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稼げない町弁が地方の司法を変える?~裁判を活かす10の覚悟~

今年の7月頃、まちづくりに関する事業を手掛けている木下斉氏の「稼ぐまちが地方を変える」を読みました。

著者は、高校時代から早稲田商店街の活性化事業などに取り組んできた方で、その中で様々な利害対立の渦中に放り込まれて辛酸を嘗めた経験なども踏まえて、「地域の特性はもちろん全国的・世界的な「ピンホールマーケティング」までも視野に入れた魅力あるコンテンツを地域内に揃えることで、小さくとも確実に稼ぎながら地域に再投資し「公」を主導する企業を育てて、そのことを通じて地域づくりの取り組みを再構築すべきだ」という主張と、それを実現していく上での要諦に関する事柄が述べられています。

本書で取り上げられている「まちづくりを成功させる10の鉄則」は、零細事業者たる町弁の事務所経営にも当てはまる点が多く、色々と参考になります。顧客にとって「これ(問題の状況把握と解決の方法)は自分の生活に足らなかったもの」と思わせる強烈な個性(と熱意)が必要だと述べられている点などは、生存競争を迎えた町弁業界にこそ、向けられている言葉というべきでしょう。

本書でも代表例として取り上げられている「オガール紫波」で一躍時の人となった岡崎正信さんは、私も「同時期に盛岡JCに所属していた多数の会員の一人」としてfacebook上で「友達」とさせていただいており、硬軟様々なメッセージ性の強い投稿を日常的になさっているので、興味深く拝見しているのですが、以前から、岡崎さんのFB投稿への木下氏のコメントなどを拝見して同氏の活動に関心を持っていたので、発売後、すぐに購入して一気に読みました。

また、同じくJC繋がりのFB友達で、私をFBに誘因した張本人でもある、肴町のプリンスことS・Mさんから、7月に木下氏の講演会を盛岡で行うとの告知をいただいたので、歌手のコンサートの類は全く行かない私も久々にミーハー根性が刺激され、拝聴してきました。

残念ながら、その際は、少し遅れたところ席がびっしりと埋まっていたので、一番奥の隅にポツンと座らざるを得ず、聴き取り等に難儀した面がややありましたが、それでも、色々と興味深いお話を伺うことができました。

9月に書いておりメモもほとんど取らなかったので勘違いしている面もあるでしょうが、「人口減少は結果としての現象に過ぎないのだから、地域経済の低迷など、原因を形成している個々の事象に目を向けて、それに応じた対策を取るべき」とか「行政の運営で一番大事なことは、破綻しない、させない(夕張市や、巨額赤字=維持の税負担を強いる公共施設を作った各自治体のような愚を犯すことを防止する)ための仕組みを構築することだ」といったお話があったように思います。

また、そうした問題を克服していくため、己の才覚と責任で稼ぐ力を持った民間の経営者やそうした方に理解を持った公務員の方が、地域内で存在感を発揮すべきだという趣旨のエールがあり、参加された方には公民様々な立場の方がおられたようですが、大変好評のまま閉幕したように見えました。

ただ、自治体が法の趣旨に反する違法ないし無益な公金使用をした場合には、住民は、違法行為に関与した者の責任を問うための法的手続(住民監査請求、住民訴訟)を取ることができるわけですが、裁判沙汰はさすがに専門外?のせいか、そこまでの言及はなかったように思います。

とりわけ、住民訴訟などは、従前は、いわゆる市民運動に従事する左派系の関係者の方が行うものが多く(あとは、私怨などが絡んだ本人訴訟も拝見したことがあります)、個人的な印象としては、行政が推進する特定の政策の当否を住民訴訟というツールを通じて争うというケースは、一部の環境系訴訟(脱ダム訴訟など)以外には、ほとんど見られないのではと思われます。

「まちづくり系の訴訟」の前例として私が存じているものを挙げるとすれば、大分県日田市で企画された競輪のサテライト施設の反対運動(住民側代理人の先生が執筆された著作によれば、左右の勢力を問わず地域の諸勢力が結束して取り組んだものだったようです)に絡んだ行政訴訟が挙げられるとは思いますが、これは、国(中央官庁)の許認可の当否が問われた事件で、自治体による公金支出(開発行為)の当否が問われた事件ではありません。

少なくとも、私は、住民側であれ行政側であれ、地方行政等に役立つことができる弁護士になりたいと思って、数年前から「判例地方自治」という自治体絡みの裁判例を集めた雑誌を購読しているのですが、そうした政策の当否を問う訴訟をほとんど見たことがなく、その点は残念に感じています。

木下氏らの活動の中に、自治体が巨額の税金(自費や国の補助金)を投じて豪華な施設を作ったものの、維持費すら稼ぎ出すことができず自治体に重い負の遺産になっているケースを取り上げて警鐘を鳴らす(「墓標」シリーズ)というものがありますが、そうした問題についても、本来であれば住民監査請求や訴訟等が行われて、自治体の政策判断の当否(裁量逸脱の是非)が問われるべきではなかったかと思われます(すでに監査請求等の期間を途過しているのかもしれませんが)。

少なくとも、一般論として裁量違反のハードルが非常に高いことは確かですが、裁判を通じて、事実認定を含めて的を得た形で裁量論争が深められ、それに対し裁判所が法の趣旨を踏まえて緻密な検討をし、真っ当な判示がなされれば、訴訟の結果がどうあれ、対象となった政策分野を巡る行政裁量のあり方について一石を投じる(そのことで、行政を変える契機とする)ことができると言ってよいのではと思われます。

私は行政裁量が問題となる訴訟にほとんど関わったことがないので、大したことは申せませんが、私が少しだけ勉強している環境訴訟は行政裁量の当否が争われやすい分野であり、北村喜宣先生の「環境法」や越智敏裕先生の「環境訴訟法」などで行政裁量の争い方や最高裁の考え方などを論じた部分などが参考になるはずです。

また、先ほど述べたように、これまで、住民訴訟等に従事するのは、特定の政治的傾向を有する一部の運動家の方に限られていたという現実があるように思われ、木下氏らの文脈に合致した意味での「まちづくりに絡む公費濫用の予防や是正に関わる訴訟」に取り組む弁護士(や支援者)というのは、ほとんど聞いたことがないように思います。

そうであればこそ、合格者激増という「稼げない時代」を迎えた町弁業界にとっては、行政裁量との硬軟様々な関わりという問題は、今後、手掛けていきたいと考える弁護士が増えてくる分野であることは確かで、とりわけ、行政庁の任期付職員になるなどして裁量のボーダーラインを肌で感じる機会に恵まれた方などは、任期後に町弁として復帰した際、こうした訴訟を手掛けたい(いわば、ヤメ検が大物刑事弁護人になるように?古巣を相手に裁量論争を挑みたい)と希望するのかもしれません。

