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金魚が魅せる奇の華と、ジブリ広告が伝える時代の転換点

半月ほど前の話になりますが、夏休みの一環として、東京・日本橋の「アートアクアリウム」という金魚展と、六本木ヒルズで開催されている「ジブリ展」に行きました。

アートアクアリウムは、特注の巨大な水槽に膨大な数の高価な金魚を泳がせて鑑賞するというもので、今年が10周年であることやテレビで取り上げられたことなどから、大盛況で入場まで1時間近く待たされましたが、それなりに見応えがあり、「金魚が描く美の世界」を鑑賞させていただきました。
http://artaquarium.jp/nihonbashi2016/

今回はじめて知ったのですが、金魚はもともと鮒(フナ)の一種で、中国で突然変異として生じた種を千年以上に亘り継承、繁殖させ、種類を増やしてきたものなのだそうです。

このように、偶然に生まれた「変わり種」の価値を認め、育む文化が盛んになれば、やがては社会に様々な華が咲き誇るというのは、金魚或いは芸術に限らず、社会一般に当てはまることではないかと思います。

wikiでさっと調べたところ、金魚の本場・中国では、文化大革命の時期に、金魚産業が敵視され壊滅的な弾圧を受けたとのことで、そうした光景と文革時代の「共産党中国」の画一性(没個性・文化弾圧)的なメンタリティにも視野を広げると、「奇なるものが花開いた存在」としての金魚に、なおのこと親近感を抱くことができそうな気がします。

私自身、子供の頃より時に周囲から孤立するような「変わり種」の典型で、それが、悪戦苦闘を経て曲がりなりにも自分の個性を生かすことができる仕事につくことができていますので、こうしたイベントが、個性の多様さを大切にすべきというメッセージを伴ってくれればと感じずにはいられないものがあります。

そんなことを思いながら一句。

いろどりは 奇を愛でる世に 咲き誇る

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次に、「ジブリ展」に行きましたが、こちらは、ラピュタのオープニング?に出てきた巨大な飛行艇の模型(部屋一杯を占める規模のサイズのもの)が見応えがあったほか、ジブリ(鈴木敏夫氏ら)が、トトロ以後の映画の宣伝文言にプロ(糸井重里氏)のコピーを採用するようになった経緯などを述べたところが、特に印象に残りました。
http://www.roppongihills.com/tcv/jp/ghibli-expo/

実際、ナウシカやラピュタのポスターに付された宣伝文言(コピー)が、トトロ以後のジブリ作品と比較すると宣伝に関する考え方が非常にかけ離れているというか、ナウシカ・ラピュタの宣伝文言が、今の感覚から見ると非常に古臭く時代遅れのように感じました。

とりわけ、この2作品そのもの(映画の内容)が現代人の感覚から見ても今も色あせない魅力を持っているだけに、宣伝文言との落差が、ある意味、ショッキングにすら感じました。

パンフレットをもとに具体的に書きますと、ナウシカ・ラピュタのメインのコピーは次のようになっています。

風の谷のナウシカ:少女の愛が奇跡を呼んだ。
天空の城ラピュタ:ある日、少女が空から降ってきた・・・

これに対し、「トトロ」以後のコピーは、代表的なものを挙げれば次のようになっています。

となりのトトロ :このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。
魔女の宅急便  :おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。
おもひでぽろぽろ:私はワタシと旅に出る。
紅の豚     :カッコイイとは、こういうことさ。
耳をすませば  :好きなひとができました。
もののけ姫   :生きろ。
千と千尋の神隠し:トンネルのむこうは、不思議の町でした。
風立ちぬ    :生きねば。

前者(トトロ以前)と後者(トトロ以後)で強く感じるのは、後者は、コピーの文言・内容が、主人公又はそれに準ずる者(内心を代弁する何か)が作品の本質(核心的なメッセージ)をモノローグ的に述べ、それを読み手にストレートに伝えたいという姿勢が顕著になっているのに対し、前者にはそうした姿勢を全く感じません。

例えば、「トトロ」なら、サツキとメイが、現在、或いは大人になった姿で、「このへんないきものは・・」などと語りかける光景を誰もが違和感なく感じることができる(何より、「サツキとメイ」自身が誰よりもトトロが今も日本に存在して欲しいと願っている)ことは、間違いないことと思います。

