週末の午後に事務所で一人で書類仕事をしていたところ、ブラインドに影でT字の模様が浮かび上がっているのを見つけました。
非常用進入口の▽シールへの陽の当たり方の関係で、このようなT字が出現する現象が生じたようですが、昨年に物議を醸した末に露と消えた某五輪のエンブレムを彷彿とさせます。
Tの影も五輪と同じように?数分ほどで儚く消えてしまいましたが、当事務所はしぶとく、しっかりと地域に根を張って末永く皆様のお役に立てるよう精進して参りたいと思います。
〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F
TEL.019-621-1771
週末の午後に事務所で一人で書類仕事をしていたところ、ブラインドに影でT字の模様が浮かび上がっているのを見つけました。
非常用進入口の▽シールへの陽の当たり方の関係で、このようなT字が出現する現象が生じたようですが、昨年に物議を醸した末に露と消えた某五輪のエンブレムを彷彿とさせます。
Tの影も五輪と同じように?数分ほどで儚く消えてしまいましたが、当事務所はしぶとく、しっかりと地域に根を張って末永く皆様のお役に立てるよう精進して参りたいと思います。
半年ほど前から、著名ブロガーのちきりんさんのブログを読むようになり、その関係で著書も読んでみたいと思って、10月頃に「マーケット感覚を身につけよう」を読み、正月は、文庫本化された「未来の働き方を考えよう」を読みました。今回は後者について少し書いてみようと思います。
本書は、20代で大企業に就職するなど従前の社会で典型的な生き方を選んだ(そこに収まった)方も、40代でそれまでの経験などを踏まえて個としての可能性をより追求する新たな生き方(職業人生)にチャレンジすべきという趣旨のことを、まさにそうした生き方を辿ったご自身の経験や詳細な社会分析を踏まえて語った本です。
平成25年に出版された本ですが、内容は全く陳腐化しておらず、賛否両論ありそうな記載も幾つか見受けられますが、多くの方にとって学ぶところの多い一冊だと思います。
私自身40代に突入して間もない上、25歳で弁護士になり、15年以上、東京と岩手で町弁として生き、「公」はさておき「私」の部分では一定の達成感もある一方で、弁護士業界自体が大増員などで非常に混沌とした状況にあり、弁護士として生きていく場合でも従前と異なる新たな生き方が求められている(そうでなければ生き残れない)という点で本書がターゲットにしている層そのものと言え、そうした点でも大いに参考になりました。
また、本書では、近時の家電大手の凋落や過去に生じた幾つかの伝統的な重厚長大型の大企業の凋落などを例に、大企業に依存する生き方はリスクが大きくなりつつあるという点が強調されているのですが、そこで描かれている大企業像は、地方の弁護士にとって見れば、地元の弁護士会の姿と重なる面が大きいように思いました。
少し具体的に言うと、岩手(なかんずく盛岡)では、私を含む若い世代の弁護士が訴訟などの仕事を受任したいと思えば、独自に自分の事務所の宣伝をするよりも、弁護士会(盛岡の相談センター)で行っている法律相談を担当するのが最も近道である(それだけ弁護士会の相談には強力な顧客吸引力があり、委任希望のご依頼が集まってくる)という面があります。
私は平成17年から事務所のWebサイトを開設しており、平成20年頃までは他にサイトを開設する事務所は県内にはなく、盛岡市に限っては平成23年頃からようやく他の先生も開設をするようになったのですが、岩手はネットで弁護士を探すという文化については需給とも「周回遅れ」の面があるせいか、かつては債務整理以外の相談依頼を受けることはさほど多くはありませんでした。
近年そうした文化がようやく普及し始めたのかなと感じた矢先、債務整理の需要が激減した上、ここ1、2年は市内の有力な先生もWeb上で熱心に宣伝をなさっているせいか、数年前と比べてもHPルートでの依頼を受ける機会はかなり少なくなったように感じます。
これに対し、弁護士会の法律相談は後述のとおり10年前に比べて担当回数が半減しましたが、毎回、概ね満員となっています(震災前の時期は他県と同様に有料相談が廃れそうな様相も呈していましたが、震災無料相談が導入されたことで、劇的に息を吹き返しました)。
もちろん、私が担当日に弁護士会に行くのも事務所で相談を受けるのも「小保内が担当する相談」という点では何ら違いがなく、むしろ、必要に応じ書籍等を確認して回答し時間なども融通が利く当事務所での相談の方が、利用者にとっては利便性が高いことは確かだと思います(私に限らずですが)。
また、岩手弁護士会(盛岡)の相談センターは、盛岡市内の弁護士が交代制で担当しているため、数年前は概ね1ヶ月に1回、新人が急増した現在は2ヶ月に1回程度の頻度で担当しているのですが、相談者にとっては「当たりはずれ」のリスクは否めません。
現に、これまで依頼を受けた方から何度か、法テラスや弁護士会の相談で、年配の弁護士から酷い対応を受けたとか若い弁護士が要領を得ない説明を受け、私と話をして初めて得心できたというお話をいただいたことは何度かあります(かくいう私自身が、逆のように言われることもあったかもしれません。そこは、私の研鑽の問題を別とすれば、相性というほかありませんが)。
それでもなお、多くの方が個々の事務所にアクセスするよりも弁護士会の相談センターの門を叩く方を選ぶのは、個々の弁護士(法律事務所)よりも「相談や仕事を頼みにいく先」として県民・中小企業にとって圧倒的なブランド力があると認知されているからなのだと思います。
そのような光景に接していると、県民(利用者)の多くは、弁護士会が実施する相談事業を、あたかも田舎の県立病院のような「地域で圧倒的な規模を持つ一個の大病院(への通院)」のような感覚で捉えているのかもしれない、という印象を受けます。