さらに言えば、そうした営みが活性化されてくれば、包括外部監査制度や内部職員としての従事(事業開始・執行段階からの関与)をはじめ、弁護士が地方行政(ひいては国家行政も)の内部で手掛けることが法律上(制度趣旨の面から)期待されている分野が広がり、そうした営みを通じて、法の支配の理念に合致し、かつ「税金の無益な浪費をさせない(本当に活性化させることにだけ使わせる)」など経営マインドにも合致するような行政の構築にも繋げることができるのではと期待したいところです。

ところで、本書の末尾は、「まちを変える10の覚悟」というキャッチフレーズ(とミニ解説)で締めくくられていますが、ここで取り上げられている言葉は、我が業界の需給の当事者にも、大いに当てはまる面があるように思います。

そんなわけで、これを拝借して、「裁判・司法を本当に役立つものにするための10の覚悟」とでも題して、少し、考えたことを書いてみたいと思います。こちらはありふれたことしか書いていないかもしれませんし、ここで書いたような理想どおりにいかない現実もありますが、元ネタ(本書の該当部分)と対比して参考にしていただければ幸いです。

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①弁護士や裁判(司法)に頼らない

裁判(法的手続)という営みは、弁護士や裁判所だけが行う仕事ではない。依頼者・当事者自身に、紛争の正しい姿や重要な事実、救済・解決の必要性を、裁判所(や代理人たる弁護士等)に真摯に伝える姿勢が必要。そのような姿勢に欠けると、結局、司法の側から熱意ある支援は得られない。

まして、個々の「紛争」の解決に関し弁護士や裁判所が実際に果たせる役割はごく限られている。紛争の原因・背景にあって司法が救済の役割を果たすことができるわけではない、当事者やそれを取り巻く環境にある様々な人的・物的問題とも、紛争解決への取り組みを通じてご自身が正面から向き合う姿勢を持つべき。

②自ら「適正」な労働力や資金を出す

司法(弁護士等)により良い仕事をさせるには、その事案・業務に相応しい人的、物的コストを負担する姿勢が必要。当事者が適正なコストを負担しない場合ほど、裁判等の進行や結果が「尻すぼみ」の結果になりやすい。

③「活動」ではなく「事業」としてやる

裁判は、余技のような「活動」でないことはもちろん、単に「弁護士に料金を払ってサービスの提供と結果を待つだけの営み」ではない。紛争の当事者=主体は自分自身であり、自らの活きるか死ぬかの闘い、人生の重大な岐路という認識を持って主体的に取り組むべき紛争が幾らでもある。

④論理的に考える

裁判の当事者は、自身の価値観に基づくバイアスのかかった主張や自身に都合の良い結論(願望)ありきの発想に陥りがち。そうした方に限って、判断の依って立つ基盤を崩されると過度に弱気になる例もある。

自分の立場的な価値観ありきで物を考えず、紛争を取り巻く様々な事実経過や原理原則、事案の特殊性や関係者の適正な利害などを論理的かつバランスよく考える姿勢が、当事者にも求められる。

⑤リスクを負う覚悟を持つ

裁判などの闘争の渦中に身を置かず、リスクとリターンのないところで願望や不満ばかり述べても何も変わらない。裁判等をしなければ事態の好転は望めない事案で、かつそれが相応しいタイミングであるにもかかわらず、面談した弁護士に不満や願望を述べるばかりで前に進もうとしない(闘おうとしない)方は珍しくない。

⑥「みんな病」から脱却する

裁判闘争を嫌がり、話し合いで解決したい(すべきだ)と強く希望する方は少なくないが、そうしたケースに限って、「関係者みんなの話し合い」では何も進まない(進めることができない)状況に陥っていることが通例である。法の力を借りて実現すべき適正な要望(解決方法)があるなら、たった一人でも闘う姿勢を示し自ら智恵と汗をかくことで、紛争の適切な解決のあり方について、他の関係者にも認識を共有させることができる。

⑦「楽しさ」と利益の両立を

裁判は、正義と悪の対決ではなく、正義と正義(エゴとエゴ、自我と自我)の衝突と調整が基本であり、長期戦が通常。だからこそ、適正な利益を実現するための智恵や熱意だけでなく、質の高い裁判闘争を通じて争点が整理され、紛争が適切に解決されていく過程を楽しむ姿勢があった方が、結果として得るものが大きい。

⑧「知識を入れて、事案を練って、主張立証を絞る」

より良く裁判を闘うには、法律はもちろん、その紛争の解決に必要な様々な分野の知識、理解を得て、それを前提に、事案の内容を適切に分析し、その上で、贅肉だらけの冗長な訴訟活動をするのでなく、可能な限り必要最小限のポイントを突いた主張立証で、裁判官の支持(と相手の納得)を得るよう努力するのが基本。

⑨裁判で学んだことを、次の人生、社会に生かす姿勢を

裁判は人生の岐路になりうるし学ぶところも多いが、あくまで人生の一つの過程に過ぎない。現在の法制度の限界や改正のあるべき姿を世に伝えることも含め、そこで学んだことや解決によって得た利益を次の人生ひいては社会全体に生かす姿勢を持っていただきたい。

⑩10年後を見通せ

裁判と戦争はよく似ており、望外の(過大な)利益を得るなど勝ちすぎると、後で反作用が生じることが少なくないと言われ、そうした観点から、勝訴する側が敢えて譲歩した和解を希望するのも珍しくない。そうした解決方法に限らず、裁判が終局してから10年後に、ご自身やその他の関係者が、裁判で行われた議論や生じた結論に恥じることのない、何より、笑顔で暮らすことができるような将来を見据えて、裁判という闘いの場に臨んでいただきたい。

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最後になりますが、前記の木下氏講演会では、本書の購入者にはあまり有り難くない話?ですが、参加者に本書が1冊ずつ配布されていました。

私は、自分が読んだ本を持参してサインしていただきたかったのですが、愚かにも忘れてしまったので、やむなく、当日配布された本にサインしていただきました(ので、結果的に、本書が配布されて助かりました)。

というわけで、私の手元には本書が2冊あり、サインをいただいたものは有り難く事務所に鎮座させますので、私の手垢と折り目がついたもう1冊を欲しいという方がおられれば、ご遠慮なくご来所下さい。

安倍首相談話と小沢氏談話から学ぶ、法の支配と民主主義

安倍首相の「戦後70年談話」を巡っては色々と議論もあるようですが、内容についての論評はさておき、文章としての読み応えや読みやすさ、一読了解性という点では、過去の2首相談話よりも遥かに秀逸だと思いますし、それは首相個々の資質の差というより、現在と当時の日本の置かれた状況の違いによる面が大きいのだろうと思っています。

