北奥法律事務所

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個別の法的問題等

情報公開請求に関し、多くの点で不開示情報該当性が認められた例

先日、情報公開請求の可否(個人等の識別可能部分に関する不開示情報の該当性)に関するご相談を受けたのですが、ちょうど勉強していた裁判例で、まさにこれが問題となった事例(大阪高判H24.11.29)を判例時報で見つけました。

この事件は、労災事故が生じた事業場に関する国の情報公開法に基づく情報の開示請求の当否が争点となり、同法5条1号、2号、6号の該当性などが問題となった例ですが、自治体の情報公開条例も、この条文と大半の部分で同じ文言、体裁となっているため、自治体における開示請求でも応用が利く面が大きいと思います。

包括外部監査人の狭き門と、その先にある地方自治の道

先日、弁護士会から、岩手県庁の包括外部監査人に関する募集通知が配布されてきました。今回は、この制度について少し書いてみたいと思います。
http://www.pref.iwate.jp/view.rbz?cd=48069

包括外部監査制度とは、弁護士、公認会計士等が自治体の長の委託により自治体が適法・適正に事務処理をしているか調査し明らかにすることを目的に、平成9年に設けられた制度です(地方自治法252条の36等)。

対象となる自治体が行っている様々な事業のうち、一つの政策テーマを選んで、業務実態や財務・会計について詳細な調査を行い、改善点を提言するのが通例となっています。

例えば、自治体が経営する病院などの事業が適正に行われているか、入札制度や随意契約の実態調査、自治体の出資法人の業務や自治体の監督などがテーマとして取り上げられることが多く、岩手県に関しては、平成25年度は高齢者福祉事業に係る財務事務の執行及び管理の状況、24年度は知事部局の委託契約が取り上げられています。

この制度は、平成の世になって地方分権の流れが進んだ一方で、自治体の不適正な予算執行が問題視される事例が相次ぎ、従来の監査委員による監査だけでは不十分であり、専門性を有する独立した第三者機関が強力な監査を行うべきとの理由で導入されたものです。

包括外部監査は1年ごとに行われており、一般的には、包括外部監査人として選任された者は、数名の補助者(主として弁護士又は公認会計士)と共に自治体の特定の政策ないし部門に関する諸制度の実情を調査し、運用の根拠となる法令その他の諸規定(財務・会計面を含む)や趣旨に反する運用がなされていないか確認し、数百頁もの長大なレポートと100頁ほどの概要版を作成しており、その多くはWeb上でも公開されています。

この制度が上手く機能すれば、自治体=行政組織が、政策運営・法執行の基盤となる様々な法令を遵守しているかを、違法な業務をしていないか(禁止規範の抵触の有無)だけでなく、法の趣旨から能動的に取り組むべき事柄を放置、懈怠していないか(政策的な行為規範の実践の有無)も含めて、独立した外部の専門家が調査し、改善すべき点を検討・公表して首長、地方議会議員や住民(地方自治の主要な担い手)に情報提供し、やがては現実の政策運営に活かされていくという循環が生まれることになります。

いわば、禁止規範(「するな」のルール)と行為規範(「せよ」のルール)の両方の観点(広義のコンプライアンスと言えるのではないかと思います)から、自治体の法や予算の執行のあり方を点検し、自治体の運営の実情だけでなく法令そのものの当否・限界も射程に入れて検討し、よりよい地方自治の姿を探っていく営みの契機とすることこそが、包括外部監査制度の本当の目的と言うべきではないかと思っています。

これは、地方自治の民主的政治過程を強化し実質化する取り組みに他なりませんので、そのような観点から、包括外部監査制度は非常にポテンシャルのある制度ではないかと考えています。

あまり大風呂敷を広げるべきではないかもしれませんが、こうした営みが当たり前になってくれば、震災で話題になった「インチキ?NPO法人に自治体が漫然と補助金を垂れ流し、巨額の税金が無駄になる事態」を未然に防ぐことが期待できることはもちろん、震災復興のため、より意味や価値のある政策が遂行され、ひいては内実を伴う住民参加も促進されていくような地方自治の文化が形成されるのではないかと信じています。