また、そのように感じるだけに、激増による競争の深刻化と「利用者が自ら弁護士(受注者)を調べて選ぶ文化の未成熟」という2つの事象の組合せによる結果として、個々の弁護士(町弁)が、仕事の供給源たる「地域の大企業」としての弁護士会に対し、ますます依存度を深めていくのではないかと感じるところがあります。
とりわけ「若い弁護士が会務を一生懸命行うと、要職を歴任し豊富な人脈を有するベテランの先生から引き立てられ、様々な仕事・チャンスを紹介して貰える」ということは昔から言われていることで、そうした文化(ひいては弁護士会への依存)という傾向は、今後むしろ強まっていく面はあるのかもしれないと感じるところはあります。
恥ずかしながら、私の場合、東京時代から会務など(東京の場合、弁護士会とは別に派閥云々もありますが)への関わりが薄かった上、岩手に移転後は、債務整理特需の全盛期+家庭の事情で弁護士会の会合・飲み会に足が遠のいていたところ、いつの間にか、すっかり窓際族で定着してしまった感があり、最近は、私よりも何年も後に弁護士になった方が、遥かに「弁護士会の重鎮」として活躍されているようです。
もともとそうしたキャラではあるのですが、上記の事情から、事務所経営者としては、遅まきながら会務に積極的に関わらないと事務所の存立そのものも危ういかもしれないと、恐怖を感じるところはあります。
但し「弁護士の盛岡一極集中」という岩手の特殊性の裏返しとして、盛岡以外の他の地域で開業されている方はもともと弁護士会に仕事の供給を依存する必要が乏しく裁判所からダイレクトに受注する面も大きいので、以上に述べたことは盛岡=県庁所在地に限った現象というべきかもしれません。
ちなみに、本書98頁では「大組織に(幹部候補生として)就職することは、これだけ良いことずくめだったが、今やそのメリットは毀損されている」として、高給や安定、キャリア形成のチャンスなどが上記のメリットとして説明され、他方で「大企業を辞める人が重視する価値」として、様々な自由や「組織の序列、くだらない形式的な仕事」に人生を奪われないことなどが挙げられていますが、それらは、地方の弁護士における「一匹狼でいるより弁護士会に積極的に関わるメリット、敢えて関わらないメリット」と、重なるような気がします。
ちきりんさんのブログでは「大企業に依存する社会・人生」の減退ないし終焉・脱却(とこれに伴う個の復権)が現在の社会のトレンドになっているということが繰り返し強調されているのですが、地方の弁護士会は「周回遅れ業界」に相応しく?これまでは「個」が中心ないし基本であったものが、かえって弁護士会が地域の大企業(受注と供給の受け皿)としての性質をますます強めている(個々の弁護士の依存の度合いが深まる)かもしれない感じ、それを前提に、組織での出世に微塵も向いていない私が何に活路を求めていくべきか、悩んでいるというのが正直なところです。
基本的には、もはや後戻りは困難として弁護士会に依存しない形での仕事の獲得に力を入れたいのですが、地方の弁護士業界の「市場化」はまだまだ文化としては未成熟との感は否めず、そういう意味では周回遅れの宿命を負った業界で、伝統的な手法に依存せざるを得ない面は強く感じます。
もともと、我が国は、「平家、海軍、国際派」は出世できず、「源氏、陸軍、国内(内務)派」が主流を占める社会とされ、異質な他者(国外)と自由に幅広く接するよりも、同質的な身内を秩序で固めていく方が好ましいとされてきた組織ないし社会の文化があります(岩手弁護士会に関しても、そうした傾向を感じる面は率直に言ってあります)。
ちきりんさんは前者そのものといった感がありますが、私は、キャラは地味(後者)なのに生き方や志向は前者派という感は否めず、そうした「生き方の分裂」が生じているせいか、どこに行っても集団内の路線(多数派)との関係で不適合が生じたり「場の空気」に馴染めず内部で厄介者扱いされてしまう面があるように思います。
現代の急激な社会の変化の中で、そうした日本の風潮が多少でも変わるか、それとも、やっぱり「平家」は社会の閉塞感が高まっているときに一時的にもてはやされても短期間で退潮していくのか、また、変容の源とされる情報通信技術(コミュニケーション技術)の変革(IT革命)が日本社会の中で本当に「革命」と言えるか、それとも単なるクーデター=体制内権力者の交替の手段に止まるのかという視点も交えながら、弁護士会ひいては遠からず大変容を余儀なくされるであろう弁護士業界と向き合っていきたいと思っています。
今年の正月は静岡県中西部に足を伸ばしました。まずは、島田市にある「世界で最も長い木造橋」とされる蓬莱橋に行きました。
個人差はあるでしょうが、片道10~15分程度で、終点(橋の向こう側)に小さな祠があり、広大な大井川や遠方に見える富士などの眺望もよく、気軽に散策できる場所としても、訪れてよいところだと思います。
島田市は、岩手県民には震災後、放射線風評被害に負けずに真っ先に「三陸の被災廃棄物の広域処理に手を挙げた自治体」として覚えている方も少なくないと思いますが、私の知る限りでは、その後、島田市が県内ニュースなどに登場したとの記憶がありません。
同市が受入を表明した理由が、日本茶の一大産地たる同市にとって岩手が上得意という事情があったと報道されていましたので、今後も、相互交流や両県での各種物産品の販売、共同企画商品の開発と全国展開など、折角のご縁を豊かにしていく営みがもっとなされればと思っています。
次に、掛川城に行きました。こちらは、今川氏の統治時代に大物重臣の一人(朝比奈氏)が居城として築いたのが発祥とのことですが、言わずと知れた、山内一豊が「初めて本格大名に出世した城」として著名であり、現在の城郭も、(対徳川氏の防御目的で)一豊公により拡張・整備されたものとされています。
