北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

個別の法的問題等

組体操事故に関する損害賠償請求

ここ最近、大阪をはじめ組体操に関する事故の多発が報道でとりあげられることが多くなっていますが、先日、岩手でも、最近の4年間に100件も発生し、7割近くが小学校であるとか、全体の30%(約30件)で児童や生徒が骨折したとの報道がなされていました(残念ながら、すでに閲覧不能のようです。NHKの地元ニュースは貴重なものも多いので、いち受信料負担者としても、可能な限り、長期間の保存や閲覧ができるようにしていただきたいものですが)。

過去に勉強した判例を調べたところ、平成21年に名古屋地裁で110万円の支払を市に命じた判決(判例時報2090-81)が見つかったほか、判例秘書でも複数の裁判例が見つかり、確認できた限りでは、いずれも被害者の請求が認められているようで、中には、重篤な後遺障害が生じた高額な認容例もありました。

大阪の三木秀夫先生のブログに詳細がまとめられており、後日の参考にさせていただきたいと思っています。

また、運動会や体操がらみの事故では、他にも騎馬戦や跳び箱などで生じた事故に関する前例もあるようです。

確約は適切ではないとしても、組体操事故は、賠償請求が認められる可能性が高い類型であることは確かと思われ、骨折等の被害を受けたのに学校側から適切な賠償を得られていないという方がおられれば、損害額の計算のあり方なども含め、ぜひ弁護士に相談していただければと思います。

私も、組体操であれ何であれ、骨折等の危険が相応にある運動を、とりわけ小学校や中学校で行う意義があるとは微塵も思われず、「集団行動を学ぶ云々」は別の形で訓練すればよいのではということで、安全重視で行っていただければと思います。

先日、某小学校の組体操を拝見しましたが、3段に止まっており、私はそれで十分では(それが見応えがなくて嫌だというなら、やらなければよい)と思いました。

私が子供の頃は、組体操を行ったとの記憶が全くなく、運動会などで危険な目に遭った記憶はありません。唯一の経験として、小学5年のときに体育のバスケットボールの授業で同級生に激突され眼鏡が壊れた(壊された)ことがあり、顔を合わせるたびに、弁償しろよなどと冗談交じりに軽口を叩いていたことだけは覚えています。

個人的には、掃除の時間に窓枠の高いところに上って窓拭きするなど、結構、危険なことも好んで行っていた面もあるのですが、良くも悪くも「人に強制されて行うのではなく、純然たる自己責任で行う」という意識だったせいか、「ここまでで止める」という線引きは出来ていたように思います。リスクのある行為については、極力、他者が命じるよりも、個々人で線引きを考えて行動させる方が、子供にとってもしっくりくるのかもしれません。

税金の不正使用の予防等に関する弁護士の活用と民主政治

会計検査院が岩手県庁と県内8市町に対し、平成20年から25年にかけて国の補助金で行われた緊急雇用創出事業に法律違反があったとして、約5700万円を国に返還すべきという趣旨の報告をしたとの報道がありました。

主に問題とされたのは、山田町を舞台とする「大雪りばぁねっと」事件と被災県などでコールセンター事業を展開したDIOジャパンの倒産事件の2件で、いずれも県内でも大きく報道されてきた事案です。報道によれば、前者が1300万円強、後者が4300万円強とされています。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20151107_3
http://news.ibc.co.jp/item_25716.html

恐らく、その全額又はかなりの部分について、県や関係市町は国に返還=支払をするのでしょうし、両事件とも事件当事者からの回収については悲観的な見方をせざるを得ないのでしょうから、それらの返還金については、県などが自ら支出した補助金と共に、県民に負担が重くのしかかることになります。

ところで、以前も少し触れましたが、私は大雪事件の関係者(岡田栄悟氏ではありません。仮に「Aさん」といいます。)の方の刑事裁判に途中から国選弁護人として関わり、特殊やむを得ない事情で、大雪事件を巡りA氏が関係する多数の民事紛争の処理(要するに清算を巡る後始末)までも引き受けざるを得なくなり、今も、その対応に追われています。

本件では、大雪の破産管財人、山田町に加え、前代理人との間でも訴訟手続が必要となり、最近は多少は落ち着いてきましたが、去年の初夏から秋にかけての時期は、多数の関連事件のため膨大な労力を投入せざるを得ず、民事事件では相応のご負担をいただいたとはいえ、必要な作業のあまりの多さに「時間給ベースでは、当事務所の開業以来最悪の巨額赤字事件」という有様で、泣きそうな思いで対応してきたというのが率直な実情です(峠は越したと思っていますが、まだ終わりが見えません)。

こう言っては何ですが、何人もの弁護士が登場する中、大雪事件の民事手続で現に関わっている「岩手の弁護士」は私一人ということもあり、会議とか抽象的な意見書の類や丸一日かけて誰も来ない被災地相談会に行くことよりも、こうした事件の適正解決に汗をかくことこそ地元弁護士の役割だという矜持のようなものだけで自分を支えているというのが正直なところです。

詳細は書けませんが、A氏のスタンスは、債権者への適切な配当のため管財人の管理換価に協力するのを基本としつつ、A氏自身が事件の処理や解決のため多額の自己資金の投入を余儀なくされたので、その回収を裁判所の理解を得た相当の範囲内で行いたいというものです(これは、裁判後の記者質問でも繰り返し説明しています)。

この点は裁判所も理解を示しており、「天王山」というべき訴訟では、これに沿った和解勧告もなされているのですが、管財人によれば、一部の債権者の反対があるとのことで、決着が進まない状態が続いています。