魔女の宅急便も、未熟な少女として魔女修行の旅に出た主人公が、小さな挫折や落ち込みを経験しながら逞しく育っていくという作品(作り手)の核心的なメッセージを主人公のモノローグの形をとって伝えていることは、一見して明らかで、他の作品も、そうした「わかりやすさ」がコピーに強く反映されています。

他方、ナウシカもラピュタも、上記のコピーは、全くもって主人公等のモノローグという形になっておらず、「少女の愛が奇跡を呼んだ」などと、第三者が、外部的・客観的な目線で作品の内容を語るような文言になっています。

また、「奇跡を呼んだ」などという文言も、作品内容からすれば確かにそのとおりなのでしょうけど、何というか、心に突き刺さるものを感じません。

ナウシカやラピュタは、科学文明(人智で社会を作り替え人間の願望を際限なく叶えることができるという思い上がり)への警鐘や、それと対置する自然(がもたらす価値)への畏敬、礼賛を意識して作られているというのが一般的な理解かと思いますが、そうしたものへの想いも、これらのコピー(「奇跡」「空から降ってきた」)からは、微塵も感じません。

それだけに、悪く言えば、コピーが作品世界を愚弄すらしているのではないかという不快感や違和感すら受けるところがあります(ナウシカもラピュタも主人公の内面世界にさほど踏み込まず、昭和的なスーパーヒーロー像に沿っていますので、作品世界と乖離しているわけではないと評すべき面もあるかもしれませんが)。

そのような感覚を踏まえて上記のパンフレットを読み返すと、トトロ以後は、ジブリの総責任者というべき鈴木敏夫プロデューサーが、糸井重里氏を起用してコピーに強いエネルギーを注ぐようになったのに対し、最初の2作品は、制作部門への従事(狭義のプロデューサー業務)で手一杯で、コピーをはじめとする広告的なことは「ヤマト」や「銀河鉄道999」の広告などに従事していた方々に任せていたという趣旨のことを述べていることが、その答えになるように感じました。

すなわち、ナウシカ・ラピュタは、1970年代(昭和の時代)のアニメの全盛期を担ってきた方々が、その感覚で映画宣伝のあり方を考え、従事しており、第三者の目線で、おおまかな映画の雰囲気やインパクトのあるシーン(少女の奇跡、空から降ってきた)を伝えることが広告のコンセプトになっていたのに対し、トトロ以後は、主人公の内面世界やそれを前提とした作品のメッセージを抽出し、限りなくストレートにそれを伝えることが、広告のコンセプト(現代に相応しい「売れる=消費者の心を揺さぶる」やり方)であると認識され、実践されるようになるという、大転換が生じたのではないかということです。

私自身はナウシカやラピュタを映画館では見ていませんが、ガンダム(もちろん初代)の映画版は映画館で見た記憶がありますので、さきほどネットでガンダムのポスターを調べてみたところ、やはり、ポスターに付されたコピーの内容は、ナウシカ・ラピュタと同じコンセプト(第三者的かつ叙述的で個人の内面世界に立ち入ることはしない内容)で描かれていました。

そう考えると、トトロ以後のコピーを「今どき」と感じ、それ以前のコピーを古臭く時代遅れのものと感じること自体、私自身が、「個人の内面と向き合うべし」という現代人の感覚或いは「ジブリが仕掛けた宣伝戦略」に洗脳?されているという見方も成り立つのかもしれません。

パンフレットには、トトロ以後の宣伝の手法(コピー)について高畑監督が鈴木プロデューサーに対し違和感を述べたり、鈴木氏自身、大衆消費社会向けのプロパガンダ的な手法ではないかと述べている下りもあり、「個人の内面をテーマにする」というトトロ以後のジブリの広告展開が、個人が様々な帰属集団(大家族、地域社会、企業云々)から切り離されてバラバラになり、何らかの拠り所を求めていた現代社会のニーズに適合していた(だからこそ宣伝の仕方によっては危ういプロパガンダになりうる)という面があったことは、確かなのだろうと思います。

