前田有一氏の「超・映画批評」での激賞に釣られて、「シン・ゴジラ」を見に行ってきました。私は、平成9年の司法試験の合格発表日=合格を知る直前に新宿の映画館で「エヴァンゲリオン」の最終話を見ましたが、庵野監督の映画を見るのはそれ以来で、何となく特別な感慨があります。
http://movie.maeda-y.com/movie/02100.htm
それはさておき、前評判どおり大変興味深く拝見し、娯楽作品として大いに楽しむと共に色々と考えさせられ、大満足の一作でした。
以下、ネタバレを極力避けつつ、強く印象に残ったことを少し書きます。
1 稲田防衛相vsシン・ゴジラたち
まず、前半の「突然の災禍に右往左往する日本政府の面々の姿」については超映画批評で述べられているとおりですが、その中で、防衛大臣として気丈に総理の決断を求める女性の言動などが、現防衛相たる稲田大臣とイメージが重なると共に、映画の製作時には現実(公開時)の人選まで予測するのは困難でしょうから、ある種、神がかり的なものを感じました。
特に、米軍機が活躍したある場面で、この女性(防衛相)が全く嬉しそうにしていない一幕があったのですが、この瞬間は、安倍首相が心中望んでいるであろう?対米自立路線の後継者と目される稲田大臣の姿が特に思い浮かび、もし同氏が演じられた場合にはどのような表情になるのだろうと想像せずにはいられませんでした。
総理や官房長官の言動なども、どなたをイメージするかはさておき、現実の政治家の方々に近いものを感じたという方もおられるかもしれません。
2 震災をバネにして作られた、最初?の名作
次に、私がこの作品で特に感じたのは、この映画は東日本大震災津波を明らかに意識している、仮にそうでなくとも、あの震災がなければ、これほどのリアリティを感じさせる力作は生まれなかったのではないかということと、同時に、この作品は震災(被災者)を冒涜することなく、むしろ、震災以後、日本国内の「作り手」の全てに与えられた「震災を題材(誤解を恐れずに言えば「ネタ」)とつつ、被災者に顔向けできるだけの質の高いメッセージ性を持った作品を作る」という宿題に、真っ向から取り組んだ作品ではないかという点でした。
この臨場感は映画館でぜひ見ていただきたいのですが、とりわけ前半部分(やラストシーンあたり)で、あのときの災禍の最中や津波が去った後の光景として国内であまた流れた映像を強く意識した場面(報道の伝え方などを含め)が非常に多く出てきます。こうした「デジャヴ感」は、震災に限らず、冒頭で生じる地下道内の自動車事故のシーンは、数年前に我が国で生じた某重大事故を想起させるものがあります。
だからこそ、それら災害への関わりが近かった人ほど、これらの映像を見ていると、心揺さぶられるものがあることは間違いありません。
他方、誤解を恐れずに言えば、私はこれらの映像を見て、よくぞこれを映像化してくれたという奇妙?な感覚を抱かずにはいられないものがありました。
というのは、震災からしばらくした頃から「震災は未曾有の災禍だが、そこから人間は多くのものを学ぶなどしている(学ぶべきでもある)のだから、震災を題材に、現代や人間の様々な課題の解決を大衆に問うような芸術作品や娯楽作品などが作られるべきだと思っていました。
が、私の勉強不足かもしれませんが、「震災を題材にしたメジャーな作品」と呼べるものは、みんなで歌って涙する(した)「花は咲く」くらいのもので、被災者の尊厳を害しない形で震災の災禍を再現しつつ、より高次のテーマを提示するような作品というのは、ほとんど見られなかったのではないかと思います。
それだけに、様々な重要テーマを社会に広く伝えている本作において震災を強く想起させるシーンが繰り返し使われたことは、特別の意義があるのではないかと感じています。
3 「核や放射能の災禍への抗議(と克服)」という主題と庵野監督の集大成
超映画批評では、日本社会の組織の特性やその弱さ、強さの表現こそが本作の重要なテーマであるという趣旨の説明がなされており、大いに首肯するところはあるのですが、他方で、世間で言われるゴジラのテーマは、「核や放射能の災禍への抗議」という点ではないかと思います。
