北奥法律事務所

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中央大OBの「大臣」の連続登板記録?の消滅と雑談

新たな内閣(改造を含め)が発足する際、今回は我が校のOBの大臣さんはいるのだろうかと見てしまう中央大出身者は、私だけではないだろうと思います(こうした感覚は東大や早慶のOBの方は無縁でしょうが、他の六大学や「マーチ」などの大学の方はどうなんでしょうね・・)。

で、私の記憶では「箱根駅伝に辛うじてシード校入りする(少なくとも予選会では落ちない)」のと同じ程度の感覚で、どの内閣でも一人くらいは中央大の出身の大臣さんがいたような気がするのですが(先日までは、山形の遠藤大臣がおられました)、今回の第3次安倍第2次改造内閣では、公開情報をざっと見る限り、残念ながら中央大の出身者が一人もおられないようです。

その上、土曜の新聞に載っていた副大臣名簿にも中央大の出身者が一人もいないという惨状になっていました。

唯一?の救いは、政務官(財務省)に真法会の先輩である三木亨議員(参院徳島選挙区)を発見できたことです(政務官の出身校情報を表示した記事を発見できていないため、他にもおられるかもしれませんが)。

三木さんは、私が入学(入室)した時点で大学は卒業されており、私自身は少しご挨拶させていただいた程度でしたが、ネットで表示されている現在のお姿と比べて、もっと髪が長く、スリムな体型(顔立ち)だったような記憶があります(体型云々は、私が言ってもブーメランになりそうですが)。

それはさておき、自民党の執行部では、中央大の弁護士OBなら皆ご存知であろう高村副総裁だけでなく、二階幹事長もOB(しかも私と同じ政治学科卒)とのことで、その点は恥ずかしながら今はじめて知りました。

ともあれ、他党の議員さんも含めOBの政界関係者の方々におかれては、他大学の方々に負けずに中央大らしさを発揮しご活躍いただければと願っています。

と、こんな話を書くと、お前もそっちの世界に色気があるのかと誤解を招くかもしれませんが、面識のある方々なら多言を要せずともご存知のとおり、私は、大学2年の真法会の役員選挙(信任投票)の際、同期のA原S太郎センセイと共に「最低得票率で賞」を頂戴した身であり、その種の経験は何度もしていますので、選挙(人気投票)の類にはおよそ適性がないことは身に染みて存じています。

また、政治には手を出すなが実家の家訓である上、最近、政界で存在感を放つ他の同業者の方々と異なり、零細企業のタコ社長(主要労働者)として事務所の存続に汲々とする日々を送っているのが実情です。

他方、プレイヤーとしてではなく距離を置いた場所から観察者として政治(権威と権力を巡る身近な人々のせめぎ合いの世界)を拝見するのは昔から割と好きで、岩手で言えば、岩手大の丸山先生や県立大の齋藤先生のようなポジションの一端を狙うことができないかなぁなどと夢想することがないわけではありません。

が、JCの公開討論会で反対尋問よろしく候補者にギャンギャン吠え立てて「あなたの言ってることはちっとも訳がわからないよ!」などと田原総一朗氏の真似事をしたところで、岩手から出て行けと言われるだけでしょうから、今後もFBやブログなどでボソボソと呟く程度が精一杯というのが分相応なのでしょう。

余談ながら、私と上記のA原(とF女史)は奇しくも同期で最初に司法試験に合格しており、役員選挙のときを思い出して「捨てる神あれば拾う神あり」などと思ったりしたものです。

私は子供の頃から「一般ウケはしないが、ゲテモノ好きの人には呼ばれる」という傾向があり、法曹界が「ゲテモノの世界」かどうかはさておき、今後も妙な高望みはせずその路線で磨きをかけていきたいと思っています。

祭り囃子の向こうから

本日の午後5時頃に、盛岡東警察署に勾留中の方から接見要請がありました。

普段は中央通~内丸を自動車でヒュッと行っているので、何も考えずに7時に行きますと留置係の方に回答したのですが、事務所を出た瞬間に、地元のお祭りに目を背けて生きている我が身の愚かさに気づきました。

盛岡は8月1日から4日まで、夜間はこの通りを自動車で通行することはできず、当事務所から盛岡東署には大迂回が必要になります。

そんなわけで一句。

忘れるな さんさ見ろよと 呼ぶ被疑者
 大渋滞 今日の弁護に さっこらず

さんさ踊りは明日(8月4日)までとなります。
まだ訪れたことのない方は、ぜひ盛岡においで下さい。
http://www.sansaodori.jp/

平成初期の浦島太郎が感じた函館駅の再開発と「ぽつんと感」

都知事選は小池氏の圧勝で幕を閉じ、次にどのような第二幕が展開するのか期待されますが、私の「アゴラ投稿」もしぶとく生き残り、本日現在も、「週間ランキング」で10位以内に止まり、「いいね」も1700個以上も頂戴するという有り難い結果となっております。

それはさておき、以前にも書きましたが、私は函館で高校生活を過ごしており、今年の5月に24年ぶりに函館に行きましたが、函館駅や駅前の空間は、建替等により当時と今とでは激変していました。

何となく、無駄に広くなって函館駅と駅前商店街(棒二森屋をはじめとする大門地区の街並み)との距離が遠くなったような印象を受けたのですが、同じようなことを、先般、岩手を代表する「まちづくり」のエキスパートのOさんが、函館を訪れた際の感想としてFB上で発言されていました。

私の高校時代(平成1~3年頃)、函館駅には帰省の際などでお世話になっていましたが、当時=旧駅舎時代は、駅舎の位置は概ね同じなのですが、現在の広場状になっている場所(駅の正面近く)に、タクシーや駐車車両などが大量に陣取っており、その奥(街側に向かって進んだ場所)にバス乗り場群があり、いわば、盛岡駅東口(バス乗り場、タクシー、自家用車駐車場群)をヨコではなくタテに切り替えたような感じでした「函館駅前」でグーグル検索すれば、旧駅舎時代の画像を見ることができます)。

昔は「駅前が広かった」という記憶はなく、駅前のロワジールホテル(旧ハーバービューホテル)の前を歩いて市電まで行くのも、田舎者の身にはホテルの外観が眩しかったせいか、そんなに苦痛ではなかったとの記憶です(距離はほぼ同じなのに、今の方が、遠く感じるような気がしました)。

また、当時は函館駅前に土産物店が多くなく(駅ナカなどというものもありませんし)、同ホテルの1階の土産物店の存在感が大きかった=動線としての役割があったことも指摘できるのではと感じました(今では存在感が非常に下がり、ホテル前の幅広の歩道も通りとしての魅力がないと感じました)。

函館駅の建替(再開発)にあたり、折角、駐車場群を取り除いたのに、創出したスペースの価値を高める営みが全くなされていないという、「まちづくり」のエキスパートの方々がよく仰っていることの典型のような話なのだろうと思います(例えば南池袋公園のような芝生などのある光景を目指しても良かったのではと、素人ながら感じました)。

私が住んでいた頃から、函館駅前(大門商店街)の凋落が叫ばれていましたが、当時とあまり変わらない函館山の麓や、当時よりも遙かに栄えているベイエリア・五稜郭界隈と比べて、大門商店街の市内での存在感の低下はますます進んでいる感は否めず、そのことが、函館駅の「ぽつんと感」を、なお一層、演出しているのかもしれません。

奥多摩湖畔を彷徨った日のこと~都知事選に寄せて?