裏返せば、昭和の時代にはそのようなニーズが社会内になかった(主流ではなかった)からこそ、トトロ以前の映画では現代とは違ったコンセプトでの宣伝文言が採用されていたのでしょう。

「ジブリ展」そのものは、ゴーギャンの作品世界を意識した最新作の紹介や、ラピュタなどで描かれた「空へと向かう人類の夢」を具現化したジオラマ模型など様々な見所がありますが、そうした「時代」と「広告」の関係を感じたという点が、私にとっての収穫だったように思いました。

現在、ジブリは作品制作を止めつつありますが、以上に述べたことも考えると、或いは、単に宮崎監督らの高齢という問題に止まらない新たな時代の転換点が生じ、そのことも影響しているということなのかもしれません。

先日、大ヒット上映中の「シン・ゴジラ」を拝見しましたが、同作では、「エヴァ」で主人公の内面世界のドロドロを描いた庵野監督が、一転して、日本人・日本社会が個人ではなく組織・集団の力でゴジラという超絶的な力に立ち向かう姿を描いていました。

ひょっとしたら、次の時代のトレンドは、「脱・個人」、ひいては現代社会で様々な既存集団の解体などによりバラバラになった(ように見える)個人の新たな帰属集団への再構築(そうした意味での、新たな社会の創出)といったものになるのかもしれませんし、そうした営みは、すでに着々と始まっているような気もします。

 

ポスト震災時代を代表する日本映画「シン・ゴジラ」が描く「弥生的行政国家ニッポン」の強さと弱さ

前田有一氏の「超・映画批評」での激賞に釣られて、「シン・ゴジラ」を見に行ってきました。私は、平成9年の司法試験の合格発表日=合格を知る直前に新宿の映画館で「エヴァンゲリオン」の最終話を見ましたが、庵野監督の映画を見るのはそれ以来で、何となく特別な感慨があります。
http://movie.maeda-y.com/movie/02100.htm

それはさておき、前評判どおり大変興味深く拝見し、娯楽作品として大いに楽しむと共に色々と考えさせられ、大満足の一作でした。

以下、ネタバレを極力避けつつ、強く印象に残ったことを少し書きます。

1 稲田防衛相vsシン・ゴジラたち

まず、前半の「突然の災禍に右往左往する日本政府の面々の姿」については超映画批評で述べられているとおりですが、その中で、防衛大臣として気丈に総理の決断を求める女性の言動などが、現防衛相たる稲田大臣とイメージが重なると共に、映画の製作時には現実(公開時)の人選まで予測するのは困難でしょうから、ある種、神がかり的なものを感じました。

特に、米軍機が活躍したある場面で、この女性(防衛相)が全く嬉しそうにしていない一幕があったのですが、この瞬間は、安倍首相が心中望んでいるであろう?対米自立路線の後継者と目される稲田大臣の姿が特に思い浮かび、もし同氏が演じられた場合にはどのような表情になるのだろうと想像せずにはいられませんでした。

総理や官房長官の言動なども、どなたをイメージするかはさておき、現実の政治家の方々に近いものを感じたという方もおられるかもしれません。

2 震災をバネにして作られた、最初?の名作

次に、私がこの作品で特に感じたのは、この映画は東日本大震災津波を明らかに意識している、仮にそうでなくとも、あの震災がなければ、これほどのリアリティを感じさせる力作は生まれなかったのではないかということと、同時に、この作品は震災(被災者)を冒涜することなく、むしろ、震災以後、日本国内の「作り手」の全てに与えられた「震災を題材(誤解を恐れずに言えば「ネタ」)とつつ、被災者に顔向けできるだけの質の高いメッセージ性を持った作品を作る」という宿題に、真っ向から取り組んだ作品ではないかという点でした。

この臨場感は映画館でぜひ見ていただきたいのですが、とりわけ前半部分(やラストシーンあたり)で、あのときの災禍の最中や津波が去った後の光景として国内であまた流れた映像を強く意識した場面(報道の伝え方などを含め)が非常に多く出てきます。こうした「デジャヴ感」は、震災に限らず、冒頭で生じる地下道内の自動車事故のシーンは、数年前に我が国で生じた某重大事故を想起させるものがあります。

