツ鍋に卵とじを投入

→共に極薄のひっつみと卵とじのハーモニーを、鶏肉等のダシの利いたツユで味わい至福のひととき、

というのが王道と認識しています。

というわけで、ウイルス禍明けにでも、Kさん?の仕切りで、パークホテルか馬淵川公園?等で

「南東北の芋煮に負けるな!北東北にはこれがある!」

とでも題して、自分たちで大鍋にひっつみ(と溶き卵)を入れて食べる一大パーティを開催いただき、それを皮切り?に、二戸の古くて新しい名物として売り出していただけないかと、願わずにはいられません。

今年の石割桜の裏側と、春を惜しむ白鳥

今年の盛岡も4月中旬に次々と桜が開花し、現在はすでに葉桜が舞い散る状態となっています。

当事務所の近所には桜城小学校では様々な種類の桜が植栽され、この時期に華やかな姿を見せてくれます。

桜城小の名称は、敷地となった南部藩の乗馬訓練場が桜の名所だったことに由来するそうですが、「人は城、人は石垣」の格言のように、桜を愛でる人々の心を束ねて社会を守る礎とせんと宣言しているかのような、美しい響きを感じます。

ここから巣立ち、受験戦争など様々な困難に立ち向かうであろう若者たちも、戦場でも花を愛でる心を失うことなく、努力を重ねてよりよい社会を築いていただければと願っています。

数日前には仕事のついでに石割桜も見てきました。

例年、この時期は遠方から来盛した相手方代理人に「今日、期日で良かったですね」と心温まるトークをお贈りしています。

が、今年は裁判所が厳戒態勢を敷いたガチガチの債権者集会しか期日がなく、破産会社に敵意や不信を抱いている方々に向かって、申立代理人が「いやぁ~良かったですね」などとニコニコできるはずもありません。

というわけで、マトリックス風の黒衣を纏った強面の某氏が繰り出す質問に粛々と回答するのが精一杯、というのが「今年の石割桜の裏側で繰り広げられた一幕」となりました。

まあ、東京の企業法務専門の強面弁護士さんに「お前は何を言っているんだ」と言わんばかりに黙殺されたこともありますので、それよりはマシかもですが・・

週末(つい先日)は、土曜が弁護士会の相談担当で、昼に岩手公園に行ってきました。盛岡城の石垣の上はもう葉桜ですが、麓の枝垂れ桜は十分見応えがありました。

日曜は、高松の池に赴いたところ、驚いたことに、まだ白鳥が悠悠と池にたたずんでいました。

というわけで、久しぶりの一首。

この花を見ずに卒業できぬぞと
春の別れを惜しむ白鳥(しらとり)

余勢を駆って、もう一句。

花吹雪 勘違いして発ちそびれ

写真をご覧になりたい方は、facebookでどうぞ。

玉山区渋民に作る道の駅を「もりおか」と命名してよいのか

先日、国道4号線渋民バイパスに2年後に開業する道の駅の名称が「道の駅もりおか(仮称)」となっているとの報道を拝見しました。
https://www.navitabi.jp/article/4086
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/tamayama_office/oshirase/1018577/1028793/index.html

しかし、建設予定地は旧渋民村であって本来の意味(地名)の盛岡(不来方)とは遠く離れています。本来の盛岡とは、盛岡バイパスと北上川に囲まれた、盛岡城を中心とする地域を指すと理解しており、この地に建設する道の駅に相応しい名称ではありません

これまで盛岡市に道の駅が存在せず記念すべき第一号だから、というのが命名の理由なのでしょうが、これでは、千葉県所在の東京ディズニーランドや東京ドイツ村の劣化コピーと言うほかありません。

民営企業ならまだしも行政主導でそうした名称が選択されたのでは、多くの旧玉山村民の郷土愛を傷つけるのではと危惧します。

とりわけ、この道の駅は旧玉山村では主要な公共施設の一つになるでしょうから、その名称が地域固有の地名ではなく合併相手である都市名が付されること自体、植民地化を見せつけられているような印象を受けます。

旧玉山村は、合併直後から岩手町との境に遙か遠く離れた盛岡城を象る境界標識が設けられ、それまで玉山牛と呼ばれていた特産牛が「もりおか短角牛」と呼ばれるようになるなど、合併以来、地域のアイデンティティの育成よりも喪失を来すような同化政策が進んでいるように感じます

日本弁護士連合会・公害対策環境保全委員会では、数年前から「広域合併により過疎地域の衰退が激化した」と警鐘を鳴らしていますが、両市村の合併も、その一例と見るべき余地があるのかもしれません。

近年の盛岡市の観光政策は、県民統合の象徴とも言える城址公園を筆頭に、様々な事柄に「もりおか」と名付けることを「ブランド化」として推進しているようにも感じますが、生物多様性ならぬ「個別地域ごとの様々な物語」を大切にして世間に問う方が、結果的に「大・盛岡市」の発展に繋がるのではと残念に思います。

仮称はさておき新施設の正式名称は「道の駅しぶたみ」又は、岩手町に倣い「啄木望郷の丘」などと名付けた方がよいのではと思いますし、地元の方々にこそ、そのような声を挙げていただければと願うところです。

広域合併論議が盛んなりし頃、当時の滝沢村や矢巾町も選択の岐路に立っていたと思いますが、こうした光景を目にする都度「やっぱり合併しなくて良かった、自分達の名前を失わずに済んだ」と感じているのかもしれません。