都知事選絡みの投稿が続いて恐縮ですが、折角なので、少し前にfacebookの方に載せた投稿を再掲させていただきます。

大学1年の終わり頃、突然、奥多摩湖に行きたくなり、昼過ぎに当時の自宅(東京都日野市の百草園)を出て、夕方4時頃に湖(小河内ダム)に到着し、南岸のほとんど整備されていない踏み跡程度の遊歩道を、日が沈もうとしていた時間に何も考えずに延々と歩き出したということがありました。

何を考えていたのか思い出せませんが、誰もいない森の中に入っていけば、そのまま自分が消えて無くなってくれるんじゃないかなどと、自殺とまではいかなくとも、厭世的な願望があったのだと思います(失恋とかが理由ではありませんので念のため。ある意味、「それ以前」の大学生活でした)。

当時はまだ山登りに目覚める前だったので、ヘッドランプなどの用意がないことはもちろん、靴も普段用のもので、ほぼ手ぶらで出かけたことや、「ここから先は落石等があるので立入禁止」の看板(ネットで少し調べたら今もあるようですね・・)があるのを見て、そのまま石にぶつかって死んでくれてもいいや、などとみっともない感傷に浸っていたことはよく覚えています。

2月か3月頃の話ですので(11月だったかもしれません)、5時半頃には周囲一帯は暗くなり、仕舞いには遊歩道がどこかも分からなくなって、暗闇の中、沢沿いの砂防ダムのようなところをよじ登ったりもしました。

湖畔に沿って行けば何とかなるだろうと思って歩いているうちに、6時過ぎ頃、明かりが見えたので山中をよじ登ったところ、キャンプ場らしき場所(南岸の真ん中過ぎ。今もグーグル地図に載っています)に出て、そこから車道をトボトボ歩いていたところ、通りがかりの自動車の方に拾っていただき、奥多摩駅まで送っていただきました。

湖畔を歩いていたときのことはあまり思い出せませんが、明かりを見つけて無我夢中で走ったことと、ドライバーの方(おじさん)から「この辺は熊が出るぞ」と言われたことは、今もよく覚えています。

その後、ほどなくして、大学生協で見つけた奥多摩地域の登山ガイドを手にとって、大学2年の秋頃には毎週のように未明から自宅を出て、京王線百草園駅から立川駅5時25分発の電車に乗り、日帰り登山に出かけていました。

大学時代は、誰が見てもどこから見ても、近寄るなと言われてもやむを得ないような陰気で救いのない学生でしたが、そうした時間を持つことで、辛うじて自分を持ち堪えることができたと思っています。

退任間際の舛添知事が湯河原通いを批判された際、奥多摩を軽視しているかのように受け取られかねない発言をしたことが話題になったせいか、知事選の候補者の方々が演説等に訪れたとの記事が取り上げられていましたが、私自身は奥多摩に特別の思い出や恩義のようなものがあり、今も、奥多摩の良さや大切さを都知事に限らず多くの方に知っていただければと感じています。

余談ながら、先週の土曜には中央大岩手支部の総会があり、遅参の身で恐縮ですが参加させていただきました。参加者の多くは大先輩の世代の方々なのですが、先輩方に暖かい言葉をいただくことを有り難く感じるのも、そうした学生生活を過ごしたことが関係しているのかもしれません。

アゴラ投稿の衝撃?と原文、そして都知事選に関する私の本音

先日の月曜に掲載したブログの文章が、著名な言論サイト「アゴラ」に投稿したところ、驚いたことに、その日のうちに載せていただきました。
http://agora-web.jp/archives/2020498.html

この文章は、日曜の深夜に突如、書かずにはいられない気分になり、朝まで事務所に籠もって書き上げたものですが、恥ずかしながら、できることなら都民を中心とする多くの方に見ていただきたいなどという危ない精神状態に陥り、こともあろうに?以前から知っていた(時折拝見することもあった)アゴラに、思い切って送信してみたという次第です。

もちろん、投稿(送信)したのも初めてですし、内容に多少の自信(多くの方が目を通すに値するのではないかとの思い)はあったものの、掲載される自信はなく、されたとしても画面の隅に一時的に出現するだけだろうと想像していたのですが、月~火にトップページの冒頭(注目記事欄)に載せていただいたり、全体のアクセスランキング(24時間)でも最大(現時点まで)で2位となり、1000個を超える「いいね」もいただき、投稿者本人が一番驚いています。

試しに、私の名前でグーグル検索してみたところ、面識のない方から「この記事は読んだ方がよい」などと暖かいコメントをいただいたものもあり、ただただ恐縮するばかりです。子供の頃、世間に向けて評論家のような仕事をしている方々にいささか憧れを抱いたことがありましたので、少しだけその真似事をさせていただき、良い冥土の土産になりました、これで思い残すことなく旅だっていけます、というのが正直なところです(笑)。

もちろん、厳しいコメントをいただくこともあるだろうと思っていたら、大物ブロガーの山本一郎氏から「普通は集団不法投棄は見つけ次第内偵かける、群馬も長野も千億単位で処理費かかるほど放置しないのに、金字塔なんて言うのは笑っちゃうよ」と酷評をいただいたのも発見しました。

このような批判は当然あり得べきところで、その点は「人里から遠く離れ、岩手の人間は誰も気にしない山奥にある上、岩手県庁の許可業者(処分業)ではなかった」という面と、「青森県内では過去にも問題を起こしたことがある「札付き」の業者で、調べようと思えばできたのではないか」という面と、どちらを重視するかという関連事実の積み上げと総合評価の問題に帰着しますので、発覚までの問題についてまで増田知事個人の責任を問えるのかということも含めて、軽々にどちらが正しいと言えるものではないのですが、それはさておき、著名ブロガーの山本氏がツィッター?でコメントしていただいたお陰で、私の投稿の存在を知ってご覧になった方もおられるでしょうから、投稿をご覧いただいたことも含め、山本氏にも大いに御礼申し上げたいと思います。

