北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

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雑談・戯言など

ラーメンのトッピングには依頼主の笑顔と事件解決を添えて。

昨日は大船渡(法テラス気仙)でしたが、今日は仕事で由利本荘に行きました。色々な難しさを抱えた離婚訴訟の期日でしたが、本日、依頼主が納得できる相当な内容での和解が成立して終了しました。

この件では、今年の3月まで在籍していた辻弁護士が、子の引渡というハードルの高い論点に挑んで、多大な奮闘の末に大きな成果を成し遂げた後、残務処理を私が引き継いだのですが、決裂か和解かの瀬戸際が相当あり、どうにか解決に至ったという案件でした。

11時半に開始した和解協議が2時半過ぎにようやく成立したのですが、裁判所の近くに、3時まで営業している、本荘を代表する?ラーメン店の一つと思われるお店があり、ギリギリセーフということで、大変美味しくいただきました(残念ながら、12月下旬に閉店となるそうです)。

ちなみに、第1希望だった本荘ナンバーワンとされる有名店は、2時半までの営業時間なので泣く泣く諦めました。依頼主はこの話を聞いて苦笑していましたが、裁判官にも和解成立時に同じ話をしたところ、軽口トークに慣れておられないのか、きょとんとしていました。

事案の中身は申せませんが、当方依頼主は、紛争を通じて2年ほど様々な艱難辛苦を余儀なくされており、最初にお会いした頃と比べて、とても強く、逞しくなられたと感じます。

この種の紛争は、弁護士にとっては不採算になることが通例で、この件も時間給ベースなどで見ると経済的には泣きそうな面はありますが、純然たるビジネス上の紛争などでは学びにくい、人間の業や人として生きることの深さを否応なく考えされられることが多いことは確かです。

ロータリーの標語に「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というものがありますが、この事件も、その言葉を事実の重みをもって考えさせられるものがありました。

業界には「弁護士報酬と書いて、いしゃりょうと読む」という有名な言葉があり、この事件でも、私や辻先生に限らず担当事務局を含め今日までに色々と苦心惨憺がありましたが、今後もこうした事件を手掛けることができるだけの売上をいただけるよう、めげずに頑張っていきたいと思います。

最後に、締めの一句ということで。

その果てに 味わいを知る 和解麺

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オレオレ詐欺と「彼を知り、己を知れば」

先日、「中央大学法学部政治学科のOBの方向けに、三菱地所系のワンルームマンションの営業をしてます」という電話が自宅にかかってきました。

私の学歴は事務所HP等で誰でも知りうる状態になっていますが、自宅の電話番号は現在では名簿などに載せないようにしていますので、どのようなルートで上記の情報を入手したのか、少し不思議に思いました。

そこで、自宅内にある大学時の所属団体(いわゆる受験サークル)の古い名簿を見たところ、有り難くないことに、自宅の電話番号等が書いていたため、これが元ネタの可能性があるのかもしれません。

先日、オレオレ詐欺の業界の実情などを詳細に述べた新書を読んだのですが、その中で、「現在のオレオレ業界では、入手した名簿を直ちに詐欺の電話に使うのではなく、不動産の営業などを装って、詳細に個人情報を聞き出し、それを、将来(相手の判断能力が鈍ってきた頃)或いは近親者への詐欺電話の素材(話に説得性を持たせるためのシナリオの材料)として活用し、そうした「磨かれた質の高い名簿」が高値取引されたりする」といったことが書かれていました。
http://president.jp/articles/-/15501

電話口の相手の声が、かなりの若年男性という感じもあり、営業電話は遠慮してますと言ったら、向こうから挨拶もせずガチャンと切ってしまいましたので、そうした類の御仁だったのかもしれません(本気で営業する気があるなら食い下がるでしょうし)。

私も、暇とエネルギーがあれば、根気強く先方の話にお付き合いして、言葉巧みに先方の正体等を突き止めるべく努力すべきだったのかもしれませんが・・

引用の書籍は、オレオレ詐欺プレーヤーの育成・誕生を描写した部分が、物語としてなかなか読ませるものがありますし、世代間などの格差ないし社会の閉塞の問題を考える上でも、参考になる点は大きい(筆者も私と同い年の方のせいか、感覚的に読みやすい)と思います。

今や、全国どこにでも、誰にでも入り込んでくる可能性のある人達ですから、敵方(詐欺業界)のことを知る上でも、それを踏まえて、こうした詐欺を生み出すもとになった、自分達の社会が抱えた様々な問題を考える上でも、ご一読をお勧めしたい一冊です。

余談ながら、著者の方が、私が大学で大変お世話になった同級生の方の高校等の親しい後輩なのだそうで、「鈴木氏に岩手まで講演にお越しいただきたい」という方がおられれば、お役に立てるかもしれません。

