北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

盛岡広域圏など

仙台で活躍する盛岡の方々と遠い外界を回遊したシャケ弁の私

さくら野百貨店(仙台店)の破産申立が波紋を拡げていますが、私も毎年1月の東北弁連某委員会の会合の後のバーゲン巡り(Uアローズ)とかブックオフで某海賊マンガを立ち読みするとか年甲斐もない話ばかりでお世話になったこともあり、今回の件は残念です。
http://www.yomiuri.co.jp/economy/20170227-OYT1T50144.html

私は規模の大きい企業の破産申立を手がけたことがありませんが、9年前に水沢で様々な事業を手がける大きな企業さんの管財人になったことがあり、膨大な初動対応に追われたことなどを思い出しますし、記事にある「地権者の差押が申立のきっかけ」という点も、以前に破産申立をした企業さんで似たような経験をしたことがあり、色々と考えさせられます。

報道を見ると仙台では倒産分野で高名な先生の事務所で申立を手がけているようですが、ボスの先生などは盛岡のご出身とのことです。私はご挨拶する機会に恵まれてませんが、盛岡の他の先生のFB投稿でお見かけしたことがあります。

私は高校から県外に出て実務修習を除けば15歳から30歳まで外の世界を回遊していたせいか、弁護士に限らず東北の諸産業の実情には疎いのですが、東京が全国から人材を吸収するように、仙台市長さんをはじめ盛岡出身の方が仙台で活躍されている光景を目にすることが多くあります。

盛岡でも東京の司法試験業界では滅多に聞かない東北大のご出身の方が多く、仙台を経由して岩手で開業される方も何人かおられますし、近年では東北大の法科大学院の出身の方が非常に多くなっているように感じます。

そうした光景を見ていると、稚魚段階で外に出て遠方を回遊し戻ってきたサケのような前半生を辿った自分に異端めいたものを感じずにはいられませんが、異端なりに隙間産業であれ落ち穂拾いであれ、火炙りに陥ることなく、しぶとく生き続けたいものです。

今、岩手県のサケ産業のあり方などが争点となっている裁判を受任し様々な作業に追われているのですが、私自身がサケのような弁護士であるがゆえに、ご依頼をいただくことができたのかもしれません。

余談ながら、以前に、岩手県庁がもてはやす某兄弟を真似して岩手弁護士会は「べんごきょうだい」なる「ゆるキャラ」を売り出してはどうかとの投稿をしたことがあり、私には「ウニ弁」などは務まらないものの、上記の理由からシャケ弁なら向いているかもしれません。

博士が守った世界遺産は黄昏と共に~シンガポール編⑤

シンガポール紀行&感想編の締めとして、最終日(3日目)について少し書きます。

この日は、午前中に「アジア最大級のリゾート地(シンガポールの観光立国の象徴)」と言われるシンガポール南部のセントーサ島に行ったものの、諸事情により、水族館「シーアクアリウム」と展望台「セントーサ・マーライオン」を見ただけで本島に戻りました。

セントーサ島はユニバーサルスタジオやウォーターパークをはじめ島全体がリゾート地として開発され、ビーチもあるそうですが、各種娯楽施設を備えた人口リゾート地としてはアジア最大級なのだろうと感じました。

といっても、そうしたものに関心の薄い私は、引率(ケーブルカーを利用したかった等の理由から往路のみH.I.Sのツアーを利用)のガイドさんに「日本軍が戦時中に多くの華人を虐殺した際、この島に多数の遺体を遺棄したという話を聞いたのですが、島内に慰霊碑などはありませんか」と尋ねたところ、慰霊碑などは無いが、シロソ砦に戦争に関する展示があるとの説明を受けました。

帰国後に少し調べてみたところ、以下のようなサイトを拝見し、次に来星の機会があれば、ぜひ訪れたいところだと思いました。
https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/lits-cafe/sato/singapore.html

今回の主要目的地であるシーアクアリウムは、「世界最大級の海洋水族館」とのことでしたが(こちらは海専門で、「川専門」のリバーサファリとの違いを出しているようです)、駆け足で通過せざるを得なかったことやいわゆるショーの類がないせいもあってか(イルカなどは尊厳保護の点からショー禁止が世界的潮流となっていることの影響でしょうか)、鳥羽や名古屋港など日本の著名水族館の方が大きいのでは?との印象はありました。
http://singapore.navi.com/miru/154/

それでも「世界最大の水槽」とされるメインのパノラマ水槽は圧倒的な迫力があるなど、十分に楽しめました。

IMG_0334   IMG_0325

今回は駆け足にならざるを得なかったので、半ば勘違いで行けずに終わった「中世アジアの外洋船の博物館エリア」も含めて、もう一度、見に来たいものです(但し、ポケモンと称する他国の著作物ではなく自国オリジナルキャラで勝負すべきでしょう)。

IMG_0338   IMG_0339

セントーサ・マーライオンからは、現代的な都市と自然が共存するシンガポールの美しい光景を堪能できたように思います。なお、エレベーターの手前には、どういう理由か他の海獣に関する人形とかポスター類などが展示されていましたが、シンガポール・ゴジラ(略して「シン・ゴジラ」)といった感じのものもありました。

IMG_0349   IMG_0353

その後、H.I.Sから頂戴した「チキンライスの名店のタダ券」を何が何でも消化しなければとの思いで、オーチャード通りにある著名店で昼食をとりましたが、店内は同じ魂胆で来店した?日本人だらけだったこと、日本語メニューが最初からテーブルに置いてあり、メニューも定食(セットもの)ばかりで、日本国内のレストランに入ったような感じでしたので、雰囲気という点では、さほど有り難みがありませんでした(もちろん美味しくいただきましたが)。

なお、お店が入っている建物の下層階はアーケードになっていて、日本の著名ラーメン店やトンカツ屋さんなどもありました。

IMG_0366    IMG_0368

そして、ホテルに一旦戻った後、チェックアウトし、ようやく私にとっての第一目的地であるシンガポール植物園に行きました。なお、前日のトラブルの関係で、ホテルの方には果物の差し入れまで頂戴してしまいましたが、追加料金の請求もされず、重ねて恐縮の限りです。

シンガポール編の初回の投稿でも述べたとおり、同郷の偉人・田中舘秀三博士が数奇な縁?により日本軍の侵略による戦災から守った世界遺産・シンガポール植物園を訪れて、博士の何らかの足跡を感じたいということが、個人的な旅の目的になっていました。