他方、ネット上で流れていた小沢一郎氏の「70年談話」も拝見しましたが、安倍首相の談話に引けを取らず、読み応えのある文章だと思いました。また、双方を読み比べてみると、互いの政治理念の差(ひいては、民主政治のあり方や統治機構に関する憲法観の違い)が見えてくる面があるという点でも、興味深いと感じました。
http://blogos.com/article/128288/

なお、安倍首相談話については、仙台の小松亀一先生のHPに、村山首相・小泉首相の談話と共に掲載されているのが参考になりますので、ご紹介します。
http://www.trkm.co.jp/syumi/15081501.htm

双方の違いとして私が感じたことを少し具体的に述べると、小沢氏の談話では、大日本帝国が草の根の民主主義を軽視し庶民を残酷に取り扱っていた(大戦直前の混乱はその帰結である)ということが強調されており、これは、満州事変以後に大日本帝国が道を誤ったという観点を強調しているように見える安倍首相の談話では、ほとんど指摘されていない視点だと思います。

韓国が「植民地支配を謝罪しろ」と言い続けることに抵抗感を感じる方も多いと思いますし、そのことを安易に批判するつもりもないのですが、帝国内に重いヒエラルキーがあり、朝鮮人であれ日本人であれ、ピラミッドの下の方に属する人にとっては非常に抑圧的な体制があったことは、理解、認識が必要なのだろうと思います。

また、小沢氏が、現在の課題について、「内実ある民主政治の定着」を強調しているのに対し、安倍首相談話が「今後の課題」を列挙した後半部分では、その点(民主主義)はほとんど強調されていません。むしろ、憲法学を勉強した人間からは、「民主主義と緊張関係を持つ原理」としてすぐにピンと来る「法の支配(自由主義)」の言葉が重要なタームとして登場し、女性の人権や自由主義経済体制など、自由主義と親和性のある話題が主に取り上げられているように感じます。

ですので、アンチ安倍首相の人が批判的に談話を解釈すれば、「自由や平和、福祉を強調するが、民主主義(その実現の過程における、民主的な意思決定)を強調していない。これは、国権主義・官僚主義的な政治思想が背後に潜んでいるからではないのか」という見方も出来るのかもしれません。

少なくとも、法の支配=自由主義は、多数決を排斥してでも国の力で一定のルールを守る・守らせるという点で、官僚主義的な側面があることは確かだと思います。また、国権主義云々が、安保法案などを巡って安倍首相が批判されるキーワードであることは、しばしば語られるところだと思います。

裏を返せば、アンチ小沢氏の人が批判的に同氏の談話を解釈すれば、「法の支配=自由主義に関する話題が一切出てこない、金権問題で司法と対決し失脚した小沢氏(ひいては田中角栄系)らしい談話だ」などという見方も出来るのかもしれません。

私は、大学で憲法の勉強を最初に始めたとき、その年に司法試験に合格された大先輩の方から、「憲法学、なかんずく統治機構の本質は、自由主義(法の支配)と民主主義という、相対立する2つの基本原理の対立と調和である。主要な論点では必ずこの問題が出てくるので、常に意識するように」ということを強調されました。

もちろん、どちらの理念を重視するかは、個人の思想良心(主権者としての政治的決断)の問題であり、双方の理念にヒエラルキーを付けるのが憲法学の発想でないことは、申すまでもありません。

安倍首相と小沢氏の双方の談話を読み比べることで、ご自身が、現在、自由主義と民主主義のどちらに重きを置いて社会と向き合っているか考えてみるのも、意義があるのではないかと思います。

また、民主党全盛の当時を含め、小沢氏の主張を見ていると、三権分立の中でも議会の影響力を優先(優位)に考える発想の強い方(「国権の最高機関」に関する統括権能機関説。憲法41条参照)と認識しており、三権を同格に考える通説的見解(政治的美称説)とは一線を画しています。

こうした、当否ないし支持の是非はどうあれ、「憲法学も視野に入れた政治哲学を感じさせる国会議員さん」は、残念ながら我が国には実に少ないように感じており、小沢氏の引退が視野に入ってきている現在、そうした「憲法=国家統治などのあり方を巡る視野の大きい議論」ができる人材を国政の場に送り出すことができているのかという点で、今こそ、国民に問題意識が広く共有されるべきではと感じています。

余談ながら、先日、オレオレ詐欺に従事する若者達の内幕などを論じた「老人喰い」という本を読んだのですが、小沢氏談話に登場する青年将校のテロと同一視するのは行き過ぎであるにせよ、主として貧困層出身の若者によるテロ行為という面で、通じるものがあるように感じました。
http://president.jp/articles/-/15501

岩手県知事選の顛末と安易になぞらえるつもりはありませんが、仮に、現在の自民党政権が、民主政の過程を軽視する側面があるのだとしたら、或いは、格調高い安倍首相談話をあざ笑うような事態が、水面下で進むということも危惧されるのかもしれません。

JCIクリードと日本国憲法の不思議な関係と、JCにこそ求められる憲法学

2年前、JC(青年会議所)の例会の際に必ず唱和している「JCIクリード」という綱領的なものが、日本国憲法の理念ないし構造と酷似していることを述べた投稿を、旧HPに掲載したことがあります。

現在、集団的自衛権に関する法案を巡って政争や反対運動が激化していますが、憲法改正を悲願の目標にしている安倍首相が長期政権化した場合、経済に一定の成果が生じた(とされた)時点で、ご自身が希望する改憲論議を拡げていこうという気持ちは強いと思われます。

日本JCは、以前から自民党以上に復古調・民族主義的な憲法改正案を掲げており、今後、そうした動きに同調した運動を各地JCに実施するよう求めてくることは十分考えられることだと思います(今年は、「国史」という言葉ないし概念を強調する活動をなさっているのだそうで、肯否云々の評価はさておき、その点も、その一環なのでしょう)。

もちろん、JCの会員マジョリティは、日本国憲法との関係では穏健(良くも悪くも無関心)な立場の方が圧倒的で、日本JCの議論を主導しているのは上記の国家観・憲法観を持つごく一部の方なのだろうとは思います(その意味では、これと反対方向のベクトルを持つ日弁連によく似た面があります)。

それだけに、JC会員の方々が、憲法の基本的な考え方、実務を含む過去に積み上げられた憲法学の一般的、平均的な物の見方を学ぶ機会を、もっと持っていただきたいと、JC在籍中にそうした営みに関わる機会に恵まれなかった身としては、残念に感じています。

