北奥法律事務所

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ダムカレーに続く新ブーム「ダム湖カレー」の発信を盛岡から

ここ10年ほど全国各地でダムカレーが流行しており、先日もその種のネット記事を見かけましたが、私の知る限り白飯を堰堤の形状に盛り付けるだけで、ダム湖そのものが主役になるタイプのものを存じません。

例えば、盛岡市内のカレー店が岩洞湖や御所湖、南部片富士湖(四十四田ダム湖)、綱取ダムをそれぞれ模したカレー皿(食べるのに困らない程度の形状のもの)を作り、皿の端の堰堤部分に白飯を盛り付けて「盛岡周辺のダム湖カレーシリーズ」などと題し、各種カレーを提供しても良いのではと思うのですが、どうなんでしょう。

1年半前に、盛岡の周辺には岩洞湖をはじめユニークな形状のダム湖が点在していることについて書いたことがありますが、堰堤にスポットライトをあてた「ダムカレー」だけでなく、湖の形状を皿によって表現した「ダム湖カレー」も考えていただきたいものです。

カレー皿の形状も、単に平面的に湖の形を真似るだけでなく、湖の部分を高く(深く)し、堰堤部分にあたる端のみ切れ落ちているデザインのものを作ってみるべきだと思います。

そして、その皿の端(堰堤部分)に、そのダムの形に即した堰堤の盛りつけをし、湖側にカレーを深々と注げば、さぞかし見応えのある光景がみられるかもしれません。

堰堤の外側にも皿のスペースを設けて福神漬などの付け合わせやサラダを敷き詰めれば、ダム下流側の姿もサマになるでしょう。

決壊を避けて上品に食べる人もいれば、あえて決壊させがる人もいるでしょうから、老若男女を問わず楽しめる商品に仕上がりそうです。

また、ロックフィルダム形式の「岩洞湖カレー」は、大食いチャレンジの方のため常人の3~4倍の皿も作り、ミニおぎにりを30個くらい敷き詰めて提供すれば、話題性抜群というか、壮観な姿を目にすることができそうです。

皿の形状に工夫が必要なので、陶芸関係者の協力が必要かもしれませんが、ぜひ試みていただきたいものです。

おらほのホープ?とトホホのロータリー聖地巡礼

7月にロータリークラブ岩手・宮城地区の会報に当クラブの「ホープ」という名目?で、私の紹介記事を載せていただきました。なお、写真が8年前の撮影であることは口が裂けても言えません。

いつも厳しくご指導いただいている吉田前会長は本当は「いつも例会に遅れて来る困った奴だ」と書きたかったかもしれませんが、ぐっと堪えていただき?記事では過分なお言葉を賜りました。

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だからというわけではありませんが、今年の夏は、とある事情で静岡県長泉町にある「クレマチスの丘」に行くことになったので、同じ町内にある、ロータリーの日本における創設者を顕彰した「米山梅吉記念館」にも立ち寄ることにしました。

で、やけに広い駐車場に入り、今まさに全国のロータリアンに「聖地巡礼しましたよ。羨ましいでしょう!」と高らかに自慢しようと入口に向かったところ・・・

なんということでしょう。

まさかのお盆休館(それも、かなり長い)で、やむなく、敷地内にあった「ポール・ハリス(RC創設者)の記念樹」と隣の「こども図書館」(こちらは開館してました)だけチラ見して、その場を後にしました。

しかし、このご時世、普通の平日に、全国から暇なおじいちゃん・・・もとい、真面目な会員さんが大型バスに乗って大量にやってくるということも滅多にないのでは、それよりも盆正月に静岡東部を旅行するロータリアンが、折角だからと立ち寄りたいニーズはそれなりにあるはずで、そうしたニーズに応えるため、盆正月も「人員を減らすなど経費をかけずに簡易な形態で開館する」ことが望ましいのでは(少なくとも、閑散期の平日に開館するよりもマシでは?)と思わざるを得ません。

昔、正月シーズンに浜松城や長篠の設楽原歴史資料館を訪れたときも同じ感想を抱きましたが、多くの関係者の方に考えていただきたいものです。

ともあれ、クレマチスの丘では、象徴的な存在というべき彫刻美術館や井上靖文学館、ベルナール・ビュフェの美術館、写真美術館などを廻りました。

今は小説を(司馬遼作品を除き)ほとんど読まない私ですが、学生時代に井上作品は多少は読んでおり、それらを出鱈目に組み合わせて

しろばんば風林火山の氷壁は淀の甍を巡る衆星

などと軽口を叩きつつ昔を懐かしんだりもしました。

彫刻美術館には隣に高級レストランがあり、軽口ついでに

一事がヴァンジの美術館 隣はサンジのレストランかな

と、つまらぬことを呟きながら彫刻と庭園を満喫した後、三島の楽寿園に立ち寄って、小旅行を終えました。

後日、この話をfacebookに載せたところ、紫波のご出身の方から、米山梅吉が紫波の彦部開拓にも尽力したとのお話をいただきました。

三井報恩会の彦部開拓は昔に新聞で読んだ記憶がありますが、米山梅吉の関与は存じておらず、三井財閥の事業なので言われてみれば納得ですが、そうした点から物事の繋がりを考えてみるのも興味深いと思いました。