だからこそ、それら災害への関わりが近かった人ほど、これらの映像を見ていると、心揺さぶられるものがあることは間違いありません。

他方、誤解を恐れずに言えば、私はこれらの映像を見て、よくぞこれを映像化してくれたという奇妙?な感覚を抱かずにはいられないものがありました。

というのは、震災からしばらくした頃から「震災は未曾有の災禍だが、そこから人間は多くのものを学ぶなどしている(学ぶべきでもある)のだから、震災を題材に、現代や人間の様々な課題の解決を大衆に問うような芸術作品や娯楽作品などが作られるべきだと思っていました。

が、私の勉強不足かもしれませんが、「震災を題材にしたメジャーな作品」と呼べるものは、みんなで歌って涙する(した)「花は咲く」くらいのもので、被災者の尊厳を害しない形で震災の災禍を再現しつつ、より高次のテーマを提示するような作品というのは、ほとんど見られなかったのではないかと思います。

それだけに、様々な重要テーマを社会に広く伝えている本作において震災を強く想起させるシーンが繰り返し使われたことは、特別の意義があるのではないかと感じています。

3 「核や放射能の災禍への抗議(と克服)」という主題と庵野監督の集大成

超映画批評では、日本社会の組織の特性やその弱さ、強さの表現こそが本作の重要なテーマであるという趣旨の説明がなされており、大いに首肯するところはあるのですが、他方で、世間で言われるゴジラのテーマは、「核や放射能の災禍への抗議」という点ではないかと思います。

本作でも、この点は、中盤の最重要シーン(ゴジラが大きな災禍を表現する場面)で強く強調されていたのではないかと思いますし、その災禍が、誰のせいで発動したのか、或いは誰に向けられてなされたものであるか、そして、それを発端として日本人・日本社会が甚大な被害を受けたという、あの場面の描き方は、それを引き寄せた日本政府側の対応を含めて、核や放射能の惨禍への抗議を伝えることを目的としたと言われている初作の忠実な再現という点では、真骨頂と言えるシーンではないかと感じました。

また、本作ではあまり踏み込んだ表現はなされていないものの、震災(原発事故)以来、誰もが夢にみてきたであろう「放射線被害の抜本的解決策」という論点も提示され、そうしたことも含め、日本が描く現代版ゴジラとしての面目躍如だと感じました。

恥ずかしながら私自身は初作をはじめゴジラシリーズをほぼ全く見たことがなく、すぐにでもゴジラ初作を借りて見たくなりました。

また、この「ゴジラの大暴れシーン」は、我々の世代なら多くの方が巨神兵をイメージしたでしょうし、ある意味、ゴジラと巨神兵(数年前にTVで放映されていた「巨神兵東京にあらわる」を含め)とエヴァンゲリオンの3つを「だんご三兄弟」のように力技で統合した(一括りにまとめた)名場面だと感じ、それが核の恐怖による支配という現代社会への抗議との見方ができることと相まって、怖さより感動?で目頭が熱くなるものがありました。

4 現代日本が「大久保利通が江藤新平を惨殺して作った国」であること

ところで、本作には、弁護士はもちろん裁判官も検察官も、法務大臣すらも含めて「司法」の関係者が全く登場しません。映画の登場人物は、逃げ惑う大衆を別とすれば、名前があるのは自衛隊などの現業部門から大臣まで、ほぼ全て「行政」の関係者で、立法部門も与党政治家が少しばかり登場する程度になっています。国会議員であろう主人公らも、国民との直接のつながりを感じさせる場面がなく、「官」の一員としての面を色濃くしています。

震災の発生時や直後に現実の司法業界の存在感が希薄だったのと同様、「生の暴力」が出現する場面では出番が生じにくいのかもしれませんが、作品前半は法律(対処法令)に関する話が矢継ぎ早にでてくるだけに、ゴジラ(社会の存立脅かす存在)と総力戦で対決するニッポンという光景に狭義の法律家には出番が与えられていないことには、一抹の寂しさを禁じ得ません。

前田氏の言葉をお借りすれば、この作品の主要テーマが「日本という国家の強靭さ、しぶとさ」であるだけに、改めて、我が国における司法部の存在感のなさを印象づける作品だなぁと感じる面はあります。