事前にネットで少し調べた限りでは、残念ながら植物園内に博士を顕彰した施設等はなく、シンガポール博物館に当時の写真が残されている程度だということは知っており、時間等の都合で今回は博物館への訪問は困難と思っていたので、せめて、園内の雰囲気だけでも味わいたいということで、地下鉄(MRT)で最近できた植物園に隣接する駅に向かいました。

駅の場所が、本来の正面玄関の反対側(裏門)ということで、メインエリアまでそこそこ歩かざるを得ず、疲労状態の同行家族の文句に耐えつつ、中心施設たる国立ラン園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)と、シンボル的存在である「バンドスタンド」(かつて演奏が行われた綺麗な東屋。英国庭園的な上品さに包まれており、非常に雰囲気が良いです)を見ることができました(残念ながら携帯写真は容量オーバーで掲載困難のため、こちらのサイトなどをどうぞ)。
http://tropicalplant.air-nifty.com/top/2006/11/post_1.html
http://singapore.navi.com/special/5029491

ナショナル・オーキッド・ガーデンは、花のメインの季節ではなかったのか、夕方に行ったのが悪かったのか、ネット上の写真で見るほどの華々しさは感じませんでしたが、それでも、ここで数十年ないしそれ以上前に開発された花々が今や日本をはじめ世界中で咲き誇るようになったのだと思うと、感慨深いものがありました。

また、花々もさることながら、熱帯の個性的な多数の木々や巨木などが印象に残り、静閑な雰囲気もあって、しばらくここでのんびりすることができればとの思いにかられました。ちょうど、新婚さんがバンドスタンドや園内の人口滝などで写真撮影をしている光景や小動物にも出くわし、そうしたことも好ましく感じました(明るく写った携帯写真はすべて容量オーバーで掲載できず、デジカメ紛失が悔やまれます)。

IMG_0388

しかし、残念ながら、そこでタイムアウト。実質2日半だけの弾丸旅行は終了し、夜行便で羽田に強制送還されました。

とはいえ、植物園が第一の目的地であり、予定では最初に駆け足で来るはずだったのが、最後に、多少は時間をとって訪れることができたので、黄昏のバンドスタンドを眺めながら、旅のラストにはちょうど良かったと思わないでもありませんでした。

予告どおり、次回から田中舘秀三博士の物語について、映画化を目指した「あらすじ原案」のご紹介を中心に、以下の構成で計11回の連載を行います。

関心をお持ちいただける方は、ぜひ最後までご覧いただくと共に、映画化企画にご賛同いただける方は、それぞれの方法(ご自身で映画制作や原作小説の執筆など)に従事いただければ一番ですが、それは無理という方は、その種の業界に従事する方への「いいネタがあるぞ」というご紹介など。二戸や盛岡などの関係者は自治体などへの働きかけも含め)で、何らかのアクションを起こしていただければ幸いです。

【壮大感動巨編「シンガポールの魂を救った日本人~田中舘秀三物語~」】

第1回 企画案とあらすじ導入部
第2回 あらすじ案①現代編1~ふてくされた気持ちの中で
第3回 あらすじ案②大戦編1~舞い降りた男と英国人学者
第4回 あらすじ案③大戦編2~奇跡の楽園と殺意
第5回 あらすじ案④大戦編3~引継ぎの時
第6回 あらすじ案⑤大戦編4~学ぶ者たちの平等と誇り
第7回 あらすじ案⑥現代編2~そして花々は今も咲き続ける
第8回 あとがき
第9回 元ネタ(文献)のご紹介
第10回 映画化構想と賛同者の募集について
第11回 おまけ・田中舘父子と小保内家を巡る小話

ところで、2日目に宿泊先ホテル近くのアーケードを歩いていた際、シンガポールには珍しいスキー関係のお店を発見しました。この日のガイドさんは昨年?に札幌に観光に行ったと仰ってましたが、私の知る限り、岩手県(役所)や県民が、シンガポールと特別な結びつきを築いているとか、交流しているなどという話は聞いたことがありません。

IMG_0312

しかし、せっかく田中舘博士という偉大な触媒があるのですから、盛岡であれ二戸であれ、そのことを武器にしてスキー客誘致や各種交流・販路拡大に取り組むべきで、そうした方が現れないのであれば、とても残念なことだと思います。

岩手県(や盛岡など)は後藤新平などのご縁を通じて台湾との交流(集客)には熱心ですが、ひとつ覚えのように台湾の尻ばかり追いかける発想では、後藤新平も含め偉大な先人達に笑われるばかりでしょう。

あと、もう一つ余談ですが、シンガポールの地下鉄は、駅に着いて扉が開く際に女性の声で「ハピ、ハピ」というアナウンスが聞こえるため、これって「Happy Happy」と言っているのか、だとして、なんでそんなことを言っているのか、不思議に思っていたのですが、同じことを感じた方は多かったようで、「シンガポール ハピハピ」で検索すると、その答えが出てきます(ネタばらしをしても面白くないでしょうから引用はしません)。

最後に地下鉄からの一コマですが、優先席が日本と異なり各シートの脇=出入口に設けられており、こちらの方が良いのではと思いました。

IMG_0373

学童保育を巡る時代の交錯と「スタンダード」のいま~名古屋編①~

諸事情により盛岡市内の某学童保育所の役員を拝命しているのですが、責任者の方からの御下命で、10月29・30日に名古屋市で開催された「全国学童保育研究会」に参加してきました。2ヶ月弱も前の話で恐縮ですが、その件について少し書きたいと思います。
http://gakudou.me/zenkokuken/

といっても、私自身が何か作業や発表などをすることはなく、会場の様子を拝見しているだけ(で構わないので行ってきて欲しいと言われた)というお気楽なもので、毎度ながら書類仕事が溜まってるんですけどと思いつつ諸事情からお断りすることもできず、名古屋まで出張してきた次第です。

そもそも、「全国学童保育研究会」とは、全国学童保育連絡協議会という団体(以下「保連協」といいます)が年に1回、全国各地で開催している大会で、保連協とは、Webサイト情報によれば1967年(学童という存在の草創期でしょう)に保護者や指導員ら(全国各地の「父母会」形式の小規模な学童群らと捉えるべきでしょう)により結成された団体とのことです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/Gakudou/