天台寺に集う魂の華と金田一温泉に命水を求めて

5~10年ほど前から、毎年7月中旬に実家より「草刈りをしに来い」との出頭命令を受けるのが通例となっています。

実家の庭(のような場所)は相応に広さがあり、半日ほど時間をかけて従事しなければならず、しかも電動ではなく手動(剪定に用いる鋏)で延々と作業するせいか翌日から激しい筋肉痛に襲われるのがお約束で、心底迷惑というほかありません。

ともあれ、ただ二戸往復をするのもつまらぬということで、今回は、天台寺の「かつら庵」で蕎麦をいただき、ちょうど紫陽花のシーズンということで、境内を少し散策することとしました。

私自身は、紫陽花について青紫とピンクのイメージしかありませんでしたが、境内には白い紫陽花の群落がありました。

背丈の大きい杉林の下を埋め尽くすように咲いているのですが、木漏れ日を受けて白い紫陽花が輝いている姿は映画「もののけ姫」で森の妖精達が森を白く照らす光景にも似た、神秘的な何かをイメージさせます。

そんなわけで、亡くなった人々の魂が天台寺に集まり紫陽花の姿になって昇天しているのかもしれない、などと思って一首。

身が滅び心は白い紫陽花に集いて光り浄土へと往く

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ともあれ、重労働のあとは兄から金田一温泉センター(「ゆうゆうゆーらく」という日帰施設)の回数券を供給され精神的な回復を果たした後、報酬代わり?に出前の寿司をいただいて帰宅しました。

「ゆうゆうゆーらく」は老朽化のため来年に建替を予定しており、「オガール」で一世を風靡した岡崎正信氏らの関与のもと大がかりな計画が策定中らしいと聞いています。

個人的には、露天風呂が無いことのほか、風呂上がりにタダで飲める冷たい水を楽しみにしている身には、既存施設にそれらがない(レストランの利用者でないと水が飲めない)現状を非常に残念に感じています。

それらを備えている「ユートランド姫神」や山梨県北杜市白州町の「べるが」を、建替に従事される方々も参考にしていただければ幸いです。

新宿のシン・ゴジラと「リアル脱出ゲーム~僕のまちの破産からの脱出~」

今年の夏休みは「群馬の保渡田古墳群と埼玉の忍城と吉見百穴に行きたい」との私の提案が無慈悲に却下され、家族の専断的決定により新宿で行われている「東京ミステリーサーカス」の「シン・ゴジラからの脱出」に行くことになりました。
https://mysterycircus.jp/shin-godzilla/

私は「脱出ゲーム」が取り上げられたTV番組は見たことがないためよく分かりませんが、要するに、特定のテーマを素材にして2~4人で一組となり会場内で主催者から様々な課題(謎解き)を与えられ、答えを出して最終問題の解答に辿り着けばゴール、という仕組み(ルール)になっているもののようです。

で、家族が「シン・ゴジラ」を観て過剰に気に入ったため、これをテーマとした脱出ゲームをやってみたいとのことで、私も同行を余儀なくされたものです。

「ネタバレ禁止」なので込み入ったことは書けませんが、要するに、参加者は「巨災対」の一員となってゴジラを停止させる方策を立案するための謎解きゲームを60分の制限時間の中で繰り返し(計6~7個)行うというもので、映画をご覧になった方であれば、概ね問題なく楽しむことができ、大人でも相応に難しいと感じるように思われます(私がその種のものが不得手なだけかもしれませんが)。

そして、進行役となるスタッフの方々は「局長」役の方をはじめ相応に話芸などの訓練をして臨んでおり、終盤のシナリオを含め最後まで飽きさせずに拝見できたように思います(値段も相応のようですが)。

ところで、「何人かが集まって紙を広げてああでもない、こうでもないなどと話をしながら何某かの成果物を作って伝達する」という作業は、JC在籍時に、いわゆる「ワークショップ」で何度か経験しています。

ただ、私が経験した「ワークショップ」なるものは、各人が好き勝手に発言した内容を付箋にペタペタ貼り担当者が何となく内容をまとめて発表して、主催者が「皆さん頑張りましたね~」などと予定調和的にお褒めの言葉を述べるものの、それを起点として社会が何か実際に変わるわけでもなく、私にとっては面白くもなく、あまり有意義とも思えない営みだったというのが正直なところでした。

ですので、どうせ「ごっこ」の類に過ぎないのなら「夢中になって取り組むことができ、最後まで飽きさせない創意工夫が散りばめられている」こちらの脱出ゲームの方が遥かにマシではないか(だからこそ、安くない料金を払ってでも満席盛況の日々となっているのではないか)、言い換えれば、巷に溢れる「ワークショップ」なるものも脱出ゲームを参考にして参加者に様々な共同作業をさせたり謎解きのような娯楽性を備えた手法を開発した方が、結果として参加者にテーマに対し関心をもって取り組む動機付けを持たせることができるのではないか、などと思ったりもしました。