ただ、そうした「国家というイメージの中での司法部の存在感のなさ」は今に始まったことではありません。

司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」には、現代日本の礎をなした明治の創生期に日本の政治体制の路線選択を巡って大きな政争があり、「行政官僚が国家の設計図を描いて主導し、国民はそれに従う代わりに行政に保護される」道を重視した大久保利通と、「国民の人権・自由を広く保護し、国民が議会を通じて権利・利益の実現と国の舵取りを図ることで社会を発展させると共に、ルール違反があれば徹底的に取り締まる」道を求めた江藤新平との争いがあり、江藤があまりにも無残な形で大久保に負けて悲惨な殺され方をしたことと、それが我が国における体制選択の大きな岐路であったことが詳細に描かれており、この点は、最近刊行された「逆説の日本史」の最新刊にも若干ながら触れられています。

この政争などで大久保が勝利し現在まで続く強固な官僚制度を構築したことが明治政府の運営を決定づけたことは巷間よく言われていることではないかと思いますし、「ニッポン国家のしぶとさ」をテーマとする本作において司法の出番がないことの根源を考えると、ここに行き着くのではないかと感じます。

その上で、一見すると基本的人権や国民主権などという江藤の理想が実現したようにも見える現代日本においても、「ニッポンを守護するのは行政官僚群による国家堅持の知恵と国民保護の情熱だ」として説得的に描かれていることに、この問題のある種の根の深さを感じずにはいられないところがあります。

余談ながら、大学生が憲法を勉強する際に最初に学ぶことの一つに「司法消極主義と付随的違憲審査制」がありますが、私は、これらの淵源は米国ではなく、司法部の利害を最初に担った江藤新平があまりにも悲惨な負け方、死に方をし、これに伴い戦前社会で司法が行政に仕えるものと位置づけられてきたことが、日本の司法消極主義の根底にあるのではと思っています。

ちなみに、ご存じのとおり、大久保利通も西南戦争の直後に非業の死を遂げるわけですが、その後、彼の遺志を継ぐ人々により「行政国家・大日本帝国」が建設されていったことを考えると、「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」という作中のセリフも、また違った深みや課題を感じさせてくれる面があるように思います。

5 描かれた「弥生国家ニッポン」と「縄文の道(或いは、サツキとメイ)」の不存在の寂しさ

もう一つ、本作の特徴として感じたのが、ゴジラと向き合う人々の姿勢が、撃滅であれ他の道であれ、ゴジラを人間にとってコントロール可能な(コントロールすべき)存在として認識しており、こうした超絶的な存在を、人間を超越した存在(神)として崇め奉ろうとする(そうした観点から共存の道を図ろうとする)人が誰も出てこなかったという点でした(この点は、ややネタバレになってすいません)。

昔の日本映画なら、「八つ墓村」で登場するヒステリックな老婆のように、新興宗教まがいの扮装で、ゴジラと戦うな、畏れ敬えなどと叫んで大衆に呼びかけるエセ宗教家のような御仁が登場することがあったと思いますし、そうしたパロディ的な話ではなく、真剣にゴジラとの共存の道、或いは、物語の結末とは違う方で、ゴジラから人類が物事を学ぶような道もあり得ると思うのですが、そうした「ゴジラと向き合うもう一つの選択肢」は全く議論などされることがなかったという点は、「尺」(放映時間)の問題もあったのかもしれませんが、正直なところ寂しく感じました。

それと共に、後半部分のゴジラとの対決計画を着々と練り上げ、組織として粛々と遂行していく登場人物達の姿を見ていると、「神(異界の超越的存在)なき世界」を描いているように見え、縄文的(自然界に潜む超越的な存在を畏敬しながらその恩寵に与るという思想)ではなく弥生的(自然界の惨禍を人間の努力で克服し、それを前提に自然の恩恵を受けるという思想)な世界観を強く感じました。

この点は「となりのトトロ」など宮崎駿監督の作品と対比すれば分かりやすいのではと思いますが、「トトロ」では、超越的な存在であるトトロと少女達が親しくなり、子供なりの畏敬を交えてトトロの奇跡を楽しんだり助けられながら共存していく姿が描かれていますが、同じ「異界の存在」でありながら、本作のゴジラと人々との間には、そうした光景ないし端緒は描かれていません。