ちなみに、県境事件は岩手県の農政部が最初に発見し、岩手県警と協議し短期間の内偵で着手に至っており、青森県庁はそれ以前に地元で多少の通報を受けていたものの本格的に取り組んだ人がいなかった(ので、青森側の対応の当否はさておき、岩手側が「発見」した時点で、すでに数百億円規模の費用を要する惨状になっていた)との記憶です。
http://www.pref.iwate.jp/kankyou/fuhoutouki/18923/015687.html

以前に、山本氏が増田知事は非常に無能だと酷評されていた記事を拝見したことがあり、それだけに、増田知事にも良いところがあると書いた記事に否定的なコメントをせずにはいられなかったのかもしれません。

ところで、この投稿は、当初「都知事選は『東京をぶっ潰す男』と『日本をぶっ壊す女』の戦い(選択)になるべき~知られざる増田県政の金字塔から考える~」とのタイトルで、5000字を超える文章をダラダラ書いていたのですが、タイトルが24字以内で本文も3000字以内との制限がありましたので、一旦書き上げた後、あれこれ考えて削り、どうにか3000字強まで減らした上で送信しています。

結果として、文章が引き締まり質が遥かに良くなったように思われ、その点も含めアゴラには感謝しています。

投稿文を読んでいただいた方の多くが感じたことだと思いますが、この文章は、増田氏が岩手県知事時代、県境不法投棄事件の陣頭指揮に優れた点があったという点を指摘させていただいたに止まり、現在の都知事選において増田氏を支持することを目的として書いた文章では全くありません。

むしろ、「県境事件のご経験を生かして現在も東京的なるものと闘って欲しいのに、そのような印象を受けない」と批判じみたことを述べている下りもあり、見ようによっては、過去の栄光を引き合いに、東京的なるものと闘う姿勢を見せていない現在の増田氏を批判し、対照的に、旧来的な政治勢力との対決姿勢を鮮明に打ち出し、対決の場を演出している小池氏への支持を暗に示したものと読めなくもありません。

今回の投稿を私が「せずにはいられないと思った」一番の理由は、都知事選にあたり、増田県政を批判するネット記事等を多数拝見しているうちに、「確かに増田県政は在任当時も県民から批判される点は多々あったと思うが、少なくとも県境事件に関しては、二戸人には恩義があるはずだ(何より、豊島事件のような展開になれば、私は弁護団の一員として岩手・青森両県庁と対決し、苦心惨憺の目に遭っていたはずで、そうならなかっただけでも恩義がある)そのことを、このタイミングで誰も言わなくてよいのか(それは忘恩の輩ではないのか)」という思いが沸き上がってきたという点にありました。

その上で、その延長線で、増田氏は本当に都知事になりたいなら「東京と闘う男」を標榜すべきだと感じると共に、また、それでこそ、「日本(の政治文化全体)と闘う女」としての小池氏のキャラもますます引き立つ(政治のあり方に関する議論や運動が研ぎ澄まされる)のではと感じ、そうした観点から深夜に一気に書き上げたという次第です。

ですので、現時点の私にとっては、曲がりなりにも「日本と闘う女」としてのカラーを打ち出している小池氏の方が、「東京と闘う男」としての姿勢をあまり見せていない(ように感じる)現在の増田氏よりも「支持率一歩リード」という状態にあります。

その上で、「日本的なるものとの対決(小池氏)」も「東京的なるものとの対決(増田氏)」も、どちらも現在の東京ないし日本が取り組むべき課題であって、双方は対立的・選択的なものではなく、優先順位はありうるにせよ、双方とも適切な指導者のもとで推進されるべきだと思います。

そんなわけで、欲を言えば、現在の感覚としては、次の展開を期待しています。

1 小池氏は、知事当選後、増田氏を自民都連からスカウトして副知事とし、旧「みんなの党」を核とする諸勢力(一部、自民・民進などからの分裂組を含め)を糾合して、橋下市長よろしく地方議会制度などの改革を推進する新勢力を作る。

2 ほどなく、地方自治制度に関する様々な改革案を提示し、これに反対する自民党などの従来勢力との対決シーン(劇場)を演出しつつ、幾つかの妥協を勝ち取る。その中には、石原・猪瀬・舛添知事の退場時に盛んに言われた「知事が辞めるたびに巨額の選挙費用を要する愚」の改善策として、例えば、議会の3分の2(又は過半数?)以上の不信任がない限り、知事の辞任時に副知事に承継させることも可とする法案を可決させる。

3 小池知事は、それを手土産に、次の総選挙の際に知事を辞任し、選挙費用を使わずに増田都知事が誕生する→増田新知事は、小池知事がやり残した東京と地方との関係の再構築(東京的なるものの「悪い面」との対決)を推進。

4 他方、小池氏は国政復帰で一大勢力を構築→同じく復帰した橋下市長と連携して行政府・立法府の本格改革に従事?

まあ、こんなことを言い出したら、山本氏でなくとも、妄想もたいがいにせえよ、と失笑を買うだけですよね・・

でも、政治は悪口を語る場ではなく、夢を語る場であって欲しいと思っています。

余談ながら、小池氏といえば、「クールビス」を推進した環境相としてのイメージが強いですが、同氏は特措法が制定された当時の環境大臣(鈴木俊一氏。岩手2区)の後任で、私は、平成16年当時、不法投棄問題の意見書づくりに勤しんでいた関係で、日弁連(公害環境委員会)が環境大臣(環境省の幹部職員)と毎年行っている懇談会に末席ながら参加させていただき、小池大臣を拝見したことがあります。

その際、途中から入室した小池大臣のオーラが凄まじく、同氏の入場後に場の空気がガラッと変わり、日弁連会長さんがとても小物に見えるくらい、誰がこの場で一番偉いのかをまざまざと見せつけられたように思いました。

そうした経験も含め、増田氏・小池氏とも、都政や国政に新たな光を提示できるお立場にあり、都民は、議論を整理し先鋭化させることで、どちらの選択をするにせよ、社会の新たな道を切り開くことができるのではないかとの認識を一人でも多くの方に共有いただければとの思いで、僭越ながら、深夜にあれこれ考えて、送信させていただいた次第です。

