北奥法律事務所

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その他

新幹線延伸に伴う北陸と盛岡の交流と課題

盛岡タイムスのWeb記事で、北陸新幹線の開通を通じた盛岡の課題について取り上げられていました。
http://www.morioka-times.com/news/2015/1503/13/15031301.htm

記事に、「さんさ踊りをPRしても、実際に来た時に見られる場所はどこにもない」とあり、確かにピンと来ないなと思い(盛岡駅改札口等でたまに見られるものは別として)、「さんさ 体験」で検索したところ、15人以上の団体客を対象に90分以上で技術指導をして下さる公的団体があることが分かりました。
http://www.iwatetabi.jp/edu_travel/detail/03201/22.html

ただ、これだと、修学旅行生などは良いと思うのですが、一般の個人旅行者には無理な話で、そうした方が気軽に楽しめるようなものも考えてよいのではと思います。

例えば、(私も、まだチラ見しかしたことがないのですが)もりおか歴史文化館などで、常駐職員の方に頼めば、個人客・家族連れでも5~10分程度で、その場で簡単に踊ったり太鼓を叩いたり、踊り方・叩き方を簡単に教えてくれる(その場でプチ輪踊りをする)とか、予約等すれば着物なども対応できるとか、そうしたものがあればと思いました(私が知らないだけかもしれませんが)。

繋温泉なども、従業員の方で、実はやってますとか友達に山ほどいて頼めば出動してくれます的な方は沢山おられるでしょうから、団体・個人問わず、宿泊客向けに、そうしたサービスを積極展開してもよいのではと思います(星野リゾートが繋に進出すれば、古牧温泉の例に照らしても、そうしたことをやりそうな気がします)。

私自身が、9年もJCに在籍したのに、結局、踊れないまま(数回の練習会と一度、花車を押しただけ)で終わってしまったので、それだけに、踊れる方々には、資源を活用していただければと思っています。

記事に話を戻すと、金沢には、10年ほど前に白山登山を含めて妻と旅行したことがあり、盛岡にとっては範になる都市ではとの印象を強く感じていますので、新幹線開通を機に、双方の交流を盛んにしていただき、文化や市内の景観等の向上につなげていただければと思っています。

杜の都・仙台の並木道と、街に緑が少ない盛岡

数年前のGWに、当時の「土日の高速1000円」政策に触発され、1泊2日で秋保温泉を中心に仙台近郊巡りをしたことがあります。その際、新幹線でしか行ったことのない仙台中心部に初めて自動車で入りましたが、盛岡との違いとして、片側2車線以上の幹線道路の多くで、道路脇や中央分離帯内に大きな街路樹が設けられていたことが強く印象に残り、「杜の都」と称される理由が実感できました。

盛岡の場合、都市景観と呼ぶに値する見栄えのよい街路樹となると、盛岡地裁から市役所までの並木くらいしか思い当たらず、当時はまだ存在した旧県立図書館前の杉並木は伐採されてしまいました。

あとは、中央通などで申し訳程度に小木が点在している程度、というのが率直な印象で、ここ数年に新たに作られている片側2車線の道路群(西バイパスなどが典型)でも、街路樹群が設けられることは皆無といってよい悲しさで、仙台と比べて都市景観の貧しさ、さらには市民の関心の低さを感じずにはいられません。

旧図書館前の杉並木については、生え方が雑然とした感じもあり、伐採されたことで、かえって岩手公園(庭園)の景観が楽しめるようになったとの意見も多くあるようですが、郊外などに次々と作られる片側2車線の幹線道路の殺風景ぶりを見ていると、心まで殺伐としてくるような感じは否めません。

都市化して無縁社会化が進行した盛岡では地域住民等の自主的な働きかけは難しくなってきているのかもしれませんが、なるべくなら役所主導ではなく、住民サイドからの動きにこそ期待したいところです。

盛岡に限らず、岩手全域を見渡しても、「中心市街地や幹線道路に緑が溢れた街」というのを見かけないように感じますが、条例制定運動なども考えてよいのではないでしょうか?(少なくとも、岩手弁護士会・公害環境委員会は賛同ですが)

自治体の法務と「まち育て」

以前にも投稿したとおり、私は「判例地方自治」という、行政関係の裁判の判決等を掲載している法律雑誌を購読しているのですが、その今月号を見ていたところ、弘前大の北原啓司教授の連載記事(「まち育てのススメ」)で、「オガール紫波」の経営者である岡崎正信氏が紹介されているのを見つけました。