そのため、「大河バカ」の私が「巧妙が辻」のテーマ曲を口笛で吹きながら散策していたことは、申すまでもありません。
現在の城は、江戸末期に地震で倒壊した後、現代になって地元の熱意で再建されたとのことで、東北で言えば、片倉景綱が統治した白石城に似ているのかもしれません。
数年前に浜松に行ったときには、浜松城が年末休業になっていたのですが、こちらは有り難いことに年末年始も休まず営業されているとのことで、入口にはご年配?の忍者まで出勤されており、南アジア系?の外国人ご家族ともフレンドリーにカタコト英語で会話をなさっていました。
残念ながら二の丸美術館だけは休館でしたが、他の施設はすべて拝観可能とのことで、二の丸の御殿(藩の政庁)や城郭の一部「竹の丸」に地元の豪商が明治期に建築した邸宅跡を拝見し、二の丸茶屋で一服いただいて帰りました。
竹の丸の邸宅は、明治の廃城の際に地元の豪商が土地を取得し建築したとのことで、盛岡でいえば徳清倉庫さんのお屋敷に通じるものがあるかもしれません。ただ、外観ないし雰囲気については、青森県平川市の盛美園(「借り暮らしのアリエッティ」の屋敷のモデルになった館)に少し似ているような気がします。
邸宅は「竹の丸」だけに本丸(天守)の直下にあり、徳清倉庫さんも、どうせなら城から離れた場所ではなく下ノ橋の袂あたりに建てていただければ、今頃は「盛岡城址の定番周遊コース」になっていたのにと、少し残念に思いました。
また、竹の丸と二の丸との間にステンドグラス美術館があり、折角なので立ち寄ってきました。
館内の解説によれば、作品自体はヴィクトリア王朝期のイギリスで作られて英国国教会に設置されたものが中心とのことですが、1960~70年代の英国で、「反王朝文化」の風潮が起きて国教会の多くが閉鎖され、協会内のステンドグラスの多くも無惨に破壊される中、たまたま日本に収集家がいるとの話があって、その方が多数を買い集めて保存されていたものを公開しているのだそうです。
館内はさほど広くはありませんが、教会に飾られていた同一サイズのステンドグラス群が聖堂のような雰囲気で並んでいる様は、かえって上品で荘厳な印象を与え、心地よい空間を演出しているように感じます。
ところで、「1960~70年代のイギリス」は、現代欧州史は不勉強なのでさほど知識はないものの、ビートルズを生んだイギリスであり、サッチャー時代の前史=英国病と後日に非難された時代であり、王朝時代への反感や国教会の衰退などという点からしても、それまで社会で抑圧されていた労働者達(の利害を代表する労働党)が、保守党(の支持者たる富裕層)に代わって社会の主役に躍り出た時代でもあるのだと思います。
だからこそ、そうした社会の光と影がステンドグラスの向こう側に垣間見えるようにも感じますし、そんな時代の荒波に晒された文化財を日本の愛好家が保護して現代に価値を繋いだということにも、大いに意義があるように感じます。
館内の解説では、ヴィクトリア王朝文化は日本の浮世絵等の影響を受けており、その原因は幕末~明治の混乱期に日本の美術品が大量に国外流出したことによるのだと記載されており、そうした「洋の東西でそれぞれ生じた美術品の受難と伝播の交錯」も、歴史や文化の深さを感じさせるものがありました。
最後に立ち寄った「二の丸茶屋」では良心価格で抹茶と和菓子をいただき(城の拝観と竹の丸や茶屋がセット券になっていました)、ちょうど休憩が欲しくなるミニ周遊の最後ということもあり、大変ありがたく思いました(茶菓子は、地元の和菓子屋さんのものを使っているそうです)。
盛岡城址には、このようなサービスを提供する庭園等を備えた施設等はない(そもそも、和菓子と抹茶を気軽に堪能できる店舗自体が城跡公園の周辺にない)ように思われ、改めて残念に感じます。
例えば、建替中の教育会館や亀ヶ池などの周辺に、そうした施設ないし店舗を設置してはいかがかと思うのですが、どうでしょうか。
掛川城周辺は、民家や公共施設なども、掛川城の景観を壊さないよう、多くの建築物が、瓦屋根や白い壁のような外観にするなど、非常に配慮された街並みを形成しており、その点もとても心地よく感じました。
盛岡は、城の建築物はおろか武家屋敷などが全く残っておらず、その原因は、南部氏が戊辰の敗戦で転封の憂き目に遭い、その際に家臣団が根こそぎ移転し家屋敷を売り払ったからだという話を聞いたことがあります。そうした「旧支配層たる公権力の喪失」は、一方で、民間活力の勃興や明治期の人材輩出に繋がった面もあるかもしれませんが、他方で街全体の香気を損なってしまったような印象もあります。
盛岡の人々も、「盛岡ブランド宣言」などと称するのであれば、公園の名称改変などという子供騙しの話ではなく、一人一人が「南部の殿様」になったつもりで、城を取り囲む風景について都市規模に相応しい歴史と現代の双方の美と用途を備えた都市計画を練り、ハードとソフトの双方を100年かけてでも作っていく努力こそが必要というべきではないかと思いますし、それが、「主権者」たる地域住民のあるべき姿ではないかと思います。
掛川城は、山内氏の性質上、ご夫婦で裸一貫から事業を興す方にとっては何かと御利益がありそうな気もしますし、そうでない方にとっても、様々な思索の源泉となる場所として、一度は訪れてよいところではないかと思います。
年末に、妻の実家への帰省に伴い、妻の提案で、東京タワーで行われている漫画「ワンピース」のテーマパーク(東京ワンピースタワー)に行きました。
私自身は大学の頃に少年ジャンプは卒業しておりワンピースは全く見ていなかったのですが、1年ほど前、家族に見せようかと思ってアニメ(ドレスローザ編のSOP作戦決行直前)を録画して見ていたところ、ドフラミンゴの悪辣ぶりが妙に気になり、少年時代に起きた社会の最上層からの転落と矜持や怨念という人物像に逆説的な人間らしさを感じる部分もあって、以来、恥ずかしながら、番組を録画して毎週深夜に見ています。