というわけで、2年前(平成25年)に掲載した文章を再掲することにしましたので、当時ご覧になっていないJC関係者などの方は、お目通しいただければ幸いです(最後に少し加筆しています)。

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JC(青年会議所)には、「JCIクリード」という綱領的なものがあり、毎月1回の例会の場などで、全員で唱和することになっています。JC関係者には申すまでもないことですが、ご存じでない方は、全国各地のJCのWebサイトなどをご覧になれば、全文が載っています。

ご参考までに、福生JCのサイトが分かりやすいので、紹介します(同サイトに表示されている訳文は、JC手帳に載っているものです)。

この「JCIクリード」ですが、弁護士に限らず法についてそれなりに勉強した人間が読むと、日本国憲法の基本原理とよく似通っていると感じるはずです。今回は、この点について、少し書いてみたいと思います。

順番とは異なりますが、最初に「That government should be of laws rather than of man」という箇所をご覧下さい。

手帳(公式の訳)には「政治は人によって左右されず法によって運営さるべき」とありますが、日本国憲法の理念(基本原理)の一つに、これと同じような言葉が用いられています。

同業の方には申すまでもありませんが、今回は、そうでない方(主にJC関係者などでこの文章をご覧いただいている方)向けに書いていますので、少し丁寧に書きますと、その理念を「法の支配」と呼んでいます(76条、81条等)。

「法の支配」とは、憲法学上は、国家は個人の正しい権利を保障する正義の法に基づき運営されなければならず、法律上の根拠に基づかない恣意的な人の支配はもちろん、国会が多数決を濫用して人権を抑圧するような法律を制定した場合も無効にすべきという理念であり、憲法学ひいては法律学全体を勉強する際に、最初に勉強しなければならないことの一つです。

次に、「That earth’s great tresure lies in human personality」をご覧下さい。

手帳には「人間の個性はこの世の至宝」とありますが、日本国憲法では、個人の尊厳(13条。文言は「尊重」ですが、講学上は「尊厳」と表記)という言葉が用いられています。

憲法学上は、憲法に定める個々の人権保障の規定や統治機構のシステムはすべて、個々人の「人としての尊厳」を守ることを根本的な目的としており、個人(人間)の尊厳は日本国憲法の最高原理であると言われています。

次に、「That faith in God gives meaning and purpose to human life」をご覧下さい。

手帳には、「信仰は人生に意義と目的を与え」とありますが、日本国憲法も、信教の自由(20条)を定めるほか、これと隣接する個人の精神的な営みの自由を保障する権利として、思想良心の自由(19条)や表現の自由(21条)を定めており、これらは憲法上、特に保護されるべき自由ないし権利とされています。

次に、「That the brotherhood of man transcends the sovereignty of nations」をご覧下さい。

手帳には「人類の同胞愛は国家の主権を超越し」とありますが、日本国憲法が前文で非常に理想主義的な国際平和協調主義を謳い、その象徴的な規定として憲法9条を掲げていることは、よくご存知だと思います。

次に、「That economic justice can best be won by free men through free enterprise」をご覧下さい。

手帳には「正しい経済の発展は自由経済社会を通じて最もよく達成され」とあるところ、日本国憲法も、財産権の保障に関する規定(29条)などを通じ、資本主義を基調とする自由主義経済体制を規定しているとされています。

そして、ここまでの説明で概ねお分かりのとおり、これらの部分は、日本国憲法の中でも、重要な原理に関わる肝の部分であり、JC会員の方々は、JCIクリードを唱えながら、実はある意味、日本国憲法の勉強もしているのだと考えていただければと思っています。

ところで、クリードの最後の部分、「That service to humanity is the best work of life」についての説明を敢えて飛ばしました。

手帳では「人類への奉仕が人生最善の仕事である」と記載されていますが、私の理解の範囲では、このような趣旨のことを定めた規定は、日本国憲法には存在しません。

どうしてか、その理由は分かりますか。

日本国憲法は、個人の自由と尊厳を根本原理とし、それを政府が国際社会の力を借りて守っていくという観点から作られています。そのため、個人がどのように生きるべきかという一人一人の生き方の問題について、敢えて道標となる規定を設けず、各人の判断に委ねています。

これに対し、JCは社会のリーダーたらんとする方々の集まりですので、リーダーたる者は人類社会全体に奉仕する者でなければならないという理念を最後に置いて締め括っているのです。

そのような観点から最後の文言以外の箇所を見れば、それらは、リーダーの必須条件たる奉仕の精神を発揮するための前提条件に関する考えを述べたものと言うことができると思います。

ところで、どうして、JCIクリードと日本国憲法がこんなにも似通っているのか、その正確な理由は私には分かりませんが、両者の成立過程に思いを致すと、そこには共通の基盤らしき不思議な関係があるように見えます。

ご存知のとおり、日本国憲法は、日本国民が自力で元の政府を倒して作り上げたものではなく、大日本帝国軍が米国を主力とする連合国軍に滅ぼされた後、GHQが主導する形で策定され、大日本帝国憲法の改正手続をとって1946年に制定されたものです。

ですので、これを征服者たる米国の押しつけと見るか、日本国民が旧帝国軍が幅を利かせた旧政府にうんざりしてGHQの勧めに応じ自ら選び取ったと見るか、見解が分かれるところでしょうが、かなりの部分が米国に由来するということ自体は間違いないと思います。

他方、JCIクリードが最初に策定されたのは奇しくも日本国憲法の成立と同じ1946年、日本JCのサイトでは、米国人ビル・ブラウンフィールド氏が立案したと紹介されています。この方と、日本国憲法立案の主要人物とされるGHQのケーディス大佐は、接点があるかは全く分かりませんが、少なくとも概ね同年代と言ってよいと思います。

ちなみに、ケーディス大佐は、wiki情報によればハーバード大法科大学院を卒業したエリート弁護士だそうですが、ブラウンフィールド氏については、炭坑実業家だと記載したサイトを発見したものの、その人物像はよく分かりません。

ともあれ、両者とも米国で同じ時代を生き、当時の米国の理想主義を強く育んでいたという事情が、双方の類似性の大きな原因となっているのではないかと私は考えています。

JCは様々な目標や課題などを掲げている団体ですが、日本国民たるJC会員の方々にとっては、それらの目標、課題に取り組む際に、上記で述べたJCIクリードや日本国憲法の原理、さらには両者の複雑な関係にも思いを致していただければと思っています。

以下、今回の再掲にあたり加筆した部分です。

ところで、日本JCも憲法改正案を公表していますが、その内容を見ると、上記で解説した「JCIクリードとよく似た、日本国憲法の特徴的な部分」の幾つかについては、相当に改変ないし後退している印象を受けます。