本作でも、この点は、中盤の最重要シーン(ゴジラが大きな災禍を表現する場面)で強く強調されていたのではないかと思いますし、その災禍が、誰のせいで発動したのか、或いは誰に向けられてなされたものであるか、そして、それを発端として日本人・日本社会が甚大な被害を受けたという、あの場面の描き方は、それを引き寄せた日本政府側の対応を含めて、核や放射能の惨禍への抗議を伝えることを目的としたと言われている初作の忠実な再現という点では、真骨頂と言えるシーンではないかと感じました。
また、本作ではあまり踏み込んだ表現はなされていないものの、震災(原発事故)以来、誰もが夢にみてきたであろう「放射線被害の抜本的解決策」という論点も提示され、そうしたことも含め、日本が描く現代版ゴジラとしての面目躍如だと感じました。
恥ずかしながら私自身は初作をはじめゴジラシリーズをほぼ全く見たことがなく、すぐにでもゴジラ初作を借りて見たくなりました。
また、この「ゴジラの大暴れシーン」は、我々の世代なら多くの方が巨神兵をイメージしたでしょうし、ある意味、ゴジラと巨神兵(数年前にTVで放映されていた「巨神兵東京にあらわる」を含め)とエヴァンゲリオンの3つを「だんご三兄弟」のように力技で統合した(一括りにまとめた)名場面だと感じ、それが核の恐怖による支配という現代社会への抗議との見方ができることと相まって、怖さより感動?で目頭が熱くなるものがありました。
4 現代日本が「大久保利通が江藤新平を惨殺して作った国」であること
ところで、本作には、弁護士はもちろん裁判官も検察官も、法務大臣すらも含めて「司法」の関係者が全く登場しません。映画の登場人物は、逃げ惑う大衆を別とすれば、名前があるのは自衛隊などの現業部門から大臣まで、ほぼ全て「行政」の関係者で、立法部門も与党政治家が少しばかり登場する程度になっています。国会議員であろう主人公らも、国民との直接のつながりを感じさせる場面がなく、「官」の一員としての面を色濃くしています。
震災の発生時や直後に現実の司法業界の存在感が希薄だったのと同様、「生の暴力」が出現する場面では出番が生じにくいのかもしれませんが、作品前半は法律(対処法令)に関する話が矢継ぎ早にでてくるだけに、ゴジラ(社会の存立脅かす存在)と総力戦で対決するニッポンという光景に狭義の法律家には出番が与えられていないことには、一抹の寂しさを禁じ得ません。
前田氏の言葉をお借りすれば、この作品の主要テーマが「日本という国家の強靭さ、しぶとさ」であるだけに、改めて、我が国における司法部の存在感のなさを印象づける作品だなぁと感じる面はあります。
ただ、そうした「国家というイメージの中での司法部の存在感のなさ」は今に始まったことではありません。
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」には、現代日本の礎をなした明治の創生期に日本の政治体制の路線選択を巡って大きな政争があり、「行政官僚が国家の設計図を描いて主導し、国民はそれに従う代わりに行政に保護される」道を重視した大久保利通と、「国民の人権・自由を広く保護し、国民が議会を通じて権利・利益の実現と国の舵取りを図ることで社会を発展させると共に、ルール違反があれば徹底的に取り締まる」道を求めた江藤新平との争いがあり、江藤があまりにも無残な形で大久保に負けて悲惨な殺され方をしたことと、それが我が国における体制選択の大きな岐路であったことが詳細に描かれており、この点は、最近刊行された「逆説の日本史」の最新刊にも若干ながら触れられています。
この政争などで大久保が勝利し現在まで続く強固な官僚制度を構築したことが明治政府の運営を決定づけたことは巷間よく言われていることではないかと思いますし、「ニッポン国家のしぶとさ」をテーマとする本作において司法の出番がないことの根源を考えると、ここに行き着くのではないかと感じます。
その上で、一見すると基本的人権や国民主権などという江藤の理想が実現したようにも見える現代日本においても、「ニッポンを守護するのは行政官僚群による国家堅持の知恵と国民保護の情熱だ」として説得的に描かれていることに、この問題のある種の根の深さを感じずにはいられないところがあります。