記事では、これまでは、多額の補助金を投じてまちを一時的に「つくる」ことに力点が置かれていたが、持続可能な「まち育て」の発想に切り替えていくべきだという点が強調され、その例として、補助金に依存せず民間融資による事業を通じて利潤をあげ、それを行政サービスの原資とすると共に、それを民需にも還元させて多大な成功を収めた言われるオガールを紹介しています。

他方で、その逆(莫大な補助金を投じて建設されたのに自治体が黒字経営できず地元には運営コストの赤字ばかり垂れ流す大型公共施設。本文では具体例を示していませんが、投稿に引用されている木下斉氏によれば、青森県のアウガなどがその例とされています)の例も指摘し、結論として、都市計画の価値観を転換すべき(都市計画法を、都市を育てるためのステージに対応させるべき)といったことなどが述べられています。

岡崎さんは、盛岡JCでは私より1年上の先輩で、私が入会した直後の平成17、18年頃には、JCでも熱心に活動されており、当時から、今をときめくオガールの原型のような構想を伺ったこともあります。その頃、まだ世間から脚光を浴びる以前の藻谷浩介氏の講演会?が盛岡JCで開催されたことがあり、岡崎さんもその際の中心メンバーの一人だったとの記憶です。

残念ながら、岡崎さんがオガールの事業に本格的に取り組むようになってからはJCにおいでになる機会も滅多になく、私も幽霊部員状態が続いたこともあって、3年前の岡崎さん達の代の卒業式でご挨拶した以外には、何の接点もない状態が続いていますが、facebookで公私さまざまな投稿を活発にされているため、興味深く拝見しています。

岡崎さんは、昨年頃から岩手では一番の有名人と言っても過言ではないほど雲の上の時の人になっていますが、判例雑誌にまで登場されたので、さすがに驚きました。自治体法務の担当者を主たる購読層とした雑誌ですので、そうした方々に、法務行政の観点・立場から今後のまちづくり(まち育て)へのサポートのあり方を考えて欲しいということで、こうしたテーマも取り上げられているのではないかと思います。

記事では、増田もと岩手県知事の「地方消滅」やそのアンチテーゼとしての山下祐介氏の著作などにも触れており、北東北の人間にとっては興味深い記事なのですが、判例地方自治は盛岡地裁の資料室でも購読しておらず(以前に調べたとき、県民が閲覧できるのは、県庁と岩手大だけだったとの記憶です)、この地域に、判例地方自治を購読している人が私以外にどれだけいるのだろうか(弁護士ではゼロかもしれない)と思わないでもありません。

縄文の遺跡群と北東北のオリジナリティ

「太陽の塔」などで有名な芸術家・岡本太郎は、縄文文化とその出土品などに対し高い芸術的価値を認め、その息吹を伝える北東北や沖縄の人々にも、特別な思いを感じていたことは、よく知られています。

私も、10年ほど前に東北新幹線の車内誌で「岡本太郎が発見した北東北」といった内容の特集を読んでから、岡本太郎への関心が深くなり、ちょうど岡本太郎の再評価の動きが高まってきたこともあって、平成23年にはNHKで放送されていた自伝的なドラマを見たり、東京に泊まりがけで行く機会があったので、青山の岡本太郎記念館に立ち寄るなどしていました。

さきほど、昨年8月10日の日経新聞に掲載されていた縄文文化特集で、パリで民俗学の泰斗に師事した後に欧州から帰国した岡本太郎が、日本独自の文化を求めて最初に京都・奈良を訪問したものの、京都は過去の遺物の集積で奈良は中国のコピーに過ぎないと失望し、縄文土器に接してはじめて、日本独自の文化を感じたという趣旨のことが書かれているのを見ました。

その記事を読んで、ふと思ったのは、京都・奈良については既にその価値が広く認められ、何年も前に世界遺産登録がされているのに対し、縄文文化に関しては、その痕跡を残している場所などが世界遺産登録されたという話を聞いたことがない、そのことは、岡本太郎に言わせれば、真に日本独自と言える文化が世界に紹介され価値が認められていないものに他ならず、とても嘆かわしいことではないか、ということでした(沖縄については琉球王国の文化は世界遺産登録されているものの、縄文文化絡みの登録は無かったと思います)。

そのように考えると、現在、世界遺産登録を目指している「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、縄文文化に関し世界遺産登録を目指している唯一の存在という意味では、これを成就させることは岡本太郎の遺志にも沿うことではないかと思います。

これまで、上記遺産群の運動をしている方々が、岡本太郎(の関係者)側に協力を要請するといった話はあまり聞いたことがありませんが、芸術的な観点を交えて文化の価値への理解を広めるという意味では、大いに意味のあることで、ぜひ、取り組んでいただきたいと思っています。