当方としては、少なくとも私が関与するようになってからは、それ以前とは一転して、動産の換価や某施設を巡る和解など管財人や山田町の作業が円滑に進むよう様々な形で協力しているだけに、残念に感じています(まだ書けませんが、やむを得ず、「窮鼠猫を噛むかのごとき、次の一手」を検討しています)。

ところで、何のためにこんなことを書いてきたかというと、Aさんは、この事件の中で大きな関わりをしたことと、本人に迂闊な面があったことは確かなのですが、自らの私利私欲を図ったわけではなく(現に、私が関わる以前から、「すっからかん」の状態でした)、詰まるところ、「巨額の税金が使用される事業に関わるには未熟すぎた(ので、留意すべき大事な場面で易きに流されてしまった)」という評価が、最も当てはまるのではないかと感じています。

また、岡田氏に関しても、さほど全体像を把握しているわけではありませんが、幾つかの不幸な偶然で、身の丈をあまりにも超えたカネ(税金)とヒト(部下)を与えられたため、結果的に身を滅ぼすことになったというべきで、少なくとも、初期の段階から「税金を食い物にして私利私欲を図ろう」との判断ではなかった(或いは、独りよがり云々の批判はさておき、本人の主観では、最後まで、一連の出費は彼の思い描いた「被災地支援事業」なるものを実現し継続させるためのものだったのかもしれない)という印象を受けています。

だからこそ、この件では、「使った側」の責任を問うだけでは全く不十分で、第三者の適正な監視、監督を欠いたまま、「公金を適正に使用する資格」を持っていない未熟な人々に高額な税金を渡し、使用させた(或いは、国を含め、その仕組みを作った)人々の責任が強く問われるべきであると共に、再発防止策に関し、事案の経過を踏まえた、より踏み込んだ手法の導入が図られるべきではないかと感じています。

そうした意味では、前者(責任追及)に関しては、住民訴訟が検討されてしかるべきではないかと思われ、そうした動きがないことが、とても残念です。一般論として、その種の住民訴訟は、いわゆる左派系の団体さんが行うことが通例と認識していますが、そうした方々に提訴のお考えがないのであれば、いっそ保守系勢力の方々がなさってはと思わないこともありません。

上記の観点から、地元行政だけを悪者にするのは間違いで、制度の構築等に関する国の責任も視野に入れるべきだと思いますし、その点で、十数年前に我が国を震撼させた大規模不法投棄事件における原状回復に関する国と自治体の費用負担などを巡る議論(とりわけ、私も関与した日弁連シンポの提言)は、参考になる点があるはずです。

また、後者(再発防止)に関しては、端的に、補助金の支給や費消に関して監視、監督する第三者(支給側である行政と受給側の事業者の双方から独立した立場で実務に携わる者)の関与を拡げる仕組みを作るべきだと思います。

具体的には、「一定以上の金額の税金(補助金)を受給して行う企業は、補助金交付の趣旨(その法律の趣旨)に即した支出をするだけの能力があるか、或いは、受給後に、その趣旨に合致する適正な使用等をしているか」について、例えば、弁護士や公認会計士、税理士などに、調査、報告等させる仕組みを作るべきではないかと感じています。

現在の社会では、弁護士の出番は、「第三者委員会」に見られるように、事後的なものばかりが中心となっていますが、食えない弁護士(公認会計士も?)が増えたとされる今こそ、薄給でいいのでそうした仕事をしたいとの供給サイドの要望はかなりあるのではと思われますし、日弁連なども、「行政は被災者に援助せよ」といった意見書も結構ですが、そのような仕組みの導入(と地元弁護士の働き口の創出)にも尽力していただきたいものです。

何より、そうしたものを導入させていくには、結局のところ、その必要性を理解し、人々に訴えていくだけの「政治=民主主義のチカラ」というものが育たなければ、どうしようもないのだと思っています。

民主主義(議会制民主政治)というものが、「公権力に税金を取られること」に対する自主権の獲得を発端として始まったことは、誰もが教科書で学ぶことではないかと思います。

しかし、「取られるかどうか」だけで使い道はどうでもよいというのが民主主義の社会でないことは、言うまでもありません。

「投票するときだけ主権者」という社会では、国民主権・民主政治とは言えないのと同様に、税金の使い道をより良くさせるための仕組みの構築や運用に人々が関わっていくことこそが、本当の民主主義の実現の道なのだということにより多くの方の共感が得られればと、願ってやみません。

と同時に、そうした営みに積極的にサポートすることが現代社会の弁護士の役割の一つになるべきだとの認識で、そうした場面に必要とされるよう、今回の件も僥倖なのだと感謝し、まずは地道な研鑽を重ねていきたいと思います。

相続と「争族」に関する事前準備

先日ある保険会社さんから相続に関するセミナーを担当してみないかとお声掛けいただき、まだ正式決定ではないものの、来年1~2月頃に県内の数カ所で行うことになりそうです。

まだ時間的余裕はあるものの、色々と考えたことをメモするなどして、それなりに準備を進めています。

そんな事情もあり、先日、相続絡みの本を2冊、立て続けに読みましたので、少しご紹介したいと思います。

以前、平成27年の相続税法改正(増税)に絡んで税務対策などを取り上げた本として、税理士の楢山直樹先生の著作をご紹介したことがありますが、以下の2冊は「法律上の紛争(「争族」に関する論点の具体例)」と「遺品」という、同書では取り上げていないテーマを一般の方むけに分かり易く説明した本ですので、楢山先生の本と併せてご覧になれば、なお良いのではと思います。
ここ1、2年に読んだ本③~様々な法分野・実務など~

あさひ法律事務所「90分で納得!ストーリーでわかる相続AtoZ」経法ビジネス選書(H27.2)

亡父の自宅を同居の子が相続した事例をベースに、トラブルメーカー役の叔父などの若干の登場人物を交えて、相続を巡って法律上問題となるベーシックな論点を、一般の方向けに分かり易く説明した一冊です。