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私は、10年以上前に東京で暮らしていた頃からこの制度に関心があり、当時から、いつかは岩手県庁や県内の基礎自治体の包括外部監査人を務めてみたいと思って、数年ほど、日弁連の研修を受講していました。

が、岩手に戻ってきて少し調べてみると色々な意味でハードルが高く、全くご縁のない状態が続いています。

少し具体的に書くと、岩手県では県庁・市のいずれも公認会計士しか選任例がないようで、岩手県の場合、仙台の公認会計士の方に委託することも多いようです。

また、公認会計士の方が選任された場合には、その方が属する監査法人のメンバーを補助者としており、弁護士を補助者として選任する例は全国的にも極めて稀のようです。

大都市や西日本では、大物の弁護士さん(自治体法務の大家や地元で様々な公職等を歴任した方)が選任され、弁護士や公認会計士を補助者とする例が多々見られます。

これに対し、ざっと調べてみたところ、岩手に限らず東北では弁護士が監査人として選任された例はなく、補助者としても恐らくゼロ件ではないかという印象です(補助者については、ネットで公表されている監査報告書の概要版などから調べることが可能です)。

どういうわけか分かりませんが「包括外部監査人に弁護士が関与する実情」を調べると、はっきりと西高東低の傾向があり、西日本では多くの県や主要市で弁護士が監査人や補助者として登用されているのですが、東日本では、その例がごく僅かとなっています。

私の手元にある平成21年の日弁連研修資料には、都道府県に関し弁護士が選任された例は、西日本では中国・四国を中心に7府県となっていますが、東日本では北海道と山梨県だけに止まっており、ネットで少し調べた限り、弁護士を選任する自治体は増えているものの、現在も西高東低の状況に変化はないようです。

弁護士をしていると行政相手の訴訟の質量についても西高東低を感じることが多いのですが、西国の方が行政と対峙し拮抗しようという文化が強く、東国(特に東北)はその種の訴訟が非常に少ないと感じます。

震災のときにも言われましたが、東北は西国に比べ行政への信頼或いは依存度が高く、結果として民力が行政と対峙等する文化が希薄という印象があり、その点が上記の違いとなって現れているのかもしれません。

単に東西の経済力や人口の違いなのか、明治維新と戊辰戦争以来の東西の歴史が影響しているのかは不明ですが、興味深い現象であることは確かです。

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それはさておき、実際に必要となる監査業務が未経験の弁護士にも十分に耐えうるものであれば、上記の点を敢えて無視し、無謀を承知でチャレンジすることにも惹かれます。

ただ、実際の報告書等をDLして拝見する限り、上記の大物でない限り、いきなり応募というのはちょっとリアリティがなく、補助者の経験を積んだ後でないと適切ではないかなという感じです。

また、上記の点(法の趣旨に合致する事業云々)も行政を支える様々な制度、実務に深い造詣、経験がないと半可通の無責任な評論に陥ってしまいます(実際の報告書も、そうした酷評を受けるものもあるようです)。

というわけで、私自身は、ぜひ県内の自治体の包括外部監査人になる方がおられれば、手弁当ないし赤字仕事でも構いませんので何回か補助者に使っていただきたいと思っています。

そうした話に接する機会のある方は、こういう珍しい?奴もいると伝えていただければ幸いです。

また、弁護士・公認会計士のいずれの方が監査人になるにせよ、補助者として若い弁護士を活用するという文化をもっと育んでいただきたいと思っているところです。

少なくとも、現在のところ、私に限らず「田舎の普通の町弁」の大半は、監査という営みに接する機会はおろか自治体の諸業務に接する機会にも恵まれていないと思われ、それはとても残念なことと言うべきではないかと思います。