ところで、上記の記事で取り上げられていた土偶は、長野県茅野市や群馬県で発見されたものでしたが、それらの地域が世界遺産登録を目指しているなどといった話はこれまで聞いたことがないと思って検索してみたところ、最近になって、そのような動きが出てきたようです。
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=33288

私見としては、信州などで著名な土偶が発見されていることは確かですし、地域おこしではなく縄文文化の価値を世界に認めて貰うことが目的でしょうから、「明治の産業遺産群」で北九州などと釜石(橋野高炉跡)が一括りになっているように、北海道・北東北とタッグを組んで、一緒にまとめて世界遺産登録を目指して良いのではと感じますが、いかがでしょう。

安積疎水と朝河貫一、そして新渡戸稲造 ~H21再掲~

前回と同様、平成21年に郡山を訪れた際に作成した旧HPの日記の再掲です。

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前日分の続きですが、「開成館」を出た後、少し離れたところにある「安積歴史博物館」に行きました。ここは、旧制安積中学の校舎を博物館化した建物で、鹿鳴館の様式を模して作った?とのことで、相応に価値のある建物だそうです。旧制中学は現在の安積高校の前身だそうで、隣接して高校の施設がありました。

展示内容は、開成館と重なっている部分があったり、OB向けの展示等もあり、概ね地味な印象でしたが、安積中学の出身者である歴史学者の朝河貫一博士に関する展示については、強く惹きつけるものがありました。

朝河博士は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した歴史学者で、若いうちに米国に渡り日本人初の米国大学(エール大)の教授になり、学者として業績を残しただけでなく、日露戦争の際、「調停役」となった米国内で日本の立場や米国が調停をなすべきことなどについて盛んに説いて廻るなどして、戦争終結を背後で支えたり、太平洋戦争直前には、要人向けに開戦回避の努力を重ねていたなど、多大な功績があったのだそうです。

私も、お名前はどこかで聞いたことがあるような気がするのですが、業績等について知ったのは初めてで、その点は大変有意義に感じました。

朝河博士は、開拓途上にあった安積平野の一角の貧しい家庭に生まれたものの、早くからその才能が見出され、篤志家等の支援もあって、旧制安積中学から早稲田大学に進み、海外に亘って才能を開花させたとのことですが、明治新政府の集大成が日露戦争であるとの観点に立てば、明治政府が尽力した安積疎水による開拓が、巡り巡ってこうした形でも花開いたのかと、歴史の深さ、さらには郡山という街が歴史の中で果たした役割というものを感じずにはいられませんでした。

ところで、朝河博士とほぼ同時代に活躍し、同様に日露戦争などの際に米国内で尽力したとされている国際人として、盛岡出身の新渡戸稲造博士の存在を挙げないわけにはいきませんが、残念ながら、上記の博物館では、朝河博士と新渡戸博士との交流の有無等に関する記述は見受けられませんでした(この点は帰宅後に気づいたことなので、見落としたかも知れませんが)。

明治政府が造った開拓地郡山から生まれた朝河博士と、明治政府に散々な目に遭わされた敗戦国盛岡から生まれた新渡戸博士。同時代に国際人として活躍するという点では、同じような生き方をし、同じような業績をあげながら、その2人のバックグラウンドは、対極そのものということができます。

この点の比較研究をすれば、面白い本が一冊書けると思いますので、どなたか頑張っていただきたい(すでにあるということであれば、ぜひ教えていただきたい)ところです。

余談ついでに、7月上旬の岩手日報の夕刊に、朝河博士の特集記事があり、メジャー級といってよい新渡戸博士と同様、もっと知られるべき人だと改めて思いました。

東北の異端児、郡山の夢と現在(いま)~H21再掲~

先日の日経新聞(プラス1)で、郡山の温泉や安積歴史博物館が取り上げられていました。私は、平成21年に一度だけ、郡山の中心部に行ったことがあり、その際、上記の博物館などを見た感想を、2回に分けて旧HPの日記に掲載したことがあり、折角なので、再掲することにしました(少しだけ表現を修正しています)。

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平成21年7月に東北弁連の定期大会が郡山市のホテルで開催され、東北弁連の公害対策環境保全委員会も実施されることから、岩手枠の委員となっている私も、参加してきました。委員会そのものは、各県の現在のトピックスを簡単に出席者が説明した程度のものですが、他の委員の先生方の出席率が非常によく、私=岩手会ばかりがすっぽかすのも後が怖いことなどから、半ば仕方なく行っているというのが正直なところです。