論点として、相続人の範囲・特定、葬儀費用、相続分、相続財産の特定や遺産分割の要否、遺言の有効性、債務の相続、特別受益(生前贈与等)・寄与分などを取り上げ、登場人物を巡るストーリーを述べると共に、法律や裁判所の考え方について解説を加えています。

一般的な家庭の相続に関して生じうる法律上の論点などについて基本的な知識、理解を深めておきたい方には、大いに参考になる一冊だと思います。

木村榮治「遺品整理士という仕事」平凡社新書(H27.3)

遺品整理士の資格認定に関する協会を立ち上げ、遺品整理業務のあるべき姿について指導されている先駆者の方が、遺品整理士という仕事を志した経緯や遺品整理の意義などを説明しています。

遺品整理業務の一般的なあり方(あるべき姿)や問題業者の実情などのほか、特殊な対応が必要となる現場(孤独死、賃借物件、遺族が遠方居住など)、「生前整理」の必要性などにも触れられており、弁護士(紛争)や税理士(税)の業務とも異なる、第3の相続問題としての遺品整理及び関連事項につき、基礎的な知識、知見が得られる本として、大いに参考になる一冊だと思います。

とりわけ、「生前からの被相続人の所持品などの整理や、関連する見守りなどの問題」については、被相続人(ご本人)が、親族などと遠く離れて単身で賃借物件などに居住しているケースでは、福祉や医療などとの連携も含め、強く意識されるべきではないかと思われます。

余談ながら、日経新聞の本年8月30日の記事で、いわゆるIT終活(死後のPCやネット上に残存する各種データ等の処理)が触れられており、これも、現代に特有の「遺されたモノの整理」ということができ、それだけに、相続人側はもとより被相続人も適切な「準備」が必要でしょうし、それらを巡る相互の意思疎通を適切な形で行っていく文化が形成されるべきではないかと感じています。

今も日本と世界に問い続ける「原敬」の足跡と思想

昨日は盛岡出身の戦前の大政治家・原敬の命日ということで、菩提寺や生家跡の記念館で追悼行事がなされたとのニュースがありました。
http://news.ibc.co.jp/item_25696.html
http://news.ibc.co.jp/item_25691.html

盛岡北RCの例会でも、地域史などに圧倒的な博識を誇る岩渕真幸さん(岩手日報の関連会社の社長さん)から、原敬の暗殺事件を巡るメディアの対応などをテーマに、当時の社会や報道のあり方などに関する卓話がありました。

途中、話が高度というかマニアックすぎて、日本史には多少の心得がある私でも追いつけない展開になりましたが(余談ながら、前回の「街もりおか」の投稿の際も思ったのですが、盛岡で生まれ育った人はマニアックな話を好む方が多いような気がします)、それはさておき、今の社会を考える上でも興味深い話を多々拝聴できました。

特に印象に残ったのは、「原敬を暗殺した少年は、無期懲役の判決を受けたが(求刑は死刑)、昭和天皇即位等の恩赦により10年強で出獄した。その際、軍国主義の影響か反政友会政治の風潮かは分からないが、暗殺者を美化するような報道が多くあった。そのことは、その後の戦前日本で広がった、浜口首相暗殺未遂事件や5.15事件・2.26事件などのテロリズムの素地になっており、マスコミ関係者などは特に教訓としなければならない」という下りです。

「大物政治家を暗殺した人間が美化される」という話を聞いて、現代日本人がすぐに思い浮かぶのは、韓国や中国における安重根事件の美化という話ではないかと思います。

安重根の「動機」や伊藤博文統監の統治政策について、軽々に論評できる立場ではありませんが、少なくとも、「手段」を美化する思想は、暴力(武力)を紛争解決の主たる手段として放棄したはずの現代世界では、およそ容認されないものだと思います。

それだけに、仮に、中韓の「美化」が手段の美化にまで突き進んでしまうのであれば、それらの国々が戦前日本が辿ったような危うい道になりかねない(ひいては、それが日本にも負の影響を及ぼしかねない)のだという認識は持ってよいのだと思いますし、そうであればこそ、「嫌韓・嫌中」の類ではなく、彼らとの間で「日本には複雑な感情があるが、貴方のことは信頼する」という内実のある関係を、各人が地道に築く努力をすべきなのだろうと思います。

私が司法修習中に大変お世話になったクラスメートで、弁護士業の傍ら世界を股に掛けた市民ランナーとして活躍されている大阪の先生が、韓国のランナー仲間の方と親交を深めている様子をFB上で拝見しており、我々東北人も、こうした営みを学んでいかなければと思っています。

ところで、wikiで原敬について読んでいたところ、原内閣が重点的に取り組んだ政策が、①高等教育の拡充(早慶中央をはじめとする私立大の認可など)、②全国的な鉄道網の拡充、③産業・貿易の拡充、④国防の拡充(対英米協調を前提)と書いてあったのですが、昨日のRCの例会で配布された月刊誌のメイン記事に、これとよく似た話が述べられており、大変驚かされました。

すなわち、今月の「ロータリーの友」の冒頭記事は、途上国の貧困対策への造詣が深く、近著「なぜ貧しい国はなくらならいのか」が日経新聞でも取り上げられていた、大塚啓二郎教授の講演録になっていたのですが、大塚教授は、低所得国に早急な機械化を進めると非熟練労働者を活かす道がなくなり、かえって失業や貧困を悪化させるとした上で、中所得国に伸展させるために政府が果たすべき役割について、①教育支援、②インフラ投資、③銀行など資本部門への投資、④知的資本への投資と模倣(成果の普及)による経済波及という4点を挙げていました。