というわけで、「リアル脱出ゲーム~僕のまちの破産からの脱出~」の企画案(導入部)を考えてみました。

それこそ、山崎亮氏や木下斉氏などが脱出ゲームのライターの方と組んで、参加者を熱狂させる「あっと驚く、問題解決のシナリオ案」を擁して、全国の人々に「まちの様々な問題に取り組むマインド」を伝道していただければと思っています。

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君が住むA県B市は、20年前に当時の市長が推進した大規模リゾート構想の失敗などで巨額の債務を抱え、破綻の危機に瀕している。

役所内に飛び交う噂では、今日にもデフォルト(支払不能)宣言をして市内で行われているライフラインの供給や各種行政機能が停止し、多くの市民や企業がこのまちの未来を諦め遠方の大都市に転居・移転することになるかもしれない。

そんな中、若い市長の呼びかけにより、優秀だが地元では有数のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児・・(以下略)の面々が秘密裏に集められた。

破綻必至の巨額累積債務対策本部。通称「巨債対」。

君達は、副市長から委嘱された特別チームとして、巨額負債の原因となった市内の様々な問題に解決し、行政、議会、経済そして人々の意識を改革する作業を通じて、市内の社会経済全体の機能停止と破綻を防げ。

制限時間は60分。間に合わなければ、この街は倒産する。」

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余談ながら、新宿では、牡蠣狂いでありながら数年ほど生牡蠣がご無沙汰になっていた同行家族の恫喝と強要により、いわゆるオイスターバーで食事をとりました。

すると、店内入口のガラスケースに「赤崎」などと書いてあったので、大船渡の赤崎かと思ってメニューを見ると、大槌産、米崎産、釜石産などと岩手のオンパレードになっていましたが、それ以上に、夏なのに岩手の牡蠣=真牡蠣が生で食べられる(そうした技術が創出されている)ことに大いに驚かされました。

メニューには岩牡蠣と真牡蠣が数個ずつ掲載され、岩牡蠣は九州などのもの、真牡蠣が岩手と宮城のものと表示されていましたが、真牡蠣も岩牡蠣に負けず十分に美味しくいただくことができたように思います。なお、店内で提供している日本酒も岩手のものでした。

ともあれ、久しぶりに贅沢な食事をしたせいか、お店を出る頃には、

牡蠣喰えばカネが無くなり放心し

というのが正直なところで、幸い当家は現在のところ「巨額債務で破綻必至」にならずに済んでいますが、収益力に見合わない出費が続くことのないよう、財政健全化に努めたいものです。

元祖「美人すぎる歌人」が名付けた美しき洞内滝と、鉄のまちの今昔

しばらく急ぎの起案が山積しブログの更新ができませんでしたが、少し一息ついたので久しぶりに掲載することにしました。

先日、上記と同じ理由で住田町の滝観洞などを見に行きました。滝観洞は19年前に釜石の峠道を越えて訪れたことがあるのですが、現在は釜石道(仙人峠道路)により遠野市街からあっという間にアクセスできました。

滝観洞は「天の岩戸の滝」という美しい洞内滝(日本には観光可能な洞内滝がほとんどなく、日本で最も見応えのある洞内滝と呼んで差し支えないと思います)を目的地(メインスポット)とする洞窟で、他に大きな見所はありませんが、滝までは相当な距離があり、往復で30分~1時間弱を要するものとなっています。

天の岩戸の滝は、戦前の著名な歌人であり明治末~大正期を代表する美人の一人とも称された、歌人・柳原白蓮により命名されたものだそうです。

近年では、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で平成を代表する美人女優の一人・仲間由紀恵氏が準主役として好演を博したと思いますが、その不遇の生い立ちや当時の時代状況に照らして数奇でドラマチックな人生を送ったことなどを踏まえると、白蓮は、どのような思いを込めてこの美しい洞内滝に名前を授けたのか、色々と考えさせられます。

白蓮は、命名にあたり「神代よりかくしおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこそ来つれ」との歌を詠んだそうですが、或いは、身分の高い家柄の縁者として生まれた女性が様々なものに縛られていた時代に翻弄されつつも自分の気持ちに素直に生きようとした自身の姿を、戦後になって世に出でたこの滝に重ね合わせる面もあったのかもしれません。

というわけで、そんなことを思いつつ一首。

秘められし情が溢れて岩穿ち 人も驚く滝あらはるる

白蓮は啄木とは接点がなかったようですが、もし啄木が長命できれば、当時の人々がもっと自由に、自分の気持ちに沿って生きることができるための何らかの共闘が見られたのかもしれず、その点は少し残念に思いました。