私自身は「オレオレ詐欺」は1、2回、被害者の方からご相談を受けた程度の関わりしかなく、まして、加害者側と関わったことは皆無なので(ヤミ金絡みの刑事事件なら弁護人を担当したことがありますが)、当事者の取材に基づくルポについては、色々と学ぶところがありました。

また、被害報道は県内でも繰り返し聞きますが、被害者側の「その後」については、ほとんど聞くことがないため、被害後に被害者側に大きな問題が生じた例であれ、そうでない例であれ、考えさせられる事案などを取材されているようでしたら、そうしたものについてもお話を伺うことができればと思っています。

沖縄放浪記(那覇出張と「残念な小話」)

岩手で弁護士をしていると一生に一度もあり得ないような話ですが、昨年、岩手に本社のある会社さんから、沖縄の企業との紛争に関するご依頼があり、半年ほど那覇地裁に係属する訴訟を手掛けてきました。で、先日の月曜に当事者の尋問があり、仙台空港便が1日1本しかない関係で、日曜に仙台空港から那覇に行き、火曜に帰ってきました。

初めての沖縄だというのに、直前まで尋問事項づくりに追われ、何も計画のないまま出発したものの、やはり勿体ないということで、時間の許す限り、色々と歩いてきました。

歴史ネタを中心に、考えたこと、書きたいことは山ほどありますが、仕事が山積していることもありますので、先に「残念な話シリーズ」だけ書きます。

①往路機内で、ひめゆりの塔が空港から割と近いことを知り、もともと沖縄に初めて行く本土人は、ひめゆりの塔と平和祈念公園に行かなきゃ駄目だろうと思っていた手前もあって、急遽、レンタカーを借りて出発。

が、空港着が3時、レンタカー出発が4時と出遅れた上、アウトレットの大渋滞のため通常より大幅に遅れ、5時過ぎ到着=ひめゆり平和祈念資料館の入館締切時刻に間に合わず。

②おまけに、レンタカー営業所行きのバス内に記録一式等が入った旅行用バックを危うく忘れそうになる。

③ひめゆりの塔→魂魄の塔→平和祈念公園のあと沖縄本島南部の絶景№1スポットと称されるニライカナイ橋に向かうも、なぜか下から上に向かって走ることになり、「絶景」を背にして橋の下部ばかり眺めて走行していた上、登り切った時点でレンタカーの返却時間に到底間に合わない感じになり、絶景の展望場所(引用サイト参照)まで歩くのを泣く泣く諦め、絶景を一切見ることなく終了。
http://sumalove.jp/8137/

余談ながら、この橋のすぐ近くに沖縄刑務所があり、しかも現在の那覇地裁の建物は、旧・沖縄刑務所の移転跡地に建てられたものとのこと(我が国の裁判所等は、大抵は城の近くに作られるので、首里城から遠く離れた場所に官庁街が作られていることに、遺跡保護や景観等の事情がありうるにせよ、少し意外感)。

④沖縄に誰も知り合いがいないので、1日目も2日目も夜はさびしく一人居酒屋(尋問当事者である当方関係者は、他の空港からの前夜着の日帰りでお付き合いいただけず)。

国際通り近くに宿泊したせいか、酒場放浪記に出てくる「おひとりさま向けの、お店の人と雑談できそうなカウンター形式の小料理屋」が見つからず、大勢の団体客の隅っこで本を片手にポツンと食べる(2日目は中国系アジア人家族客ばかりの「琉球舞踊の観覧付き料理店」に紛れ込んでしまい、外国で旅行してるような感覚でした)。

仙台空港行きの電車内で、「事前に、沖縄弁護士会に『震災直後から支援活動に携わった岩手の弁護士の有り難い体験談を聞いて、一緒に酒飲みに付き合ってくれる奇特な人この指止まれ』とFAXすれば、若手の1人2人くらい釣れたのかも」と後悔するも、時すでに遅し。

⑤月曜の尋問後、裁判官から和解協議の申入があり予定時間より大幅に遅れて終了。さすがに「観光しますんで協議には応じません」とは言えず。沖縄弁護士会館に寄り道するなど道草を食ったこともあり、首里城本体を見るのが精一杯で、識名園はおろか、玉陵も時間切れで行けず(玉陵は、先に終了だと気付いていれば、先回りして間に合ったと思うと悔やまれる)。

⑥旅行会社からTギャラリア(旅行者向け高級ブランド免税店)の1000円割引券を貰っていたのに、その日に限って忘れる(それを理由に、見るだけショッピングで終了)。ホテルの朝食も寝過ごすなど、毎度ながら金券類の無駄が甚だしい。