このうち①と②はほぼ重なり、③も言わんとするところは概ね同じと言ってよいでしょう。民間金融を通じた地方の産業・貿易の拡充として捉えると、現代日本の「地方創生」「稼ぐインフラ」などの話と繋がってきそうです。

そして、④も、当時が軍事力を紛争解決の主たる手段とする帝国主義の時代であるのに対し、現代はそれに代えてグローバル人材が一体化する世界市場で大競争をしながら戦争以外の方法(統一ルールの解釈適用や交渉)で利害対立を闘う時代になっていることに照らせば、時代が違うので焦点を当てる分野が違うだけで、言わんとするところ(国際競争・紛争を勝ち抜く手段の強化)は同じと見ることができると思います。

何より、大正期の日本は、ちょうど低所得国から中所得国への移行期ないし発展期にあったと言ってよく、その点でも、原敬の政策や光と影(政友会の利権誘導政治、藩閥勢力との抗争など)などを踏まえながら大塚教授の講義を考えてみるというのも、深みのある物の見方ができるのではないかと感じました(というわけで、盛岡圏の方でRCに関心のある方は、ぜひ当クラブにご入会下さい)。

ところで、岩渕さんの卓話の冒頭では、「原敬は、現在の盛岡市民にとっては、あまり語られることの少ない、馴染みの薄い存在になってきており、残念である」と述べられていました。

私が9年間在籍した青年会議所を振り替えると、盛岡JCは新渡戸稲造(の武士道)が大好きで、1年か2年に1回、新渡戸博士をテーマとする例会をやっていましたが、原敬や米内光政など先人政治家をテーマとして取り上げた例会などが行われたとの記憶が全くありません。

戊辰の敗戦国出身で決して裕福な育ちではなく、紆余曲折を経た若年期から巧みな知謀と大物の引き立てにより身を興し、「欧米に伍していける強い国家」を構築する各種基盤の構築に邁進し、それを支える新たな権力基盤の構築にも絶大な手腕を発揮した点など、原敬は、「東の大久保利通」と言っても過言ではない、傑出した大政治家だったことは間違いないのだと思います。

だからこそ、両者が、絶頂期かつ志半ばの状態で暗殺により歩みを中断させられたことは、織田信長しかりというか、この国の社会に不思議な力が働いているのかもしれないと感じずにはいられないところがありますし、余計に、前記の「テロリズム礼賛の思想」を根絶することの必要性を感じます。

それだけに、地元で人気がない?(素人受けせず、通好みの存在になっている)点も、大久保利通に似ているのかもしれない、そうした意味では、対立したわけではないものの、同時代人で人気者の新渡戸博士は、いわば盛岡の西郷隆盛のようなものかもしれない、などと苦笑せずにはいられないところがあります。

皆さんも、「古くて新しい原敬という存在」に、よりよい形で接する機会を持っていただければ幸いです。

マイノリティとして生きていくということ

ここ1年ほど、LGBT(各種の性的マイノリティ)がメディアに取り上げられる機会が非常に増えたように思います。

3年ほど前、性的マイノリティの方に関する事件を取り扱ったことがあり、その際、依頼主の背景に関する理解を深めるべきと考えて、以下の本を読んだことがあります。併せて、次の投稿をしており。再掲することにしました。

************

先日、上川あや「変えてゆく勇気」という岩波新書の本を読みました。

筆者は性同一性障害(MtF)の方であり、まだ、この障害がほとんど社会に認知されていなかった時代に生まれ育ち、様々な辛酸をくぐり抜けた後、区議会議員に立候補して当選し(現在も現職)、性同一性障害性別取扱特例法(特定の条件を満たせば、戸籍上の性別を変更=人格に適合させることができる法律)の制定運動にも携わった方です。

性同一性障害については、人格の一種であって障害と位置づけるのは適切ではないとの見方もあると思われ、本書でも、トランスジェンダーなどの言葉が紹介されており、この障害(人格)について勉強する上で、入門書として大いに参考になります。

ところで、私自身は、性に関しては典型的なマジョリティですが、ささやかな障害(左耳の聴力が皆無で左側からの会話が困難)があるほか、人格に関しては衆と交わることができない変わり者の典型という面があり、様々な場面で、自分がマイノリティだなぁと感じて生きているように思います。

本書は、性同一性障害のような重い問題を背負っていなくとも、何らかの生きにくさを抱えマイノリティ意識を感じて生活している方にとっても大いに共感できる本であり、多くの方にご一読をお勧めしたいと思いました。

また、本書は、性同一性障害性別取扱特例法の制定に関するロビー活動(立法支援運動)を詳しく取り上げているため、何らかの法(法律、条例等)を作るための運動をしたいという方にとっても、大いに参考になるように思われます。

本書では、立法を支援したキーマンとなる政治家として南野千恵子議員(元法務大臣)の尽力が紹介されているほか、議会での折衝などが紹介されており、当時の国会で強い影響力を持っていた、青木幹雄・自民党参院会長との面談のシーンは、その象徴的なものと思われます。

また、大前提として、どうしてその法を作りたいのか、そのことによって誰を(或いは自分を)、どのように救いたいのかといったことについて、切実な必要性や深い思索、それを実現しようとする強固な意思がなければ、これまでの社会通念を変えていくような法の創造などというものは到底できないし、できたとしても様々な苦闘や紆余曲折が必要になるのだということも、当事者ならではの言葉として伝わってくるものがあります。

JCなどに絡んで、「まちづくり」的なことに関わっている方から条例などについて尋ねられることもあったのですが、曲がりなりにも法の運用に携わる身としては、様々な方に、社会を活性化させる正しい法の創造に積極果敢に取り組んでいただきたいと思う反面、上記のような重みにも、よく思いを致していただければと思ったりもします。

