皆さんにも中学の頃、クラスに1人か2人くらいは、横山光輝氏のマンガや光栄のゲーム或いはその他の作品を通じて、三国志の群雄・武将に無駄に詳しい奴がいたという記憶があると思います。
私もその典型で、原点は物心つく前後に見たNHKの人形劇三国志ですが、中学から高校にかけて、当時、一般向けに作られていた三国志の関連作品の大半(各所が色々と熱くなる本宮作品も、忘れてはいけません)を読み漁ったほか、結婚してようやく光栄ゲーム廃人から完全卒業できた、という有様でした。
それで、こんなドラマがあったのかと驚き、三国志バカのはしくれとして、見ないわけにはいかないだろうと思い、第2話から録画し、現在も深夜に少しずつ、一人さみしく拝見しています。現在、ようやく官渡の戦いが終わり、ついに登場した彼と主人公との対峙が始まったところです。
三国志バカの皆さんはご存知のとおり、横山三国志は曹操と袁紹の戦いはほぼ描かず飛ばしており、また、前半は劉備陣営の描写が中心で曹操陣営の参謀スタッフを丁寧に描いてくれませんので、荀彧・郭嘉などがきちんとした形で登場しません(本物とは違うだろうという名無しの参謀が出てきますが)。
本作は、荀彧・郭嘉をはじめこの時期の曹軍・袁軍や漢朝の関係者を多数のマイナーなキャラも含めて丁寧に示し、「もう一人の献帝が平和のため司馬懿と共に大活躍する」という架空?の物語を基盤としつつ、正史・演義に描かれた多くの関係者の人物像も裏切ることなく、文官勢は光栄三国志の絵柄と比べても違和感が無い役者さんが起用されるなど、三国志バカの皆さんにとっては泣きたくなるほど嬉しい作品と言えます。
また、光栄ゲーム廃人の皆さんなら、司馬懿は知力98、郭嘉は97というのが常識かと思いますが、まだ若い司馬懿がギリギリのところで全盛期の郭嘉を出し抜く(追及を免れる)ように描かれている光景が、この数値にピタリとはまって、その点でも泣きそうになります(彼らに劣る若き日の楊修は、武闘派の面々を手玉に取りつつ、彼らにだけは手玉に取られる役回りです)。
ちなみに、光栄三国志や横山三国志のビジュアルの元ネタは、数十年前(戦前?)に中国で刊行され、陳舜臣氏が翻訳を担当した「劇画三国志」であることは間違いないだろうと思っており(私は中学2年生の頃に二戸市立図書館に通って全巻読了しました)、そのことが、三国志の登場人物像で日中間にさして齟齬がないことの根底にあるのではと考えます。
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というわけで、三国志バカの日本人にとっては拝見必須の作品なのですが、一つだけ、不満を感じる点があります。
本作の最後に流れる「少年志」という主題歌は、十分聴き応えのある曲なのですが、字幕で出てくる「日本語の歌詞」が文章としてまとまりがなく何を言いたいのかよく分からない上、あまり胸に響く内容ではなく、最初の頃はすっとばしていました。
が、主題歌に限っては中国語も字幕表示されるので、何度か見ているうちに、この翻訳は不正確では、また、本物=中国語の歌詞は本作品の主題に即した重く悲しい意味を含んでいるのでは?と思うようになりました。
例えば、歌の中盤で「唯有餘年祭天下事 悲歌 唱山河」とあり、歌手の声量も大きく、歌のメインと言って良い場所の一つです。
この歌詞、字幕では「余生は乱世から離れ 悲しき歌が響き渡る」と表示されています。が、これでは、前段は老人が余生を安らかに暮らしたいと述べているのかな、という印象は受けますが、後段は悲しい歌が云々ということで、両者のつながりがやや悪く、全体的に何を言いたいのかよく分からないように感じます。
その上で中国語を見ると「祭天下事」とあり、直訳すれば「余生はただ天下のことだけを祭りたい」ですが、この「祭」とは、日本のお祭り(現在の姿)と異なり、祭祀=亡くなった人を弔うことを指すはずです。
で、その上で作品を思い返すと、主人公は、崩御を公表できず、あるべき葬儀・埋葬などが全くできなかった献帝をきちんと弔いたい、ということを繰り返しヒロインに述べています。
中国人(とりわけ当時)が祭祀を非常に重視する文化であることも相俟って、その点は、本作ではストーリーの核となる重要な動線となっています。
よって、「唯有餘年祭天下事」とは、余生=曹操との対決を終えた後は、献帝を祭りたいという主人公の心情を表現したものでは?と読み取ることができます。