で、いつもは新幹線で通過するばかりの郡山の街に初めて踏み入れたということで、4時間程度とはいえ、郡山観光に勤しむことにしました。

まず、弁連大会の会場のホテル「ハマツ」から徒歩10分ほど、市役所に面した場所に「開成山公園」という大きな公園と大きな神社があり、そのすぐ近くに、「開成館」という歴史的建造物があったので、そちらを見てきました。恥ずかしながら郡山についてはほとんど知識がなく、郡山にゆかりがある「安積疎水」という言葉だけを聞いていたので、そのことについて知りたいというのが目的でした。

詳細は省略しますが、安積疎水というのは、人口の巨大水路を造り猪苗代湖の湖水を郡山方面に送り込んで水田開発をしたという大規模灌漑施設であり、明治初期に巨費を投じて着工されたのだそうです。開成館をぜひ訪れて見て頂きたいですが、水利の乏しい郡山一帯(安積平野)に大規模開拓を行いたいという当時の人々の切実な要望があり、これが、当時の失業武士対策や富国強兵策等に追われていた大久保利通らを動かして実現にこぎ着けたとのことで、なかなか壮大なドラマがあったのだと初めて知りました。

また、私がこれまで郡山という都市のことをあまり知らなかった理由も、そうしたことと関係があるのだろうと得心できました。私のような多少とも歴史に関心のある東北人にとっては、盛岡、仙台、米沢、会津若松といった武士の時代に拓かれた都市には馴染みがありますが、郡山や青森のような、明治後に開拓された都市には、あまり馴染みがありません(その点は、東北人の根底にある、明治政府へのある種の反発心もあるでしょう)。

ただ、一方で、その都市で現に努力してきた住民からすれば、開拓を推進した明治政府の要人こそが自分達の生みの親なわけで、盛岡などでは到底考えられない「大久保利通や政府から派遣された開拓に尽力した県令等に対する顕彰」が盛んになされていることに、とても東北とは思えないと驚くと共に、感慨深いものがありました。

と、同時に、自らの都市を米国西海岸の主要都市になぞらえて、開拓精神の大切さを強調し市民を鼓舞しようとする開成館の解説パネルの筆者(市役所の関係者でしょうか)の熱い文章を読んでいると、盛岡のような、良くも悪くも歴史の重みが街を沈滞化させていると言えないこともない街の住人からすれば、羨望を禁じ得ない面もありました。

戦後日本が、米国との戦に負けたからこそ得たものがあるように、郡山という都市は、東北が薩長新政府に負けたからこそ得たものという面は否定しがたいように思われます。だからこそ、そうした歴史を郡山だけではなく東北全体の資産として東北人が共有し、複眼的視野をもって開拓精神というものを学んでいく必要があるのではないかと感じさせられました。

開成館の後、後述(次回記載)の「安積歴史博物館」に立ち寄り、そのまま30分くらい歩いて駅まで戻り、駅前の高層ビル「ビックアイ」から展望を楽しんで、帰途に就きました。盛岡と違って街の中心部に水と緑が溢れる公園が点在しており、最近できたらしい「21世紀公園」では子供達が芝生を走ったり遊具を楽しんでいた点や自転車向けの道路整備がなされていた点なども、非常に好ましく感じました。

ただ、駅前はシャッターが目立つなど、ご多分に漏れず郡山も経済的にはそれなりに苦労しているようでもあり、開拓精神を発揮して頑張って欲しいと思わずにはいられませんでした。

大河ドラマに登場し損なった「小保内」という二戸人

私は、「徳川家康」以後の大河ドラマは8割がたを見ており、現在、放送中の「花燃ゆ」も、習慣(惰性?)で毎週、ビデオを撮って深夜に見ています。

内容については、まだ助走モードのせいか、或いは「ホームドラマ」云々と銘打っているせいか、早送りしたくなる場面もありますが、今回の主題曲は、音楽が私にとっては十分に満足でき、CG画面も作品のテーマとよく噛み合っているように感じて、個人的にはとても気に入っています。

鷹?と思しき鳥達が、画面の下から次々に現れては猛スピードで飛び立ち、何らかの思想を感じさせる様々な漢字がちりばめられた華やかな空間を縦横無尽に駆け巡りながら弾けていく様子が描かれている光景は、吉田松陰をはじめ、社会を変えることで社会を守ろうと考えて、世に先駆けて急進的な思想を掲げては維新の時代に殉じていった、多くの草莽の志士達を指しているのだろうと感じるのは、私だけではないでしょう。

そして、その画面に響く吉田松陰が遺した言葉をもとにした歌詞のコーラスも、そうした志士達(ひいては現代を生きる視聴者自身)が、松蔭の思想の後継者であることを印象づけようという演出なのでしょうし、そのことが視聴者の心に響く面は、大きいのだろうと思います(ネットでさっと調べた限り、今回のオープニングには好意的なコメントが多く寄せられているように見受けられました)。