とりわけ、上記の「広義のコンプライアンス」の点検のためには、会計の専門家である公認会計士さんだけでは不十分で、弁護士が個々の政策運営(法執行)により高次の法の趣旨が活かされているかを、究極的には憲法なども視野に入れた、法体系の構造や趣旨に遡って検討する機会を設けるべきだと思います。

議員定数不均衡を理由とする定数違憲訴訟などでは「民主政治の過程そのものに歪みを生じさせるような事態は、民主政治の基盤そのものを脅かすもので憲法が容認しないものであるから、司法がその是正に積極的な役割を果たすべき」ということが、違憲判決の根拠として、強く言われてきました。

そのことは、先日刊行された泉徳治・元最高裁判事の著作でも、熱く語られています。

このような観点から、様々な形で形骸化や不祥事に関する監督機能の欠如等が叫ばれて久しい地方自治(地方民主政治)こそ、地方の政治過程に十分な役割、プレゼンス(影響力)を発揮できずにいる住民の力を高めるため、政治部門(行政・議会・首長)と相対峙し総体として地方における国民主権を支える担い手である、司法部門(地方のために活動する法律家)の役割、存在感を高めていく営みが、より必要ではないかと思っています。

定数不均衡になぞらえて言えば、地方では、地縁や党派・団体などを通じて影響力を行使する有力者的な住民が少なからずおり、そのような方は、そうでない無党派的な一般住民に比べ、1人で地方自治の数票を持っているようなものだと思います。

包括外部監査制度に限らず、地方自治のウェイトの中で、そうした実情に伴う弊害を是正し、一般住民の役割を高めるという意味での真の一人一票を実現するような仕組み作りは、地方自治制度において求められていることだと思います。

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また、現在の監査報告書は数百頁もの膨大なレポートが作成されているのですが、それほどの頁数が必要なのか(研究者等を別とすれば、どれほどの人が読むのだろう)と思わずにはいられません。

もっと頁数(従事内容)を絞り、ピンポイント的に特定の事業を取り上げ、執行状況の法適合性や経済的合理性などを分かりやすく検討し、住民に問題提起をするようなレポートを提出する形に変更しても良いのではと感じています。

欲を言えば、地元の学生さんや政策に関心のある住民グループなどが、そのレポートを叩き台に、政策テーマについて提言や参加を求めるような営みが生まれるような展開になればと思います。

私の知る限り、これまで作成された包括外部監査人の報告書は、自治体の法執行に多少の改善を生じさせたという報道はあるものの、住民等の意識を喚起するような効果を生じさせたという話は聞いたことがなく、その点は残念に思っています。

包括外部監査人の報告書は、住民(納税者)のための自治体(納税先)の仕事ぶりに関する情報の配当として行うものだと思いますので、より多くの人が関心を持って見ようと思えるための工夫など、現在の監査実務に関する改善の視点も持って頂きたいと思っています。

まあ、愚痴ばかり言っても仕方ありませんので、捲土重来?を期し、また過去の研修資料やDLした報告書例などを少しずつ勉強しようと思います。

顧問弁護士と監査役等の兼任と両者の役割の違いについて

先日、ある法人から「顧問弁護士に監査役(社会福祉法人などでは監事)を任せてよいか」という趣旨のご相談を受けました。

以前、双方の兼任は避けるべきとの話を聞いたことがあり、改めて調べたところ、やはり消極的な意見が有力とのことだったので、そのようにお伝えしました。

聞くところでは、小規模な企業では、顧問弁護士に監査役を依頼し兼任している例が珍しくないようですが、両者は本質的には相容れません。

監査役(監事)の本質的な業務は、取締役(理事)の業務執行(企業経営)が適正・適法に行われているか(法人からの委任の趣旨に合致しているか、企業を取り巻く様々な法令の趣旨に適合する経営がなされているか)を積極的に監視、監督する点にあります。

他方、顧問弁護士の業務は、主として業務執行者たる取締役等のご相談、ご依頼により、企業に関する様々な対内的・対外的な法律問題に関し、助言又は処理等するというものです。