それだけに、仮に、宮崎監督がゴジラ作品に携わることがあれば、そうした「人とゴジラとの共存」をテーマにした、本作とも全くコンセプトの異なるゴジラ作品を練り上げてくるのではないか、また、それ(人間の超越的存在への向き合い方)こそが、宮崎監督と庵野監督との分水嶺なのかもしれないなどと感じました。

また、超映画批評では石原さとみ氏の熱演について「崩壊一歩手前のおバカ演技をみせる素っ頓狂なキャラクター」と評されていますが、現代ニッポンに「天上」から様々なお達しをしてくる某国を「今どきの神サマ」と考えるのであれば(本作でも、某国の要求が自分勝手だ(が逆らえない)と首相らが愚痴をこぼす場面が頻出します)、さとみ氏がエキセントリックに熱演する女性の役回りは、某国の代理人としてその言葉を伝えると共に、某国と日本政府を仲介し、主人公をはじめ日本の指導者の進む道を決定づける点など、まるで現代の卑弥呼そのものと言うことができます。

そうしたことも含めた「縄文vs弥生」という伝統的な日本文化の観点も交えて本作のディテールを解釈してみるのも、面白いのではないかと思ったりします。

6 おまけ

極私的な感想で恐縮ですが、個人的には、「八重の桜」で山川浩の姉を演じていた市川実日子氏の熱演が印象に残りました。私自身が、目が大きくて細身で気が強くて頭の回転が速く早口で異端児の女性に惹かれる類の人間だからかもしれません。

そうした観点から当方家族の過去と現在を思うと・・・
おっと、コマさんタクシーとおぼろ入道華雄が来たようだ。

24年ぶりの函館と、あの日みた景色

今年のGWは、前半に1泊2日で函館に行きました。私は平成元年4月から3年間、函館ラ・サール高校の生徒として函館に住んでいましたが、卒業以来ご無沙汰になっており、訪れるのは24年ぶりになります。

家族は初めての来函ですので、函館駅に到着後、朝市→ベイエリア→元町界隈や函館山、五稜郭など観光客向けの典型コースばかりを巡って帰宅しました。

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今の函館のB級グルメと言えば、ラッキーピエロのチャイニーズチキンバーガーということになるでしょうし、昭和62年創業とのことで、私の高校時代から存在していたのでしょうが、恥ずかしながら当時は全く知らず、今回はじめて食べました。

五稜郭も、中学の修学旅行で行ったせいかもしれませんが、高校時代はどういうわけか敢えて行きたいという気になれず(GWに帰省していたせいもあるでしょうが)、今回、修学旅行以来はじめて五稜郭に行きました。

函館は中韓などからの観光客も非常に多く、函館随一のデパートというべき「丸井今井」(盛岡の川徳に相当。なお、函館駅前の「棒二森屋」はフェザンと中三を一つにしたようなものでしょうか)にも、中国語の広告が大々的に掲載されていました。

五稜郭の桜は文句なしの満開状態で、タワーも奉行所も満足して巡ることができました。

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事前にネットで調べていましたので、街並みの変化にさほど心揺さぶられるところはありませんでしたが、それでも、和光や大門商店街のアーケードが無くなっているのを見ると、思うところはありました。

また、私自身は在学中はほとんど外食はしていませんが、例外として函館山の麓にある「カール・レイモン」が当時はレストランを経営しており、落ち着いた店内でドイツソーセージのランチを年に1、2回ほど食べるのがささやかな楽しみになっていたので、同社がレストランを閉鎖し物販と軽食に特化してしまったのは、少し残念に思っています。

折角なのでラ・サールも見に行こうということになり、湯の川温泉の宿から出発し、校舎や寮、グラウンドの外観だけをチラ見して戻りました。

ラ・サールは、私の在籍時は、開校以来の「港町らしい?ピンクに塗装した木造校舎(でもって、網走刑務所のように建物が放射状。冬は石炭ストーブ)」というアヴァンギャルドな建物でしたが、私が卒業した直後に現在の立派な校舎に全面建替となり、寮も現在は立派なものに建て替えられていますので(高校の寮は函館山からも確認できます)、良くも悪くも郷愁をそそられる要素は微塵もありません。