強制加入団体ではないため(後述のとおり、企業が経営する学童はほとんど加入していない?ように見えます)同一視はできないものの、弁護士業界における日弁連のような存在(全国研は日弁連の人権擁護大会に相当)と考えてよいと思います。

弁護士業界は当方のような1人事務所=零細企業が今も多いのですが、保連協に参加している学童は「父母会」という任意団体(法人格を有しない、権利能力なき社団)で運営されているものが中心なのだそうで(盛岡市内の学童の大半も同様だそうです)、その点でも弁護士業界に似た面があるかもしれません。

***********

当日は、29日の1時半から名古屋城二の丸の愛知県体育館で全体会があり、子供達の出し物(演舞)、来賓のスピーチ、保連協の会長さんの基調報告、学者さんの講演がありました。主催者発表では5000人が会場にいると仰っていましたが、私の感覚でも、2000~2500人程度はいそうな感じは受けました。

ただ、配布された資料では、岩手からは47人も来ているとのことでしたが、宮城14、青森2、秋田ゼロ?(記載なし)などと、どうしたんだ東北という感じの数字もありました。青森や秋田には、連絡協議会(支部組織)自体がないようですので、そのことも影響しているのかもしれませんが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Gakudou/

30日は金城学院大学で分科会があり、案内によれば約30もの分科会があり、最低でも一つには出るようにとのことでしたので、当方の現状と関係しそうな「運営主体の多様化が進む学童保育~実態と改善の課題」と題する分科会に参加してきました。

一般教室1つ分の会場でしたが、収容人数を大幅に超える参加者があり満席状態で、午前は、自己紹介タイムのあと神奈川県某市で熱心に活動なさっている方から「市内の学童の運営を巡る役所らとの闘いの歴史」について熱いトークがありました。で、午後は、①役所との関係(補助金云々?)に関心がある人、②NPO化など運営形態に関心がある人、③他の学童などとの交流に関心がある人に分けて、グループ協議をせよということになりました。

私は、弁当をいただいた後は徳川園(と美術館)に向かうつもりで数ヶ月前から固く決意していたのですが、諸々の理由で泣く泣く徳川園を断念し、3時前までグループ協議に参加してきました。

グループ協議では、法人化して経営されている方々や利用者(父母)の方々からの「法人化した学童の現状報告」などが聞けるのかと思っていたのですが、そのような話はなく、集まってきたのも法人化していない(父母会形式の?)学童の方々ばかりで、父母というより指導員っぽい感じの方が多く、法人化云々というより、役所などに対するものを中心に、現在の運営状況への不満や不安などに関するお話が多かったように感じました。

また「学童のプロ」の方々の込み入った話が多く、私のような素人には即時理解が難しいものも多かったように思います。

グループ長さんが埼玉の方で、さいたま市は、数年前に市の方針で全学童をNPO法人化させる?といった話があったそうで、「法人化はこれからの社会の潮流だ」と仰っていました。

さいたま市ではNPO法人が複数の学童を運営するスタイルが多いとの話もありましたが、私が時間の都合で途中退席せざるを得なかったこともあり、その辺の詳細までは聞けませんでした。

ただ、「市役所に、学童を作りたいんだけど、運営をやってくれる人を紹介してくれませんかと頼んでくる運営意識のない無責任な父母がいて困っちゃうよね」といったお話もあり、人ごとと思えないというか、私が関与している学童も、これまで設立や運営を担ってきた方々が引退すると、盛岡市役所に同じ陳情をせざるを得ないのでは?と思わずにはいられませんでした。

そんなわけで、所期の目的である「NPO法人の設立・運営の先輩方から、運営の苦労話やキモになる留意点などを聞くこと」はほとんどできませんでしたが、それはそれとして、ほとんど存じなかった保連協のことがある程度は分かってきた面がありましたので、その点は大いに意味があったと思っています。

**********

全体を通じて感じたのは、保連協は学童保育の草創期から当時の方々が負ってきた課題と向き合う形で形成されてきた団体であり、良くも悪くも「古き良き学童」の利害を代弁している面が強いという点でした。

少し具体的に言うと「学童は少額の料金で利用できるのと引き換えに父母が信頼関係を形成して和気あいあいと運営に携わる(ので、その結果として低コスト経営にする)のが、あるべき姿である。よって、運営に携わろうとしない父母は好ましい存在ではないし、学童の文化や歴史を学ばず企業が安易に参入するのも間違っている。同様に高い料金で塾云々を提供するようなタイプの学童も自分達とは異質の存在である。そうした学童の「和気あいあい文化」を守った上で、指導員の待遇改善や施設の維持向上を(値上げの選択肢は避けたいので、役所の補助金などを通じて)図りたい」という考え方で運営されているのだろうとの印象は強く受けました。

それで、そのようなアイデンティティを守ることが「運動」の一つの目的になっていて、それが、良くも悪くも保連協の性格を決定づけているのだろうとも感じました。

なお、学童保育の世界では利用者たる監護者等を「父母」と呼び、「利用者(顧客)」と呼ぶことを避けているのですが、そのことも、単に「父母会形式=全利用者による共同経営」がこれまでの中心スタイルになってきたというだけでなく、そうした歴史・文化が影響しているのだろうと思われます。

そうであればこそ、すべての利用者=親と子が同じ思いを共有していれば、「保連協の理念」と利用者のニーズとの蜜月関係は今後も続くのでしょうが、果たしてそうなのだろうか、とも感じるところはあります。

************

かつて日本は中流社会で、その主流派は専業主婦+堅実収入のサラリーマンか三世代同居などであり、学童を必要とするのは共働きに「ならざるを得ない」低所得者層と一人親家庭などのみで、それゆえ「子供の居場所を低料金で提供する」というサービスに切実な必要があり、かつ利用者層全体がそのニーズを概ね共有していたのではないかと思います。

これに対し、現在は、お医者さん夫婦や大企業夫婦のような(公務員夫婦や学者さん夫婦なども?)、「両親併せて(一人だけでも)相応の収入があり、親自身も相応の学歴があるので子供に習い事や教育を仕込みたいが、自分達には時間がない。よって、安くない料金を支払ってでもそのサービスをしてくれるところに頼みたい」という「中・高収入の暇なし夫婦(実家の労働力も得られず)」が相応に存在していることは間違いないでしょうし、私が関与している学童の利用者にも、そうした方々が一定数おられるのではと感じています。