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日本では、ここ以外で観光地化された洞内滝は、浜松市の竜ヶ岩洞(6年前に行きました)くらいではないかと思います。浜松の滝は割と簡単に行けたとの記憶ですが、こちらは、入口で貸与されたヘルメットを被り、ひたすら屈んで向かわなければなりません。そのため、肥満の方には、

滝観洞メタボの君は灰蓮洞

と言わざるを得ないように思われますので、ご注意ください。

滝観洞を拝見したあとは、釜石の鉄の歴史館に行きました。館内は製鉄そのものの歴史や社会での役割などを伝えるコーナーと、橋野から新日鐵住金に至る釜石の鉄の歴史を伝えるコーナーの2つから成り立っており、とりわけ橋野鉄鉱山が世界遺産(の構成資産)に指定されたことで、その点が重点的に取り上げられていました。

屋上からは釜石湾が臨めますが、その光景を遮るように釜石大観音が大きな姿を見せており、大観音がちょうど釜石湾の中央に鎮座していることがよく分かるものとなっています。

釜石大観音の建立は、大戦末期の釜石湾大砲撃(米戦艦群の艦砲射撃と戦闘機の無差別殺戮)で、700人以上の住民等が犠牲になったことへの慰霊という面もあると聞いたことがあるような気がします。

私のような世代は、TV等のせいか大観音が動き出して並み居る米艦群に向かって強力な熱光線を放つ光景を想像してしまいますが、それはさておき、観音像の背中を見ていると平和への祈りの姿を感じることができそうな気もします。

釜石湾 見守り祈る観音像 戦艦倒す砲は無くとも

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その後、釜石市に新たに開設された商業施設に赴いて、ちょうど開催されていた「釜石よいさ」をチラ見しつつ一休みした後、鵜住居地区を経由し橋野に向かいました。

休憩場所で頂戴したパンフレットに鵜住居の根浜海岸の美しい姿が掲載されており、今もこの姿が残っているのかと期待して現地に向かったのですが、やはりというか、残念ながら津波で美しい砂浜は消失していました。

ちょうどワールドカップの競技場が出来上がっていましたが道路などの整備が追いついておらず、迷路のような状態になっていました。

ともあれ、気を取り直して橋野高炉跡に向かったのですが、到着した頃には同行者は全員車内で就寝しており、すでに午後6時近くにもなっていたので、やむなく私一人で駐車場から現地に向かうことにしました。

現地は霧に覆われ、誰一人おらず、静寂な雰囲気に包まれていました。

日が暮れて遺跡も霧に眠るとき熊も狸も車中うたた寝

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その後、笛吹峠を越えて遠野市街を経由して盛岡に戻りましたが、峠の周辺は完全に霧に覆われており、少し前に見た「肘折峠」という不可思議な夢で描かれていた幽界につながる世界を彷彿とさせるものがありました。

ともあれ、皆さんも滝観洞(住田)や釜石エリアを訪れて様々な非日常を体験していただければと思います。

バンカラ応援歌練習とナチス体験を近づけるもの、遠ざけるもの

日本の大学で「ナチス体験」なる講義(それを通じて、ファシズムのメカニズムや克服法などを学ぶ趣旨のもの)が行われているとの記事を拝見しました。スタンフォード大学で監獄実験があったという話は学生時代にも聞いたことがありますが、それに近い(ものの、そこまでハードではない)授業のように見受けられます。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56393

この記事を拝見して真っ先に思い浮かんだのは、中学校の入学直後に行われていた応援歌練習(1年次だけか、他の年もあったかは覚えていません)の光景でした。

他県(或いは二戸市立福岡中以外)の学校(公立中)にも同じようなものがあるのか存じませんが、当時の福中では、入学直後に1~2週間ほど、毎朝、各クラスに応援団員(上級生。確か2年の男子生徒が6~7名ほど)が現れて「お前ら立てェ~」の怒号から始まり、延々と「大声だせェ~」と怒鳴りながら全員で応援歌の練習(絶叫の強要)を行う、という風習がありました。

毎朝30分程度だったと思いますが、クラスの朝礼の直後?に先生(担任)が姿を消し、ほどなく応援団員らが猛ダッシュで教室内に乱入して延々と怒号に終始するので、リアルなまはげというか、小学校を卒業したばかりの面々には結構な衝撃(異世界感)を受けます。

また、毎回、何人かが「声が小さい、手振りが弱い」などと文句(難癖?)を付けられて団員に廊下に連行されて2~3分ほど怒号説教をされるという光景もあり、トラウマというか嫌な記憶だという方も相応にいるのだと思います。

ただ、正直なところ私は大声を出すのが全く苦にならず、そのせいか団員に連行(説教)された経験もほとんどなく、むしろ、絶叫できる爽快感と、連行の恐怖から逃げ切るドキドキ感、或いは、自分だけが連行から免れたある種の優越感?といった、さほど否定的ではない記憶しか残っていません(何度も連行された方にとっては、嫌な記憶しかないのでしょうけど)。