ところで、今回の大河は「八重の桜」とは逆に、長州が舞台ということで、東北の人々にとっては馴染みにくい面もあるかもしれませんが、「八重」をご覧になった方であればお分かりのとおり、若者であった頃の吉田松陰が、国防(北方警備=ロシア対策)の実情を見たいなどの理由で東北に視察旅行に来た話に象徴されるように、東北と長州の人々に交流が無かったわけではありません。

そして、世間にはほとんど知られていない話ですが、「花燃ゆ」の登場人物達と直接、間接に多くの関わりを持った二戸人が存在します。

名を「小保内定身」と言い、二戸市の中心部(福岡町)にある呑香稲荷神社の宮司の子であり、ネット情報によれば、若くして江戸に遊学し、その際、久坂玄瑞などと交流して勤王思想を学び、その後、帰郷して郷里で会舗社という政治結社(「北の松下村塾」と呼ばれたそうです)を作り、地域の子弟の教育に従事しつつ、南部藩内も西国列藩に負けずに西洋の文物を取り入れるべしとの活動を行っていたようです。

維新期には、新政府への恭順派の立場で重臣の腹心として藩論とりまとめに奔走し、一旦は多数派である抗戦派に敗れ、秋田戦争(戊辰戦争における北東北での両軍の戦争)に至ったものの、その後に南部藩が降伏した際には、藩論とりまとめなどに大きな役割を果たしたとされています。

維新後は、木戸孝允に新政府への出仕を勧められるも、父への孝行などを理由に断り、神職に従事しつつ、会舗社で学んだ子弟の要請で、当時の政府が奨励していた牧羊事業に取り組むなどしていたものの、病気のため50歳で亡くなったと言われています。

そして、定身が父(小保内孫陸)と共に運営していた会舗社ですが、発端は、安政の大獄の直後に、小倉鯤堂(小倉健作)という長州人が捕縛を危惧して二戸まで避難して(旧知の定身を訪ねてきた)、対応した孫陸と意気投合したのがきっかけとのことですが、この人物は、「花燃ゆ」の主人公・杉文が再婚した、小田村伊之助(楫取素彦)の弟なのだそうです。

また、吉田松陰自身が東北遊学の際に二戸を訪れたかは不明ですが、松蔭は、その少し前に起きた「相馬大作事件」(北方の国防の必要を説いていた二戸出身の兵学家・相馬大作が、津軽藩主の襲撃を企んだとして捕縛され処刑された事件。「北の忠臣蔵」と呼ばれて歌舞伎などで大いに取り上げられ、昔は有名人だったようです)に強い関心を持っていたことなどが記されており、そのことも、会舗社などの素地になったと思われます。定身が江戸で薩長の英傑らの知遇を得ることができたのも、相馬大作に縁ある者として、松蔭の後継者などに遇されたという面もあったのだろうことも想像に難くありません。

残念ながら、会舗社自体は、松下村塾と異なり明治政府を主導した人物などを輩出したという話は聞いたことがありませんが、二戸出身で日本の物理学の礎を築いた田中舘愛橘博士は、その頃に二戸で幼少期を過ごしており(なお、博士の自宅は会舗社=呑香稲荷神社の真向かいです)、何らかの形で会舗社の影響を受けていることは間違いないでしょう。

また、会舗社とは関係ありませんが、定身らの尽力で南部藩が会津や長岡のような大戦争を経ることなく恭順した後は、原敬や米内光政をはじめとする多くの元・南部藩士が、そのバトンを継いで明治期等の日本の運営に尽力したことを思えば、そうした形で、定身らの「勤王思想」は継承されたのだろうと考えることもできるのではないかと思います。

なお、小保内定身や会舗社などについて書かれたサイトは多くはありませんが、幾つかのサイトをご参考までにご紹介しておきます。
http://www.shokokai.com/ninohe/kankou/kunohejyou/rekisi.html
http://55768726.at.webry.info/201307/article_22.html
http://ninohe-kanko.com/sightseeing.php?itemid=1056
http://blogs.yahoo.co.jp/michinokumeet/63440728.html

こうして見てくれば、二戸人としては、文(ふみ)ではなく定身(さだみ)を主人公にしてくれればよかったのに、などと冗談を言うつもりはありませんが、長州から遥か遠く離れ、維新の著名なシーンにも全く登場しない辺境に生きた人物が、文に負けないくらい今回の大河の中心メンバー達と関わりを持っていることに、驚かずにはいられないものがあります。