ただ、グラウンド(体育館も?)は概ね昔のままであるほか、旧校舎の一部が移築されており、その点はさすがに懐かしさを禁じ得ませんでした。

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在学中は函館山に登ることはほとんどありませんでしたが、高1か高2の晩秋の頃、夕方に学校から北側に片道30分か40分ほど、住宅街から荒地のような丘の上まで走って、いわゆる「函館の裏夜景」を見に行ったことがあります。

当時は、「裏夜景」を観光名所として口にする人はほとんどなく、それだけに、黒色の函館山と夕闇を背にした街並みの裏夜景は心に染みる眩しさがあり、そこに吹く海からの強風と共に、よく覚えています。

高校では「勉強もできず運動もできず、あやとりや射撃のような特技もない、のび太以下の田舎者」でしたので(日本史の成績だけが救いでした)、心中は身の置き場もなく鬱々とした日々を送っていたように思いますが、それだけに、一人だけでも特別な時間、光景を持てることを心の命綱にしていたのかもしれません。

そんなわけで、当事務所の近所で短い新婚生活を送った石川啄木に敬意を表しつつ?その時のことを懐かしんで一首。

黄昏の裏夜景こそかなしけれ 十六の胸 癒やす木枯らし 

函館ラ・サールには、英国の軍歌?に由来すると言われる「It’s a long way to La Salle High School」という学生歌があり(鹿児島も同様とのこと)、校歌は出だししか覚えていないがこの歌なら今もほとんど全部歌えるという卒業生は、私だけではないと思います。

高校1年のときは「商社に入りヨーロッパの駐在員として人知れず死にたい。日本(人)と関わりたくない」という厭世願望がありましたが、やがて社会との関わりを持って生きたいという方向に気持ちが傾いてきて、高校を卒業する頃に、ようやく司法試験を意識するようになりました。

もちろん、どのような法律家になりたいか、どのように社会と関わり何を尽くしたいかということまで深く考えていたわけではありませんが、暗中模索の日々は、今もさほど変わらないのかもしれません。

そんなわけで、次に訪れるときには何か答えのようなものを持ち帰ることができればと願って、最後に一句。

旅立ちの 夢は今なお ロング・ウェイ

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快晴の安比に潜む妖怪「わすれん帽」に今も昔も取り憑かれた男

去年の秋に安比に行く機会があり、リフト前売券を1枚だけ買っていたのですが、行く余力がないまま本日に至ったので、通常コンディションで滑れるのは今日が最後だろうと、腹を括って行くことにしました。

昔に比べると雪質は良いとは言えませんが、数日前の大雪後の晴天ということもあり、概ね問題ないコンディションでした(深夜3時まで事務所で仕事したせいか、寝坊して昼近くに着いたのが悔やまれます)。

やはり、快晴の日に来ると、「安比に行かない岩手の冬なんて」とか「こんな日に安比に来ないなんて、あなたそれでも岩手人?」などと、どこかで聞いた言葉をもじりたくなってしまいます。

ただ、好事魔多しといいますか、今日は驚くべき事態が発生してしまいました。帰宅して車の後部座席を見たところ、スキー板とストックを持ち帰るのを忘れてしまったのです。

愚かにも、自車にスキーを立てかけておきながら靴だけ履き替えてスキーを車内に入れるのを失念して出発するなどという、先日の最高裁判決が人ごととは思えない夢遊病級の失態をしてしまったようです。

幸い、スキー場に問い合わせたところ、ほどなく発見していただき、着払いで発送していただけることになりました。

ちなみに、このスキー板ですが、18年前に指導官(検察庁での修習生の監督役)だったO検事のご推薦により当時は大通商店街にあった石井スポーツにて購入したロシニョールの板で、ストックはO検事が「ストックを買い換えたから、古いやつを修習生の誰かが買わんか」と言われて購入したものでした。ちなみに、その際に「オマケにこれも付けてやる」とタダで頂戴した紫のフリース衣料を、今日もウェアの内側に着ていました。