保険金請求訴訟とモラルリスク

お世話になっている損保会社さんから、事故に伴う保険金請求の相談を受けている事案で、「故意による事故(自殺・自死など)の疑いがあるので、調査会社が調べた事実関係などを分析して、保険金請求の当否について意見書を提出して欲しい」と要請され、作成して提出したことがあります。

保険金請求を巡っては、被保険者・契約者・受取人などが意図的に保険金支払事由となる事故を生じさせた疑いがある事案(モラルリスク事案)の発生が避けられず、その主張立証責任に関する争いなども含めて、多数の判例等が生じています。

この点については、昨年に判例タイムズ1397号などに掲載された「保険金請求をめぐる諸問題(上・下)」が大いに参考になります。

この論考では、①傷害保険、②生命保険、③火災保険、④自動車保険の4類型について、最高裁判例などに基づく主張立証責任の構造が明らかにされた上で、多数の裁判例などをもとに、保険金請求の当否に関する考慮要素及びそれらに関する裁判所の考え方などが述べられ、現在のところ、基本文献と言ってよいのではないかと思います。

少し具体的に述べると、傷害保険については、偶然性など(偶然な外来の事故)について、保険金の請求者に主張立証責任があるとされ(但し、立証責任の軽減の問題はあります)、それ以外の保険類型では、請求者は保険事故の存在等を明らかにすれば良く、保険会社側が、故意重過失などの免責事由を主張立証しなければならないとされています。

傷害保険に関しては、自動車保険契約に付帯する人身傷害補償特約の保険金給付の当否を巡って問題となった裁判例が幾つか公表されています。

そして、「偶然性」や「故意・重過失」など、モラルリスク事案における保険金請求の当否に関する判断は、次の4項目を総合的に検討し判断すべきものとされています。

①事故の客観的状況(運転方法の異常性をはじめ事故態様などに偶発性を疑わせるだけの要素がどれだけ備わっているか、自殺の手段として合理性があるか、自殺以外の事故原因が指摘・説明できるか等)、

②被保険者等の動機、属性等(借金などの経済状態、疾病、精神状態、家庭状況など)、

③被保険者等の事故前後の言動等(事故直前の普段と異なる不審な行動や事故現場への不自然な接触、自殺等を仄めかす言動の有無等)、

④保険契約に関する事情(締結の経緯、時期や契約内容等にに関する不自然な事情の有無)

保険金を請求する側であれ、される側(保険会社)であれ、保険金請求の当否が問題となっている事案では、詳細な事実関係の調査がなされることを前提に、弁護士が過去の裁判例などを踏まえた適切な分析をすることで、よりよい解決を図ることができるケースが多数あるのではないかと思われます。

膨大な事実関係を丹念に検討するのが「地味で地道な仕事ぶりだけが取り柄?の町弁の持ち味」だと思っていますので、そうした事案に直面した方は、どちらの立場であれ当事務所にご相談いただければ幸いです。

 

弁護士の死神営業と泣いた赤鬼

最近になって、社会派ブロガーで有名な「ちきりん」さんのブログや著作を読むようになりました。

先日は、延命治療の技術進歩により「本人が必ずしも延命を望んでいないのに、誰もそれを止めることができない(勇気や制度がない)との事情から高額な医療費を(若い世代に)負担させ、何十年も延々と延命をするような例が、今後、続出して巨大な社会問題になるのではないか」という趣旨のことが述べられていました。

尊厳死を巡る問題については、法律業界でも古くから議論され、ネット上でも多数の論考などを見かけることができますが、私自身は関わった経験等がないこともあり率直に言って不勉強で、今のところ大したことを述べることはできません。

ただ、単純に、ちきりんさんのブログに即して感じたことだけを言えば「本人も望まず、社会的にも不要有害と言わざるを得ない長期延命治療を関係者に無用の負担等を生じさせない形で止めさせる制度」が必要なのだろうとは思います。

それは、言うなれば、医療技術上は長期延命が可能な方に対し、「死」を宣告する(延命治療の中止による死亡を法的に正当化する)ような手続であり、それが「誰しもが、やりたいとは思わない嫌な決断だが、社会通念上は必要とされる仕事」だというのであれば、それに従事(主導)すべき立場にあるのは、法律実務家というべきではないかと思います。

酷い例えだとお叱りを受けるかもしれませんが、延命治療の中止判断(決定)は、それに従事する者に慎重な姿勢と重い決断を伴う「死の宣告」にあたるという点で、死刑判決と似たような面があり、後者が法律家(裁判官)が行うとされている以上、前者についても、法律家こそが担うべきだと言ってよいのではないかと思います(ちなみに、「執行」は、適切な方法で医療関係者に行っていただくことは、当然です)。

もちろん、そのような制度を作るのであれば、「必要」が生じた場合に、関係者の(本人の事前届、近親者、医療従事者や検察官など)の申請に基づいて、何らかの「審査会」的なものが設けられ、そこで延命治療の中止の当否について判断することが想定されます。

当然、そこでは、単純に本人の同意があるから中止だとか、近親者の同意がないからダメだなどというのではなく、ご本人の人生経歴や治療経過など、中止の当否を巡って斟酌すべき様々な要素を適切な事実調査を踏まえて判断するという形になるのではないかと思います。

このような「様々な事実の調査・整理を含む、諸要素の総合的な価値判断」は、法律実務家が得意とするところですし、「死」という判断の重さに照らしても、一般の方が軽々に従事できるものでもありません(その点は、重大事案における裁判員裁判の当否を巡る議論も参考になるかもしれません)。

もちろん、利害関係者などによる不服申立(最終的には裁判所の司法判断を含む)もあってしかるべきだと思います。

なお、費用については、なるべく自己負担が望ましいので、審査制度の利用額を定めた上で、延命治療の長期化を希望しない方が事前に予納するとか、何らかの保険制度に組み込むなどの方法が適切だと思います(最後の綱は、法テラスでしょうか)。