二戸市や観光協会などにおかれては、大河に便乗してキャンペーン企画(長州の関係者やドラマ出演者などを招待してメディアに取り上げて貰うとか、歴史秘話ヒストリアに売り込むとか)などを立ち上げていただきたいところですが、二戸市のHP(観光コーナー)を見ても会舗社は取り上げられておらず、期待するだけ無駄なのかもしれません。
http://www.city.ninohe.lg.jp/forms/info/info.aspx?info_id=474

ちなみに、このように、大河ドラマの登場人物と深い関わりを持ちながらも、ドラマに登場する機会に恵まれなかった二戸人は、定身だけに限った話ではありません。

前記の田中舘愛橘博士は、白虎隊士から東京帝大総長まで上り詰めた山川健次郎博士(日本の物理学の創始者的存在)の一番弟子で、「八重の桜」には教授になった健次郎の大学の研究室を八重が訪ねるシーンがあるのですが、そこで登場した「助手の学生さん」は、若き日の愛橘博士に他ならないはずで、私などは、ちゃんと助手に名前を付けて欲しい、二戸市役所はNHKに抗議せよなどと憤懣を抱いたものです。

ところで、会舗社で学んだ子弟の一人が、定身の支援を受けて、国内で取り組みが始まったばかりの牧羊事業(蛇沼牧場)に挑戦し、明治天皇の東北行幸の際にお言葉を賜ったという話が伝わっています。事業の際には、まだ国内に棲息していたニホンオオカミの襲撃や伝染病で羊が壊滅する被害に遭うなどの苦難があったそうで、岩手県庁?が子ども向け?の紙芝居で紹介しています。
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0510/kamisibai/sibai-6-1.htm

私の実家は、小保内定身の父か祖父の時代に生じた分家筋なのですが、半信半疑の噂話として、当時の本家は、牧羊事業のため多額の負債を抱え、多くの家財を手放しており、その中には、日本でたった一つの西郷隆盛の写真もあったらしいという話を、子供の頃に聞いたことがあります。

実際、「西郷隆盛 写真」などとネットで検索すれば、小保内定身の弟という人物が西郷の影武者を務めていたという薩摩藩士らと一緒に撮影されている写真なるものを見ることができ、過去にテレビ番組で取り上げられたこともあったようです。

想像でしかありませんが、敢えて歴史の表舞台に出ることなく、地域の子弟教育など地道な活動に己の途を定めた定身は、事業の失敗や病気で、失意のうちに亡くなったのかもしれません(生涯独身で、子も授からなかったようです)。

だからというわけではありませんが、「花燃ゆ」のオープニングで散っていく鳥たちの姿を見ると、その鳥は、長州人ばかりではないよ、と思わないこともありません。

私自身は、短期間ながらも東京に出て、司法研修所という当代の英才が参集する場所に身を置く機会にも恵まれましたが、定身と違って遥かに役不足の身の上のため、英才の知遇を得て交流を深めるどころか、身の置き場もなく小さくなっていたというのが恥ずかしい現実です。

それでも、田舎の地味な町弁として地道な仕事に明け暮れる身にとっては、そうした先人の存在は、何某か、心の支えになるところはありますし、研修所に限らず、若い頃に知り合った方が大きな舞台で活躍されているとの知らせに接したときなどは、自分も、無用な戦争の回避のため力を尽くした先人に倣って県民世論を云々、というのは無理でも、小さな仕事の積み重ねを通じて、社会がより良い方向に変わっていくための下支えができればと感じることができるのではないかと思っています。

歴史を学ぶ意義は、様々な出来事が、最終的には自分自身や自分を中継点とする未来へと繋がっていることを実感し、社会全体に対する地に足のついた責任感や役割意識を持つためにあるのではないかと思います。

大河ドラマは、脚本に関しては色々と議論がありますが、我々庶民がそうした感覚を素朴に学べる教材としては、意味があるのではないかと思っています(NHKからは一銭もいただいていませんが、受信料をまけていただくか、お客さまをご紹介いただければ有り難いです)。

衆院選岩手1区の公開討論会

1ヶ月以上も前のネタで恐縮ですが、昨年12月に行われた総選挙に先立ち、12月1日に盛岡市でもJC主催の公開討論会があり、以前にも投稿したとおり、現役会員時代、この行事に関わっていたことなどから、参加して拝見してきました。

ただ、今回は急な解散であることのほか、少なくとも岩手1区では選挙戦としての盛り上がりも希薄で、それに付随する政策論争なども低調という印象だったせいか(復活当選を含め、現職が再選されたという選挙前と同じ結果になりましたし)、これまで以上に参加者が少ない(ざっと見た限りでは50人もいなかったように感じました)、残念な設営となっていました。