もちろん、顧問弁護士の業務には、企業経営の中で法の趣旨に抵触すると思われる点が見られた場合に、その改善について勧告したり、役員等と一緒に改善策(措置)を検討し執行を補助するなども含まれますので、顧問弁護士と監査役等の業務は、一部、重複する面がないわけではありません。

しかし、顧問弁護士の場合、取締役等の職務執行(企業経営)に法律上の問題(不正等)があると感じた場合には、改善を勧告し、それが聞き入れられないときは辞任等の形で態度を表明することができるに止まるのに対し、監査役等の場合、勧告が聞き入れられないとき(或いは、勧告をするまでもないほど事態が深刻な場合)には、賠償請求をはじめ取締役等の責任を追及するため、法律上、期待されている措置を講じなければならない義務を負います。

そのため、取締役等と監査役等とは「日常的には互いの法人のため協力し合う関係にあるが、いざとなれば対決することを余儀なくされる宿命にある者同士」と言うことができます。

また、顧問弁護士の業務は、性質上、取締役等の業務執行を支援することが契約内容の中核をなすことが多く、「取締役等の職務が適法か否か」という問題が生じた場合、争いがあれば、なるべく適法なものと認定、解釈されるべきという立場で執務しなければならない可能性が高く、その点でも、両者は相容れない面が生じます。

誤解を恐れずに言えば、上記の監査役等の役割に照らせば、「万が一、経営陣が道を大きく踏み外し後戻りできない状態になってしまった場合に、経営陣に引導を渡すのに相応しい人(そのような場合に、経営陣がその人の言うことなら聞けるというだけの重みを備えた方)」に就任していただくのが賢明ではないかと考えます。

逆に言えば、そうした重鎮としての役割を果たすことができるのであれば、顧問弁護士であっても監査役等を兼任してもよいのかもしれません。

もちろん、今の私には、そのような「重み」は荷が重すぎますので、顧問弁護士等の形で日常的な企業経営の法的適正を確保する仕事に従事し、伝家の宝刀というべき監査役等の出番がないようにする、という方向で、役割を与えていただければと思っています。

以上から、顧問弁護士が監査役等を兼任することは、原則として適切ではないと考えますが、実務の実情を必ずしも把握しているわけではありませんので、この点をご教示いただける方がおられれば幸いです。

ところで、何年も前に、岩手県の関係機関から、社会福祉法人の新任理事・監事向けの講義を依頼されたことがあり、自分なりに、理事と監事の役割、それぞれの違い、さらには株式会社と社会福祉法人の違い(評議員会などの存在意義)などを考え、裁判例なども交えてご説明したことがあります。

その際のレジュメを読み返してみましたが、社会福祉法人に限らず、医療法人、財団法人、一般社団法人など、理事・監事という組織形態をとる他の類型の法人について考える際も応用が利きそうな事柄が書いてあり、もし、勉強会を行いたい等の話がありましたら、一声かけていただければ幸いです。

ハーロックに垣間見る、戦後日本の現実と幻想

先日、妻に「キャプテンハーロックの映画を見たい。ガッチャマンと違って超映画批評でも悪く書かれていなかったから、いいでしょ」と凄まれ、数年ぶりに映画館に入りました。

私は、「銀河鉄道999」は、幼少時に少しだけ見たことがありますが、キャプテンハーロックは見た記憶がなく(岩手で放送していたのでしょうか?)、ストーリーもほとんど知りません。

そんなわけで、家族全員、事前知識がないまま拝見したのですが、作品の面白さ云々とは別なところで、少し考えさせられるところがありました。

この年になると、若い頃は勉強していなかった太平洋戦争(大東亜戦争)について色々と本を読むことがありますが、余計な知識が付いてしまうせいか、「戦艦を題材にした昭和の名作」を見ると、そこに大戦の敗亡のトラウマのようなものがあるのでは、そして、そのことが、作品が大衆に受け入れられた要因の一つを形成しているのではと勘ぐってしまう面があります。