もともと、同作が、ジャンプの黄金時代が過ぎ去った後、「努力、友情、勝利」という旗印を背負ってきた作品だという話は聞いており、だからこそ、(のめり込まないよう)意識的に避けていたのですが、世界観の壮大さや個々の人物造詣の緻密さ、現実社会にも通じる論点を取り上げて閉塞感を吹き飛ばす爽快さなど、売れるのもよく分かるというか、大人も相応に楽しめる作品だと感心する面は強いです。
また、弁護士の仕事も、「本人の努力、依頼主との友情(共同作業と信頼関係)、事件での勝利」が求められるという点で、ジャンプの価値観そのものと言えなくもない性質があり、次から次へと敵(対処すべき仕事と厄介な論点ないし当事者)と相対しなければならないという点でも、ともすると、子供時代以上にジャンプ作品の当事者にシンパシーを感じてしまう部分はあります。
そんな訳で、そこそこ事前知識のある中で「タワー」に行ってみると、大人の鑑賞に耐えうるホンモノ志向が強く表れているものもあれば、そうでないものもあって、ある意味、ちぐはぐ感が否めないところはありました。
良いと感じた点は何と言っても「ライブショー」で、麦わらの一味が、ある洞窟内で得体の知れない何かと闘うという設定になっているのですが、演じる役者さんの格好や人相などはもちろん、踊りの際の様々な仕草や手足の動かし方が、本物を彷彿とさせる面が多く、司会役の女性のアドリブの巧妙さなども含め、ショービジネスに本格的に携わっている方々が作り込んでいるのだろうと強く感じました。
折角ということで、メインである「麦わらの一味のショー」のほか、「ボン・クレーのニューカマーショー」も見てきたのですが、本物と見紛うほどの御仁が登場し、大人も子供も楽しませる工夫が随所に見られる一方で、その種のショー(いわゆる夜?の大人向けのもの)にありがちな痛々しさ(尊厳が損なわれている印象)はなく、そうしたことも含めて感心しました。
参加者も大いに盛り上がっており、例えば、前者のショーでは、多くの若い?女性から「サンジー!」などと黄色い声が盛んに飛び交っていました。
他方、昼食はビュッフェ形式の「サンジのレストラン」を利用したのですが、様々なメニューに作品の登場人物の名前などが付けられているものの、食事自体は値段相応の「テーマパークのありふれたバイキングそのもの」といった感じで、少なくとも大人の「ワンピースファン」が満足できるほどのものではありませんでした。
あまりマイナスなことを書くのは差し控えたいのですが、例えば、普通のポタージュやミネストローネを、いくら黄色や赤色だからといって、「黄猿の~」「赤犬の~」などと命名するのは、かえって興醒めというか、こじつけ感が丸出し過ぎて本物への冒涜ではと思わないでもありません。
せっかく、サンジが作品中は著名なレストランの大物シェフの片腕を務めていたという設定があるのですから、上記のような「子供(ご家族)向け」のバイキングとは別に、作品で出てくるレストラン(バラティエ)を模すなどした本格的な料理を提供する店舗も考えて良いのではと思いました。
とりわけ、上記の「黄色い声を上げている女性陣」は、恐らくはディズニーにも湯水の如くお金を使うような購買力が高い(その種のものに出費を厭わない)層なのでしょうし、いっそ、ショーに対抗して、サンジに似た風貌の人を集めて髪もカツラ等で対応し質の高い料理をテーブルに給仕するサービスなども提供すれば、一人あたり単価で数千円以上の値段でも世界中から殺到する層が十分いるのではと思われます(それこそ、ナミやロビンの格好をして入店したいという層すらいそうな気がします)。
さほど作品世界を知っているわけでないので、作品中で、その「高級レストラン」に相応しいメニューが取り上げられているのか知らないのですが、そうであるなら、いっそ、名だたる若手シェフ(それこそ、作品のファンのような方々)に作品世界をイメージしたメニュー開発を依頼して、東京タワーの近くの本物のレストランに協力依頼して特別メニューを出すといった試みもあってよいのではと思いました。デザートも、相応のパティシエに依頼して、皿に作品の絵柄を表現するような一品を出せば、より好評を博するのではないでしょうか。
あと、物産店舗(ショップ)についても、ローの帽子とか海軍大将衣裳などと称するモノが売っていたのですが、これも、本物志向の強い人からすれば、買わないだろうなぁという印象は受けました。
決して安い帽子ではなかったのですが、その「(普通の)子ども向け商品」とは別に、その5倍から10倍かけて、高級ブランド店でも取り扱うようなものを敢えて加えた方が、「なりきりたい大人」には受けるのではと思いました。
ちょうど、ショーで前に座っていた女性が、エースの帽子とそっくりなものを被っており、てっきり売店で購入したのかと思ったのですが、それらしいものが見あたらなかったので、手作りなのか似たものを他で入手したのか、単なる私の勘違いかは分かりませんが、子供以上に大人(外国人を含む)の集客を多く見かけたこともあり、出費を惜しまない本物志向のニーズは相応にあるのではと感じました。
ワンピース自体は、ディズニーに負けない強力なコンテンツとして世界で勝負できるように思われるだけに、本物志向でレベルの高いショーと、それと反対方向の印象が否めないレストランやショップの落差のようなものを感じ、後者のグレードを軽視しない(ように見える)ディズニーに見習った方がよいのでは?(それこそが「花の都・大東京」の役割と責任なのでは?)というのが、とりあえずの感想といったところです。
アニメの方は、ようやくルフィーとドフラミンゴの対決が決着するところまで来ましたが、ワンピースの世界の様々な問題や矛盾に伴う負の部分を一手に引き受けて「暴力による非人道的な解決の万能性」を主張する存在であるドフラミンゴを見ていると、現実世界の「イスラム国(IS)」などに重なる面が大きいように思われます。