今回は、これまでと異なり、学者さん(岩手大の政治学の先生)ではなく、JCの理事長らが司会(コーディネーター)を務めていましたが、私の見た限りでは、これまでの学者さんの司会の進行ぶりを堅実に踏襲したものとなっていました。

私としては、自前で進行をするなら、良い意味で素人ならではの進行(大胆な質問とか)を試みるべきではと思っており、これまでどおり「論点ごとの政見発表会」型の運営に終始して候補者の議論を喚起させないような「上品(無難)な進行」に止まっているのは、視る側にとっては退屈なもので、残念に感じています。

ちょうど同じ頃、多くの大物芸能人が行っている年末のディナーショーについて、「その場でしか味わうことができない主宰芸能人との一体感を持てるような得難い経験(イベント)」を様々盛り込むことで、高額な参加費を徴収してもすぐに満員御礼になるというニュースが流れていました。

そのため、公開討論会の設営者(JC)は、芸能人の爪の垢を煎じて飲んでと言ったら怒られるでしょうが、少なくとも、こうした記事に学んで、討論会の趣旨に合致するとの前提を守りつつ、聴衆がお金を払ってでも来たくなるような「ここでしか味わえない得難い政治的経験のできる討論会」の設営を目指すべきではないかと感じました。

例えば、トークショーと言ったら語弊があるかもしれませんが、候補者同士が、ワークショップの類のように司会者の仕切のもとで壇上で一つの目的に向かって互いに何かの作業をする光景を作出し、その中で、「典型論点の公式見解」では出てこないような本音トークを交えた候補者間の議論を演出できれば、壇上があたかも即興の寸劇のような様相を呈し、聴衆にとっても見応えのある姿になるのではなどと思ったりもします。

ともあれ、何度も書いてきたことで、繰り返し書くのも馬鹿馬鹿しいですが、新聞に掲載される各人の政見表明の棒読みと大差ないような議論のない設営しか出来ないのであれば、遅かれ早かれ、人口減少社会ならぬ「そして誰も来なくなった討論会」にしかならず、外ならぬ出席いただく候補者に対して失礼になるのではないかと思います。

私自身は、過去に討論会の設営にも携わり何度か壇上の方々を拝見してきた身として、立場や熟度の差はあれ、選挙という厄介な場に身を投じている候補者の方々にはある種の敬意を感じているつもりです(少なくとも、私は色々な意味で、そうした場に立てる人間ではありませんので)。

ですので、公開討論会における議論というのは、優劣が強く出て誰かに恥をかかせるようなものではなく、互いの主張の不明瞭或いは検討不足と見られるところ(具体策や弊害防止の措置が不十分だといったもの)を指摘し、即興でどこまで具体的なことが言えるか見定め、足らざるところがあれば緊張感を与えてスキルアップを促すような営みとするのが、討論の望ましい姿ではないかと思います。

私がJC内部で一部の方に延々言い続けてきた、「議論のある討論会の設営」というのはそうしたものですが、担い手(設営サイド)の実力不足か胆力不足か盛岡の民度の問題かはさておき、本格的な賛同者がついに現れてくれなかったのが残念なところです。

今回は、これまで以上に集客が芳しくなかったように見えたので、そうした意味でも、「魅せる討論会」を真剣に考えないと、JCには候補者の方々に来ていただく資格がなくなるのではと感じたというのが、過去の分も含めて、JCの討論会に対する一番の印象です。

ともあれ、今年は盛岡市長選や岩手県知事選があり、盛岡市内での公開討論会の開催は必ずあるのでしょうから、真面目に設営に勤しむ現場の若い会員諸君のためにも、私と違って「公開討論会のやり方」について決定権を持つことができる方々は、智恵と蛮勇を発揮していただきたいところです。

もちろん、根本的には、国民一般(公開討論会が想定している聴衆一般)の実質的な政治参加(政治的意思決定や予算など政策資源の配分、政策実施過程への参画など)が進んだり、既存の決定権者の地位が揺らいで権力の交替(広義の革命)が生じるような事態にでもならない限り、政治(権力闘争)自体が盛り上がらないので、その延長線上に存するに過ぎない公開討論会が公衆を惹きつけることなどできるはずがありません。