応援歌練習の目的(建前上の?)は、初夏の時期に行われる二戸地区の野球大会に全校生徒を動員し、応援団の指揮のもと全校生徒が応援歌やエール等を行う(絶叫する)ためであり、そうした練習の甲斐もあって?1年生は従順に絶叫(熱唱)し、その光景は相応に壮観ですし、試合が好調な展開で応援にも一体感があった場合などは、鳥肌が立つような感覚を抱いたこともあります。

尤も、3年生になると、応援団の恫喝を受けないせいか?ほとんど誰も応援(熱唱)をしなくなり全学年丸ごと単なる観客状態になるのですが、私自身は「隠れ絶叫好き」のため、みんな真面目にやればいいのに(一人だけだと絶叫できなくてつまらないじゃないか)と感じた記憶があります。

で、引用の文章に話を戻しますが、当然ながら、応援歌練習には「総統(団長やクラスに配置される団員など)に個人的な忠誠を誓わせる」などというものは存在せず、(団員による連行説教を一応別とすれば)集団で誰かを理不尽に攻撃・糾弾したり、まして何らかの悪行に向かわせるような行為も一切ありませんので、当然ながら「ファシズムだ」などと非難すべきものではありません。

しかし、この「装置(風習)」を悪用すればどうなのだろう、と思わないでもありません。

例えば、応援歌(エール)に、「何トカ中はゴキブリだ、ぶっ殺せ~」などとヘイトスピーチが入れば、完全に「ナチスの入口」になりそうですし、声や手振りが小さいなどと叱られた人を教室の壇上に上げて皆で糾弾するようなことをし始めたら、その後どのような展開がクラス内で生じるか、誰でも想像がつきそうな気もします。

常識的に考えられない前者はまだしも、後者については、例えば応援団の誰かがそうしたことをやりたいと言い出した場合に、果たして皆がそれに抵抗できるのか、どのような光景が出現するのか、空恐ろしくも興味深く感じてしまいます。

中学時代は誰もが何らかの不安や不満・鬱屈を抱えていますので、そうした方向に集団を誘導することは、一定の条件が揃えばさほど困難ではない(だからこそ、いじめ云々が後を絶たない)のだと思われ、余計に「悪用しようと思えばできないこともない風習」が中学校の最初の入口で設けられていたことに、ある種の薄気味悪さを感じないこともありません。

少なくとも、この風習(装置)にはそうした「怖さ」もあるのだとか、そうであればこそ、この「集団の力」が誤った方向に用いられることなく社会にプラスになるように生かしていかなければならない、などということを誰かに教わった記憶は私にはありません。

先生(教員)達は、この風習に対し表向き?はノータッチ(治外法権?無関心?)を貫いており、授業で応援歌練習の意義などについて、感銘を受けるような説明を受けた記憶も全くありません(初代応援団長をなさった方から、創設秘話などを伺ったことはあります)。

それでも、私が一応知る限り、応援歌練習(によって培われた何らかの集団無意識)が「暴走」することなく、誰かを攻撃するための装置として機能することがなかったのは、限られた期間のささやかな経験に過ぎなかったからなのか、我々が曲がりなりにも幸せな時代を送ることができた(ので、暴発を引き起こすガソリンそのものが無かった)からなのか、それとも、我々も知らず知らずのうちに人間の尊厳を大切にする教育をきちんと受けていたということなのか?その点は今もよく分かりません。

ともあれ、私は、子供の頃から「ひとりぼっち」で時間を過ごしすぎたせいか、人間の集団=暴力装置(の予備軍)というイメージ(不信感、不安感)が勝ちすぎ、どんな団体・集団に所属しても、「この人達は個人としては良い人ばかりなのに、群れるといずれは自分に悪意や敵意を向けてくるのだろう」という感覚を今も拭い去ることができません。

そんなメンタリティの中で「声量が大きいため応援歌練習に馴染んで絶叫を楽しんでいた自分(そうした時間も過ごしたこと)」はどのような意味を持ちうるのか考えさせられると共に、あの時間も「疑似ナチス体験」などと評したら怒られそうですが、各人が、引用記事や上記に述べたような価値とリスクを理解できるのであれば、それはそれで意義のある体験だったのかもしれない、と感じるところもあります。

少し検索したところ、そうした「バンカラ応援歌練習」は、岩手の高校にはそれなりに存在する(他県にはほとんどない)ようですが、私自身はそうした風習とは無縁の函館の私立高に進学したため、高校の光景については全く分かりません。

その種の経験をなさった「仲間」の方から、このような観点を踏まえたご自身のお考えを伺う機会もあれば有り難いなどと思ったりもします。

余談ながら、家庭持ちに成り果てた?現在はともかく、受験勉強と読書など(と山登り)で過ぎ去る大学時代を送った身としては、当時、リア充を弾劾する絶叫に心底加わってみたかったものです(笑)。