***

仮に、関東や西日本など遙か遠くの方々に新施設の認知度を獲得することを新たな道の駅の目的とするなら、盛岡の名称を何らかの形で用いるべきとの意見は、相応に正しいことになるのだろうと思います。

その考え方からは、折衷案で「道の駅もりおか渋民」などという落としどころになりそうな気もします。

正式名称は、いっそ

道の駅もりおか渋民
啄木の今もなつかし故郷の丘

などと、日本一長い?名称を付していただいても良いかもしれません。

****

ともあれ、合併前の玉山村民・旧盛岡市民に限らず、県民など新施設の所在地の基本的な地名を理解している人からすれば、なんでココが盛岡、という違和感はあるところで、どちらを重視するかは価値観の違いが出そうな気がします(さすがに「道の駅もりおか」があるので、そこが中心部だと勘違いして来ました、という人はいないかもしれませんが)。

少なくとも、あの場所を「もりおか」とするのは、道の駅区界高原や「やまびこ館」を、合併を理由に「道の駅宮古第二・第三に改称しました」と言うようなもので、それって誰のためにもならんのじゃないか、と感じます。

また「道の駅もりおか」を作りたいなら盛岡バイパス付近にこそ作って欲しいですし、盛岡市民にとっては、その場所のためにこそ「大切にとっておくべき名称」だと思います。

ご承知のとおり、盛岡バイパス南側(455線以東南)や岩山周辺は、他エリアと比較しても極端に飲食施設などが少なく「まち」としても残念な(再開発があって良い)エリアだと思いますので、可能なら岩山直下の山林エリア(附属中と新庄浄水場の間)または旧市営球場などを候補地として開発するというのも、考えてよいのではと思います。

前者なら、すぐそばにある休眠中の旧橋本美術館の再始動などに繋がりそうな気もしますし。

 

中央通三丁目の黄金樹(ゴールデンバウム)は倒れた

啄木新婚の家やバス停に立ち寄ったことのある方なら、その北側(岩手山側)に、スギの一種とみられる一本の巨木が屹立する光景をご覧になったことがあるかもしれません。

この巨木は、啄木新婚の家と岩手山の間で両者の光景を引き締める役割を担っており、私は、当事務所を開設した直後から、この威風堂々たる巨木が好きで、「中央通三丁目のマザーツリー」と呼んできました。

この巨木が生えている場所は、中央通三丁目から長田町界隈の中では、最も古い歴史のある(らしい)邸宅であり、啄木新婚の家の往時の貸主だった(現在は同所は盛岡市が所有しているはずです)ほか、昔々は、この界隈の大半の土地を所有する大地主であり名家だったとも聞いています。

しかし、数年前、この邸宅の最後のご当主が亡くなり、相続人もなく家が絶えてしまい、様々な経過を経て、先般、ついに邸宅は人手(不動産業者)に渡りました。

そして、この巨木も、昨年末に邸宅と共に歴史の彼方に消えてしまいました。

どうして、そのようなこと(この木の持ち主のこと)を私が知っているかと言えば、その話に本業で少しだけ関わったことによるものです。

ですので、あまりペラペラと書いてよい話でもないのですが、この巨木へのレクイエムとして、ご容赦いただければと思います。

長寿の末に老衰で亡くなられた最後のご当主は、某英伝の(実質)最後の皇帝と異なり、放蕩には全くご縁のない生き方を何十年も続けていましたが、様々な残念な事情が重なり、後継者を得ることなく旅立たれたそうです。

私は、何年も前、ご当主が亡くなられた直後に、ご当主と一定の関わりがあり、この邸宅を何とか残したいという気持ちを持った方(現在は遠方にお住まいの方)から相談を受け、少しだけその件に関わりました。

その方は、何年ないし何十年も前に、ご当主などと相応の協議をなさっていれば、或いは、邸宅などの管理を引き継ぐこともあり得たのではと思われましたが(相応の事情のある方でした)、現行法の壁が大きく、その方のご希望に沿うことはできませんでした(或いは、旧民法なら、私の主張が認められる余地がありえたかもしれません)。

私自身、当事務所を開設した(盛岡に戻ってきた)ばかりの頃=15年ほど前、最後のご当主に一度だけお目にかかったことがあり(一時的な駐車場として短期間借りた区画が、ご当主が所有する土地だったようで、玄関で挨拶させていただきました)、そうしたことも含め、この界隈を代表する一族が、後継者を得られずこの地から絶えてしまったことに、寂しさを禁じ得ない面があります。

そうしたこともあり、この巨木の最期を垣間見た際、銀英伝を訳も無く思い出し、「あぁ、この地の黄金樹(ゴールデンバウム)がついに倒れた」と思わざるを得ませんでした。

もしかすると、この巨木は、この一族と共に当地の守り神のような役割を果たしていたのかもしれません。

別に、呪詛を唱えたいわけではありませんが、半月ほど前に撮影した在りし日の巨木の最期の姿を眺めつつ、せめて、このマザーツリーが成仏してくれることを願わずにはいられません。

今冬、盛岡は数年以上ぶりに、度重なる大寒波の猛吹雪を浴びています。降雪は、この巨木の死後間もない頃から始まりました。

或いは、この雪は、この巨木と一族の涙が、形を変えた姿なのかもしれません。