ネタバレ等のお叱りを受けない程度に少し具体的に言えば、物語の冒頭で、ハーロックの戦艦(アルカディア号)が、敵側の戦艦と戦うシーンがあり、そこで、敵側は戦闘機を多数繰り出すのですが、アルカディア号には戦闘機がありません。

結局、アルカディア号に、戦闘機の攻撃などではビクともしない非常識に強靱な仕組みがあるため、膨大な数の戦闘機も敵戦艦も蹴散らして粉砕し、その後は宇宙戦艦同士の戦闘シーンばかりで、戦闘機は映画の最後まで出てくることすらありませんでした。

そうしたシーン等を見ていると、「海軍の勝敗の帰趨が艦隊戦から航空戦に完全に移行したとされる大戦末期に、世界最強だが時代遅れとも言える戦艦大和を建造し、結局、米軍機に袋叩きに遭って撃沈されたトラウマを引きずっている作者ないし日本人が、戦闘機なんぞ何するものぞという日本海海戦以来の大艦巨砲主義の幻想にすがりたくて、このような作品で溜飲を下げているのだろうか?」と考えてしまいます。

ところで、映画の後半では、ハーロックが、もう一人の主人公というべき重要な登場人物に向かって、「幻想にすがるな、現実を直視せよ」と強調する場面がありました。中身は書けませんが、過酷な現実を直視し、そこで新たに生まれた小さな希望を大きく育てていくべきだと言いたかったようです。

ただ、私の場合、上記の冒頭シーンがどうしても心から離れず、航空戦という現実に目を背けて、艦隊戦(大艦巨砲主義)の幻想を追っているように見える作品が「幻想にすがるな、現実を直視せよ」と語るのは、矛盾というか、ある種の滑稽さを感じずにはいられませんでした。

この点は、善意解釈?すれば、作り手は、その矛盾を承知の上で、「ヤマト」を含め、判官贔屓のように「単独行動する巨大戦艦の英雄譚」を欲せずにはいられない(或いは、昭和の時代に、そうせずにはいられなかった)日本人のメンタリティに向き合って欲しいと言いたくて、大艦巨砲主義の体現者のようにも見えるハーロックに、敢えて、「現実と向き合え」などというセリフを言わせているのかもしれません。

いわば、ハーロックは鑑賞者に向かって「自分こそが貴方にとっての幻想なのだ。オレにすがるな」と言っているのかもしれません。

最近では、憲法改正論議も下火になりつつありますが、自民党の改正案のようなものに賛成するかどうかはともかく、少なくとも、敗戦により日本人に生じた様々なトラウマと適切に向き合っていくのでなければ、日本国憲法の理想主義もかえって活かされることはないのでは、などと余計なことまで考えたりもしました。

ちなみに、このような話を少しばかり妻にしたところ、「そんなのは意見や解釈であって感想ではない。家族で映画を見に来たのだから、まともな感想を述べよ」と叱られました。

ま、意見や解釈の類だとしても、陳腐なものだとは思いますが・・

非嫡出子違憲判決を巡る2つの小話

9月に最高裁が長年の懸案であった非嫡出子の相続差別規定(民法900条4号但書前段)を違憲としたことは、皆さんご存知のことと思いますが、岩手でも、同じ争点の事件で違憲判決が出たとの報道がありました。

この件で小ネタを1つ発見したので、さらに思いついたもう一つの話と共に少し書いてみたいと思います。

1 2年前に、違憲判決の一歩手前で自ら判決を貰い損ねた人物

先ほど、判例雑誌を読んでいたところ、2年前に、同じ事件で違憲判決の一歩手前まで行ったのに、当事者が自ら特異な形で事件を終了させて、違憲判決を貰い損ねたように見えるという判例を見つけました。