報道やwikiなどを見ても、大都市では、そうしたサービスが広まりつつあるそうですが、そうした方々(利用者・運営側双方)のプレゼンスは、ここ(保連協ないし全国研)には全く感じませんでした。

果たしてそれでいいのか(そうした方々も取り込んだ、総合的な「学童全体=すべての子供達の利害」に取り組む団体は存在しなくてよいのか)という余計なことを感じる面はありました。

もちろん、現在も(或いは昔以上に)、非正規雇用の拡大などの事情から、高額な利用料なんて無理ですという共働き家庭は山ほどあるわけで、詰まるところ、学童のサービスを求める利用者(家庭)側に、昔は存在しなかった利用者層の格差ないし利害対立が潜在化しているということに尽きることだと思います。

その上で、都市圏にはそれを満たす「高料金の塾・習いごと学童」が存在するのに対し地方には伝統スタイルの学童のみという構図は、あたかも私立中(とその進学のためのお受験予備校)が都市に集中している光景に似ているような感じはあります。

これからの日本は「都市と地方が、諸インフラの差などのため別の国であるかのような社会になるのでは」とも言われていますが、「学童」という切り口からもそうした光景が現出しているのかもしれません。

分科会の講師の方は「学童は補助金がないと存続困難なビジネスモデルだ。自分は民間企業のエンジニアをしているが、その目線から見てそう思う」と仰っていたのですが、施設(学童)=供給側に税金を払うのではなく、利用者側(子供)に、いわゆるバウチャーを発行する方式などについて保連協は「運動」しなくてよいのだろうかと、ある意味、不思議に思いました。

学童という存在の公的性格は現在ますます強まっていると思いますが、「学童が公的存在だ」というのは、施設自体が「公的」なのではなく、「利用者たる子供が居場所を必要としていること」が、人口減少や少子化云々と相俟って公的なニーズ(税金を使ってでも対処すべき事柄)になっているので、その受け皿たる学童に公的性格が認められていることを指すと言うべきなのだと思います。

だからこそ、あるべき「税金の届出先」は本来は供給側でなく利用者側ではないかという感じがしますし、その上で、地域内に複数の学童(的なもの)が存在し、利用者は、それぞれのニーズ等に応じて、学童を選んで、「伝統スタイルで低料金の学童」をタダ(同然)で利用するか「塾・習い事型の学童」に追加料金を払って利用するか、選択できる社会が望ましいのでは?と思います(組み合わせ型を含め)。

少なくとも、過去に主流だった「(所得の少ない)親が低料金で子を預けるのが学童だ」という文化のうちは、子供向けの様々なサービスが花開くということは難しいかもしれませんが、例えば「バウチャー」のような方法で親の負担を誰かに転嫁しつつ施設側が十分な売上を得て学童を運営できる社会になるのであれば、利用者たる家庭にとっては、伝統的な「和気あいあい学童」から新しい「バリバリ学童」まで、地方都市の住民も含めて色々と選択肢が広がるのではと感じています。

ただ、その程度のことは長年、学童に携わってきた方々ならとっくの昔にご存知のことでしょうし、その上で、敢えて「運動」の方針にバウチャーのような「利用者の補助(選択権の拡大)」という項目をお見かけしないのは、それが、この団体の方々の理念と合わないからなのだろうか、でも、それが「いいこと」なのだろうかと、感じる面はありました。

***********

ちなみに、今回の「研究集会」が報道されてないかと検索したところ、唯一、「しんぶん赤旗」の記事を見つけました。

ただ、全国研には他政党の来賓の方もいらしていましたし(蓮舫代表は秘書の方が紹介されていましたが、民進党愛知2区の古川元久議員はご本人がいらしてました。自公の方が来ていたかは分かりません)、集会では共産党に限らず特定政党云々という話は全くありませんでした。

詳しい方にお話を伺ったところ、保連協は草創期はさておき相当以前から政党色がなく、近年では自民党の政権復帰後に学童向けの予算が増えた(ので有り難い)などと仰る方も珍しくないそうです。

ですので、ネットで保連協の検索をすると見かける記事の類は「かつての光景」なのでしょうし、上記の記事も取り上げていただいたマスコミが赤旗のみだったという程度のことだと思いますが(岩手なら地元紙にも載るのでしょうけど)、それ自体はケチを付けるべきことではなく、学童保育の歴史的な経緯などの関係から、やむを得ないというか、ごく真っ当なこととして理解すべきことなのかもしれません。

ただ、さきほども書いたとおり、現在は「自分達が長年背負ってきた価値を守るための運動」だけでなく、自分達とは異質な他者のニーズをどのように取り込んでいくか(それにより自分達をどのように変容させ、次代にも必要な存在として生き残っていくか)という適者生存的な発想が必要ではないかと感じていますので、そうした面があまり見えなかったのは、「運動ちっく」というか、少し残念に感じました。

とまあ、余計なことばかり山のように書きましたが、他の方がご覧になれば全く違う印象、感想をお持ちになることもあるでしょうし、こうした光景を一生に一度拝見するだけでも大いに意義はあろうと思います(私は1回でおなか一杯ですので、今年で卒業とさせていただくつもりです。たぶん・・)

ともあれ、こうした貴重な機会を与えていただいた関係者の皆様に御礼申し上げます。

「魔女のパン屋さん」の盛岡降臨と麺サミットに忘れ去られた南部はっと鍋、そして北東北の粉もん文化

大食い番組ファンやTVチャンピオンのファンの方なら、「魔女」の称号で親しまれた盛岡の主婦・菅原初代さんはご存知だと思いますが、先日の岩手日報で、岩手大学の近くに菅原さんが12月にパン屋さんを開店するとの記事が出ていました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20161118_1

記事の「試作」の文字を見て「試食」の読み違えではと思った人は私だけではないでしょうが、それはさておき、原敬や新渡戸稲造は知らないが菅原さんは知っているという日本国民は多数おられるでしょうから、ご本人もさることながら、盛岡の新名所として多くの方々に盛り上げていただければと思います。

ところで、パンと並ぶ粉食文化と言えば、ラーメン、蕎麦、饂飩などの麺類でしょうが、11月上旬に盛岡で「麺サミット」なるイベントが開催されていました。残念ながら家族が関心を示さず私も首が廻らなかったため食べに行けなかったのですが、「盛岡三大麺」と称される、冷麺・じゃじゃ麺・わんこそばの著名店の店主さん達が地元メディアに多く露出するなど、それなりに盛り上がっていたようです。
http://www.mensummit.jp/