以下、アゴラ投稿の「ダイエット」前の原文を、僭越ながら掲載させていただきます。

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鳥越氏のスキャンダル話を含め、巷の話題を席巻している東京都知事選ですが、我々岩手県民にとっては、増田氏は、ある意味「昔の主君」ですので、都民や他府県民とは違った感慨というか、視点で眺める面があります。

この点について、最初に、岩手の環境問題に関心を持つ弁護士の立場から、世間でほとんど取り上げられることがない「増田県政」の知られざる功績たる「県境不法投棄事件」について述べつつ、それを踏まえて、増田氏は、「東京をぶっ潰す!」という公約こそ表明すべきだということを、述べたいと思います。

また、それに続けて、増田氏の依って立つべき正義が、上記のようなものというべきであるからこそ、対抗馬たる小池氏には、東京からさらに視野を広げて、「日本(の政治文化)をぶっ壊す!」という公約をこそ掲げていただきたい、その二つの路線対立こそが、今回の東京都知事選における「あるべき争点」なのではないかということも少し書きたいと思います。

長文になり恐縮ですが、東京都知事選挙に関心のある方はもちろん、願わくば、都民(選挙権者)の方々に広く読んでいただければと思っています。

***

まず、「増田県政」についてですが、報道などでは「増田知事が在任中にハコモノばかり作って岩手県の借金(県債残高)を二倍にした」とか「巨大ハコモノを作らせたのは、増田知事を担いだ小沢一郎氏らの勢力(と、それを支持する建設業界)だ」とか「『がんばらない宣言』に象徴される費用対効果が不明なキャンペーンで、東京のコンサルタントに無駄に多額の金を払った」などの批判的報道を拝見することが少なくありません。

私自身は、増田県政(全3期)の初期(平成10年頃)と末期(平成16年末~19年)しか岩手におらず(前者は司法修習生として、後者は岩手への移転開業によるものです)、上記の批判に対し、さほど気の利いたコメントができる立場にはありません。

ただ、県債問題については、平成19年の増田知事の退任時に盛岡青年会議所(JC)などの主催で行われた「県知事マニフェスト検証大会」の際、増田知事から「当時が地方への財源支援の制度の転換期になっており、この時期(増田氏の在任時)だから、県立大やアイーナ(複合施設)の建設のため高額な補助を国から得ることができた(千載一遇のチャンスであり、現在なら諦めざるを得なかった)。これで県のインフラはほぼ整ったのだから、次の県政ではその有効活用に力を入れていただきたい」と仰っていたことはよく覚えています。

実際、県立大などのことは分かりませんが、アイーナについては私も様々な形で利用する機会があり、空間デザインの善し悪しなどは議論があるようですが、現に活用されていることも視野に入れて論じなければフェアではないのではという程度の認識はあります。

これに対し、増田県政の功績として、ご本人を含めほとんど誰も語ろうとしませんが、「金字塔」と言って良いほどの価値があるもので、私自身よく知り、多少とも関わっているテーマが一つあります。

それは、「岩手・青森県境不法投棄事件(以下、県境不法投棄事件といいます)で、率先して全量撤去と排出者側(首都圏など)への責任追及の姿勢を示し、特例法の制定に向けた世論を誘導して、曲がりなりにも県民の費用負担を大きく減らす形で地域の環境を回復させたこと」です。

県境不法投棄事件とは、青森県田子町の山中(岩手県二戸市との県境)に産業廃棄物の処理施設を設置していた業者が、両県境の谷間や山林などに、有害性の高いものを多く含んだ膨大な量の廃棄物を不法投棄し、いわば「谷を産廃で埋め尽くし、さらに山を穴だらけにして産廃で埋め尽くす」という暴挙を、推定で10年前後の期間に亘り行っていたという事件で、平成11年に発覚し刑事摘発され、翌12年頃から本格的に被害回復に向けた両県の取り組みが始まっています。

この事件では、主犯格たる青森の業者と、首都圏を中心とする全国各地から産廃を集めて現地に送り込んだ埼玉県の業者が摘発されたものの、発覚の時点でほとんど倒産の状態にあり、両県併せて最終的に1000億円近くに及んだ原状回復費用を負担できる状態にはありませんでした。

そのため、とりわけ主要な巨額負担が当初から予測された青森県庁は、廃棄物を撤去するか否か明言せず、遮水壁を作って現地に放置(封じ込め)をするのではないかとの疑念が強く寄せられ、地元民(田子町側)との間で、かなりの軋轢が生じていました。

これに対し、岩手県側では、増田知事が非常に早い段階で「有害性が強い物が多数含まれており、全量撤去以外の選択肢はなし」との強い姿勢を表明し、それと共に、岩手県独自で処理業者の財産に裁判所を通じて仮差押を行い、2億円以上の確保に成功するという快挙を成し遂げています。

県境事件の現場は、岩手側にとっては人里から遠く離れた山奥で、一般県民はおろか二戸市民にとってすら関心が低い事件だった上、その時点で撤去費用について国の補助などが得られるのか(全額を県民が負担しなければならないのか)不透明だったにもかかわらず、「首都圏など全国のゴミが、違法に持ち込まれて捨てられた」という事件の性質が、岩手が背負う「時の中央政権に虐げられた蝦夷などの歴史」と重なり、上記の快挙も相俟って、増田知事の判断は、県民の強い支持を受けることになりました。

そして、青森県もこの動きに影響を受け、重い腰を上げるような形で全量撤去を表明し、さらに、時の環境相を鈴木俊一氏(岩手2区=事件の地元からの選出)が務めていたことも味方したのか、平成15年には国が全量撤去の費用の6割程度を補助する「産廃特措法」が制定され、これにより約10年かけて両県の撤去作業が行われるという展開になりました。

この法律は、悪質な大規模不法投棄が判明した県境不法投棄事件と香川県豊島の不法投棄事件の2つを主に救済するために制定されたのですが、仮に、増田知事や青森県知事が廃棄物やこれに伴う汚染土壌を放置する選択肢をとった場合、地元住民は、豊島の住民が中坊公平弁護士らの支援のもと香川県を相手に公害調停などを行った事件のように、長く苦しい闘いを両県との間で強いられる展開になったことは間違いありません。

そのような苦難を地域住民に強いることなく、率先して全量撤去を打ち出し、豊島事件と連動する形で国の廃棄物行政の不備を説き、特措法による国費の多額の補助に繋げたことは、「岩手の歴史」と相俟って、増田県政の金字塔と呼んで遜色ないと思っています。