⑦最終日も寝坊して玉陵や識名園に行けず、県立博物館(兼美術館)の常設展示だけ見て帰る。ちなみに、ここの建物は、何となく最高裁に似ています。

⑧登山したわけでもないのに、足に結構マメが出来た。

とまあ、沢山の宿題が残った沖縄行きでしたので、受任事件を解決させた上で、次は何とか頑張って旅行者として訪れたいと願っています。

古美門研介と小保内義和の異同について論ぜよ

時機を逸した話題で恐縮ですが、堺雅人氏の熱演で話題になった「リーガル・ハイ」は、私も、「1・2」両方ともビデオに録って視聴していました。

私も曲がりなりにも同業者ですので、一部の極端なパフォーマンスなど現実離れした部分はさておき、事実の調査や証拠固め、駆け引きなどについては、それなりに参考になる(実務家から見ても面白い)と思って、拝見していました。

先日、インターネットを見ていたところ、「古美門弁護士の年齢設定は、堺氏の実年齢と同じ」との記載を見かけましたが、私は堺氏と同年齢(昭和48年生まれ)ですので、私と古美門弁護士とは、同年齢ということになりそうです。

ただ、ネット情報によれば古美門弁護士は一発合格とのことですから、大学4年で合格して修習したのであれば、卒業2年目で合格した私から見れば、司法修習は2期先輩ということになります。

また、当事務所は、昨年に若く熱心な女性弁護士が加入しており、その点でも似たような面があるかもしれません。さすがに、万能の大物執事とか事実を作り替えてしまうほどの強力な調査員などというスタッフにはご縁がありませんが。

古美門弁護士は、超ハイテンポな尋問等で相手を圧倒するのが持ち味ですが、私も仕事ではかなり早口で話す方です。ただ、尋問は大の苦手で、尋問事項書の暗記も出来ずそのまま読み上げるような感じになってしまうので、その点では恥ずかしながら比較の対象になりません。

それでも、反対尋問の尋問事項づくりの際、我ながら良い尋問を思いついた(と思った)ときには、ドラマの影響か、人差し指を縦に伸ばしたり、妙なポーズをとりたい衝動にかられるときがあります。さすがに実際の尋問では、そうした不審挙動には及んでいないと思いますが、できれば、格好ではなく中身の方で、良い影響を受けておきたいものです。

あと、古美門弁護士といえば金の亡者というイメージですが、私の場合は、力量の差か田舎弁護士の悲しさか、高額案件にはほとんどご縁がなく、他方で過去の経緯から結構な経費を要する事務所のため、帳簿等を垣間見ながら毎月の資金繰りを心配する有様ですので、我ながら「運転資金の亡者」のように感じるときはあります。

なお、「女王様のような裁判官」は存じませんが、私が修習生だった平成10年前後の盛岡地裁には、ある意味「女王様」の修辞がよく似合う、華やかな雰囲気の若い女性裁判官が在籍しておられました。修習生の頃、その方が、「定年退官時に、(大臣や知事の退任時の光景のように)庁内の職員さん達に囲まれて暖かい拍手や花束に包まれて去っていくのが夢」と仰っていたのをよく覚えています。

その後、私の東京時代(平成15年前後)に東京地裁交通専門部でお会いし、交通事故訴訟で何度かお世話になりました。さすがに、ご本人の訴訟指揮等は「どS」ではありませんでしたが・・

ともあれ、11月にもスペシャルドラマがあるそうなので、忘れずに視聴したいと思います。

地方の弁護士として生きることの光と影と、それぞれの道

先般、佐世保市で生じた痛ましい事件については、加害者の関係者を巡って生々しい報道がなされることが多々あり、それも同業者の方ということで、ネット上で流布されている記事(引用は差し控えました)を見ると、色々と考えさせられるものがあります。

少し具体的に言えば、私は、「大学卒業2年目で(奇跡的に)司法試験に合格し、東京で中小企業法務等を中心に4年半修行した後、出身県の主要都市(ちなみに盛岡は当時の人口30万弱、佐世保は25万とのこと。岩手と長崎の県人口も概ね同じ)で事務所を開業し、(東京時代に某先生から勧められていたので)すぐに地元の青年会議所に入会した」という人間なのですが、上記事件の関係者の方が、その部分に限って言えば、客観的には、これと似たような経歴をお持ちのようです。

ただ、私の場合はJC入会後の展開がその方とは大きく異なり、半年程度で兼業主夫(幽霊会員)の道に邁進(転落?)せざるを得ず、9年間も在籍したのに理事長どころか委員長すら拝命することなく終わりました(当然、ごく稀にJC関係の会合に出ても、大して居場所もなく隅でひっそりとしているという有様になってしまいました)。

そのせいか?、地域の有力企業さん方とは顧問云々の仕事上のご縁はほとんどなく、運良く親しくさせいてただく機会に恵まれたごく一部の方に多少のお世話になっている程度で、もとより「地域有数の規模の事務所」では微塵もありません。