ただ、そうした光景を見て何か物足りないなぁと感じながら街を自転車で横切っていたところ、ある郷土料理の飲食店で「南部はっと鍋」の看板が出ているのに気づきました。

かつて、盛岡市内では「三大麺」だけでなく、南部はっと鍋も加えて「四大麺」と称したり、最近では、これに地元産の小麦を用いた「南部生パスタ」を含めて「五大麺」だと標榜するキャンペーンがありましたが、今では双方とも忘れられつつあるのが現実ではないかと思われます。5年ほど前に、この件に関心を持って調べたことがあり、その際は、「四大麺」を喧伝するサイトは幾つかあったような記憶ですが、今は見る影もありません。
http://kanmado.com/article/14725932.html
http://tabijikan.jp/2014/05/27/2256/

ただ、地元産の食材を用いているだけで料理そのものに他地域にない独自色があるとは思えない「生パスタ」はまだしも、南部はっと鍋については、地元の山海の食材と一緒にいただくものですので、もっと地域内で盛り上げる努力があっても良いのでは?と疑問に感じないでもありません。

とりわけ、南部はっと鍋の誕生について調べてみると、1987年(昭和62年)に岩手生めん協同組合が開発・提案して市内の著名な飲食店に推奨した商品なのだそうで、そのような開発経緯は1986年(昭和61年)に盛岡で第1回麺サミットが開催されたことと、何か関係があるのでは(第1回麺サミットに触発されて地元関係者が開発したのでは?)と推測せざるを得ません。
http://i-namamen.com/profile.html
http://morioka.keizai.biz/headline/2061/

だとすれば、聞くところでは、「盛岡冷麺(特に、ぴょんぴょん舎)」が盛岡で最も著名な(今では東京進出等もなさっている)お店になった端緒が第1回麺サミットにあると言われているのに対し、同じ時期に生まれた「南部はっと鍋」は、「あれから30年」を経て、まるで好対照をなすかのように明暗を分けたわけで、ぜひ、サミットで「南部はっと鍋」の総括や再生を考えて欲しかったように思います。

とりわけ、蕎麦はともかく、盛岡冷麺やじゃじゃ麺は大戦前後の事情により盛岡に移住した朝鮮半島出身の方や大陸から引き揚げた方が創出した食べ物で、北東北の粉食文化の歴史にとっては新参者と言ってよいはずです。

そして、言うまでも無いことですが、北東北は、もともと戦前までは技術的に稲作が難しかった関係で粉食文化の盛んな土地で、いわゆる蕎麦に限らず、はっと、ひっつみ、かっけ(蕎麦・麦)など、地味ながら多様な料理が作られてきた土地であり、その根底には、縄文の粉食文化(木の実をすり潰して食べていたこと)があるのではとも考えられます(盛岡は中華麺でも都道府県所在地統計では消費量全国トップクラスとされ、その背景にも粉食文化の歴史があると見るべきなのでしょう)。

そんな訳ですので、新興勢力を敵視するわけではありませんが、従来勢力にも、伝統スタイルであれ新たな調理法の提案であれ、頑張っていただかないと(或いは、従来勢力も盛り上げるような関係者のご尽力がないと)地域の歴史、文化のあり方という観点に照らしても、寂しいものがあると言わざるを得ません。

そうしたことを通じて、麺に限らずパンを含めた様々な粉食の融合と新たな食文化の発信が、北東北の地から盛んになってくれればと思います。

米国も、なんだかんだ言われながらも二大政党による政権交代の文化が今も続いているように、盛岡の「B級グルメ文化」も、冷麺・じゃじゃ麺(商売熱心な新興勢力=民主党)だけで良しとするのでなく、従来勢力(共和党のラストベルトっぽい面々?)にも光をあてる営みを盛んにしていただけないかと、子供の頃からひっつみ(や金次屋の中華そば)を好んで食べて育った私としては願うばかりです。そんなわけで一句。

推しメンを 忘れた街で はっとする

余談ながら、冒頭の菅原さんが世間で活躍なさったり、こうしてお店を開店された背景にも、ご家族など周囲の様々な支えがあったものと思われます。

この仕事を通じて女性のパワーを感じる機会に恵まれる?身としては、「女性活躍」などと政府がキャンペーンするまでもなく、男女とも末永く様々な形で輝くことができる社会のあり方を構築する努力が、現代では特に問われているのだと感じていますが、そんなことを思いつつ、当家のサステナビリティを願って一首。

古女房 はっと気づいた有り難み そばで盛り立て かっけ~姿を

しかし、現実は、あの日が近づくたびに恐怖するのが正直なところです。

誕生日 はっとする頬 ひっつねる 

ちなみに、末尾の写真は、引用のブログでも掲載している、私の実家で作ったひっつみの画像です。

2012121513220000

盛岡バスセンターの再生(復活)案としての「条件付無料大駐車場との複合施設」と、バスセンターのそもそも論

盛岡の「昭和レトロ」の代表格の一つとされる、盛岡バスセンターが9月30日に営業終了(閉鎖)したことにより、先日から、下記の記事のほか、先日には地元関係者や有志が市役所に意見書を提出するなど、この件に関する報道が地元紙などで多々なされています。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20160930_3

私も、バスセンターの「味わい」を否定するつもりは微塵もないのですが、車両所有者のため盛岡広域圏内の移動は(自転車等を除き)ほぼ車両のみとなっている=バス利用の機会が無い上、バスセンターの所在地である肴町界隈にも、駐車料金に関する懐と心の貧困のせいか、行きたいお店は多々あるのに長い間ご無沙汰になってしまっています。

ちょうど、2年ほど前?から愛読している「地域活性化を地元の女子高生らが熱く語り合うWeb4コマ漫画」で、中心市街地の活性化に必要なのは無料の大駐車場なのではとの話が出ていましたが、バスセンターも、そうした方向での生かし方も考えてよいのではと思います。
http://minorikou.blog.jp/archives/1061180436.html

もちろん、愛着を持つ方々からは「昭和遺産」などと称される建物の外観やファンの多い1階の店舗群は極力維持した上で、1階のような保存運動とは無縁と思われる2、3階のオフィス群を改め、立体駐車場などにリノベーションしても良いのではと思います。