「平成22年に同じ論点で最高裁に特別抗告していた非嫡出子X氏が、最高裁の係属中に、代理人弁護士に無断で相手方(嫡出子Y氏)と和解して代償金の支払を受けたので、最高裁が審理の続行の必要なしとして抗告を却下した例」です(最高裁平成23年3月9日決定判タ1345-126)。

判決を読むと、X氏は、早期解決を希望するとの理由で、抗告審を依頼していた自身の代理人弁護士を通さずに、自らY氏と接触し、2審までに認定されていた代償金(Y氏が目的不動産を相続する代わりにX氏に支払うべきとされた金員で相続分に基づき算定されるもの)を2割程度、増額した金額をY氏から受け取るのと引換に事件を終了する趣旨の合意をし、その支払を受けました。

が、どういうわけかX氏はその事実を代理人に一切説明せず(独断専行をしたのに後ろめたさがあったのか、その必要すら感じなかったのか、その辺は不明です)、その後も最高裁の審理が続き、最高裁は、X氏の代理人に、事件を大法廷で扱う旨の連絡をしました。

そして、代理人がX氏にそのことを伝えたところ、X氏が、実は、ということで、和解の話が最高裁に伝わりました。

で、通常なら、そのままX氏の側から訴えの取下がなされて裁判が終了となるはずなのですが、どういうわけか(後記参照)取下書が提出されなかったので、最高裁は、審理続行の必要なしとして抗告を却下し、終了となりました。

断言はできないものの、今回の判決結果や「大法廷に回付」という事実(最高裁の裁判官全員による重大な判断が予定されている)から、仮に、X氏がY氏と裁判外の和解をせずに判決に至っていれば、今回の判決よりも先に、X氏こそが、違憲判決を勝ち取った当事者として、社会の脚光を浴びた身になったかもしれません。

X氏が、違憲判決を勝ち取ること自体と経済的利益その他のどちらに重きを置いていたのか等は分かりませんが、経済的利益に関しては、違憲判決となっていれば、Y氏がX氏に支払うべき代償金は上記(2割増)を上回っていたはずで(単純に言えば、代償金は倍額になるはず)、その限りでは、X氏は「賭けに負けた」ような面はあると思います。

もちろん、非嫡出子相続差別規定は、最高裁が長年に亘って合憲判断を維持してきた(近年は、規定そのものを批判しつつも最高裁による違憲判断は避けたいとして、立法による解決を促していた)ため、平成22年の時点で、絶対に違憲=X氏が勝訴する見通しが立っていたわけではありません。

ですので、和解そのものは、勝敗リスクに関する一つの判断として、尊重されるべきだとは思います。

ただ、この件では、X氏は、自身が頼んでいる弁護士に無断でY氏と和解をしたとのことなので、判決等では全く触れていませんが、代理人との間が、何らかの形でこじれていると思われ、訴え取下書が最高裁に提出されなかったという話も、その延長線上にあると推測されます。

形式的に言えば、代理人に事件処理を依頼している当事者の方が、代理人に無断で相手方と協議して話をまとめてしまうというのは、代理人との委任契約に違反する疑いが強い事柄で、場合によっては代理人に対して賠償等の義務が生じかねないリスクを負っています。

ですので、よほどの事情がない限り、弁護士としては「よい子の皆さんは、絶対に真似しないで下さいね」と申すほかありません。

具体的な事情が分かりませんので、X氏の行動そのものに論評はしかねるものの、業界人から見れば、「長年の課題を勝ち取った栄誉ある地位」を手にし損ねた上に、代理人との間もこじれたのではないかと思われる後味の悪い結果になったという印象を受けてしまいます。

違憲判決報道のときの当事者の記者会見は、私は新聞でしか拝見していませんが、そのコメントなどを思い返すと、天は、大きな判決を勝ち取る人についても、ある種の選別をしているのかもしれません。