************

で、どうして今こんな話を延々と書いてきたかというと、そのような制度が社会に必要とされているのであれば、給源たる弁護士業界(なかんずく日弁連)が、制度設計をした上で制度の導入に向けて積極的に提言・運動してもよいのではと思うのですが、私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません(単に不勉強で存じないだけかもしれませんが。なお、法案への反対意見の類なら日弁連HPなどで拝見できます)。

変な話かもしれませんが、仮に、そのような「審査会」が設置される場合、医師であれ、他の何らかの資格商売であれ、或いはお役人(公的機関)であれ、弁護士以外にも、「自分にそれを担わせて欲しい」といった「ライバル」が出現することは予測されますし、TPPなどを引き合いにするまでもなく、新たな制度を構築する場合は、なるべく早期に制度設計を巡る議論に参加、主導しないと「置いてけぼり」となることは、容易に想像できることだと思います。

ただ、逆の見方として、この制度が、死という人間にとって最も忌避したいはずの事態をダイレクトにもたらす意思決定であり、しかも、重大犯罪者ではなく、全うに生きてきた方のための手続という性質上「究極のケガレ仕事」と言えなくもなく、そのような制度を導入すべきだ(しかも、自分に担わせて欲しい)などと言い出せば、「お前は死神か。おぞましい奴だ」などという批判を世間から受けてしまうのかもしれません。

そうした意味では、この仕事は、ちきりんさんの見立てからすれば、社会的必要性が認知されれば膨大な需要を生じさせる可能性がある一方で、「貧困に喘ぐ町弁業界を一挙に救済する、素晴らしいブルーオーシャンだ!」などと無邪気にはしゃぐ話になるはずもなく、色々な意味で、弁護士(法律家)という職業の悩ましさ、本質に迫る話ではないかと感じる面はあります。

************

ところで、法律家が「死」に関わるのは、重大犯罪の刑事事件だけではありません。相続は言うに及びませんが、それ以上に、「企業のお葬式」としての倒産事件には、申立代理人であれ破産管財人であれ、多くの町弁が日常的に関わっています。

裏を返せば、ほとんど弁護士を利用される機会がない小規模な会社さんなどにとっては、弁護士と関わるのは倒産のときだけという面が無きにしもあらずで、そうした方から見れば、我々は、「企業が死を余儀なくされるときだけ関わる連中で、必要かもしれないが、嫌悪・忌避すべき死神のような存在」ということになるのかもしれません。

恥ずかしながら、私の場合、中小・零細企業向けの仕事をもっと沢山お引き受けしたいとの希望がありつつ、人脈の無さなどの悲哀から、東京時代とは比較の対象にならないほど、そうした機会を得ることができていないので、せめてもの営業活動?ということで、企業経営者の方々が集まる団体さんに参加することもあるのですが、遺憾ながら、何度出席しても、あまり親しい関係などを築くことができずにいます。

人付き合いや「他愛のない和やかな会話」が苦手な私のキャラの問題も大きいのでしょうが、接する方々の雰囲気を見ていると、弁護士という存在が「敷居が高い」という形容よりも、忌避すべき存在として意識されているように感じないこともなく、ある種の悲哀を感じる面はあります。

著名な児童文学作品(童話)で、「泣いた赤鬼」という物語がありますが、弁護士は、「人々を守る仕事をする(かつ、守りたいと思っている)一方、人々からは忌避されやすい面がある」という意味で、この作品の主人公である赤鬼に、よく似ているのかもしれません。

そのように考えると、以前にも取り上げた「日弁連ニコニコCM」は、赤鬼が、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておくようなものだと感じてしまいます。
日弁連CM問題と、今こそアピールすべき弁護士像を考える

さすがに、同業の先生に「青鬼よろしく筋の悪い裁判を私が面識がある企業の方々に起こして下さい。そうすれば、私はその裁判に勝って、自分が良い鬼だと知ってもらい、仲良くしてもらうことができます。」などと、お馬鹿な頼みをするわけにもいきませんが、さりとて、私が赤鬼くんのような看板を立ててもそれが奏功するとも到底思えず、どうしたものやらと嘆くほかなしというのが、お恥ずかしい現実のようです。

補助金の支出を巡る地元自治体の光景と田舎の町弁の意地

進行中の仕事なのであまり具体的なことは書けませんが、奇縁により、2、3年前に県内等を震撼させた「震災絡みの補助金の巨額不正使用などが問題となった事件」に1年半ほど前から関わっています。

私が担当しているのは事件全体の中では脇役というべき方なのですが、後始末の民事訴訟などでは要に位置する方なので、山のような訴訟手続が必要になっています。勉強にはなるのですが、経済的には「事務所を潰す気か」と天に吠えたい気持ちを抱えつつ、毎度泣きそうになりながら関わっています。

その事件では、舞台となったA町などの補助金の支出のあり方に大いに問題があると巷間では言われており、私も同様に感じるのですが、誰も住民訴訟等を起こす人がなく、訴訟上は不問に付された状態が続いています。

先日、訴訟関係者が集まった場でも、どなたがとは言えませんが、出席者の方々が「この点が置き去りにされてるよね」という趣旨のことを仰っており、改めて、その点は残念に思いました。

************

で、どうして今こんな話を書いたかというと、A町ではなく以前からお世話になっている県内のB町(仮称)さんから、先日、上記とは全然関係のない件で補助金の支出に関するご相談を受けました。

そこで、事務所の書籍などで、補助金(地方自治法232条の2)の支出の適否に関する判断基準などをまとめた文献などを調べて、ご相談の件のお返事をしたのですが、読めば読むほど、B町さんの件(問題ないと思われる例)よりも、A町事件の方を考えずにはいられないという感じがしてしまいました。