特に、改正案は現行憲法と比べて民族主義、国家主義(国家主権?)的な面を強調し現行憲法の国際協調主義や自然権思想(人権は国家が付与するものではなく人に当然に備わっているという考え方)が大きく後退しているため、その点は、JCIクリードとも異なる思想と言うべきでしょう。

改正案(JC憲法案)を策定した日本JCの方々が、JCIクリードの破棄や改訂も求めて運動されているのかは存じませんが、そうした両者の関係性などについて、ご認識・ご意見を伺う機会があればとは思います。

ちなみに、「JC 憲法改正」などと検索すると、憲法意識の向上(改憲世論の高揚?)を目的とした運動に対する批判なども見つけることができます(引用したのは、いわゆる「市民派」の方のサイトのようにお見受けしますので、思想的にも真っ向対立という感じはありますが)。

余談ながら、JCも日弁連も、名実ともノンポリの方が中核をなす強制加入団体であるのに(JC会員の多くが、様々な人間関係などから半ば強引に入会に至ることは、笑い話ではありますが、必ず語られることです)、一部の人が団体の名前で先鋭化した活動をし、残りの大多数が関心を示さず放置、放任している(先鋭化している面々も、会員マジョリティと広く誠実な対話をして支持を得ようとする努力をあまり感じず、宣伝的な広報ばかり見かける)という点で、よく似た印象を受けます。

私自身は、大多数の国民(フツーのJC会員や弁護士を含め)は、党派的な主義主張を伴う極端な言説・現状変更ではなく、日常面の不具合を少しずつ改善するような穏健な議論・方法論を好んでいると思いますし、弁護士会もJCも、そうした中間派・ノンポリ層というべき大多数の国民のための憲法学、憲法論をこそ興すべきではないかと思っています。

残念ながら、そのような観点での有志による具体的な活動はほとんど(全く?)見られず、「憲法」を冠した小集団は、いずれも特定の党派的な主張を好む方々が、ご自身の見解を披瀝するための集まりになっているに止まっていると感じています。

本来であれば、異なる思想の持ち主と対話し、実務的、事務的な制度、慣行を中心に、穏健な方法での現状の改善を図る地道な営みが行われるべきではないか(それこそが、日本国憲法やJCIの理念、理想ではないのか)と思いますが、そのような光景を見かけることはほとんどありません。

法律実務家の集まりである弁護士会にも、様々な職業人の集まりであるJCにも、そうした各論的な地道な取り組みや意識の喚起を期待したいところですが、この種の問題に力不足の私には、高望みなのでしょうか。

私としては、JCIクリード(JCIの理想)は、米国で生まれたキリスト教の理想主義に基づく普遍的な人権思想に基づくもので、「それを組織の象徴として受容し掲げながら、それでもなお(或いは、そうであるがゆえに)民族主義的な思想信条を標榜せずにはいられないという矛盾」を抱えているように見える日本JCの姿こそ、とても人間的というか、日本ひいては戦後世界の姿を凝縮したような面があると思います。

そうであればこそ、JCの方々には、この矛盾と向き合い、苦しみながら、世界の人々が「個人の普遍的な尊厳と民族の矜持」(JC宣言に倣って個人の自立性と社会の公共性、と言い換えてもよいと思いますが)の双方を生き生きと協和させることができる姿を社会に示していただければと願っています。

会社分割に関する基礎知識

先日、ある会社さんから、会社分割を検討しているので、基本的な知識ないし枠組みなどを教えて欲しいとのご相談を受けました。

会社分割は、倒産絡み(詐害行為問題)など幾つかの裁判例の勉強を通じて関心を持っていましたが、仕事上お付き合いさせていただいている「規模の大きい企業さん」の数が多いとは言えない田舎の町弁の悲しさで、これまで会社分割に仕事で関わることが皆無に等しく、数年前に購入した実務書も埃を被った状態でした。そこで、貴重な勉強の機会を頂戴したと受け止め、書籍のうちご相談に関係する部分を一通り読んでご説明したところ、必要に応じて改めてご相談いただくというご返事をいただき終了しました。

会社分割は、大きく分けて、他社による吸収合併等が伴う「吸収分割」と、それが伴わない「新設分割」の2つの類型があり、そのご相談は、新設分割を目的とするものでした。

新設分割をする場合、おおまかな手続としては、

①会社法所定の分割計画書等を作成し、取締役会や株主総会の承認を得ること

②労働者に関し、新設会社への雇用承継や分割会社(本体)への残留者が生じることなどから、労働者(組合又は代表者)と協議する(了解を得る)こと
(会社分割に関する労働契約承継法に基づく通知等の手続を要します)

③債権者や株主のための公告等


などを行った後、分割に関する登記(新会社の設立登記)を申請することになります。

なお、上場企業など企業規模が大きい場合には、独禁法絡みの手続があります。また、新設会社の承継資産が分割会社の資産の1/5未満であれば、株主総会の承認を要しないとする手続もあります。

会社分割に関して紛争が生じる典型例は、次の2つではないかと思われます(少なくとも、会社分割に絡む裁判例は、この2類型に集中しています)。

①経営が行き詰まった企業が、不採算部門を分割会社に切り離して(或いは、優良資産を新設会社に移して)債権者に無断で不良債権処理しようとする(その結果、債権者=金融機関から様々な訴訟を提訴され紛争となる)ケース(紛争予防のためには、不採算部門の整理などを含む事業再生などについて金融機関と十分に協議をする必要があるとされています)

②労働問題(労使紛争など)を抱えた企業が、解雇等を希望する従業員を、解雇可能性の高い不採算部門に承継又は残留させたため、不満のある従業員から地位確認等請求訴訟などを起こされるケース

裏を返せば、そうした問題を特段抱えているのでなければ、粛々と手続を進めることができるのではないかと思いますが、実際に手続を進めて行くにあたっては、分割の目的を明確化させると共に、分割という手段ないし手続が、その目的に合致しているか(阻害していないか)について、多角的分析する姿勢が、担当する弁護士等はもちろん、経営者側にも強く求められるのではないかと思います。

冒頭記載のとおり、私自身に会社分割に携わった経験がなく、また、県内の弁護士で、この手続に関与した経験がある方が多いとも思えませんので、スムーズに手続を進行する上では、弁護士に限らず、適切な経験のある方(紛争性のない一般的な分割案件であれば、登記の関係で関与した経験のある司法書士の方は県内におられるのではと思います)に相談いただいてもよいかと思われます。

もちろん、当方も、文献等に基づいて、分割計画書のベースなど、一定の書面の作成や手続に関するご説明などをすることは可能ですので、会社分割に限らず、必要に応じ、ご相談、ご連絡いただければ幸いです。