啄木の未完の志とふるさとへの宿題

今年のGWは遠出ができなかったので、せめてものということで啄木記念館に行ってきました。

館内は啄木の生涯を簡潔に説明しつつ関連する様々な資料や写真を展示しており、啄木に十分な知識があり関心の深い人にとっては相応に見応えがあるのでしょうが、「啄木とは、どのような人間で、社会に対してどのように意義のある関わり(貢献)をしたのか」についての一般向けの説明(とりわけ、若年者向けのもの)をほとんど見かけません。

そのため「ほとんど何の予備知識もなく啄木の名前と歌人であること程度しか知らない人」にとっては、見ても何だかよく分からないものばかり展示しているだけの施設という印象しか受けないのではと感じました。

私の理解では、啄木の意義(功績)は、明治という曲がりなりにも四民平等(身分制とそれに伴う様々な社会的桎梏からの解放)の理念が掲げられた社会において、一般の人々が自分自身の様々な感情(心象風景)を自分の言葉で伝えることの意義・価値を社会に広めた、言い換えれば、そのような営みを、皆がしていこうじゃないかと働きかけたという点だと考えます。

そして、啄木の歌が今なお多くの人に愛されているとおり、啄木が、平易でありながらセンスのよい言葉(言い回し)を用いた短歌を多く残したことは、聞き手に対し、そのような言葉(表現)の心地よさを感じさせ「自分の言葉で自分の気持ちを語る」ことの意義や価値(人々の心の解放)を、社会に浸透させてきたと言えるのではないかと思います。

現代は短歌という文化自体は当時より廃れたかもしれませんが「自分の気持ちを平易な言葉でセンス良く語る」という文化は、この100年以上の期間においてポップミュージックの気の利いた歌詞など様々な形で社会に浸透したとも言えるわけで、そのような意味では、啄木の歌はそれらの源流の一つと位置づけても過言ではないのではと思われます。

記念館の敷地内には与謝野晶子の歌碑もあったのですが、現代人の感覚からみれば、いかにも古めかしいというか、啄木の歌ほどの「現代人から見てもセンスがいい感じ」を受けず、そうした意味でも「100年以上先に残る仕事」を啄木がしたことは間違いないと思います。

このように考えているのは私だけでなく、以前に少し調べたところ、NHK盛岡放送局が同趣旨のことを述べた番組を放送していたようです(引用の記事は、現在は閲覧できない状態になっており、NHKは引用記事を復活させて記念館に掲示するよう働きかけていただきたいものです)。
http://www.nhk.or.jp/morioka/obandesu/newsnohatena/130430/index.html

しかし、以上に述べたようなことを伝える掲示などはこの記念館には全く見受けられません。それゆえ、意地の悪いことを申せば、この施設を運営する人々(お役所?)は、啄木の意義や価値を社会に伝えよう、多くの人に知って貰おうという考えを本当に持っているのだろうかと疑念を感じざるを得ません。

振り返ると、啄木の人生自体、金田一京助や宮崎郁雨など幾人かの理解者に恵まれたものの、自身や父の生活上の至らなさもあって?故郷の人々に「石もて追はるる」ように渋民を去り流浪の人生を送ったわけで、その本質的な意義が地域の大多数の人々に理解されない状態にあるのは、今も昔も同じということなのかもしれません。

先駆者であると共に成功の果実に接することなく貧困の中で無念の死を遂げた啄木は、渋民そして盛岡に余人には代え難い不朽の香気を遺しつつ、自身は、「産まれてくるのが早すぎた、100年後に生まれたかった、そうすればイケメンの俺様はポップアーティスト(シンガーソングライター)として財を築くこともできたのに」などと、天上で不満を述べているのではとも感じます。

啄木鳥は秋の季語だそうですが、啄木の人生は、春の訪れを告げつつ暖かい春爛漫の頃までに散ってしまう、早咲きの桜に喩える方がよいのかもしれません。

ふるさとの桜となりし啄木鳥は 春を告げるも春生きられず

ご承知のとおり、私はこのブログで「短歌(や川柳)のまがいものらしきもの」を時々作って掲載しています。これは、静岡県富士市の「ふじのくに田子の浦みなと公園」で山部赤人の歌碑を見て、蝦夷の末裔として返歌を作ってみたくなったというのがきっかけなのですが、「岩手の県北に生まれて、盛岡・函館・東京の3ヶ所を転々とした人間」の一人として、前述した啄木の意義・価値を、私なりの悪あがきで現代の人々に問い続けたいという気持ちの表れかもしれません。

私が訪問したときは、記念館では啄木が「一握の砂」の中で執筆した、「林中の譚」と題された寓話をもとに作られた紙芝居が上映されていました。

土木文明に狂奔し乱開発による富貴自慢に明け暮れる人類をサルが嘲笑うという類の話で、現代人にとってはさほどの新鮮味はありませんが、当時そうした問題意識を持っていたのは、足尾鉱山事件に関わった田中正造くらいでしょうから、晩年に見られた人民主権的(自由尊重)的な政治姿勢も含め、当時なら先駆的な知見ということになるのではと思われます。