実際、両県は、原状回復作業に並行して、産廃業者に処理委託した全国の事業者(中には世間に名だたる有名な大企業も多くあります)の幾つかに対し、廃棄物処理法上の違反があったとして、自社が排出した廃棄物の撤去費用を支払わせることに成功しており、両県は、そうした形で「首都圏(の排出者側)」との闘いを地道に続けてきたのです。

***

ただ、増田知事にとって、一つ、心残りがありました。

それは、事件の中心人物たる埼玉の中間処理業者を指導すべき立場にあった埼玉県の廃棄物行政の責任を問うことができなかったこと、そして、東京都をはじめとする全国各地の排出事業者に対し適正な処理委託をするよう指導する立場にあった「排出者側の自治体(東京都など)」に、「純然たる被害県」としての岩手県が強いられた80億円程度と見られる「県民の費用負担」について、何らかの形で肩代わり(支援)を求めることができなかったことなのです。

要するに、「首都圏をはじめとする排出側の行政の責任を問うこと」が、県境事件、ひいては増田知事の大きな宿題として残りました。

私は平成15年から16年頃にかけて、日弁連・公害対策環境保全委員会(廃棄物部会)の委員として岩手県庁に接触していた関係で県職員の方からお話を伺う機会が何度もあり、知事がそうした思いを共有し、一定の模索をしていたことは間違いありません。

だからこそ、そのときの増田知事を知る岩手県民は、増田候補に対し、「時に、首都圏の都合(エゴ)の犠牲を強いられた、地方(田舎)の悲しみ、苦しさを東京の人達に伝えることを忘れないでいただきたい、さすがに、都知事として『県境事件の撤去に要した岩手の負担を東京都から返還する』とか、『青島知事に倣って、突如、東京オリンピックを中止し、浮いた国の財源をILC(岩手・宮城県境に予定されている国際リニアコライダー)の建設費に使わせる』などと公約して欲しいとは申しませんが、せめて、地方を知る者、地方から東京に出てきた者の代表として、地方と東京がよりよい関係を築くため、東京のあり方を大きく変えていく(そのことで、日本全体をよりよいものとしていく)姿勢や手法(政策)を強く打ち出していただきたい」と願っていることは確かなのです。

そうした「知る人ぞ知る期待」を背負っている増田氏に打ち出していただきたい言葉が、小泉首相に倣って言えば、「(地方の立場から)東京(のエゴ)をぶっ潰す!」であることは、申すまでもありません。

この一言を増田候補が絶叫していただければ、最初は全国の多くの地方住民が賛同(熱狂?)し、ほどなく、その真意を知った東京都民も、これまでの東京のあり方を問い直し再構築してくれる指導者として、増田氏を支持するに至るということも、十分に期待できるのではないでしょうか。

それだけに、ある意味、「ぶっ潰す」対象の一つと感じられないこともない、自民党都連などの勢力が増田氏を担いでいるという構図や、増田氏が上記のようなお気持ちを今も感じておられるのかあまり伝わってこない選挙報道を眺めていると、岩手県民としては残念というか、寂しいものを感じ、誰か(ご自身を含め)、「増田氏を解き放って欲しい」と言わざるを得ない面はあります。

***

ここまで増田氏のことを述べてきましたが、以上との対比で、小池氏に求められるものは何だろうかということも考えてみました。

以下は、多くの方が同種のことを述べていることで、ありふれた話かもしれませんが、増田氏が「東京的なるものとの対決」をこそ掲げていただくべき責任(歴史)を背負っているのだとすれば、小池氏は、現在の都議会(自民党都連)との対決に象徴されるように、政界を渡り歩き、小沢氏や小泉首相に象徴されるように、「それまでの政治の中心勢力と対決する道を選んだ大物に付き従い、何らかの形で旧勢力と闘ってきた人(だから東京都連のような人達に嫌われるのだろう)」と言えるのだと思います(防衛相時代の大物次官との対決も、思い起こされるエピソードの1つでしょう)。

だからこそ、小池氏を支持する方々の多くが、今回の都知事選を「何となく政治を壟断している(自分達の影響力の確保を優先させて社会に閉塞感を与えている)のではと感じる旧勢力との闘いの集大成、或いは、今度はご自身が主役となって闘う出発点」になって欲しいと願っているのではと思います。

であれば、「現在の都議会(自民党都連)の主要メンバーとの対決」という対人的な話に矮小化させず、日本の都道府県議会制度(の運用)そのものについて、都民ひいては国民が納得できるような「問題の本質」を指摘し、変革(制度改変)を呼びかけるような姿勢を示していただきたいと思います(それは、兵庫県議会の事件に象徴されるように、国民全体が期待していることと言えるでしょう)。

もちろん、制度論は簡単に言えるものではないでしょうが、そうした姿勢をご本人が示して天下の賢を求め、それが支持を集めるのであれば、自ずから百家争鳴する展開は期待できるはずです。

今の国民は、どうして橋下市長や「維新の会」が一定の成功を納めたのかを知っています。それは、(自民党改憲案と異なり)国民の人権に文句を付けるのでなく、行政機構(ひいては住民に不信感を抱かれていた行政の実情など)の変革を旗印にして、それに取り組んだこと(いわば、弱い者いじめでなく強い者に挑んだこと)が庶民の喝采を浴びたからだと思います(もちろん、公務員労組との対決に明け暮れたことは、労組が弱者か強者かはさておき、「やり過ぎ」を裁判所から認定されたことを含め、その立場の方々からは徹底的に敵視されることにはなりましたが・・)。

小池氏が、橋下市長のように行政(役所)や立法(都議会)の改変に取り組んで一定の成果ないし支持を集め、やがて国の行政・立法の変革(国の官庁や国会などに関係する改憲論を含め)も促すような取り組みするのであれば、すでに「小池与党」化している音喜多都議らの旧みんなの党の勢力に限らず、裾野の広い政治勢力を構築し、やがては、小池氏が全盛期の小沢氏や小泉首相の後継者のような地位を獲得していくことも不可能ではないのではと思います。

少なくとも、今回の参院選で自民党を大勝させた民意は、「憲法改正(立法や行政に関する規定の見直し)に向けた議論は期待しているが、自民の現在の改憲案(人権規定の改変)は支持しない(ので、「自民党をぶっ壊す」小泉首相の再来を期待している)」というものであることは、多くの国民が感じているところではないかと思います。

それに応える政治勢力は未だほとんど育っておらず、小池氏を支持する方々は、「自民党内の嫌われ者」たる小池氏の勝利がその一里塚になることを密かに期待しているのではないかと思います。