その上で、「本来は正規料金だが、肴町界隈(河南地区)の商店街(加盟店)で700円以上の利用で1時間、1400円以上の利用で2時間まで無料」とすれば、単身者なら外食+最低限の買い物、家族連れ等の方なら外食+ある程度の買い物を駐車料ゼロで行うことができ、郊外店と条件が同じになりますので、コンテンツ(店舗類)の魅力で勝っている点が多々あるこの界隈が、再び「盛岡で一番の商業地区」として輝きを取り戻すこともあり得るのではと思わないでもありません。

バスセンター自身も、以上を前提に(要するに2、3階のオフィスを無料駐車場を中心に切り替えて)、それを前提に昭和レトロとして人気のある1階を従前のまま生かし、バスセンター機能も取り戻して、「バス利用者に加えて、2階・3階の駐車場利用者も1階のレトロ売店の顧客として取り込む」ことができれば、再生も十分可能ではと思いましたが、どうなんでしょう。

まあ、老朽化や耐震などが問題で閉鎖することになったそうですので、2、3階の床などに立体駐車場化できるだけの重量耐性があるのかという点は大いに問題となるかもしれませんが・・

肴町界隈に必要なのは無料駐車場だという発想は、上記の漫画内での発言を引用するまでもなく多くの方が抱いている発想でしょうし、それと共に、この種の話題でよく言われるように、その実現を嫌がっているのが(郊外の競争相手ではなく)他ならぬ「駐車料という副収入」の喪失を恐れる地元の小規模地主さん達(往々にして、地域には住んでいなかったりする)だということも確かなのだろうとは思います。

ただ、そうであればこそ、敢えて、荒療治をして「虫食いの土地」を真にエリアの価値を高めるために有効活用させる方向に誘導していただく勇気と決断をこそ、考えていただければと思わないでもありません。

バスセンターを巡っては、地元民や建築関係者などから建物自体に文化的価値があるとして、保存・活用を強く求める声がありますし、この建物と共に人生を歩んでこられた地元の方々にとっては、建物が撤去されるのは、辛い出来事であろうとお察しします。

私も、平成5年前後に二戸の中心部にあった美しく個性的な建物群(文化的価値を認められていたもので、子供の頃から馴染みがあったもの)が次々に撤去されてしまった際には、喪失感を強く抱きましたし、その件では今も納得いかない思いがあります。また、平成10年~11年には盛岡地裁配属の司法修習生としてバスセンターから歩いて5分ほどの距離に住んでおり、それなりに身近な存在でもありましたので、多少の郷愁がないわけではありません。

ただ、建物を存続させたいのであれば、税金に依存するのではなく、建物(バスセンター)そのものが、補修費用を維持できるだけの収益を上げるだけの施設たりうることが本則というべきでしょうし、そうした形での具体的な提案や事案の引き取り(ご自身が事業者として経営リスクをとって事に当たること)ができなければ、建替そのものを否定するのは厳しいのではと感じています。

その上で、盛岡市が検討しているという複合施設が、せめて「丸ビル」のように従前の外観や1階の「レトロエリア」を一定程度、復元するのであれば、まだ救いがありますが、それとて、駐車場問題を解決できなければ、引用の漫画に記載されているとおり、「駐車料金が加算される分だけ割高」との烙印を押される中心街の商業施設はマクロ的には郊外施設・店舗との競争には不利でしょうから、いずれは敗者となるのでは?との疑念を抱えざるを得ないように思われます。

ところで、ここまでは、「中心市街地(肴町界隈)の活性化問題」という観点から考えたことをあれこれ書きましたが、これとは別の問題として、バスセンターそのもののあり方を考える必要はあると思います。例えば、

①バスセンター(バスのターミナルないしハブ(中継役)となる施設)が、今の盛岡に必要なのか(バスセンターという存在そのものにどれだけのニーズがあるのか。同規模の他都市などの取り組みはどうか。)、

②必要だとしても、その場所を肴町界隈とする必要があるのか(中心市街地のアクセス重視なら現在の位置で問題ないが、電車との接続を重視する利用者が多いとか、長距離利用が中心となるなら、バスタ新宿のように盛岡駅前(駅西側)に移転しても良いのでは。肴町界隈の方々は嫌がるでしょうが、利用者全体の目線で見たらどうか。)、

③規模や運営形態などのあり方はどうか(現状の方法が採算のとれる方法になっているのか等)、

といった事柄も検討すべきでしょうし、少なくとも、運営を担当されていた企業は、そうしたこと(特に③)を考慮して撤退を決めたのでしょうから、そのことは決して軽視すべきではないと思います。

バスセンターの存続(建物と機能の現状維持)を求める方々も、上記の点を検討の上、現状のまま存続できる提案ができるのか、現在の機能維持が無理であれば転用も含めて建物存続コストを維持できるだけの利活用ができるのかという観点からの提案があれば良かったのではと思いますが、私の知る限りではそうした話を伺うことはできておらず、その点は残念に思います(大清水多賀のときと同様に「事前に知らされておらず、動けるだけの時間がなかった」ということになるのかもしれませんが・・)。

最終的には、バスそのものを生活・業務等の手段として必要とする人にとってのニーズという点を基本に、現在の車社会そのものの当否ないし未来像が問われていることだと思いますし、そうしたことも視野に入れた質の高い議論がなされていくことを期待したいものです。

余談ながら、バスセンターに関する私の思い出話としては、

①修習生だった平成10年の冬に、紫波警察署に勾留中の方に接見に行くため、弁護修習先のI先生と一緒にバスセンターで待ち合わせて乗車するはずが(当時、先生も私も自動車を持っていませんでした)、寝過ごして出発時刻に間に合わず、やむなくタクシーに乗って津志田あたりでようやく追い越し、そこでバスに乗ったこと、

②平成18年頃に、バスセンターの2階か3階で事務所を開いていた某個人事務所(社会通念に照らし問題のある業務を行っていた企業)に対する債権回収のため、判明していた預金口座の差押と一緒に「ダメもと」でバスセンター社への敷金の差押もしたところ、貸主(バスセンター)への賃料もかなり滞納していると貸主から回答があったこと

の2点でしょうか。

①に関しては、やはり交通弱者(車社会に生きていない人)にとってはバスは必要不可欠な存在だということを改めて痛感させられると共に、②は施設としてのバスセンター自体が抱える問題(オフィスエリアは相応に老朽化して魅力のない存在になっており、だからこそ、問題のある借り手も生じていたこと)を示すものではないかと思います。