と同時に、そのこと(自然尊重と畏敬)は、北東北の片田舎で育った我々にとって当たり前の事柄でもあり、そうであればこそ、それらの根底にあるもの=縄文あるいは蝦夷のアイデンティティを何らかの形で再興させていく責任を我々は負っているのではと思わずにはいられませんでした。

米朝首脳会談にふさわしい「日英の良心が遺したシンガポールの聖地」

6月12日に行われた米朝首脳会談の際、両国首脳がそれぞれ宿泊したホテルのすぐ近くに、世界遺産・シンガポール植物園があります。

かつて、大日本帝国軍がシンガポールを精強な英国軍から電撃的に占領した直後、突如、この島に二戸出身(旧制盛岡中学卒)の田中舘秀三・東北帝大教授が現れ、英国人の研究者らと協力して植物園や博物館などの貴重な学術資産を戦災の混乱から守ったという逸話を、1年半前にブログ等で紹介させていただきました。

植物園のシンボルであるバンドスタンドとその一帯は、今も、英国庭園の面影を残したまま、同国有数の「結婚記念写真スポット」として人気を博しています。

可能なら首脳会談はこのバンドスタンドで行っていただければ、戦争に依らずに物事を解決するとのメッセージを、より世界に伝えることができたかもしれません。

安倍首相の側近にもこのような演出を勧める人材がいればよいのになどと、余計なことを思ったりもします。

民族の誇りは覇道の愚ではなく 学を尊ぶ真心にこそ

と当時、戯れに一首作ってみましたが、世界中の国家指導者の中で今最もその言葉が向けられるべき2人がこの島で出会いの場を得たということに、少し不思議なものを感じてしまいます。

因果なドン・ファンより最高裁のドンパン節

先月に不審死を遂げた和歌山県田辺市の実業家の方については、他殺が強く疑われる一方で犯人の特定・立件が困難ではとの報道もあり、ワイドショーの格好のネタとして世間の注目を集めています。私は、さほどこのニュースに関心はなく、

紀州のドン・ファンより秋田のドンパン
富豪のカサノバより肴町のモリノバ
美女へのバラマキより花巻バラ園
そして、迷走の年の差婚より名将・島左近

といった感じではありますが、誰が逮捕等されるにせよ、否認事件になる可能性は強いでしょうから、殺害行為と直接に結びつく証拠が見つからず情況証拠のみで立件せざるを得なくなった場合、平成22年の最高裁判決の要件にあてはまる事実(証拠)を突き止めることができるかで結論が決まるのかなと思って眺めています。

この判決は、情況証拠のみで犯人だと認定するためには、「Aが犯人でないとしたら、合理的に説明できない(少なくとも説明が極めて困難な)事実関係が含まれていることを要する」と述べているのですが、否定の否定が肯定の要件という感じで、何度読んでも分かりにくく、混乱しやすい文章だなぁと思ってしまいます。

「Aが犯人だと考えないと説明のつかない事実が含まれていることを要する」と書いてくれた方がよほど分かりやすいと思うのですが、要件的に何がどう違うのでしょうね。

それで結論が決まるような難事件が配点されることがあれば、判決の解説文などを読んで双方の違いを考えたりしなければならないのでしょうが、零細事務所の経営者としては、そんな日が来ないことを願うばかりです。

現在は、ドン氏の愛犬が掘り出されて死因の調査がなされているとのことで、本件で「犬が服薬死と判明し投与者も特定された」場合、殺犬だ→殺犬犯が殺人犯じゃないかと感じる人が益々増えるとは思います。

ただ、それだけでは最高裁判決が示す「決め手の事実」にはならないと評価されそうな気もしますので、検察は色々と事実を積み上げて「Aが犯人でないとしたら合理的に説明できない事実が(総合的に)存在している」と主張することになるのかもしれません。

報道などによれば、ドン氏はこの犬を法定相続人より優先する受益者とする信託契約などをしていたか判明していないとのことですが、本件では、犯人がドン氏の愛犬を先に殺したいと考えるだけの明確な事情であるとか、犯人と被害者の関係破綻などの(明確な)事実がなくとも、何らかの思い込みや衝動などで犯行に突き進んだのでは、というストーリーを、全国の皆さんが推測しているのかもしれません。

私がこの事件にあまり関心を持てないのも、そうした「軽率・短絡の匂い」がプンプンして、被害者を含めた登場人物に、人の心の深淵や善悪の彼岸に迫る深みのある世界を感じ取れないから、という点にあるのかもしれません。

誰が犯人かはともかく、過ぎたるは及ばざるが如しの連鎖という印象の否めない事件であり、子供向けの昔話の素材にでもなりそうな気もしますが、ともあれ、真相究明に向けて、関係者のご尽力を期待したいところです。

余談ながら、某先生によれば、銭形平次シリーズにも、これと似たような話(先に犬が殺されるもの)があるのだそうで、「素人の粗探しより紫波のあらえびす」といったところかもしれません。

(R03.04追記)