学校からの「不当退学勧奨」と隣接する法律問題

かなり前の話ですが、ある学校に通学中の方(Aさん)のご親族から、学校側から「Aさんが、ある問題行動を起こし、退学処分相当と判断している」と言われ、処分保留?のまま出席停止扱いになっているが、Aさん自身はその「問題行動」をしていないと申告しているとの相談を受けたことがあります。

詳しく内容を伺ったところ、「問題行動」の内容について事実認定のレベルで非常に問題がある(Aさんと学校側で主張内容が大きく異なる上、Aさんが大きな問題を起こしたと主張する学校側の認定事実の証拠がない)ばかりか、学校側の認定事実を前提にしても、退学処分に見合うとは考えにくい(仮に、学校が退学処分に踏み切れば、裁判所が裁量逸脱を理由に無効の判決を出すことは確実)と言えるものだと分かりました。

そこで、すぐに学校側に、対応が法的に誤っていることを詳細に指摘し、Aさんの復学等を求める趣旨の通知を出したところ、ほどなくAさんの復学が認められました。

その件では、従前の経緯(学校側が、必ずしも正当と言い難い理由で長期間Aさんに出席停止を命じていたこと)について学校の責任を問うという選択肢もあり得るとは思いますが、円満解決のご希望もあり、私の関与は終了となりました。

在学契約を巡るトラブル(学校の利用者に対する退学勧奨など)は、弁護士にはあまりご縁のない類型の仕事ですが、実際に手がけてみると、労働者(労働契約)に関する退職勧奨(及びその先にある解雇問題)や、大企業と中小企業との継続的取引における契約解消の問題など(これらは多数の紛争事例があり、私もそれなりに関わっています)と非常に似ている面があると感じました(ですので、事案検討の際、それらとの異同も視野に入れながら考えたりしました)。

で、それら類似分野との比較で感じたのは、学校問題は、これに類似する他の法分野に比べ、色々な意味で遅れているのでは(法的保護のスキームも当事者の意識等も未成熟ではないか)という点でした。

例えば、労働問題(退職勧奨)であれば、不当勧奨だと感じた労働者が、すぐに自ら弁護士に相談したり、労働組合の支援を受けるなどといった方法をとることもできます(もちろん、皆がそのような行動に出るかという問題はあるでしょうが)。

これに対し、学校問題の場合は、当事者が未成年(時にはかなりの若年者)ということもあり、自ら正しい事実を主張し、それを前提とする法的保護を求めて、能動的に他者の支援を求めるということが容易でなく、親権者等の庇護者を通じて行わざるを得ないため、親権者等が十分にその理解を持ち、率先して行動に移していただける方でないと、入口段階で時間を空費する可能性が高くなります。

また、未成年者こそ「弱者」の最たるものと見るべきなのに、労働組合のような支援組織がおよそ存在しないという点でも、最近よく指摘される「子どもの貧困」問題と通じる面があるように思われます(大人の弱者保護の制度ばかり充実させて、子供の保護の制度を設けようとしないなどと言ったら、それはそれで、その種の運動をされている方に叱られるかもしれませんが)。

今回の件でも、私は、相談を受けた当日に「それは絶対におかしい、すでにかなりの時間を経過しているので、今すぐに学校側に善処を申し入れるべきだ」と述べ、(幸い、ご本人が事実関係を整理してお持ちになっていたことや時間が確保できたこともあり)当日に長文の内容証明郵便を書き上げて郵送したのですが、Aさんの損失(相当な期間の学校生活を失ったこと)に照らせば、もう少し早く行動していただきたかったと思わないこともありませんでした。

また、学校(担当教員等)の対応についても、利用者の正当な権利、利益を尊重した上で、これと学校側の利益等との正当なバランスを図るべきという姿勢や、それを欠いていれば学校側が利用者から法的な責任追及を受けるリスクがあるのだという意識をきちんとお持ちなのだろうかと感じる面がありました。

労働問題でも、優良企業からブラック企業までピンキリだとは思いますが、「デタラメなことをしていれば責任を問われる」という意識は、少なくとも学校に比べれば割と浸透している(聖域視されるということはない)のではないかと思います。

そうした意味では、学校等から、在学の当否などの基本的な事柄について、筋違い(或いは処分の内容が重すぎる)と感じるような措置・勧告を受けた方(の関係者)は、その措置等に関する法的なルールも確認した上で賢明な対処を考えていただければと思いますし、学校や利用者の双方が適切な対処を積み重ねることで、学校と利用者の双方に、いわゆるコンプライアンスの意識が高まっていくことが期待されているのではないかと思います。

人が居住する物件の競売に関するリスク

住宅ローンの支払途絶などにより住宅が競売される例は珍しくありませんし、大半は、平穏に立退が実現されることも多いのだとは思いますが、中には、居住者が退去を強硬に拒否し、競落人は難しい対応を迫られることもあります。

私自身は経験がありませんが、修習生の頃に、他の地方で修習していた方から、包丁を振り回すような居住者もいたという趣旨の話を聞いた記憶があります。

また、居住者が将来を悲観して室内で自殺するという事案も考えられますが、このような事態は、任意退去の拒否とは異なるリスクを競落人(買受人)に生じさせることになります。

例えば、他者に賃貸させる目的で、競売に出ているマンションを購入したところ、競落直後に居住者が室内で自殺するという事態が生じた場合、その物件を賃貸する際には、借受希望者にはその旨を説明すべき信義則上の義務が生じ、故意に告げずに契約をさせた場合には、借主に対し賠償義務を負うことになります。

先日の判例時報で、そのように借主の貸主への賠償請求を認めた例(契約の約1年前にそのような事実があったことを知り、解除・退去して賠償を求めたもの。認容額100万円強)が取り上げられていました(大阪高裁平成26年9月18日判決判時2245-22)。

その物件を競落・取得した貸主は、弁護士の方だそうですが、素人が競売に関わることのリスクを、改めて感じさせるものと言えるかもしれません。

交通事故(損害賠償請求)の訴状提出と個人情報

私は、数年前から、交通事故の被害者側で訴状を作成して裁判所に提出する際は、事故証明書など、双方が共通認識を持つべき基本的な資料のみを提出し、それ以外の資料(特に、治療状況の詳細や被害者の収入等に関する資料)は、加害者の代理人弁護士が選任された後、その弁護士に送付することにしています。

そもそも、交通事故のような「不法行為等に基づく損害賠償請求訴訟」では、賠償請求の原因となる加害行為やそれに基づく損害の内容について、被害者が全面的に主張立証責任を負うのが原則ですので、訴訟でも、自己が支払を求める損害の内容等について、詳細に資料を提出して事情を説明しなければなりません。よって、人身傷害事故で治療費や休業損害などを請求する場合、診断書やレセプト、収入に関する資料などを色々と提出する必要があります。