それだけに、混沌をもたらした世界の矛盾の象徴というべき西欧列強による爆撃などでは本当の解決が実現するはずもなく、非人道性の核にある矛盾を根元から洗い流すような営みが広まって欲しいですし、そのことに貢献することこそが、中東などに迷惑をかけた過去がなく、他方で圧倒的な強者達に挑んだ経歴がある「地味でイケてないルフィー」というべき日本の役割として、求められているのだろうと思います。
昨日は大船渡(法テラス気仙)でしたが、今日は仕事で由利本荘に行きました。色々な難しさを抱えた離婚訴訟の期日でしたが、本日、依頼主が納得できる相当な内容での和解が成立して終了しました。
この件では、今年の3月まで在籍していた辻弁護士が、子の引渡というハードルの高い論点に挑んで、多大な奮闘の末に大きな成果を成し遂げた後、残務処理を私が引き継いだのですが、決裂か和解かの瀬戸際が相当あり、どうにか解決に至ったという案件でした。
11時半に開始した和解協議が2時半過ぎにようやく成立したのですが、裁判所の近くに、3時まで営業している、本荘を代表する?ラーメン店の一つと思われるお店があり、ギリギリセーフということで、大変美味しくいただきました(残念ながら、12月下旬に閉店となるそうです)。
ちなみに、第1希望だった本荘ナンバーワンとされる有名店は、2時半までの営業時間なので泣く泣く諦めました。依頼主はこの話を聞いて苦笑していましたが、裁判官にも和解成立時に同じ話をしたところ、軽口トークに慣れておられないのか、きょとんとしていました。
事案の中身は申せませんが、当方依頼主は、紛争を通じて2年ほど様々な艱難辛苦を余儀なくされており、最初にお会いした頃と比べて、とても強く、逞しくなられたと感じます。
この種の紛争は、弁護士にとっては不採算になることが通例で、この件も時間給ベースなどで見ると経済的には泣きそうな面はありますが、純然たるビジネス上の紛争などでは学びにくい、人間の業や人として生きることの深さを否応なく考えされられることが多いことは確かです。
ロータリーの標語に「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というものがありますが、この事件も、その言葉を事実の重みをもって考えさせられるものがありました。
業界には「弁護士報酬と書いて、いしゃりょうと読む」という有名な言葉があり、この事件でも、私や辻先生に限らず担当事務局を含め今日までに色々と苦心惨憺がありましたが、今後もこうした事件を手掛けることができるだけの売上をいただけるよう、めげずに頑張っていきたいと思います。
最後に、締めの一句ということで。
その果てに 味わいを知る 和解麺
半年ほど前の話で恐縮ですが、岩手弁護士会の広報にエッセイを投稿せよとのことで、以下の文章を寄稿しました。勝手ながら、本ブログにも転載させていただきます。
***********
1 はじめに
先般、K先生よりエッセイを投稿せよとのご指示を受けました。内容は自由とのことですが、私の場合、共働きなどの事情から本業と兼業主夫業に追われて会務等にほとんど参加しておらず、若い先生方には「あなた誰?」と思われているでしょうから、自己紹介的な文章を書かせていただくことにしました。
ただ、単なる自己紹介ではつまらないでしょうから、私が盛岡で修習生をしていた平成10年頃の様子を題材にすることにします。私は修習生のお世話を仰せつかることがなく、現在の修習制度や修習生活の実情などを伺う機会がありませんが、当時と今では大きな違いがあるでしょうし、不快に感じる面もあるかもしれませが、法曹養成制度のあり方なども視野に入れて?お気軽に読んでいただければ幸いです。
2 実務修習開始まで
私は二年修習制の最後の年である52期の修習生でしたが、当時は7月中旬に前期修習を終え、下旬に実務修習が始まりました。私は二戸市の出身ですが県外の高校に進学したこともあり、修習先は盛岡を第1志望としましたが、そのような変わり種は私だけで、書いていないのに配属されたと嘆いていた地元出身の方もいました。
この年の盛岡配属は4名で、2名が現役、2名が卒業2年合格(男性3名、女性1名)となっており、出身大学も、私が中央で他の3名が東大、早稲田、慶応という綺麗?な組合せで、各人のキャラも、「地味で地道」の私をはじめ、各大学のカラーを体現しているような印象を受けました。
3 検察修習
盛岡に限らず当時の小規模庁は検察修習から始まりました。地裁での開始式のあと、地検に移動するのかと思いきや、反対側の岩手医大に引率され、いきなり遺体解剖に立ち会うことになりました。さすがに、その晩の歓迎会では刺身を見ながら複雑な思いを禁じ得ませんでしたが。
4人だけの修習生が4ヶ月間も地検のお世話になるため、修習生向けとも言える一般的な窃盗、傷害、覚せい剤自己使用の類だけでなく、殺人や嘱託殺人、金融機関での業務上横領など、重大ないし複雑な事案が個々の修習生に配点され、取り調べ等をさせていただく機会がありました。
また、三席検事が手掛けていた元大物県議による特別背任事件の強制捜査を盛岡地検総出で行うことになり、我々も現地に同行して差押物件の確保や整理などに従事したことも、強い印象に残りました。
この頃は修習生4人だけで行動することが多く、私の実家に全員が泊まりに来て、翌日に一緒に北山崎をはじめ沿岸の名所を廻って盛岡に戻ったことなど、楽しい思い出も沢山あります。指導検事(四席)の方も、厳しくも面倒見のよい親分肌の方で、公私とも大変お世話になりました。
4 弁護修習
私はI先生のご指導を受け、訴状など幾つかの起案を担当させていただきました。修習生の指導担当であるK先生、O先生にも、様々な行事や他の先生方からの講義の引率等をはじめ、大変お世話になりました。