盛岡芸妓は桜の舞い散る頃に

4月の話で恐縮ですが、盛岡北ロータリークラブ(RC)の例会で盛岡芸妓の方々に舞踊を披露いただいたことがあります。

盛岡芸妓は、大通商店街が形成される前、盛岡の繁華街が肴町~八幡界隈と本町通界隈に二分されていた明治後期の時代には大いに栄えていたものの、料亭文化の衰退により近年は激減し存続も危ぶまれていたようですが、近年、後継者となる若い芸妓の方々が誕生し、現在は復興と継承の途上にあるようです。
http://www.ccimorioka.or.jp/geigi/

数ヶ月前にも、盛岡北RCの例会に二人の若い芸妓さんがいらしてスピーチをなさったのですが、とりわけ、「冨勇」さんは文芸関係の造詣が深く雄弁で、今後はそうした見識を生かして活動の幅を拡げていくのではないかと期待されます。

当クラブの重鎮の方々が盛岡芸妓の後援会に深く関わっておられるのだそうで、そうしたご縁で今回もいらしていただいたようですが、歴史を遡れば、当クラブが盛岡で二番目にできた=盛岡RCから最初に分かれたロータリークラブであり、本町界隈にお住まいorゆかりのある会員の方が多いことも、ベテラン芸妓さん達と馴染みがあることの背景にあるのかもしれません。

私も正確なところは分かりませんが、盛岡RCが「古き良き盛岡」の最大勢力というべき肴町・八幡界隈の豪商の方々の流れを汲み、盛岡北RCがそれと対を成した本町界隈の豪商の方々の流れを汲んでいる、といった話もあるのかもしれません。

ともあれ、私自身は「旦那衆」の方々が集うような夜のお座敷に参加できる身分ではありませんので、拝見するのは最初で最後かもしれませんが、それだけに貴重な時間を過ごすことができ、何よりでした。

屋内で拝見するのもよいですが、可能なら石割桜や小岩井一本桜のそばに特設ステージを作り、そこで花吹雪を背にして披露していただくような試み(テレビ中継付きで)もあってよいのではと思いました。

そんなわけで一句。

艶やかさ 桜舞い散る頃に咲く

IMG_0075    IMG_0079

日本初の女性弁護士の知られざる物語と朝ドラ

今月の日弁連の機関誌「自由と正義」の冒頭で、鳥取出身の「日本の女性弁護士第1号」の方(中田正子弁護士)をNHKの朝ドラ(連続テレビ小説)の主人公に抜擢して欲しいという鳥取の先生の投稿があり、サブヒロインなどの物語も交えた本格的な「あらすじ案」も載せられていて、なかなか読み応えがありました。

それによれば、その方の通学先の校長が新渡戸稲造博士なのだそうで、岩手弁護士会も支援し、バーターで新渡戸校長の出番を増やして欲しいと交渉しても良いのでは?などと余計なことを思いました(演じるのは誰が相応しいでしょう?丸いメガネが似合うイケメン紳士なら阿部寛氏?或いは「岩手の偉人ならどんとこい」の村上弘明氏?)

その学校で主人公に法律を教えていたのが「民法の神様」こと我妻栄先生で、キャラの位置づけが「五代さま」に近いのだそうです。テレビ化が実現すれば、米沢の生家(我妻先生記念館)に聖地巡礼する人も増えるのかもしれません(添付のとおり、私は平成25年にお邪魔しました)。

そういえば、我妻先生は安倍首相の祖父こと岸信介もと首相の親友とのことで(後年に安保条約改定を巡り対立したエピソードもあります)、若き岸青年の登場シーンも作れば、官邸(或いは官邸寄りと囁かれる?NHKの現会長)のテコ入れも得られるかもしれませんね(と言いつつ、実際の脚本では国家観を巡って二人に大喧嘩をさせたりして・・)。

或いは、大河ドラマ「山河燃ゆ」風に戦前戦後の司法(ひいては人権ないし人間の尊厳)のあり方を巡る様々な対立やエピソードを絡めた群像劇に仕上げていただければ、司法関係者としては見応えのある一作になりそうな気もします。

DSC02580

南部人たちの桜

平成25年1月に盛岡の先人(明治~戦前に活躍した方々)について少し書いたものを再掲します。

*************************

平成25年に放送された大河ドラマ「八重の桜」で、明治維新期における東北の苦闘の歴史に光があてられていますが、旧南部藩に身を置く者としては、岩手方面も取り上げていただきたいと思っているところです。

岩手県二戸市は、八重から少し遅れて出生し、東京帝大物理学科の第1期生となり、日本の物理学、地震学等の父と言われた田中舘愛橘博士を輩出しているのですが、現在(※この投稿の掲載時)、盛岡市中ノ橋通の「盛岡てがみ館」では、愛橘博士の業績や親交などをとりあげて展示をしています。

本日、弁護士会の相談担当日だったので、遅まきながら、昼食の合間に見に行ってきました。

盛岡市の事業という性質もあり、盛岡の同時代人と博士との親交に関する展示が多いのですが、その中に、「博士と親交があった旧制盛岡中学(現・盛岡一高)の先生(既に高齢の方)を教え子達が祝う会の写真」というのがありました。

で、そこに写っている面々なのですが、愛橘博士とその先生を真ん中に、蒼々たるという言葉を超えて、物凄い面々が取り囲んでいました。

まず、両隣を板垣征四郎(大戦当時の陸軍大将でA級戦犯として刑死)と米内光政(海軍大将から首相となり、海軍の対米穏健・戦争回避派の筆頭格)が座っており、その横には、鹿島(岩手発祥の日本最大の建設会社)の社長や三井物産?の役員(社長?)、金田一京助(国文学者)などが並んでおり、解説には、既に亡き石川啄木も彼らの同級生(又はその前後)であった旨の記載がありました。

恐らくは、大戦の数年前に撮影された写真と思われますが、当時の陸海軍、財界、学界に大きな力を持っていた人々が一堂に会した場と評して差し支えなく、もし、原敬(旧盛岡藩家老職の家柄に生まれた元首相。愛橘博士と同世代で仲も良かったものの、暗殺で死亡)も存命でその席に加わっていたなら、改めて、「南部にとっての明治維新は、この場をもって完全に終わったのだ」と高らかに述べたのかもしれません。