急展開の逮捕報道を機に、気の利いたフレーズを追加できればとも思い、以下のものを考えてみましたが、島左近を超えるネタが思いつかず、残念です。事件自体の私の見立ては既出の文章のとおりですので、これに即した事実が今後明らかになるのか、注視したいと思います。

見慣れぬクズより南方熊楠
不審な大豪邸よりgoto家族と安普請
遺骸の覚醒剤より隠せない意外な事実
神棚に飾る妻より神隠しに遭わぬ人生

ともあれ、折角なので、すべて繋げてお笑い芸人の方などが弾き語りソングなどを披露されてもよいのでは・・などと、余計なことを考えてしまいます。

企業施設の重大事故における賠償不払リスクの実情と解決策(後編・中三ガス爆発事件)

先般、報道のあった「盛岡市内の託児施設の塩中毒死事件」を題材に、「重大な事故を惹起した者がその責任をとることができず被害者が放置される事案が頻発しており、保険の義務化(施設開設等の許可条件化)が必要ではないか」という趣旨のことを述べた投稿の後編です。

引用した報道があった直後に前回の投稿をfacebookに載せたところ、震災の発生直後(平成23年3月)に盛岡市の中三デパート地下で発生したガス爆発による死亡事故を巡る問題に関心をお持ちの方から「その件でも遺族が賠償を受けられず、気の毒だった」という趣旨のコメントが寄せられました。

私自身はその事件にも全く関与しておらず詳細を存じませんが、中三が民事再生手続をした関係で同社から遺族にはほとんど賠償金が支払われず、そのため、遺族が(中三も)ガス供給を行っていた会社(地元のガス会社)に対し、過失があったと主張し賠償請求をしています。

そして、ガス会社側(の損保)が巨費を投じて強力な反証を行ったせいか、敗訴してしまったため、なおのこと遺族は辛い思いをしたのだと、コメントを寄せた方は憤慨していました(H30.6.8付の岩手日報記事によれば、遺族に対しては450万円の見舞金を支払う趣旨の和解が成立し、中三からガス会社への訴訟は控訴棄却となったとのことです)。

この件についても、施設管理者たる中三の被害者(遺族)に対する賠償責任は争いがないと聞いていますので(工作物責任でしょうか)、もし中三が施設賠償責任保険に加入していれば、民事再生に関係なく遺族には適正な損害賠償の支払がなされたはずです。

その場合、「中三のガス会社への訴訟」はともかく、少なくとも遺族自身は、責任論に熾烈な争いがあり立証や敗訴などのリスクの高い裁判をガス会社に提訴しなければならない負担を免れることも言うまでもありません。

だからこそ、その件で最も罪深いことは、中三が事前に、その被害を対象とする施設賠償責任保険に加入していなかったことだと言うべきだと思います。

そうした意味では、施設側が賠償責任保険に加入することは、事故の被害者(になりうる者)はもちろん、ガス会社など「施設が責任を果たさないことにより賠償請求を受けるリスクのある者」にも必要有益なことであり、ひいては、その会社らの損保にとっても同様だと思います。

そうであればこそ、中三事件は「施設賠償保険の義務化が必要であることを示す典型例」として、被害者・ガス会社・損保会社の3者が、それぞれの立場で保険義務化=商業施設の開設者(営業主)に施設賠償保険への加入を営業許可等の条件として義務づける制度の導入について声を上げていただければと思いますし、今回の塩中毒死事件も、同じリスクに直面しているのであれば、同様のことが言えるのだと思います。

また、このように保険を通じて早急な被害回復を図る制度は、①加害者自身の救済(更生)、②事故そのものの防止につながることの2点からも、必要不可欠なことではないかと考えます。

交通事故の無保険などを例に出すまでもなく、本件(塩中毒死事件)でも、巨額の賠償責任を個人が果たしうるはずもなく、加害者本人はその重すぎる責任と向き合わなければなりません。何らかの私財をお持ちであれば、それはほとんど全て賠償責任の履行にあてる必要があります(破産免責に関しては、故意との認定があれば悪意不法行為を理由に非免責債権となる可能性が相当にありますが、過失認定だと免責の可能性が高いでしょう)。

交通事故を引き合いにするまでもなく、高額な賠償責任を負うリスクのある業務などに従事する者にとっては、賠償責任保険は、自身を破滅させることなく責任の履行(けじめ)を果たす制度であることは言うまでもありません。

そして、保険の義務化を通じて、損保会社等が保険事故(支払)を減らしたい(それにより収益や保険料抑制による顧客の支持を得たい)という正当な動機のもと、事故防止や業界の質の向上のための取組み(適正な審査と契約拒否だけでなく被保険者への相当な監視・監督、交通事故であれば道路状況や車両装置などの改善を含め)を熱心に行う制度や慣行が確立されるのであれば、高額な賠償責任が生じる深刻な被害の発生そのものが確実に減っていくことでしょう。

そうした制度・慣行が作られるまで、あと一体何人が泣けばいいというのか、政治家云々に限らず、様々な関係者の熱意と行動を強くお願いしたいところです。