ただ、これらは個人情報そのもの(特に、収入などは典型的なセンシティブ情報)なので、被害者にとっては社会生活上、無関係の相手というべき加害者に、それらの情報の開示を余儀なくされるというのは、疑問の余地がないわけではありません(人によっては二重被害だという見方もあるかもしれません)。

また、それらの資料は、裁判所が証明の程度を判断し事実認定をする上では必要なものですし、加害者の代理人や任意保険(損保会社)にとっても同様の判断や反論等をする上で必要なものですが、加害者本人にとっては、目にしなければならない資料という訳ではありません。

任意保険に加入せず代理人弁護士の選任もせず、加害者自ら訴訟に対応するというのであればやむを得ませんが、そのような例外的な場合でなければ、被害者側(被害者側代理人)にとっては、賠償請求のためとはいえ、加害者本人に被害者の個人情報が詳細に記載された資料を見せる必要は微塵もないと思います(滅多にあることではないと思いますが、加害者本人だと目的外使用の不安もないわけではありません)。

そこで、小手先レベルと言われるかもしれませんが、私の場合、せめてもの対応ということで、訴状では損害に関する事実関係の詳細を記載するものの、その裏付けとなる書証(治療や収入等に関する資料)を出さず、事故証明書や事故態様に関する書証のみを提出することとしています。そして、訴状等が加害者本人に送達され、それが損保会社を経由して同社の顧問又は特約店の弁護士に交付され、加害者の代理人として裁判所に届出がなされた後で、裁判所とその代理人弁護士に交付する形をとっています。

私の知る限り、加害者側代理人の場合、損保会社にはコピーを送りますが、加害者本人には送付しないことが通例と理解していますので、こうすれば、(殊更に損保会社が加害者本人にコピーを送るのでもない限り)被害者の様々な資料が加害者本人の目に触れることはありません。

もちろん、訴状には休業損害等の計算の関係で、収入額等を書かない訳にはいきませんので、訴状には提出予定書証の番号を書いています(裁判所に手持ち資料の存在を説明する点で、証拠説明書を添付するか留保するかは悩みますが)。

さほど沢山の件数を手掛けた訳ではないものの、今のところ、この方法で裁判所等からクレームを受けたことはありません。

これだけ個人情報保護(個人情報に関する資料等の取扱の慎重さ)が強く叫ばれるようになった時代なのに、「損害賠償請求訴訟」に限っては、「被害者が全面的に損害の主張立証責任を負う」とのお題目のもと、様々な自身のセンシティブ情報の開示を、(よりによって被害者が加害者に)強いられるというのは、かなり違和感を感じるところがあります(そうした意味では、究極的には民事訴訟法の改正なども視野に入るような話なのかもしれません)。

この点、加害者が任意保険に加入している方であれば、加害者ではなく損保会社に対し訴訟提起するという方法も考えられますが、この方法の当否については議論もあるようですし、やはり、加害者本人の責任を明らかにしたいというのが一般的な被害者の心情ではないかと思います。

裁判制度を巡る様々な現代的課題の中では、ごく些細な事柄というべきなのかもしれませんが、業界関係者には思考の片隅に置いていただいてもよいのではと感じています。

「難民高校生」は岩手にも他人事ではない

家庭にも学校にも居場所がなく、東京・渋谷などの繁華街をさまよう「難民高校生」の自立支援活動を行っている方の記事がネット上で流れていました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150323-00000525-san-soci

このような話は、岩手県民には遠い世界のように感じるかもしれませんが、決してそのようには言えない現実があります。

数年前、「女子高生が、ろくでなし男に言い寄られて交際開始し、ほどなく男に命じられるがまま、かなりの期間、学校にも家庭にも戻らない状態で売春を強いられ、仕舞いには、男の命令で売春相手に睡眠薬を盛って現金を持ち出し昏酔強盗として逮捕された」という、一体ここは日本なのか、岩手なのかと言いたくなるような、酷い事件の弁護人・付添人を担当したことがあります。

当然、家裁でも、本人(少年)が被害者でもあるという面に配慮した審判がなされていましたが、引用の記事を見て、その女の子も、家庭環境に恵まれない点があったことを思い出すと共に、こうした支援団体が岩手にもあれば、紹介して支援を受けて欲しかったと思っています。

もちろん、根本的な問題としては、子供さんが親の愛情を十分に受けることができない事情がある家庭(親子それぞれ)への支援など、様々な予防策を充実させることが必要だとは思いますが。

自転車の保険義務化条例と後遺障害認定

先日、兵庫県議会で、自転車の使用者に保険加入を義務づける趣旨の条例が可決されたとの報道がなされていました。

私自身は、自転車が加害者となる事故(以下「自転車事故」といいます。)の処理を受任したことはありませんが、10年ほど前、岩手県民生活センターの交通事故相談員を務めていた際、自転車同士の衝突事故について相談を受けたことがあります。

その事故では、相談者である被害者の方に一定の後遺障害が残る事故でしたが、加害者は事故の賠償責任を対象とする任意保険に加入しておらず、支払能力も無いと思われる方で、回収困難と見込まれました。

他方で、当事者間では事故態様や過失割合に争いがあり、被害者の方は訴訟などを行ってでも相手の責任を問いたいとの希望はあったのですが、被害者の方も、ご自身の被害を填補する保険(人身傷害補償特約付きの自動車保険契約など)に加入しておらず、まして、訴訟費用等の支給を受けることができる保険(弁護士費用特約付の保険契約)にも加入されていませんでした。

そのため、相談者の方は、それらの事情が難点になり加害者に訴訟等の手段で賠償請求をすることを断念したと記憶しており、その際、自転車にもせめて現在の自賠責(自動車)並みの責任保険を強制する法律又は条例(まずは購入時の上乗せから始めたり任意保険加入者は免除するなど、引用ニュースの条例と同じようなもの)を制定すべきではないかと強く感じたのですが、センターの専属相談員の方に考えを伝えた程度で、他に働きかける機会等もないまま終わってしまいました。

その後、ここ10年で自転車事故がクローズアップされるようになり、引用の条例をどこかが制定するのも時間の問題だと数年前から思っていました。

ただ、このニュースを見る限りでは、保険加入の義務付けしか記載がないのですが、適正な賠償を実現するための手続という点では、賠償実務に携わる者の目から見れば、それだけでは不十分です。

最大の問題は、自転車事故での後遺障害の認定制度の不存在です。

すなわち、自動車が加害者となる事故の場合、後遺障害の可能性があれば、自賠責保険(損害保険料率算出機構、自賠責損害調査事務所)を通じて後遺障害の有無や等級について審査を受け、認定を受けることができます。この審査は、所定の診断書の提出などを別とすれば、費用負担がありません。