それどころか、債務整理特需の終焉後は事務所の運転資金に汲々としつつ、名士どころか営業時間前後は自宅で雑多な家事等に追われながら、「書類仕事する時間が足りないんだけど」と愚痴を撒き散らす日々というのが正直なところです。

そのため、ある時点までは記事の方のような「地方の大物弁護士への道」がありえたのかもしれないものの、10年ほど前に、そうした道にご縁のない分岐点を辿ったのだろうと感じたりすることもないでもありません。

といっても、こんな事件を引用するまでもなく、自分に明らかに適性のない道にご縁がないことを嘆くこともありません。せいぜい、(当時の中央大の宿命として)受験仲間の全員が初志を貫徹できるわけではないので、彼らに恥じない(小保内は折角受かったのにこの有様か、と思われない)生き方が出来ればという程度の欲(執着?)で済んでいます。

この仕事に限らず、我々程度の年数を生きた方なら、同じ感覚をお持ちだと思いますが、

・Aを得た者は、Bを得ることができない(ことが多い)
・Aを得ることができなかった者が、結果としてBを手にする(ことがある)
・AもBも手にすると、恐るべき災厄まで付いてくる(ことがある)
・但し、その災厄を受けた者が、時に、特別な何かを創出することもある

ということを、多くの実例を含めた実感として、感じることがあります。

光強ければ影もまた濃しと言いますが、私に関しては、今のところ、華やかな舞台に関わらず日陰で静かに暮らすことで、結果的に対処困難な問題にもご縁が無くて済むという方向に、生き方の舵が切られているように感じないこともありません。

 

ナベカヰくんとの再会を求めて

私の東京時代の勤務先事務所では、渡辺解体興業(現・ナベカヰ)という、解体業界最大手(だそうです)の会社さんの顧問をしていました。

私が平成12年4月に入社した際、最初に配点された仕事が同社の依頼による元請企業への請負代金請求訴訟(法的な論点が満載の事件でした)で、その後も、他の事件を含め、退職時まで幾つかの仕事の担当をさせていただいたことなどから、私にとっては、非常に思い入れのある会社さんです。

仕事上関わった方々も、真面目で職人気質な方が多く(一部、豪快な方もおられましたが)、ご相談も、「真面目さが裏目に出て、相手方に騙されたり他者間の紛争に巻き込まれたように見える事件」が多く、そうした意味でも、頑張り甲斐のある仕事を頂戴していたと記憶しています。

で、この会社さんですが、当時から、独自の自社キャラクターをデザインして様々なオリジナルグッズを作って取引先等に配布されており、私も、ナベカヰくんのマークが大々的に入ったタオル、文具、風呂桶など、様々なものをいただいて使っておりました。

残念ながら、市販は一切なさっていないそうなのですが、平成16年に東京を去った後も、ナベカヰくんへの愛着を捨てきれず、ネットでたまに検索するなどしています。

ちなみに、会社HPの紹介コーナーのほか、ブログで同じような投稿をされている方もおられますので、画像紹介ということで、引用いたします。
http://www.nabekai.co.jp/company/challenge/
http://tondemohappun.at.webry.info/200903/article_4.html
http://tondemohappun.at.webry.info/200711/article_4.html

ゆるキャラ全盛の時代になって久しいですが、彼らが登場する遙か以前から、知る人ぞ知るの存在であり、個人的には、同社関係者に働きかけて、いつの日か、メジャーデビューを考えていただければと思っています。

私の知る限り、岩手県内の会社などで、こうした愛らしい自社マスコットを作って企業イメージの向上等に活かしているという話は存じませんが、ぜひ、こうした取組は参考にしていただきたいところです。

ちなみに、この文章も、今も辛うじて手元に残った「ナベカヰくんバンダナ」を頭に巻いて入力した次第です。

 

函館ラ・サールの小鍋の昇天

先日、高校(函館ラ・サール)に入学・入寮した平成元年4月に寮生活の必需品として勧められ購入した小鍋(ミルクパン。値段は1000円前後?)を、誤って空焚きし昇天させてしまいました(末尾の写真参照)。

この小鍋は、卒業後も延々と使用を続け、特にここ10年ほどは家族の味噌汁を作る際のメインの鍋として毎日のように使っていましたので、残念というほかありません。

ところで、この小鍋は、当時、函館ラ・サールの寮に入る人(函館市外から進学する生徒の大半)の恐らく5割以上(ほぼ全員?)が購入していたのではないかと思います。

というのは、この小鍋は、夜(特に土日)に袋ラーメン(サッポロ一番など)を作って食べる目的で購入するものですが、私の微かな記憶では、寮で面識のある人のほとんどがこの小鍋を持っており、1年生のときは、袋ラーメンを食べることができる地下1階の休憩室に沢山の人が集まり、コンロ周辺が順番待ちのような状態になっていたという光景を何となく覚えているからです(余談ながら、その中には、10年近く前に国政に出馬し国会議員になったかと思えば、それを皮切りに激動の人生を送っている方もおられます)。