いずれ、大河ドラマなどで、「南部人たちの桜」とでも題して、こうした人々の群像劇を取り上げていただければと思っています。

余談ながら、ネットで色々見ているうちに、こんな本も見つけたので、読んでみたいと思いました。

「まちの本屋さん」が語る、法律事務所の営業と未来

私は盛岡駅フェザンのカード(常時5%引)を所持している関係で、一般書籍は盛岡駅のさわや書店で購入することが多いのですが、そこの店長をなさっている田口幹人さんが「本屋道」を熱く語った本を上梓され、店内でも販売されていたので、さっそく購入して一気に読み終えました。

本書は、田口さんがフェザン店の店長になるまでの軌跡(山間部にあるご実家の書店で読書を愛する人々に囲まれて育ったこと、盛岡市にかつてあった第一書店の勤務時に、業界では著名なさわや書店の名物店長さんと出逢い薫陶を受けたこと、ご実家を継ぐも時代の変化により経営環境があまりにも厳しく閉店を余儀なくされたことなど)が語られた上で、さわや書店の取り組みを通じて世に知られていなかった名著に光があたり新たな営みが生じたこと、地域で活躍する方への出版の支援や地域の様々な方を巻き込んだイベントと書籍販売との連動などが、幾つかの書籍を例にして説明されています。

全体として、地方都市に進出する巨大店舗やネット直販などの「書店を巡る現代的事象」と前向きに相対しつつ現代の「まちの本屋」の果たすべき役割や生きる道を模索する内容になっており、書店・出版業界に限らず、弁護士業界を含め、同じような激動に晒されている様々な業界のあり方などを考える上でも、参考になるところが多い一冊だと思います。

とりわけ、「本」を「弁護士が提供するリーガルサービス」に置き換えると、例えば、「本は、新刊の際に売れるとは限らない、その本に合った旬があり、それを捉えて売り出すタイミングを見極めるべき」という下り(26頁)は、新たな法律や判例などが直ちに社会に広まり、それを巡って弁護士の出番が来るわけではない(社会の熟度を見極めるべき)ということに繋がり、それを自身の業務や「営業」に活かしていくかを考える上で、参考になる面が大きいように思われます。

また、「本を置けば売れた時代があった、工夫すればさらに売上を伸ばすことができた、現在は、手を掛けても、成果を得るまでに要する時間と労力が、売上と釣り合わないところまできている」(160頁)というのは、恥ずかしながら極端な供給過小から供給過剰(と需要の縮小?)に向かっている過去と現在の町弁業界が置かれた状況そのものと述べても過言ではなく、それだけに、よりシビアな社会で生き残るため、地域に根を張り様々な工夫で苦闘を続けている「まちの本屋」の取り組みから学ぶべきことは多いのではないかと思います。

また、弁護士は「本」との比較では、サービスの中身を担う張本人(いわば、著者)であると共に、自らサービスの販売を行わなければならない(出版社ないし書店員)上、お店(法律事務所)の経営者でもあるという点で多面性があります。

そのような観点から出版・書店業界の様々な当事者の取り組みを参考にしたり、その文脈だと「書店員」に近い立場と言えそうな法律事務所の職員について、営業面をはじめ、今後、業界の活性化のため、どのように役割(活躍の場)を拡大させていけるか(さらに、誤解を恐れずに言えば、地位を向上させることができるか)という点でも、考えさせられるところがあります。

と同時に、「本屋は文化を売っているのではなく商売をしているのだ、だからこそ「今日行く」と「今日用」=現に顧客の役に立つことを通じて社会貢献(教育と教養)を図るべきだ」という下り(107頁)も、ともすると、現実的な権利救済や利害調整などからかけ離れた「高邁な理想」を強調しがちな弁護士業界としては、特に留意すべきことではないかと思っています。

私は、著者の田口さんのお父さんと面識があり、本書でも描かれているように、過疎地での書店経営の傍ら、本を通じて地域の文化を向上させたいとの強い思いを持って、色々と活動をなさっていたというお話を伺ったことがあります。

かくいう私自身、二戸という田舎町で育ち、少年漫画と歴史漫画中心という有様とはいえ、子供の頃は近所の書店に入り浸って少年時代を過ごした人間でもありますので、それだけに、田口さんの実家のような「田舎町の小さな書店」の存立が困難になっている現代で、過疎地に生まれ育つ子供達などの交通弱者にどのようにして「知の世界」への親和性を育んでいけるかという点は、大いに気がかりなところです。

田口さんは、私とは同じ年のお生まれとのことですが、本屋さん達に限らず、私も含め、地域に根を張る様々な立場の方が、そうした問題意識を共有し、それぞれの現場を守り、より良いものに磨き上げながら、社会のためにできること、すべきことを地道に実践していければと思っています。

盛岡北RCからの卓話依頼(男女問題など)

次の水曜(18日)の盛岡北ロータリークラブの例会で、急遽、卓話を担当することになり、某会員の方の熱烈なご要望?により「男女の愛と不倫を巡る法律実務」をテーマとすることになりました。当クラブの方は申すに及ばず、市内等の他のRC会員の方におかれても、ご参加いただければ幸いです。

当日は、「あるRC会員の家族(架空)を巡って生じた、起きて欲しくない物語」などと題して、壮年のごきょうだいの各人に、離婚や不倫、交際などを巡ってトラブルが起きたという想定で、代表的な論点や裁判所の一般的な考え方などをご説明したいと思っています。

RCの卓話は実質20分強しかありませんので、当日は論点紹介に止まるでしょうが、1時間とか90分などのバージョンでお話することもできますので、セミナー?などのご要望などがあるようでしたら、ご遠慮なくお声掛け下さい。

ちなみに、前回は、県内でCMソングなどの制作やナレーター等に従事されている菅原直子さんの卓話を拝聴しました。ホームセンター「サンデー」のテーマソングを歌っている方なのだそうで、冒頭でご本人のナマ歌をご披露いただき、ささやかな感動を味わいました。

他にも、世界的な話(ヴェスビオ火山ケーブルカーの件)から県内ネタ(岩手川、ペコ&ペコなどベーシックな話から近時の「焼き冷麺」、ドンドンダウンなど)も交えつつ、コーポレートアイデンティティや商品ポリシーの重要性(それを確立している企業ほど良いCMをすぐに作れる)を伝える内容になっており、大変勉強になりました。