欲を言えば、JCなどには、国民主権の質の向上という見地から、そうした政治参加の基盤作りも視野に入れた幅広い活動をしていただければと願っています。

町弁の受任力の向上を目指して

先日、船井総研監修の「弁護士10年目までの相談受任力の高め方」を読みました。

独立当時から、この種の「若い町弁向けに経営や業務のあり方を指南する本」を読むのは好きなのですが、近時の弁護士激増問題に加え、私(当事務所)の場合、独立直後に債務整理特需・弁護士過疎の時代を経験した名残で、私1人で4名の事務局の雇用を維持する運転資金=業務受注を確保しなければならない状況が続いていることもあって、この種の本を知ると、何か参考になればと取りあえず買って読むという習慣になっています。

ただ、一筋縄ではいかない事情も色々あり、実際には読んで終わりになっている面も大きいというのが恥ずかしい実情ではありますが。

本書は、債務整理特需終焉後の町弁の「基本分野」と目されている、離婚、相続、交通事故、中小企業向け法務の4つに絞って、それぞれの分野に特化して成功を収めている比較的若い世代の弁護士さん方が、業務遂行や広告等に関する方法論を詳細に述べているものとなっています。

4分野とも、私にとっては今も昔も事務所の中核をなしている基本業務といって良いものですし、どこまで取り入れることができるかはさておき、私が現在行っている業務や広告等のあり方を考える上でも、参考になる点が多々ありますので、手元に置いて何度か読み返すなどして、業務などの改良の手がかりとして活用していきたいと思っています。

本書ではテーマ外のためほとんど触れていませんが、事務所のマネジメント(内部運営)という点でも、ここ1、2年は色々と悩んだり考えたりさせられる出来事が多く、いずれは各自の広義の成長に繋げていくことができればと願ってはいますが、今はまだ右往左往の日々というのが正直なところです。

町弁と精神科医の類似性

昨年12月上旬頃から幸いなことに多数の案件処理に追われ首が廻らず、その上、12月は狭義の仕事以外の所用(忘年会や家族行事など)が公私に亘り多い月でもあり、ブログの更新ができず、判例学習も滞る日々が続きました。

ただ、正月など身動きが取れない時間に読書をしていたため、久しぶりに、最近読んだ本の読後の感想などを書いてみたいと思います。

今回は、春日武彦「精神科医は腹の底で何を考えているか」を取り上げます。

本書は、精神科医として多数の患者と関わってきた際の出来事を交えて医師として感じたことなどを書き綴ったエッセイ的な本で、新書らしく気軽に読むことができますが、本書で描かれている医師と患者の光景を、弁護士と顧客その他の関係者とのやりとりに置き換えると、実に収まりがよいというか、そっくりだと感じるものが多くあります。

本書の特徴として、精神科医の姿勢や思考などを、具体例を交えながら括弧書きで本文に添える方法で「○○な医師」と戯画的に類型化して表示しており、例えば、「倫理や哲学の領域に属する問題と現場で向き合いつつ、それに答えを出せぬまま診療に忙殺される医師」という項目では、統合失調症に対する医療の実情に触れながら、精神科医療のあり方、ひいては幸福という概念の二律背反的な面について語られています。

若干中身に触れると、統合失調症の治療では、投薬等により患者の静穏を確保できる(すべき)としつつ、回復させることができない問題(発症前に有していた思考やセンス、周囲との共通認識などに欠落が生じ、競争社会で勝ち抜くような生き方を断念させられること)が生じるのだそうです。その上で、患者に対し、そのことを受け入れて静穏に生活することに幸せを見出すよう説得するのが正しいのか、医師自身がそれと異なる感性(患者の病という異常事態に直面し解決するカタルシスへの傾倒)を抱いているから、そのような説得は不誠実だと考えるのかといったことについての葛藤が述べられています。

紛争の処理・解決という弁護士の仕事も、当事者が欲していること、望ましいと言えることに関し、できることとできないことが色々とあり、どのようなアドバイスをすべきかという作業(言葉の取捨選択も含め)を通じて、根源的には、当事者にとって「生きることの意味・生きることの価値」という問題も視野に入れた思索や仕事が求められていると感じることは、しばしばあります。

その上で、力の限界と形容するか謙抑的と形容するかはさておき、実際には当事者のそうした深い問題まで触れることはできず目先の仕事をこなすことで良しとする(せざるを得ない)のが通例であることも、他言を要しないと思われます。

私には「町弁は腹の底で何を考えているか」を書き上げる力はありませんが、本書は、精神科医だけではなく、「心の状態が一杯一杯になっている人を対象に、特殊な知見、技能を用いて、一杯一杯の状態の解消などを目的として接する仕事の従事者」一般に通じる話が色々と書いているように思われます。

従事者側(弁護士その他)にとってはもちろん、利用者側の目線で見ても、従事者側の考えていることを理解して、よりよい利用につなげていくという意味で、参考になる本ではないかと思いました。