2 非嫡出子差別違憲判決と自民党憲法草案

恥ずかしながら、憲法学と縁遠くなっていることもあり、上記違憲判決をまだ真面目に読んでいませんが、引用した上記記事にあるように、違憲判決の理由として、①家族の多様化、②国民の意識の変化、③諸外国の婚外子差別撤廃の流れなどが挙げられていたと記憶しています。

ただ、①と②は、どこまで統計を取ったのかよく分かりませんが、相手方(嫡出子側)が、報道へのコメントで自分達の方こそが国民の意識を代表しているはずだと述べていたように、なかなか認定の難しい事柄と思われますので、③の諸外国の動向が、違憲判断の大きな要素として重視されたのではないかとも思われます。

ところで、「諸外国の動向を重視する」というのは、最高裁のオリジナルな判断ではなく、日本国憲法に明確な根拠があります。

同業者の皆さんは当然ご存知のことですが、前文です。

そのことは、①諸外国=国際社会の動向を尊重する趣旨の規定は、憲法の本文にはほとんど(全く?)なく、前文だけにある(前文には、そのことが明確に謳われている)こと、②とりわけ、今回の違憲判決の直接の根拠である憲法14条には、「国際社会の動向=外国人の人権との均衡(平等)を斟酌する」などという定めは一切ないことから、裏付けられると思います。

前文は、私が司法試験受験生だった当時は、それ自体が裁判規範として表立って出てくるものではないとされており、真面目に勉強した記憶もありませんが、こうした形で憲法解釈に影響を及ぼす規定なのだと感じさせられる面があります。

で、何のためにこんな話を書いたかと言えば、昨年頃に自民党が提案した憲法改正案の前文を改めて読んでみたのですが、やはりというか、現行憲法の前文にあるような国際協調主義、言い換えれば国際社会の潮流を尊重していこういう趣旨の文言は見られません。

それ以外の人権規定の部分にも、平等原則を含む人権の解釈に国際社会の潮流を斟酌することを伺わせる趣旨の規定を見出すことができません。
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

最高裁は、裁判官が自分達の価値判断で勝手に物事を決めているのではなく、あくまで現在の日本国憲法の規定や趣旨などを考えて憲法適合性の判断をしていますので、仮に、現時点で自民党憲法が採用されていたとすれば、裁判官にとって、「国際社会の潮流」を憲法解釈(権力行使)の根拠にはできませんので、今回の違憲判決は恐らくは生じなかったのではないかと思われます。

私自身は、左右双方の立場(各論)に賛否をモザイク的に感じる蝙蝠型の人間なので、嫡出子側の心情にも同情する面を感じたり(事案の実情に応じて遺言その他の方法で解決するほかないのでしょうが)、自民党憲法草案にも、多くの同業者の方々ほど明快な反対姿勢を持つこともできず、「だから自民党案は駄目だ」などと、声高に主張するつもりはありません。

ただ、少なくとも、「自民憲法なら今回の違憲判決は生じなかった可能性が高い」という法論理的な帰結については、いずれの立場の方も認識しておいてよい(それを前提に、各人の価値判断=憲法観、政治観に基づき、当否を決めていけばよい)と思います。

また、最高裁は、過去の合憲判決の際に、議員定数不均衡問題と同様に、是正の必要性を述べつつも、立法による解決を期待し強権発動(違憲無効)するのを避けたいとのスタンスを表明しており、国民一般の目から見ても、さほど大きな反対論もなかった(自民党の一部の議員さんが強硬に反対しているという話は聞いたことがありますが)と思います。

それにもかかわらず、国会(官ではなく民の側)で改正を実現できなかったこと(或いは、その結論を出すための健全な議論を喚起できなかったこと)も、我が国の民主主義の実情ないし課題を示す象徴的な事柄として認識する必要があるのではないかと思います。

社会の片隅で細々と生き残りの努力に追われる生活を続ける身には、色々な意味で、代表者(政治家)に限らず、「民」を担う立場の方々に、官にお株(憲法の価値の実現や健全な対案などの努力)を奪われないよう、ご尽力をお願いしたいと思わずにはいられないところがあります。