当時の函館ラ・サール高校は、私の記憶では、約3割が函館及び近隣自治体からの進学者(通学生)で、7割がそれ以外となっており、その大半は寮に入っていました。

入寮は任意ですが、寮費がかなり安いのに三食風呂付きで毎日洗濯していただけるとのことで、ほぼ全員が入寮しており、母から「学費と寮費(生活費)を併せて勘定すれば、盛岡よりも函館に進学した方が安上がり」と言われたのを覚えています(もちろん、私のように集団生活に向いていない人間には、それなりの苦労がありましたけど)。

寮生の内訳は、(上記の7割を前提に)約6割(寮生の8割以上)が函館以外の北海道各地の出身者で、自圏内に有力校のある札幌・旭川の出身者はほとんどおらず(当時の北海道は地区外2%とのこと)、特に小規模自治体の出身者が多かったとの印象です。

残りの1割の内訳は、東北各県(青森を中心に北東北三県がほとんど)出身者が5割弱で、他の4割強が全国各地から集まっており、関西出身者の比率が非常に高かったと記憶しています(私に関しては、大阪出身の友人・知人は何人もいましたが、関東や中部出身の方に知り合いがいたか記憶にありません)。

ちなみに、関西出身の方が多いのは、函館ラ・サールが、伝統的に医学部の進学に定評があり、特徴的な寮のシステムなども理由になって、病院を経営されている方が遠方から子弟を進学させる例が多いからなのだそうで、私は面識がありませんでしたが、西国某県で最大級の病院を経営する医師のお子さんが入寮しており、その方に関する「ロレックス(数十万円の高級時計)の紛失騒動(の噂話)」を聞いたことがあります。

寮生は、1学年で概ね200人程度でしたが、1年生は、ワンフロアに100人を収容する、二段ベッドとロッカーが延々と並んだ大広間(言うなれば「100人部屋」)になっている二階建の建物に収容されて寝泊まりする制度になっています。

そして、50音順に約30人ほどで構成される勉強部屋(私の場合は、「う」から「か」で始まる名字の生徒が集まる部屋)に割り振られて、部活等を別とすれば、夕方~夜間はそこで勉強する日々を余儀なくされます。

で、数少ない娯楽として、漫画雑誌の購入(又は立ち読み、廻し読み)やカード麻雀等のほか、土日(主に土曜)の夜に、地下1階の休憩室で袋ラーメン等を作って食べ、休憩室のテレビで夜9時からの映画(番組)を見て過ごすというものがあったと記憶しています。

ですので、その際の必須アイテムである冒頭の小鍋については、有り難くもないけれど、それなりに懐かしい記憶が甦る触媒になると感じる卒業生は、私だけではないだろうと思います。

私の場合、お湯を沸かしてカップ焼きそばを食べることも多かったのですが、北海道では「焼きそばバゴォーン」が売っておらず、「焼きそば弁当」という、やや小振りなカップ焼きそばが主流でした。そのため、実家から「バゴォーン」を箱で送られていた私は珍しがられ、物々交換のほか、時には強奪されるように「お裾分け」を強請られていたような気もします。

上記の「100人部屋」は1年次だけであり、2年に進級する際に、仲良しの人を見つけて4人グループ(原則)を組み、2、3年次は4人部屋(原則)で生活することになります。 もちろん、4人組を作るのが難しい人(2人或いは3人だけ、或いは誰とも組めないままの人)が出現するのは避けられず、寮の先生などが仲介等して(そうした面々を組み合わせるなど)、どうにか全員が4人部屋に移行できるようにします。

ただ、「自分達の自主的な判断で4人グループを作る」というスタイルが逆に仇となるのか、4人部屋に移行した2年次になると、不和が生じて同じ面々での生活を営むのが難しくなる部屋も幾つか生じてきます。

かくいう私自身、2年次に4人部屋を組んだ面々に不和が生じ、私の至らなさもあって同室者が2人も自主退寮(アパートに転居)するという痛恨事を経験しています。幸い3年次に4人部屋を組んだメンバー(2年次に残ったもう1人を含む)とは全員、終始、平穏かつ良好な関係のまま卒業できましたが。

私のことを、他者との距離を詰めるのがかなり下手な人と認識されている方は多いと思いますが、能力の偏りの大きさ(バランスの悪さ)のほか、そうした過去も影響しているのかもしれません。

余談ながら、2年の進級時に相部屋仲間を見つけることが全然できなかった4人の「おひとりさま」だけで組んだ部屋が、卒業まで2年間を平穏に維持できたという話を聞いたこともあり、案外、物事はそのようなものではないかと感じています。