ちなみに、自治体(地方公共団体)による補助金の支出は、「公益上の必要」の存在が必要とされていますが、具体的な判断基準は法律では定められておらず、裁判所の解釈に委ねられており、同条や地方自治を取り巻く諸制度、憲法89条の趣旨なども勘案して、判断することになります。

仮に、住民が「その支出は違法(地自法232条の2違反)だ」と主張して、支出を行った首長などや支出を受けた関係者などに賠償等の請求をしたい(自治体にさせたい)場合には、同法242の2第1項4号に基づく住民訴訟(や前提としての住民監査請求)を行い、「自治体は、支出に関与・容認した首長等や、受領した団体側に、賠償等請求せよ」という趣旨の請求をすることになります。

そして、これに対し、訴訟の被告となった側は、①当該補助金の支出は地自法232条の2に反しない、②仮に違反したのだとしても、故意や過失がない、などと、反論し、それらの主張の当否が問われることになります。

で、本題というべき、法232条の2違反の当否ですが、補助金の支出の判断については、様々な行政目的を斟酌した政策的な考慮が求められるため、社会通念上不合理な点がある場合や特に不公正な点がある場合でない限り、これを尊重することが必要で、そのような観点から首長などの裁量権の逸脱・濫用があると認められる場合に限って、違法になるとされています(最判H17.10.28等)。

その上で、「公益上の必要」に関する具体的な判断基準(要素)については、判例分析をした書籍によれば、

①補助金の目的、趣旨、効用、経緯
②補助の対象となる事業の目的、性質、状況
③当該自治体の財政の規模、状況、
④議会の対応、地方財政に係る諸規定の事情

などを総合的に判断するとされています。

例えば、支出目的が適正であるか、当該補助が当該「公益」の目的達成のため適切かつ有効な手段と言えるか、受給者たる団体や金額、使途等が、「公益」との関係で、社会通念に照らし、適切な支給先・使途と言えるか、支出手続や事後の検査体制、流用のリスクなどといったことが、具体的事情や政治的な事柄を含む事案の経緯なども勘案して、問われることになります。

************

余談ながら、A町事件は、県内等を震撼させた大事件であるにもかかわらず岩手の弁護士さんがほとんど関わっていません(少なくとも、民事事件で関与しているのは、現在は私だけです)。

あまり具体的なことは書けませんが(事件が終わった後に、守秘義務などの範囲で、少し書いてみたいとは思っていますが)、その事件では、東京方面を中心に非常に多くの弁護士さんが関わっており、訴訟期日では、東京などの弁護士さん達に囲まれつつ仕事をしているという状態になっています(蛇足ながら、ほとんどの先生が、私ほどではないにせよ?経済的に割に合わない仕事をしている面があるように見えます)。

だから何だというわけではないのですが、この事件が世間の耳目を集めていた当時、地元で発生した大事件なのに、岩手の弁護士が関与しないのは残念なことだ、と思っていました。

それが、色々な偶然ないし行きがかり上、私が関わることになってしまったのですが、ある意味、(ご自分の迂闊さもあったとはいえ)とてつもない不運に巻き込まれてしまった依頼主(当事者ご本人)の心情と、私自身の、「とてつもなく不採算のリスクの高い仕事ではあるが、地元の町弁の意地?を示したい」との思いが重なる面もあり、ある程度の限界があるとはいえ、できる限りのことはやりたいと思っています。

不貞行為に関する慰謝料請求と会話記録

町弁をしていると不貞行為に関する慰謝料請求訴訟を受任することが何度もありますが、この種の訴訟は、相手方(被告)が否認すると被害者に不貞の内容などを立証しなければなりません。

中には、そうしたことを見越して、長期の不貞の事実が存在するのに、全面否認したり、直近のごく一部の不貞のみを認めて「その時点では夫婦が不和だったから破綻=免責だ」などと主張する不誠実な御仁も少なくないので、具体的な証拠などに基づいて不貞行為の詳細を主張立証せざるを得ないことも少なくありません。

この点、「不貞時の両者の会話記録」を入手できることがあり、時には数ヶ月間に亘る不貞状況の詳細について、膨大な労力(ページ数)を割いて、「二人の逢瀬の物語」を、会話から浮かび上がる当事者の心理描写なども交えて、熱く深く再現するという作業をすることが、何度かありました。

膨大な記録を読み込んで、ちょっとした記載についてネットで裏付けを調べたり、書かれていない関連事実についてもあれこれ調べたりしながら、男女のやりとりを分析しストーリーとして構築することになりますので、膨大な時間と労力を余儀なくされるため、我ながら「何で、こんな三文小説を書いているのだろう」と自分が馬鹿なことをしているように思う面もあります。

他方で、そうした作業を通じて、何らかの自分の暗い衝動を充足させているのだろうかと感じる向きもあり、或いは、道ならぬ情愛や性愛を求めざるを得ない人間の深淵に迫っているような錯覚?を感じる点もありますが、そのように思うこと自体が、ある種の防衛機制なのかもしれません。

所詮は権利義務に関わる事実を述べるものですから、基本的には淡々と事実を書き連ねるのが基本となりますが、その制約の中で、どれだけ人間の心の深淵に迫れるかなどと、事案の結論とは少し離れたところで馬鹿みたいな情熱を燃やすことが、たまにあります。

余談ながら、先日、「営利目的で性交渉に従事した者は、その業務の通常の態様に依っている限り、他方配偶者との関係で賠償義務なし」と判断して話題になった、いわゆる「枕営業判決」が判例タイムズに載っていたので判文を見たのですが(東地判H26.4.14判タ1411-312)、被告女性は本人訴訟で、本人は簡単な認否反論しかしてないようでした。