そのように考えれば、「悲歌 唱山河」も、主人公にとっての大切な人はもちろんのこと漢朝ないし世の混乱のため非業の最期を遂げた多くの人々の悲しみを歌いたい、という意味に理解できるはずです。
私はまだ最後まで本作を拝見していませんが、史実と真正面から反しないストーリーになるのであれば、終盤に深刻な悲劇が主人公を襲うはずで、この歌が主人公の晩年の心情を描いたのであれば、「祭=弔い」の対象は献帝だけに止まらないのかもしれません。
仮に、それと多少違う展開を辿ったとしても、この歌を、若くして才能を嘱望され漢朝復興の強い願いを抱きながら、繰り返し悲劇や辛酸に見舞われ失意のうちに世を去ったのかもしれない、本物の献帝の鎮魂歌と理解することもできるのではないかと思います。
また、主題歌は最後に「風落 帰人間」と歌って終わり、この「帰人間」とは、直訳すれば「人間に戻る」となるようですが、中華皇帝とは人ではない(龍の化身たる黄帝の承継者=それが皇帝の権威の源泉である)と理解されていますので、その点からも、この主題歌が献帝(主人公)のことを歌ったものであることが窺われると思われます。
この箇所は、日本語字幕では「人の世に生きる」と表示されており、善解すれば、ストレートな翻訳をするとストーリー(史実)を知らない日本人視聴者にネタバレになるので、ぼかした翻訳をしたのかな、と感じる面はあります。
というわけで、本物の歌詞(中国語歌詞)には以上に述べたテーマが潜んでいるのに日本語訳詞がそれを適切に伝えているように見えないことが、私が本作に不満を感じた唯一といってよい点ということになります。
で、ここからが三国志バカの暴走となりますが、上記のテーマに適った翻訳が日本人に伝わるのでなければ、本作ないし献帝が浮かばれないのではないか、と感じたので、私なりに以下でオリジナルの訳詞を載せることにしました。
ただ、私は中国語は勉強したことがなく、最低限の漢字しか分かりませんので(21年前、長江三峡や武漢などで辞書を片手に筆談したことはありますが・・)、Webの翻訳サイトのお力で少しだけ悪戦苦闘し、あとは意訳超訳の塊という感じです。
本作を実際にご覧になった(これから見てみたい)方はもちろん、三国志に関心のある方は何かの参考にしていただければ幸いです。
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(中国語の原文)
煮酒的火 還尚溫
多情 空餘恨
夜話的燈 還撩人
長夢 遇遊魂
欲蓋彌彰 他鄉月光
荒涼 某個 眼眶
現世彷徨 陣陣風涼
沉淪了 多少個 星霜
少年之志欲留青史
亂世百年剩無名氏
唯有餘年祭天下事
悲歌 唱山河
少年之志不渝終始
亂世百年皆如赤子
但使餘年了清平願
風落 歸人間
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温くなった 燗酒のように
果たせぬ思いが 空しく漂う夜
微かな灯火が 私をいざない
黄泉のあなたに 夢でまみえる
されど、異郷の月光は 私を現実に戻し
眼前の荒涼を 否応なく見せつける
今はもう この心は 風の中を彷徨うだけ
大切な時間は 遠く過ぎ去ってしまったから
私は歴史に名を残そうと欲したけれど
乱世の果てに 名も無き者として生き残った
ゆえに、残された時間は
世のために散ったあなたを弔い
悲しい物語を 山河に歌い継ぐのだ
私の志は逆境に負けはしなかったけれど
乱世では誰もが 赤子のように無力だった
ゆえに、残された時間は
ただ世の安寧のみを願う
そして、役割を終えた私は
ただの人として、閑かに生涯を終えるのだ
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絶対的な権威を持ちながらも、何の権力も実力組織も持たず、天下の平和と万民の安寧のため僅かな同志と共に知恵と勇気を尽くし、時には苦渋の決断も受け入れる献帝(主人公)の姿は、現代日本人にとって、ある人物ないし存在に非常に近接して見えることは、少なからぬ方が感じたのではと思われます。
それは、中国人のほとんどにとって馴染みがなく(或いは、何らかの誤解をしていて)、逆に、日本人なら、ある意味、とても身近に感じる存在です。
どうして、日本には、その方がいて、中国にはいないのか。
どうして、日本人はその方(の一族)の物語を描くことがないのに、中国はこのような物語を描いたのか。
今度は、そのことについて、考えたことを少し書きたいと思っています。
(8.3追記 訳詞の冒頭を差し替えました)