恥ずかしながら、高校時代は 「勉強もできず、運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」(日本史の成績だけは良かったですが)として、場違い感(劣等感というよりも、自分がここにいていいのだろうかという感覚で、疎外感といった方が適切だろうと思います)を常に抱きながらの鬱屈とした日々を送っていました(その点は、司法研修所時代も同じようなものだったと思いますが)。

ただ、真摯に勉強に打ち込んで難関校突破という栄冠を勝ち取っていく同級生の方々の背中を日常的に拝見できたことが、司法試験受験生時代に大いに糧となったことは間違いなく、自分の未熟さ、至らなさを悔いる点は山ほどありますが、あの学校を選んだこと自体は、間違いではなかったと思っています。

 

 

「軍師官兵衛」と「毛利元就」のパラレルな関係

私は父の影響で子供時代から大河ドラマを視聴しており、小学3年頃の「徳川家康」の第1回以後、寮に入っていた高校時代や受験期などを除けば、8割程度の作品を、概ね最初から最後まで拝見しています。

で、現在放送中の「軍師官兵衛」も必ず録画して深夜に見ていますが、この作品は、過去の大河を強く意識した作品になっているように見受けられます。

具体的には、放送開始前の宣伝では、竹中直人氏が秀吉役で再登板することを強くアピールしていましたが(竹中氏は平成8年作品「秀吉」の主人公)、それ以上に、この作品の隠れた見所は、平成9年に放送された「毛利元就」との類似性ではないかと思っています。

まず、既にネット上で少なからぬ方が指摘しているように、「軍師官兵衛」では、「毛利元就」の主要キャストの方が、当時の役回りに妙に似た形で再登場しており、その上、心憎いことに、いずれも中国地方の関係者として登場しています。

具体的には、現時点で3人の人物が確認できており、まず、官兵衛の主君である小寺政職を演じる片岡鶴太郎氏は、「元就」では、毛利家の重臣筆頭級の人物(井上元兼)を演じています。

次に、中盤の最大の敵・毛利家の屋台骨たる小早川隆景を演じる鶴見辰吾氏は、「元就」では、元就の忠臣(但し、最初は仇敵として対立→帰順)であり井上元兼に次ぐ重臣格でもある、桂元澄を演じています。

次に、中盤の山場である対毛利戦において官兵衛に大きく立ちはだかる謀略の梟雄・宇喜多直家を演じる陣内孝則氏は、「元就」では、中盤最大の敵として厳島の戦いで対決する、陶晴賢を演じています。

そして、双方の番組をご覧になった方なら、これら3名(×2役)の組み合わせには、ある種のパラレル感というか、妙な対称性があることに気づくのではないかと思います。

まず、鶴太郎氏の「井上元兼」は、盟主(国人領主)たる毛利家(元就やその父ら)の筆頭重臣ではあるものの、ほとんど独立した勢力ということで、毛利家の意向を無視した独断専行が多く、主君(元就ら)を大いに悩ませる人物として描かれています。

これに対し、今回の「小寺政職」の場合、官兵衛(黒田家)は小寺家に臣従こそしているものの、独立勢力としての色合いが強く、ちょうど鶴太郎氏と主人公との主従関係が逆になっています。但し、「独断専行(我が儘)で主人公を繰り返し悩ませる存在」という点は、全く同一です。

また、井上元兼は、序盤で元就と対立し切腹して果て、井上一族も基本的に滅亡という形になりますが、小寺政職も、あともう少々(番組的に)で主人公と対立する関係となり、表舞台から去っていくという点は共通しています(但し、本作では「元就」と異なり、天寿を全うしています)。

次に、鶴見辰吾氏ですが、小早川隆景は、言うまでもなく毛利元就亡き後、軍略や政略の高い能力、見識により、信長・秀吉との様々な対決から毛利家を守った大黒柱であり、この時代の毛利の「知の力」を代表する人物です。

なお、家康との直接対決はないのでしょうが、隆景の決断で実現した小早川家当主たる秀秋が関ヶ原で裏切ったことが、吉川広家のそれと相俟って、西軍総大将たる毛利家の存続を支えたと考えれば、家康を含む三英傑の全員と対峙し主家を守った「隠れた超大物」と評して良いのではと思います(この点は、直江兼続にも通じるものがありますね)。

これに対し、「元就」で鶴見氏が演じる桂元澄は、専ら武勇の将(猪突猛進タイプ)として描かれており、鶴見氏の場合、演ずる人物の能力偏差が全く逆になっています。

ただ、主人公との関係という点で見れば、毛利との和睦後は友好的な関係が終始続いていたとのことで、「当初は対立関係があったが、その後は信頼関係で結ばれていた」という点では、前作と同じ立ち位置にあるように思います(番組HPでも、そのような展開が示唆されています)。