その一方で、原告側の主張に基づき裁判官が詳細な判断を示しており、議論された事柄の大半は、裁判官が原告代理人に求釈明して原告代理人が反論し、裁判官が判決でそれに再反論したという審理展開を辿ったようで、その点も興味深いと感じました。

会社の後継経営者の選定問題に端を発する兄弟一族間の支配権紛争

先日、盛岡北ロータリークラブの卓話(ミニ講義)を担当することになり、標記のテーマで、同族企業内で数年間に亘り多数の訴訟闘争が起きた実際の事案についてご紹介しました(もちろん、守秘義務の範囲内ですが)。

卓話後にクラブ広報に載せる原稿も作成して欲しいとのご指示があったので下記の文章を作成したのですが、ご了解をいただき、こちらにも掲載させていただきます。

今回は、20分しか時間がないこともあり、駆け足の事案紹介だけで終わってしまいましたが、もともと、10年近く前に岩手大学で講師を務めた際の講義のため作成したものであり、1~2時間程度をいただければ、紛争の内容に関する本格的なお話もできるかと思います。

県内の中小企業さんの経営者団体などで、こうした話を聞いてみたいという方がおられれば、一声お掛けいただければ幸いです。

************

今回は「父が創業した会社を引き継いだ兄弟が、互いに協力して大規模な企業を育て上げたものの、どちらの子を後継者とするかに端を発して不和になり、従業員取締役の支持を得て主導権を握った弟側が兄側を経営陣から追放したため泥沼の紛争が生じ、多数の訴訟が起きた事例」をご紹介しました。

本稿では、当日の卓話を踏まえつつ、お伝えできなかったことなどを含めて記載します。

当日は、次の項立てで、私が平成13年頃に東京で従事した事件の内容を抽象化してお伝えしましたので(それでも、事案説明だけで数頁になります)、欠席された方でレジュメをご覧になりたい方がおられれば、私までご連絡下さい。

第0 株式会社などの支配権確保や意思決定に関する基本的ルール
第1 事案の概要
第2 会社の支配権の当否を巡る裁判(会社法上の訴訟)
第3 経営から放逐された側から放逐した側に対する賠償請求
第4 関連して生じた紛争について
第5 教訓ないし内部紛争の予防に関する視点

紙面の都合上、事案の詳細(若干の脚色等をしています)は省略しますが、要するに、特殊な製品を取り扱う甲社をはじめ企業グループ4社(従業員数百名規模)を作り上げた兄X1(社長)と弟Y1(専務)は、対等に経営する見地から同一比率で株式を保有し(但し、X1・Y1のほか、甲社の株式の一部を乙社が持ち、乙社の株式の一部を丙社が持つなどしています)、両者の合意がないと企業グループ全体を経営できない仕組みを作ってきました。

両名は、昭和62年に、互いの子X2・Y2を中核企業の甲社に入社させ、数年内に取締役、その後に二人とも代表取締役としてX1・Y1と交代する旨を合意しました。

そして、社長もY1に交代し、X2・Y2も入社しましたが、数年後、甲乙各社の従業員取締役がY1支持の姿勢を示したため、Y1は約束を反故にして、平成9年頃から甲社・乙社の株主総会でX1とX2の取締役再任を拒否し、X側を甲社らの経営から追放してしまいます。

これに対し、X側は、合意違反を理由に、株主総会決議の取消等やY1に対する巨額の損害賠償を求める訴訟を提起すると共に、対抗措置として、株式持ち合いの根幹に位置する丁社の取締役会で、特殊な手法によりY1を解任する決議をしました。これに対し、Y1はその決議が無効だと主張しX側に訴訟提起しています。

また、これに関連して、Y側が、乙社が有する甲社の株式をY1の知人に譲渡する出来事があり、X側が、当該譲渡は無効だなどと主張する訴訟や株主代表訴訟も起こしました。

レジュメで省略した訴訟や仮処分なども含め、10件以上の泥沼の訴訟闘争を数年間に亘り繰り広げたのです。

この事件では、結局、X側が起こした訴訟は全て退けられ、丁社に関してX側が行った決議も法律違反だとして無効となり、Y側の全面勝訴という展開になりました。

中心となる訴訟の最中には、XY間で企業分割などの協議も行われたものの不調に終わり、私が関与していた期間(平成15年頃まで)は、従前の株式の持ち合い状態のまま、従業員サイドの支持を受けたY1がX側を排除して甲社らの経営権を保持する状態が一貫して続いていました。

そのため、X2は甲社グループとは別に、一部の元役員の方と共に同種企業を他に設立し、現在も活動を続けています。

他方、Y2はY1の社長職を承継せず平成15年頃には経営陣から姿を消し、現在は別の方が社長となっています。

正確な理由は分かりませんが(訴訟内では、Y側の方針として同族経営を止めたいとの発言はありました)、XY双方とも自身の子に経営を託すことができない事態になったわけです。

精緻な持ち合い構造を作っても泥沼の対立劇が生じることや、株主間合意だけによる経営権確保の限界、従業員取締役の支持が死命を制することになったことなど、企業経営に携わる方には学ぶところが大変多い事案です。本来は、裁判所の考え方を含め、2時間以上かけてお伝えすべき事柄ですので、もし、他団体の会合などで改めて話を聞きたいとのご要望がありましたら、お声をお掛けいただければ幸いです。

最後になりますが、こんな日に限って?メイクアップで出席された吉田瑞彦先生(盛岡西RC前会長。日頃より大変お世話になっております)から、机を叩いて「異議あり!」コールを受けたらどうしようと恐怖していましたが、暖かく見守っていただき、安堵しております(笑)。