だからこそ、その心意気を示す意味で、小池氏には、「東京から日本(の閉塞的な政治文化)をぶっ壊す!」と叫んでいただければと感じています。

ともあれ、「増田氏か小池氏かという選択」は、地方との関係性を重視した東京の変革を志向するか、国家との関係性(自民党をはじめとする国側への影響)を重視した東京の変革を志向するか、どちらかの選択という見方ができるのではと思われ、残り僅かな期間ではありますが、そうした観点から、さらに議論が深まればと願っています。

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原文は、以上になります。

アゴラは、私にとっては雲の上の方々が名を連ねておられる場ですので、非才の身がしゃしゃり出るのは畏れ多いというのが正直なところですが、県境事件のように、全国の方にその意義や問題意識を知っていただきたい事件に関わったときなどは、僭越ながら、また投稿をさせていただくこともあるかもしれません(いや、小心者ですので、たぶん二度とないでしょう・・)。

そんなわけで、硬軟さまざまなご批評も含め、暖かい目で見ていただければ幸いです。

忘れられる不祥事と風刺の文化

6月は首が回らない日々が続き、更新が遅れてすいません。

舛添知事の辞任表明とEU報道で、税金等を使った権力者の贅沢を巡る話が萎んでしまった感がありますが、国民は選挙のときだけ主権者と昔から言われているだけに、せっかくの参院選の機会なればこそ、こうした話題をきっかけに、政治資金などを巡る制度・運用の改善を求める良質な議論がなされて欲しいと感じます。

以前、FBで選挙絡みの投稿をした際、アンチ達増知事の方からコメントをいただいたのですが、私のように支援者でも積極的なアンチでもない「どっちつかずの正義」の信奉者からすれば、折角そうした表明をなさるのでしたら、立場ありきの言説に止めず、多少とも一ひねりあるお話をいただければと残念に思ったりしたものです。昔なら、

雲上で 知事はタラフク食ってるぞ 貧乏県の希望王国

などと狂歌の一つも詠まれたのかもしれないと思うと、今の「自由」な言論空間の方が、むしろ退化の道を進んでいるのではと感じる面はあります。

もちろん、「知事は激務だし健康第一だから、長距離の飛行機移動はファーストクラスで良いじゃないか。ただでさえ、ファースト(一郎)が好きなんだし」とか「自民党(の支持者)の方が富裕層が多く、FBリア充投稿の山をはじめ、遙かに贅沢してるんじゃないか」、「いやいや、FBグルメ投稿の類なら野党サイドこそ労働貴族のような人達が沢山いるんじゃないか」などというご主張があれば、それはそれでそうかもしれないとも思います。

が、そうであれば、なおのこと、政治批判をしたい方は風刺の腕を磨いていただき、心に染みわたるような一言を投げかけていただければと願っています。

FBの政治家や著名人の方の投稿に、「ヨイショの嵐」と言わんばかりの追従コメントの山や、その逆の立場ありきの悪口投稿などを拝見して残念な気分になることがあり、言論空間に磨きをかけたいという心意気がもっと盛んになっていただければ幸いです。

政治を巡っては、「悪口ではなく政策を」という言葉がしばしば語られますが、私自身は、悪口であれ政策であれ、よく学び、よく感じ、よく考えた上で、(時に果断に)語るべきなのだろうと思っています。

幕末を代表する「たった四杯で夜も眠れず」の狂歌を政策を語ったものだと述べる人はいないでしょうが、外圧に対応できない幕府の狼狽ぶりを当時の「日本国民」に知らしめ、幕府の権威失墜への共通認識=体制転覆の素地を作った言論という点では、盲目的に攘夷を口にするだけの「薄っぺらい自称志士の政策論」よりも遙かに国家と人民への影響を与えたと思います。

それと同じで、新聞に掲載される「各党の主張一覧」程度のことをオウム返しに繰り返すだけの「自称政策論」は、自身の立場を述べているだけ=安っぽい悪口と大差なく、本当に聞く(語る)べきは、聞き手の心に響く、突き刺さるような言葉を伴うものであるべきで、それが悪口(風刺)の形をとっていても、社会のあり方を前向きに考えるエネルギーとして生きてくるのではないかと思います。

そうした言葉を紡げる人間になれるよう研鑽につとめたいと思っていますが、私自身はご覧のとおり、恥ずかしながら未だ暗中模索の日々です。

その「座席」が似合う人、似合わない人

東京都の舛添知事の公費使用や政治資金の問題で、岩手の達増知事が「海外出張でファーストクラスを利用している知事」として報道されるという出来事がありました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20160513_3
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20160517_6

弁護士になった直後の平成12年5月頃、勤務先の東京の事務所で関西方面への日帰り出張が3回ほどあったのですが、最初の出張の際に渡された新幹線の切符がグリーン車でした。

2回目の出張からは畏れ多いと辞退したため、それが人生最初で最後?のグリーン車でしたが、このような経験ができたのは、弁護士会の旧報酬規程に「グリーン車」の定めがあったことや依頼主が相応の規模の企業さんだったことが影響していたのだと思います。

10年近く前に仙台である会合に参加した後、新幹線のホームで、その会合に参加されていた国会議員の方がグリーン車に颯爽と乗車されていたのを拝見しました。議員さんは電車には無料で乗車できると聞いたことがあり、それ自体を軽々に批判するつもりはないのですが、同じ会合に出ていた者同士で、かたや税金でグリーン車、かたや自腹で普通車というのも、身分の違いを感じて少し寂しくなりました。

政治家であれ弁護士であれ、受任者にどのような待遇の交通手段を提供するかは発注者(納税者)が決めるべきことでしょうから、私も、グリーン車であれファーストクラスであれ遠慮なく使って下さいと仰っていただけるような依頼主にお目にかかれるよう(それだけ、自分の仕事で大きな成果を上げて依頼主に激賞されるよう)、地道に研鑽を重ねたいと思います。

まあ、田舎の町弁では、そうした「太っ腹なお金持ち」の依頼主との出逢いはあまり期待できないかもしれませんが・・

それはさておき、税金で仕事をなさっている方々の「使い道」のあり方については、報道はもちろんのこと、誰のため、何のために用いるかということも含めて、議論が深まって欲しいと思っています。

(R03.5追記)

先日も、国会議員さんのJR無料パスの目的外使用に関する報道があり、引用の記事を拝見しながら上記の投稿を思い出しました。私が拝見した光景(参加した会合)も、国会議員さんの本来の仕事とは関係のない事柄なので、議論の余地があるのかもしれません。
国会議員特権の「JR無料パス」、公私がグレーな利用実態とは (msn.com)