ただ、12月から3月というスキーシーズンと重なる上、とりわけ弁護修習は勉強よりも見聞・体験することが重視されたせいか?全員が週末はスキー三昧の日々で、K先生や若手の検事の方々に大変お世話になりました。
一度、私がI先生の事務所で朝方まで境界絡みの訴訟の控訴趣意書を起案して帰宅した後、徹夜明けで皆と一緒に安比に行ったのですが、帰りの温泉で気を失って倒れ、ご一緒した三席に盛楼閣で焼肉を奢っていただく話がフイになってしまったことがあり、今も申し訳なく思っています。
余談ながら、三席は検察庁の飲み会で、「クリントンをはじめ弁護士が国を牽引している米国に見習い、君達が政治の世界に打って出て、法の理念に基づく正しい社会が形成されるよう頑張るべきだ」と仰っていたのですが、予想通りというか、我々ではなくご自身が霞ヶ関を「脱藩」して、政治の道で活躍されています(岡山2区選出の山下貴司議員です)。
また、クリスマスの際、まだ弁護士登録されて間もないS先生から「お一人さま」の面々(4人全員だったかは忘れました)に声をかけていただき、ご自宅でご馳走になったこと(大葉を刻んだ豆腐のサラダが強く印象に残り、その後も自分で作って食べていました)なども懐かしい思い出です。
5 民事裁判修習
裁判修習は、民裁と刑裁で二人ずつに分かれ、2ヶ月交替で1人の裁判官(部長と単独専門の判事)のご指導のもと、起案などに明け暮れます。
さすがに、民裁修習ではそれなりに勉強漬けの日々でしたが、ご夫婦で判事をされていたOさん(ご主人)が、「小保内君は、この点の勉強が足りないね」と仰ると、間髪入れずに「これを読んでみて」と、裁判官室の本棚から本を5冊以上取り出して山積みにされることが何度もありました。
しかも、申し合わせたように?家裁にいらした奥様(判事)にも、「小保内君の顔は、いつ見ても勉強してなさそうに見える」と言われ、トホホと思いながらも、勉強モードに頭を切り換えないと大変なことになると恐怖し悪戦苦闘していたのをよく覚えています。
おかげさまで、弁護士登録以来、今も、法律論で勉強不足と感じたときは、文献等を山積みにして色々と読みながら起案する習慣が染みついています。
この頃、K先生のご結婚と独立開業が重なり、結婚式の二次会や新事務所での開業パーティに呼んでいただいたことも、懐かしい思い出です。
6 刑事裁判修習
恥ずかしながら、私は諸事情(一応、不祥事の類ではありません)によりこの時期に急遽、東京で就職活動を開始することになりました。幸い、一度お会いしただけで内定をいただける先生もおられましたので、2度ほどの上京で就職先を確定できたのですが、その間は全くと言ってよいほど修習に身が入らず、折角、無罪判決を予定している事件の起案を勧めていただいたものの、起案できず簡易なレポートの提出で終わってしまったことが、今も悔やまれます。
5年以上前にお会いした修習生の方から、当時すでに、地方に配属された修習生の多くが何度も上京を余儀なくされ、重い負担を強いられているとの話を伺ったことがありますが、就職活動と修習の両立を修習生に強いるのは無理があり、修習開始までに就職先を内定させるなど、修習中は修習に専念できる文化が根付いて欲しいと思っています。
刑裁修習の最後に、現在と同様に修習生による模擬裁判がありましたが、当時は前後の期の修習生と一緒に行っており、1年目と2年目の2回、経験できました。
1年目で検察官を担当した際は、被害事実を法廷で否認した被害者証人の特信性立証(被告人の知人から金品を受け取った等の証言の引き出し)ができず、弁護人を担当した51期の方々に惨敗したものの、2年目で弁護人を担当した際は、被告人役を担当した53期のOさんの熱演もあり、無罪判決をいただくことができました。
被害者立会の実況見分調書に被害者の証言と相反する記載があり、法廷でその点を指摘したものの同期で検察官役のI君の剣幕に圧倒されるという一幕があったのですが、53期の裁判官役の方からその件を考慮したとのコメントをいただき、法廷は迫力だけで決まるものではないと感じたのを覚えています(ただ、監督役のK裁判官からは、どうして有罪じゃないのと言われて自信を無くしましたが)。
7 その他、最後に
私の誤解でなければ、当時と現在の修習制度の大きな違いとして、前後の期と交流できる機会ないし程度の有無が挙げられると思います。
当時は盛岡に一緒にいる期間が数ヶ月もありますので、私は51期の盛岡修習の方々から感銘を受ける機会が多々ありましたし、53期の方からも、(私はさておき)52期の面々から良い影響を受けたという話を頂戴したことがあります。現在の仕組みを把握できていませんが、修習生が前後の期の方々と継続的に交流できる機会は、必ず設けていただきたいものです。
当時は、「弁護士になった後は、どうせ仕事漬けの毎日になるのだから、今のうちに遊んでおくように」と言われ、私自身、己の至らなさもあって概ねそのような日々を送ってきました。
それだけに、長期休暇など、ここでは省略した他の出来事も含め、修習生の頃の様々な思い出が、その後の自分の支えになった面も大きいと感じています。
現在の方々は、修習開始前に多少ともそうした機会を持つことができるのだろうとは思いますし、修習直後の弁護士の眼前に広がる世界自体が、当時と今とでは様変わりしていますが、実務修習が法曹養成の根幹である(べき)ことは微塵も変わりないと思います。
指導等に携わっておられる諸先生方におかれても、盛岡配属の全ての修習生が岩手に来て良かったと思って法曹人生をスタートできるよう、OBの一人としてご尽力をお願い申し上げる次第です。
前回のブログで中小企業家同友会について触れた関係で、3年半前(平成24年2月)に旧HPの日記に掲載した文章(はじめて同友会について記載したもの)を微修正して再掲しました。