民事訴訟(賠償請求訴訟)では、裁判所は特殊な例を除き原則として自賠責の後遺障害認定等級を尊重しますので、被害者にとっては自賠責の後遺障害認定を受けることは、立証の負担という点で強い力を発揮します。逆に言えば、自賠責の認定制度がなければ、被害者は後遺障害の有無や程度について重い立証負担を負い、適正な認定を受けることができないリスクが高くなると言えます。

そのため、自動車以外の被害でも、自賠責の後遺障害認定制度を利用できる仕組みの整備が急務だと考えます。この点は、上記の算出機構を動かす必要がありますので、自治体の条例だけでは対応が困難で、法律改正が望ましいのですが、迅速な導入が困難ということであれば、例えば、熱意のある自治体が損保会社などの支援を得て機構と協定を結ぶような仕組みがあれば良いのではと考えます。

後遺障害認定の問題は、自転車事故に限らず、他の事故や暴力事件など後遺障害が生じる被害一般に当てはまる問題であり、訴訟外の方法で簡易に認定を受けることができる仕組みが広く求められていると考えます。

また、被害救済(賠償)の確保という点では、自転車では加害者・被害者とも保険加入していない人が多いでしょうから、加害者が任意保険に加入していない事案でも、重大な後遺障害が生じた場合などの被害者の最低限の救済として、自賠責に準ずる一定額の保険金が支出される仕組みを作るべきだと思います。

ネットで検索したところ、東京都が自転車にナンバープレート(登録制)の導入を検討しているとの記事を見ましたが、登録時に一定の金額を徴収すれば、そうした保険金の原資となるでしょうし、また、ナンバー制度を設けることで、警察が事故証明書を作成する際に人違い(や虚偽申告等による責任逃れ)を防止でき、また、車両の所有者を特定し事故ないし賠償責任の当事者を特定することが容易になりますので、私自身は導入に賛成です。

また、自転車事故は、事故態様(過失割合)を巡って当事者間で事実関係の説明が強く争われ易く、事故直後に第三者(端的に言えば、警察官)の協力を得て実況見分を行い、調書を作成しておく必要があります。この点は、私自身が自転車事故についてさほど相談等を受けたことがないため実務の実情を存じませんが、自転車事故が原則として過失致傷罪(罰金のみ)に止まることを理由に実況見分がほとんど行われていないのだとすれば、改める必要があると思われ、まずは警察実務の実情を把握したいところです。

余談ながら、最近は弁護士費用保険の普及で、少額事案を含め、物損のみの事故に関する賠償請求訴訟が増えていますが、この種の事案では事故態様や過失割合に関する紛争が生じるものの、物損事故では実況見分が行われないため、正確な事実関係の把握に難儀することが少なくありません。

そういう意味では、物損事故でも、警察が当事者の希望で有料で実況見分を行うものとし、その料金は任意保険加入者であれば保険で賄うことができるという仕組みを作っても良いのではないかと思います。

ちなみに、物損事故では損保会社の依頼で調査会社が実況見分調書に類する図面を作成することがありますが、事故から大幅に期間を経過した後に一方当事者の主張のみに基づき作成されることが通例なので、誰が作るにせよ、なるべく事故直後に双方立会の上で作成されるのが望ましいと考えます。

ともあれ、私自身も自転車は日常的に使用していますし、いざという場合に備えてご自身やご家族が自転車を使用できるようにするためにも、加害者向けの賠償責任保険はもちろん、被害者向けの人身傷害補償特約や弁護士費用特約が付された保険契約には、ぜひ加入していただきたいところです。

また、それと共に、自転車が少しでも歩行者や車両との事故のリスクを軽減し、当たり前の運転方法で安心して走行できるための道路づくりや交通法規のルールを整備していただきたいところです。

有責配偶者からの離婚請求が長期間の別居等の事情がなくとも認容された例

震災後、不倫が絡んだ法律問題についてご相談を受ける機会が増えましたが、その多くは、慰謝料請求の当否に関するご相談で、「不貞をした配偶者(有責配偶者)が自ら相手方配偶者に対し離婚請求できるか」という論点については、ご相談を受ける機会はさほどありません。

この点(有責配偶者の離婚請求)は、昭和62年の最高裁判決が、①夫婦の別居が当事者の年齢や同居期間と対比して相当の長期間であること、②未成熟子がいないこと、③相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて過酷な状態に置かれるなど離婚を認めることが著しく社会正義に反する特段の事情がないことを要件として指摘したため、それらを満たすケースでないと認められないという考え方が根強くありました。

とりわけ、「長期間の別居」については、7~8年程度が相場として挙げられることが多く、実際、熟年者同士の離婚訴訟で、有責配偶者たる夫が、ちょうどそれくらいの別居期間を経た後に提訴したところ、認容されたという判決を見たことがあります。

ただ、上記の最高裁判決が有責配偶者の離婚請求を制限しているのは、「一家の収入を支えている夫が、不貞の挙げ句に、妻子を放逐して経済的に不安定な状態に陥れるのは社会正義に反する」という考え方に基づくので、そうした事情がなく、離婚請求を認めるのが社会正義に反しないと言えるケースであれば、長期間の別居等の事情がなくとも離婚請求を認めてよいとする意見が以前から強く述べられていました。

先日、「妻Xが夫Yと不和になって他の男性と不貞をした後、未成熟子2名を連れて別居し、Yに対し離婚等を請求した件で、Xを有責配偶者と認定しつつ、①Xの人格へのYの無理解が不貞の原因になっていること、②Xは就労しながら子らを適切に監護養育しており、離婚によって子らの福祉が害されないこと、③Yに1000万円弱の年収があり、離婚の認容でYが著しく不利益になると言えないことを挙げ、判決までの別居期間が2年ほどしか経ていなくとも離婚請求を認容し、子らの親権者をXに指定し、養育費を計12万円(1人6万円)とした例」が掲載されていました(東高判H26.6.12判時2237-47)。

Xがフランス国籍という事情があるものの、外国人女性だから特別扱いというわけではないでしょうから、日本人同士の夫婦にも十分にあてはまる話で、現に、こうした類型の紛争では、離婚を成立させる調停や和解で終了することも多いはずです。

もちろん、「専業主婦家庭での夫からの離婚請求」に関しては、従前の枠組みがあてはまることが多いでしょうから、それぞれの夫婦の実情などを詳細に主張立証する工夫が必要になってくると思います。

上記判決の解説には有責配偶者の離婚請求に関する判例や学説などが整理されており、その点でも参考になると思います。