24年ぶりの函館と、あの日みた景色

今年のGWは、前半に1泊2日で函館に行きました。私は平成元年4月から3年間、函館ラ・サール高校の生徒として函館に住んでいましたが、卒業以来ご無沙汰になっており、訪れるのは24年ぶりになります。

家族は初めての来函ですので、函館駅に到着後、朝市→ベイエリア→元町界隈や函館山、五稜郭など観光客向けの典型コースばかりを巡って帰宅しました。

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今の函館のB級グルメと言えば、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーということになるでしょうし、昭和62年創業とのことで、私の高校時代から存在していたのでしょうが、恥ずかしながら当時は全く知らず、今回はじめて食べました。

五稜郭も、中学の修学旅行で行ったせいかもしれませんが、高校時代はどういうわけか敢えて行きたいという気になれず(GWに帰省していたせいもあるでしょうが)、今回、修学旅行以来はじめて五稜郭に行きました。

函館は中韓などからの観光客も非常に多く、函館随一のデパートというべき「丸井今井」(盛岡の川徳に相当。なお、函館駅前の「棒二森屋」はフェザンと中三を一つにしたようなものでしょうか)にも、中国語の広告が大々的に掲載されていました。

五稜郭の桜は文句なしの満開状態で、タワーも奉行所も満足して巡ることができました。

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事前にネットで調べていましたので、街並みの変化にさほど心揺さぶられるところはありませんでしたが、それでも、和光や大門商店街のアーケードが無くなっているのを見ると、思うところはありました。

また、私自身は在学中はほとんど外食はしていませんが、例外として函館山の麓にある「カール・レイモン」が当時はレストランを経営しており、落ち着いた店内でドイツソーセージのランチを年に1、2回ほど食べるのがささやかな楽しみになっていたので、同社がレストランを閉鎖し物販と軽食に特化してしまったのは、少し残念に思っています。

折角なのでラ・サールも見に行こうということになり、湯の川温泉の宿から出発し、校舎や寮、グラウンドの外観だけをチラ見して戻りました。

ラ・サールは、私の在籍時は、開校以来の「港町らしい?ピンクに塗装した木造校舎(でもって、網走刑務所のように建物が放射状。冬は石炭ストーブ)」というアヴァンギャルドな建物でしたが、私が卒業した直後に現在の立派な校舎に全面建替となり、寮も現在は立派なものに建て替えられていますので(高校の寮は函館山からも確認できます)、良くも悪くも郷愁をそそられる要素は微塵もありません。

ただ、グラウンド(体育館も?)は概ね昔のままであるほか、旧校舎の一部が移築されており、その点はさすがに懐かしさを禁じ得ませんでした。

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在学中は函館山に登ることはほとんどありませんでしたが、高1か高2の晩秋の頃、夕方に学校から北側に片道30分か40分ほど、住宅街から荒地のような丘の上まで走って、いわゆる「函館の裏夜景」を見に行ったことがあります。

当時は、「裏夜景」を観光名所として口にする人はほとんどなく、それだけに、黒色の函館山と夕闇を背にした街並みの裏夜景は心に染みる眩しさがあり、そこに吹く海からの強風と共に、よく覚えています。

高校では「勉強もできず運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」でしたので(日本史の成績だけが救いでした)、心中は身の置き場もなく鬱々とした日々を送っていたように思いますが、それだけに、一人だけでも特別な時間、光景を持てることを心の命綱にしていたのかもしれません。

そんなわけで、当事務所の近所で短い新婚生活を送った石川啄木に敬意を表しつつ?その時のことを懐かしんで一首。

黄昏の裏夜景こそかなしけれ 十六の胸 癒やす木枯らし 

函館ラ・サールには、英国の軍歌?に由来すると言われる「It’s a long way to La Salle High School」という学生歌があり(鹿児島も同様とのこと)、校歌は出だししか覚えていないがこの歌なら今もほとんど全部歌えるという卒業生は、私だけではないと思います。

高校1年のときは「商社に入りヨーロッパの駐在員として人知れず死にたい。日本(人)と関わりたくない」という厭世願望がありましたが、やがて社会との関わりを持って生きたいという方向に気持ちが傾いてきて、高校を卒業する頃に、ようやく司法試験を意識するようになりました。

もちろん、どのような法律家になりたいか、どのように社会と関わり何を尽くしたいかということまで深く考えていたわけではありませんが、暗中模索の日々は、今もさほど変わらないのかもしれません。

そんなわけで、次に訪れるときには何か答えのようなものを持ち帰ることができればと願って、最後に一句。

旅立ちの 夢は今なお ロング・ウェイ

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震災1年目に考えたこと(H24.3再掲)

先日、震災5年目の日を迎えて考えたことについて書きましたが、震災からちょうど1年目の平成24年3月に書いた文章を再掲することにしました。

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それぞれの1年目

震災から1年を経過したこの日(平成24年3月11日)、私自身は当番弁護士の担当日で遠方を含む複数の警察署に接見に向かったり、家族が通っているピアノ教室の発表会の付添を余儀なくされるなど、震災とは何の関係もない一日を過ごすことになりました。

ただ、地震発生時刻がピアノ教室の発表会の最中でしたので、その際は参加者全員で黙祷を捧げることができ、その点は良かったと思っています。

遠方の警察署から帰宅した後、facebookやブログなどで様々な方がこの日にどのように過ごしたり、どのような情報を発信しているのか、興味深く拝見しました。

沿岸の方々は言うに及ばず、盛岡の方も日本JCによる被災者追悼などを目的とする大きなイベントがあったこともあり、震災絡みの多くの投稿を拝見しました。

私のfacebookでの「友達」は、東北地方の他県の方はごく少数しかいませんが、その方々も被災地の方か否かに限らず震災関連の投稿をしておられました。

他方、東北以外の地にお住まいの方からは震災関連の投稿はほとんどなく、何人かの方が、普段どおりの日常に関する投稿をなさっていました。

そのことを非難するつもりもなければ非難する立場でも勿論ないのですが、そうした光景は、やはり一種の風化というか、温度差なのかなぁと思わずにはいられないものはありました。

もちろん、私自身を含め、身内などが犠牲者になったわけでもない立場では、いつも通りの日常を送ること自体が震災に負けないことの表明だというスタンスも当然正しいと思いますので、何一つ間違っていないとは思うのですが、盛岡の方が次から次へとfacebookに震災関連の投稿をしているのに対し、他の地域からそうした声が出ないのは、ある意味、不思議な感じもしたことは事実です。

私の盛岡の「友達」は、同県人としての同胞意識もさることながら、JC関係者など被災地支援に関わってきた方が非常に多く、私がこうした投稿を書いているように、何か言わずにはいられない方々という面がありますので、そうしたことも割り引かなければとは思います。