ただ、当時と今とでは同友会の雰囲気も大きく変わり、私よりも若い方が増えて飲み会なども多くなり、当時とは逆の意味で、私のようなタイプの人間にはハードルが高くなったような感もあるため、何とかしなければと焦っているのが正直なところです。
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平成23年11月から、仕事上のお付き合いのある方の勧めで、岩手県中小企業家同友会に加入しています。中小企業家同友会とは、中小・零細企業の経営者や管理職の方が参加し、地域経済の実情や企業経営の理念などを互いに学びつつ交流や相互支援を図る目的で全国組織された団体だそうで、詳しくは同会のサイトなどを見ていただければと思います。
私の場合、盛岡JCで幽霊会員同然の状態が続いているため、新たな団体に加入することには心苦しい面があり、入会に躊躇する面はありました。が、ここ数年、私の原点であり最もこだわりのある分野の1つである、地域の中小企業のお役に立てる仕事をもっと受任できる機会を持ちたいと思いながらも、十分にその機会を得ることができない状態が続きましたので、新しい学びと出会いの機会を求めて、JCの卒業を待たずに、思い切って参加することにしました。
同友会にはJC会員の親・先輩世代が多く、若輩者の私には敷居が高い面がありますが、経営者が集まって経営に関する講義を聴き、学習した内容に関し討議することが活動のメインとなっており、特別企画などに参加する方を別とすれば、大きな時間的拘束はないように見受けられます。
また、「何はともあれ宴会」という雰囲気はなく、様々な世代の会員の方が、熱心に講義を拝聴している非常に真面目な団体さんのようですので、その点でも、私の気質には合っているように感じています(居眠り王の私が言えるセリフではありませんが…)。
反面、JCのような「会員同士が頻繁に集まって互いに知恵と汗と時間を費やしイベントを創り上げる」という団体ではないようで、過去の積み重ね(会員の方とのお付き合い)のない私のような「よそ者」にはかえって敷居が高いようにも感じており、その点は今後の課題かと思います。
昨日は、「復興特別講座」と銘打って、中小企業経営等がご専門の大学教授の方が、中小企業を巡る震災前後の日本経済の概況やそれを踏まえた被災県の中小企業の経営のあり方などを熱弁を振るって講義されていました。
また、今日は、新会員向けのオリエンテーションがあり、熱心に活動しているベテラン会員さんが複数お越しになり、同友会の講義や活動などを通じて自社の経営理念や従業員とのコミュニケーションのあり方などを大きく改善させることができたという話を熱心に語っておられました。
さすがに、私の業務や当事務所の経営に上記の講義や体験談の内容を単純に当てはめるのは難しいでしょうが、激動期を迎えた弁護士業界にあって、社会から求められる業務・経営革新のヒントになるものはあったように思います。
諸般の制約から参加できる機会は限られてしまうかもしれませんが、零細事務所を経営し顧客(社会)と職員に責任を負っている田舎の町弁に必要な起業家精神を涵養する場として活かしていければと思っています。
平成25年1月に盛岡の先人(明治~戦前に活躍した方々)について少し書いたものを再掲します。
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平成25年に放送された大河ドラマ「八重の桜」で、明治維新期における東北の苦闘の歴史に光があてられていますが、旧南部藩に身を置く者としては、岩手方面も取り上げていただきたいと思っているところです。
岩手県二戸市は、八重から少し遅れて出生し、東京帝大物理学科の第1期生となり、日本の物理学、地震学等の父と言われた田中舘愛橘博士を輩出しているのですが、現在(※この投稿の掲載時)、盛岡市中ノ橋通の「盛岡てがみ館」では、愛橘博士の業績や親交などをとりあげて展示をしています。
本日、弁護士会の相談担当日だったので、遅まきながら、昼食の合間に見に行ってきました。
盛岡市の事業という性質もあり、盛岡の同時代人と博士との親交に関する展示が多いのですが、その中に、「博士と親交があった旧制盛岡中学(現・盛岡一高)の先生(既に高齢の方)を教え子達が祝う会の写真」というのがありました。
で、そこに写っている面々なのですが、愛橘博士とその先生を真ん中に、蒼々たるという言葉を超えて、物凄い面々が取り囲んでいました。
まず、両隣を板垣征四郎(大戦当時の陸軍大将でA級戦犯として刑死)と米内光政(海軍大将から首相となり、海軍の対米穏健・戦争回避派の筆頭格)が座っており、その横には、鹿島(岩手発祥の日本最大の建設会社)の社長や三井物産?の役員(社長?)、金田一京助(国文学者)などが並んでおり、解説には、既に亡き石川啄木も彼らの同級生(又はその前後)であった旨の記載がありました。
恐らくは、大戦の数年前に撮影された写真と思われますが、当時の陸海軍、財界、学界に大きな力を持っていた人々が一堂に会した場と評して差し支えなく、もし、原敬(旧盛岡藩家老職の家柄に生まれた元首相。愛橘博士と同世代で仲も良かったものの、暗殺で死亡)も存命でその席に加わっていたなら、改めて、「南部にとっての明治維新は、この場をもって完全に終わったのだ」と高らかに述べたのかもしれません。
いずれ、大河ドラマなどで、「南部人たちの桜」とでも題して、こうした人々の群像劇を取り上げていただければと思っています。
余談ながら、ネットで色々見ているうちに、こんな本も見つけたので、読んでみたいと思いました。
私は盛岡駅フェザンのカード(常時5%引)を所持している関係で、一般書籍は盛岡駅のさわや書店で購入することが多いのですが、そこの店長をなさっている田口幹人さんが「本屋道」を熱く語った本を上梓され、店内でも販売されていたので、さっそく購入して一気に読み終えました。