陣内孝則氏についても、鶴見氏と同じく、前作では武勇の将たる陶晴賢であったのが、本作では謀略家の宇喜多直家という「武と知」という違いはあるものの、敵対勢力に所属し、強烈な存在感をもって中盤の主人公と対峙するという面では、前作と同じポジションを担っていると言うことができます。

以上のお三方のほか、wikiで見ていくと、官兵衛の庇護者的な義父役を務めた益岡徹氏は、「元就」でも元就に忠節を尽くした腹心の部下(児玉就忠)役を演じていたほか、「官兵衛」で小寺政職の側近(腰巾着)として官兵衛の悪口を言い散らす家老を演じる二人の方は、「元就」では、宿敵・尼子家の家老を演じています。

さらに言えば、オープニング映像についても、「元就」で用いられていた、中国山地を思わせる標高の低い山塊の連なりと雲海の映像が、「官兵衛」のラストでも用いられており、この点も、恐らくは意図的にそのようにしたのではないかと推測せずにはいられません。

ただ、主題曲の曲調については全然似ておらず、「官兵衛」の主旋律(メインの曲調)は、何となく「巧妙が辻」に近いような感じがしています(映像は全然違いますが)。

ともあれ、今回の大河は同じ中国地方を舞台とする「元就」を強く意識して制作されていることは間違いなく、過去の作品を知っている人にとっては、双方の異同を楽しむこともできる点で、有り難いものとなっています(独眼竜政宗こと渡辺謙氏が、「炎立つ」でも主人公を演じたのと通じるものがあるのかもしれません)。

ところで、主人公同士の比較という点でも、毛利元就と黒田官兵衛は、天下を取る知謀の才を持ちながらあえて目指さず、そのことにより「家」を守ったという意味で、共通する面があるように思われます。

また、毛利元就は正室の存命中は側室を設けておらず(死後に後妻を迎えています)、生涯、側室を持たなかったとされる官兵衛と共通しています(他に同様の戦国大名がどれだけいるのか存じませんが、稀少例ではないでしょうか)。

ただ、前作に見られた「奥方がガバッと脱ぐ(残念ながら背中のみ)」というシーンは「官兵衛」では見られません。個人的には、この点は、官兵衛夫人よりも荒木村重夫人の方にチャレンジいただければと願っています。

ところで、以上に述べた観点から、他にも、前作(元就)に登場した大物の再登板がないのかというのが、今のところの私の関心事です。

仮に、他の方の再登板があるとすれば、その演じる対象者は中国地方の関係者ということになるでしょうが、私が期待しているのが、まだ登場してない宇喜多秀家です。

この点、放送当時の記憶はありませんが、wikiによれば、尼子氏の滅亡時の当主を中村獅童氏が演じていたとのことで、ぜひ、秀家として再登板していただければと期待しています(終盤の大戦での敗者役という点でも、両者は共通していますし)。

ちなみに、「秀吉」と「軍師官兵衛」を比べると、「秀吉」に出演された方で、竹中氏以外で再登場している人物は誰一人としていないように見受けられ、これはこれで不思議に感じます。

この点、「官兵衛」の番宣で、竹中氏は「『秀吉』では晩年の墜ちてゆく残虐な秀吉を演じることができなかった、今回、それ(暗黒面)を演じるのが楽しみだ」という趣旨のことを強調していました。

見ようによっては、「秀吉」から再登板したのが竹中氏ただ一人であることによって、「秀吉」を知っている者が見れば、「竹中秀吉」の「孤独な裸の王様」像=晩年の墜ちてゆく秀吉という印象(演出)の効果を高める面があるように感じます。

もちろん、NHKがそこまで「マニアックな視聴者」のことを考えて配役を決めているのかは、私には微塵も分かりませんが。

最後に、全然関係ありませんが、私の「大河ドラマ主題曲お気に入りランキング」を書いて、長文の締めくくりとさせていただきます。

1位 いのち
2位 徳川家康
3位 春日局
4位 秀吉
5位 炎立つ
次点 独眼竜政宗、篤姫、赤穂浪士、武田信玄、龍馬伝、etc

私の場合、受験生時代に大河ドラマ主題曲集「秀吉」をレンタルで借りMDに再編して聞いているのですが、その後に発売された主題曲集は購入しておらず、「秀吉」以後の作品が不利な扱いを受けていますので、その点はご留意下さい。

あと、「いのち」は、当時はまだ現代史作品を理解するには幼すぎたのか、曲はよく覚えているのにドラマを見た記憶が全然ありません。

 