余談ながら、大学生が憲法を勉強する際に最初に学ぶことの一つに「司法消極主義と付随的違憲審査制」がありますが、私は、これらの淵源は米国ではなく、司法部の利害を最初に担った江藤新平があまりにも悲惨な負け方、死に方をし、これに伴い戦前社会で司法が行政に仕えるものと位置づけられてきたことが、日本の司法消極主義の根底にあるのではと思っています。
ちなみに、ご存じのとおり、大久保利通も西南戦争の直後に非業の死を遂げるわけですが、その後、彼の遺志を継ぐ人々により「行政国家・大日本帝国」が建設されていったことを考えると、「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」という作中のセリフも、また違った深みや課題を感じさせてくれる面があるように思います。
5 描かれた「弥生国家ニッポン」と「縄文の道(或いは、サツキとメイ)」の不存在の寂しさ
もう一つ、本作の特徴として感じたのが、ゴジラと向き合う人々の姿勢が、撃滅であれ他の道であれ、ゴジラを人間にとってコントロール可能な(コントロールすべき)存在として認識しており、こうした超絶的な存在を、人間を超越した存在(神)として崇め奉ろうとする(そうした観点から共存の道を図ろうとする)人が誰も出てこなかったという点でした(この点は、ややネタバレになってすいません)。
昔の日本映画なら、「八つ墓村」で登場するヒステリックな老婆のように、新興宗教まがいの扮装で、ゴジラと戦うな、畏れ敬えなどと叫んで大衆に呼びかけるエセ宗教家のような御仁が登場することがあったと思いますし、そうしたパロディ的な話ではなく、真剣にゴジラとの共存の道、或いは、物語の結末とは違う方で、ゴジラから人類が物事を学ぶような道もあり得ると思うのですが、そうした「ゴジラと向き合うもう一つの選択肢」は全く議論などされることがなかったという点は、「尺」(放映時間)の問題もあったのかもしれませんが、正直なところ寂しく感じました。
それと共に、後半部分のゴジラとの対決計画を着々と練り上げ、組織として粛々と遂行していく登場人物達の姿を見ていると、「神(異界の超越的存在)なき世界」を描いているように見え、縄文的(自然界に潜む超越的な存在を畏敬しながらその恩寵に与るという思想)ではなく弥生的(自然界の惨禍を人間の努力で克服し、それを前提に自然の恩恵を受けるという思想)な世界観を強く感じました。
この点は「となりのトトロ」など宮崎駿監督の作品と対比すれば分かりやすいのではと思いますが、「トトロ」では、超越的な存在であるトトロと少女達が親しくなり、子供なりの畏敬を交えてトトロの奇跡を楽しんだり助けられながら共存していく姿が描かれていますが、同じ「異界の存在」でありながら、本作のゴジラと人々との間には、そうした光景ないし端緒は描かれていません。
それだけに、仮に、宮崎監督がゴジラ作品に携わることがあれば、そうした「人とゴジラとの共存」をテーマにした、本作とも全くコンセプトの異なるゴジラ作品を練り上げてくるのではないか、また、それ(人間の超越的存在への向き合い方)こそが、宮崎監督と庵野監督との分水嶺なのかもしれないなどと感じました。
また、超映画批評では石原さとみ氏の熱演について「崩壊一歩手前のおバカ演技をみせる素っ頓狂なキャラクター」と評されていますが、現代ニッポンに「天上」から様々なお達しをしてくる某国を「今どきの神サマ」と考えるのであれば(本作でも、某国の要求が自分勝手だ(が逆らえない)と首相らが愚痴をこぼす場面が頻出します)、さとみ氏がエキセントリックに熱演する女性の役回りは、某国の代理人としてその言葉を伝えると共に、某国と日本政府を仲介し、主人公をはじめ日本の指導者の進む道を決定づける点など、まるで現代の卑弥呼そのものと言うことができます。
そうしたことも含めた「縄文vs弥生」という伝統的な日本文化の観点も交えて本作のディテールを解釈してみるのも、面白いのではないかと思ったりします。
6 おまけ
極私的な感想で恐縮ですが、個人的には、「八重の桜」で山川浩の姉を演じていた市川実日子氏の熱演が印象に残りました。私自身が、目が大きくて細身で気が強くて頭の回転が速く早口で異端児の女性に惹かれる類の人間だからかもしれません。
そうした観点から当方家族の過去と現在を思うと・・・
おっと、コマさんタクシーとおぼろ入道華雄が来たようだ。