本書は、田口さんがフェザン店の店長になるまでの軌跡(山間部にあるご実家の書店で読書を愛する人々に囲まれて育ったこと、盛岡市にかつてあった第一書店の勤務時に、業界では著名なさわや書店の名物店長さんと出逢い薫陶を受けたこと、ご実家を継ぐも時代の変化により経営環境があまりにも厳しく閉店を余儀なくされたことなど)が語られた上で、さわや書店の取り組みを通じて世に知られていなかった名著に光があたり新たな営みが生じたこと、地域で活躍する方への出版の支援や地域の様々な方を巻き込んだイベントと書籍販売との連動などが、幾つかの書籍を例にして説明されています。
全体として、地方都市に進出する巨大店舗やネット直販などの「書店を巡る現代的事象」と前向きに相対しつつ現代の「まちの本屋」の果たすべき役割や生きる道を模索する内容になっており、書店・出版業界に限らず、弁護士業界を含め、同じような激動に晒されている様々な業界のあり方などを考える上でも、参考になるところが多い一冊だと思います。
とりわけ、「本」を「弁護士が提供するリーガルサービス」に置き換えると、例えば、「本は、新刊の際に売れるとは限らない、その本に合った旬があり、それを捉えて売り出すタイミングを見極めるべき」という下り(26頁)は、新たな法律や判例などが直ちに社会に広まり、それを巡って弁護士の出番が来るわけではない(社会の熟度を見極めるべき)ということに繋がり、それを自身の業務や「営業」に活かしていくかを考える上で、参考になる面が大きいように思われます。
また、「本を置けば売れた時代があった、工夫すればさらに売上を伸ばすことができた、現在は、手を掛けても、成果を得るまでに要する時間と労力が、売上と釣り合わないところまできている」(160頁)というのは、恥ずかしながら極端な供給過小から供給過剰(と需要の縮小?)に向かっている過去と現在の町弁業界が置かれた状況そのものと述べても過言ではなく、それだけに、よりシビアな社会で生き残るため、地域に根を張り様々な工夫で苦闘を続けている「まちの本屋」の取り組みから学ぶべきことは多いのではないかと思います。
また、弁護士は「本」との比較では、サービスの中身を担う張本人(いわば、著者)であると共に、自らサービスの販売を行わなければならない(出版社ないし書店員)上、お店(法律事務所)の経営者でもあるという点で多面性があります。
そのような観点から出版・書店業界の様々な当事者の取り組みを参考にしたり、その文脈だと「書店員」に近い立場と言えそうな法律事務所の職員について、営業面をはじめ、今後、業界の活性化のため、どのように役割(活躍の場)を拡大させていけるか(さらに、誤解を恐れずに言えば、地位を向上させることができるか)という点でも、考えさせられるところがあります。
と同時に、「本屋は文化を売っているのではなく商売をしているのだ、だからこそ「今日行く」と「今日用」=現に顧客の役に立つことを通じて社会貢献(教育と教養)を図るべきだ」という下り(107頁)も、ともすると、現実的な権利救済や利害調整などからかけ離れた「高邁な理想」を強調しがちな弁護士業界としては、特に留意すべきことではないかと思っています。
私は、著者の田口さんのお父さんと面識があり、本書でも描かれているように、過疎地での書店経営の傍ら、本を通じて地域の文化を向上させたいとの強い思いを持って、色々と活動をなさっていたというお話を伺ったことがあります。
かくいう私自身、二戸という田舎町で育ち、少年漫画と歴史漫画中心という有様とはいえ、子供の頃は近所の書店に入り浸って少年時代を過ごした人間でもありますので、それだけに、田口さんの実家のような「田舎町の小さな書店」の存立が困難になっている現代で、過疎地に生まれ育つ子供達などの交通弱者にどのようにして「知の世界」への親和性を育んでいけるかという点は、大いに気がかりなところです。
田口さんは、私とは同じ年のお生まれとのことですが、本屋さん達に限らず、私も含め、地域に根を張る様々な立場の方が、そうした問題意識を共有し、それぞれの現場を守り、より良いものに磨き上げながら、社会のためにできること、すべきことを地道に実践していければと思っています。
次の水曜(18日)の盛岡北ロータリークラブの例会で、急遽、卓話を担当することになり、某会員の方の熱烈なご要望?により「男女の愛と不倫を巡る法律実務」をテーマとすることになりました。当クラブの方は申すに及ばず、市内等の他のRC会員の方におかれても、ご参加いただければ幸いです。
当日は、「あるRC会員の家族(架空)を巡って生じた、起きて欲しくない物語」などと題して、壮年のごきょうだいの各人に、離婚や不倫、交際などを巡ってトラブルが起きたという想定で、代表的な論点や裁判所の一般的な考え方などをご説明したいと思っています。
RCの卓話は実質20分強しかありませんので、当日は論点紹介に止まるでしょうが、1時間とか90分などのバージョンでお話することもできますので、セミナー?などのご要望などがあるようでしたら、ご遠慮なくお声掛け下さい。
ちなみに、前回は、県内でCMソングなどの制作やナレーター等に従事されている菅原直子さんの卓話を拝聴しました。ホームセンター「サンデー」のテーマソングを歌っている方なのだそうで、冒頭でご本人のナマ歌をご披露いただき、ささやかな感動を味わいました。
他にも、世界的な話(ヴェスビオ火山ケーブルカーの件)から県内ネタ(岩手川、ペコ&ペコなどベーシックな話から近時の「焼き冷麺」、ドンドンダウンなど)も交えつつ、コーポレートアイデンティティや商品ポリシーの重要性(それを確立している企業ほど良いCMをすぐに作れる)を伝える内容になっており、大変勉強になりました。