受験生時代にすれ違った有名人

ネット生保の創業で時代の寵児となった岩瀬大輔氏の新入社員向けの発言がニュースで取り上げられていました。岩瀬氏は、大学在学中に司法試験に合格されたものの、法曹界ではなくハーバード大に進み、ビジネス界に身を投じたという、当時の日本人としては異色かつスケールの大きい経歴の持ち主としてもよく知られています。
http://www.j-cast.com/2014/04/03201162.html?p=1

どうして、このニュースを取り上げたかというと、つい先日、自宅内に放置されていた司法試験受験生時代の資料を廃棄したのですが、その際、平成8年か9年頃の辰巳法律研究所(受験予備校)の「択一試験に合格した人向けの直前答練(模試)」の資料があり、解説末尾の成績上位者一覧に、岩瀬氏のお名前が何回か登場しているのを発見したため、当時のことを懐かしんで、触れてみたくなったという話でした。

なお、残念ながら私自身は岩瀬氏とは面識はなく、同氏が最初に出版された生保関係のことが書かれた新書本を拝見した程度です。

私は、新入社員=イソ弁時代、始業前に出社するどころか、朝は最後に出てくる不良社員だったせいか(夜は終電頃まで仕事してましたけど)、パッとしない田舎の地味な町弁人生を続けています。

ただ、遅まきながら、数年前から始めた「判例・論文のデータベース作り(購入中の判例雑誌の要旨を関連法規に即してエクセルにまとめる地味な作業)」を毎日のように続けており、岩瀬氏には遠く及ばずとも、せめて、サバイバル状態に突入した町弁業界で生き残るための糧になってくれればと思っています。

「小保」な人々のルーツを求めて

昨日あたりから、iPS細胞に続く新万能細胞の作製を実現したとして、小保方さんという女性の方が報道され、一躍時の人になっています。

私も「小保方」という名字がこの世にあるということを初めて知ったので、小保方という姓は「小保内」の姓と関係があるのだろうか?と不思議に思い、少し調べてみました。

で、ネットですぐに出て来たのは、群馬県伊勢崎市内に小保方という地名があり、江戸時代から東小保方村・西小保方村という村があって、その地域に住んでいる方は、小保方という姓を名乗ることが多いという話でした(もちろん、そのことと冒頭の小保方さんとのつながり等は一切不明です)。

他方、肝心の「小保方」という姓ないし地名の由来等に触れたサイトまでは発見できませんでした。江戸時代より前は別の地名だったと書かれたサイト(小保方地区にある神社について触れたもの)も見かけたのですが、真偽は不明です。

ちなみに、「小保内」姓のうち、私の一族(本家)の発祥については、江戸時代初期から二戸に在住していたことは間違いないとされており、また、桃山期には秋田県田沢湖周辺(現・仙北市、旧・田沢湖町=生保内町)の領主?をしていたとの伝承があります。

以前、私の本家のルーツについて色々と調べたことがあり、いずれ長々と書いてみたいと思っているのですが、少なくとも、「小保方」という姓や地名と接点があるという話に接したことはなく、残念ながら無関係と思われます。

ちなみに、小保内の「内」はアイヌ語の「沢(小川)」を意味すると言われており、この点は、「ナントカ内」が山ほどある北海道に見られるように、よく知られた話かと思います。

他方、肝心?の「小保」の由来は何を調べても見かけたことがなく、未だに謎です。

ちなみに、福岡県大川市(佐賀市との県境で有明海に面する場所)には、「小保」という地名があるそうですが、こちらの地名の由来も不明です。また、読売新聞の4コマ漫画「コボちゃん」は、wiki情報によれば、主人公の名前が「田畑小穂」で、作者が幼少時に「小さい子」の意味で呼ばれていたあだ名に由来するとありますので、「小保内、小保方」等とは何の関係もないようです。

というわけで、「小保(内)」や「小保方」などの由来をご存知の方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸いです。

追記(2.1)

この記事をfacebookに投稿した後、他の方から「古代の常陸の国に勢力を伸ばしたオホ氏という人々がおり、多氏とも呼ばれていた」等のお話を伺いました。

wikiでは「多氏」について「於保とも記され」とあり、思いつきレベルの仮説として、遙か古代に、多氏(古い皇族と述べているものもあれば、渡来人である秦氏から分かれたものと記載するものもあります)の一族から分かれた人が、「オホ氏」となって常陸を中心とする東国に分布し、その中で、秋田県田沢湖周辺に住むようになった人が、アイヌ語の「ナイ」と組み合わせて、「小保内」を名乗るようになった(或いは、その流れの中で小保内の姓や生保内の地名が成立した)、ということも考えられるかもしれません。

私も、多少の壁にめげることなく?、さらに調べて分かったことがあれば、またネタとして書いてみたいと思いますが、私のことを書いても世間の注目は浴びないでしょうから、便乗?したい身として、小保方さんの益々のご活躍を祈念しています。