ただ、「地震の揺れの程度」では盛岡も東京もほとんど差がなく、帰宅難民という点では首都圏の方が苦労された方も多いと思いますが、不思議なほど震災について何かを語ろうとする投稿を見かけませんでした。

或いは、津波や原発に直面した本当の被災者の方に遠慮して、ご自身の経験については投稿を差し控えたのかも知れません。

それに対し盛岡の方々が次々に投稿をされていたのは、実際に支援活動などに携わる中で、心理的なものを含めた被災地との距離が近くなってきたことによるのではないかと思います。

実際、盛岡の方の投稿も、ご自身のことではなく被災地=沿岸についてのものばかりであったことは言うまでもありません。

私自身も、はじめて被災地を訪れた頃、津波でズタズタにされた街並みを見て、在りし日の姿を思い出し悔しくてたまらなくなったり、その後、何度も被災地の避難所などを通って相談に従事し様々な方のお話を伺ったことなどが、走馬燈のように思い出されました。

これまで、私自身が当事者として経験していない終戦記念日や原爆投下日、阪神大震災の発生日などについて、敢えて何かを記すに値するだけの特段の感慨を抱くことは無いに等しかったと思います。

これに対し、3月11日については同時代の当事者に準じる立場として、これからも特別な日として心に残っていくのだと思います。

3月11日という日に対する受け止め方は様々だと思いますが、大自然に対する人間の小ささ、儚さと、犠牲者への哀悼の念や被害に挫けず努力を続ける必要性を感じさせる日として、多くの方に生き続けていけばと感じています。

震災の日のこと~東北地方・太平洋沖地震(東日本大震災)の被災経験~

旧HPで掲載していた、震災の日(平成23年3月11~12日)に私が盛岡で経験した出来事などを記載した文章を再掲することにしました。盛岡は停電やガソリン問題を除けば大きな被害はなく、「被災経験」と題するのは大げさかもしれませんが・・

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昨日に発生した表記の大震災については、当事務所の存する盛岡市でも震度5強とされる大規模な地震に直面しました。

幸い、激しい揺れは経験したものの、私に限って言えば、家族・実家とも人的被害はなく、物損もごく僅かに止まりました。しかし、岩手ないし東北・東日本の被害という点から言えば、沿岸部を中心に甚大な人的・物的被害が発生してしまいました。現在も救助等の活動が行われており、可能な限り人命の救助や被害の拡大阻止が図れることを願ってやみません。

また、全国・全世界の皆さんには、犠牲者・被災者及びそのご家族のため、相当なご支援をお願いしたいと願っております。

個人的にご心配をいただいた方もおられるので、取り急ぎ、土曜夜までの私個人の体験談のみ簡潔に記載したいと思います。

まず、地震が発生した午後2時50分には、出勤中の事務局2名と共に事務所で書類仕事をしており、3人とも机に隠れましたが、幸い一部の食器が破損した程度の被害しかありませんでした。

ただ、激しい振動が続いた時間が非常に長く(実感として3~4分程度)事務局長に言わせれば、このままビルが倒壊してしまうかと思ったというほどのものでした。私も、机の下でNZの映像が脳裏をよぎっていました。

揺れが収まった後、一旦ビルの外に出て近くの広場に行きましたが、街中が完全に停電し、信号機も完全に消灯していたので、修習中に旅行したインドネシアの町(交通量が多いのに信号機がなく各人が勝手に渡っている)と同じような印象を受けました。

何度か震度4、5クラスの余震がありましたが、それ以上の余震が見られなかった上、金曜の4時にある事件の期日が予定されており、その際に来週早々の期日の準備書面なども持参するつもりであったので、多分、行っても無駄だろうとは思いつつ、自転車を駆って裁判所に行きました。

当事務所から裁判所までは自転車で10分程度ですが、歩道には普段の数倍の人が歩いており、完全停電も相まって、被災地そのものという印象でした。

裁判所に着くと、予想通り、職員が次々と帰宅していたため、急いで4階の書記官室に行き、まだ残っていた書記官の方に、事情を説明して休廷を確認し、訴状や準備書面だけ受け取って下さいとお願いして、事務所に戻りました。裁判所も人的・物的被害はほとんどない様子ではありましたが、完全停電のため、階段などは真っ暗でした。

余談ながら、4時の事件の相手方代理人は東京の弁護士の方で、電話会議とせずに出廷を予定していたため、恐らくは新幹線に乗車中に地震が発生したものと思われ、同情の念を禁じ得ませんでした。

その後、事務所に荷物を置いて家族と合流しましたが、巨大な余震があると不安とのことで、少し事務所で待機した後、歩いて帰宅しました。その日は完全停電でしたが、幸い、私のマンションは帰宅後21時まで給水ができた上、ガスが止まっていなかったので、お湯を沸かして夕食を取ることができました。

自宅にラジオと登山用のヘッドランプがあったので、最低限の対処ができましたが、何度も余震があり、不安を抱えながらの就寝でした。

翌12日は、盛岡の街は平穏そのもので、行きつけのスーパーに自転車で買い出しに行きましたが、店頭で菓子類や果物、レトルトカレーなど若干の品物を販売していただけで、それでも購入まで1時間半くらい並ばなければなりませんでした。

帰宅後、今夜も停電のままかと肩を落としながら家族で夕食をとって間もなく電気が復旧しました。文明社会に復帰できたことを喜びつつも、テレビ画面で過去に何度も足を運んだことがある沿岸方面の惨状を目の当たりにし、愕然とさせられた次第です。

沿岸部の皆さん、とりわけ沿岸部在住の知人・友人や当事務所に事件を依頼されていた皆様の安否が心配でなりません。自動車で2時間程度の距離に過ぎないのに、ガス欠その他の事情で現場に向かうこともできない自分が悔しく、情けない気持ちで一杯ですが、皆さんのご無事と一人でも多くの方の救出を心より祈っています。

ちなみに、地震発生の直前に、11日付で「16日予定のJCの知事選公開討論会のPR」の日記までを書き終えて事務局に掲載要請をしましたが、もはや、それどころではなくなってしまいました(既に、延期が決定されています。知事選そのものも特例法で延期になるようです)。

震災被害者の救済が最優先で図られるべきことは当然ですが、未曾有の震災により、沿岸部をはじめ県内全域で、数十年以上に亘り様々な負の影響が生じるであろうことも危惧されます。今後も様々なことに視野を向けながら、自分の立場でできること、すべきことに全力で取り組みたいと思っています。