修習生の頃は、中3(か高1)に購入したイケてないスキーウェアの上に、修習1年目の冬にインドネシア(ジャワ島のジョグジャカルタ)で購入した、寝具用と思われる「ちゃんちゃんこ」風のフード付き衣類を羽織って滑っており、誰からも「その格好はヤバいから止めろ」とストップが入らなかったので(実際、色合いなどは違和感ありませんでした)、何年も、そのスタイルで続けていました。

が、現在では家族から強硬なクレームが入り、今はやむなく普通のスキーウェアを買って着ています。

昔から、一般的にはスキー板や靴の寿命は5年程度と言われ、それ以上を過ぎるとプラスチックが割れると聞いていますが、今のところ、板にも靴にもヒビらしきものは見えません。まあ、2年前まで10年近くブランクがあったほか、修習後は年に3回程度しか行けてないことが、延命の理由かもしれませんが。

そんなわけで、いつ買い換えるべきかと悩みながら放置し続けてしまったのですが、こんな事件まで起きてしまったので、もう、滑走中に空中分解するくらいの事態が生じるまでは使い続けようかなと思っています。

そういえば、修習生のときも、買った直後の「メガネの曇り防止のためのファン付きゴーグル」を昼食後にザイラーレストランに忘れ、ゴンドラから滑り戻ったところ神隠しに遭っていた(しかも、電池を入れないとファンが回転せず曇り防止にならないことを修習生の誰かに食事中に指摘され、結局、曇り防止機能を一度も使うことなく昇天してしまった)という出来事があったことを思い出しました。

あの日も、安比の太陽がとても眩しかったような気もします・・

掛川城と静岡の「明日に架ける橋」たち

今年の正月は静岡県中西部に足を伸ばしました。まずは、島田市にある「世界で最も長い木造橋」とされる蓬莱橋に行きました。

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個人差はあるでしょうが、片道10~15分程度で、終点(橋の向こう側)に小さな祠があり、広大な大井川や遠方に見える富士などの眺望もよく、気軽に散策できる場所としても、訪れてよいところだと思います。

島田市は、岩手県民には震災後、放射線風評被害に負けずに真っ先に「三陸の被災廃棄物の広域処理に手を挙げた自治体」として覚えている方も少なくないと思いますが、私の知る限りでは、その後、島田市が県内ニュースなどに登場したとの記憶がありません。

同市が受入を表明した理由が、日本茶の一大産地たる同市にとって岩手が上得意という事情があったと報道されていましたので、今後も、相互交流や両県での各種物産品の販売、共同企画商品の開発と全国展開など、折角のご縁を豊かにしていく営みがもっとなされればと思っています。

次に、掛川城に行きました。こちらは、今川氏の統治時代に大物重臣の一人(朝比奈氏)が居城として築いたのが発祥とのことですが、言わずと知れた、山内一豊が「初めて本格大名に出世した城」として著名であり、現在の城郭も、(対徳川氏の防御目的で)一豊公により拡張・整備されたものとされています。

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そのため、「大河バカ」の私が「巧妙が辻」のテーマ曲を口笛で吹きながら散策していたことは、申すまでもありません。

現在の城は、江戸末期に地震で倒壊した後、現代になって地元の熱意で再建されたとのことで、東北で言えば、片倉景綱が統治した白石城に似ているのかもしれません。

数年前に浜松に行ったときには、浜松城が年末休業になっていたのですが、こちらは有り難いことに年末年始も休まず営業されているとのことで、入口にはご年配?の忍者まで出勤されており、南アジア系?の外国人ご家族ともフレンドリーにカタコト英語で会話をなさっていました。

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残念ながら二の丸美術館だけは休館でしたが、他の施設はすべて拝観可能とのことで、二の丸の御殿(藩の政庁)や城郭の一部「竹の丸」に地元の豪商が明治期に建築した邸宅跡を拝見し、二の丸茶屋で一服いただいて帰りました。

竹の丸の邸宅は、明治の廃城の際に地元の豪商が土地を取得し建築したとのことで、盛岡でいえば徳清倉庫さんのお屋敷に通じるものがあるかもしれません。ただ、外観ないし雰囲気については、青森県平川市の盛美園(「借り暮らしのアリエッティ」の屋敷のモデルになった館)に少し似ているような気がします。

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邸宅は「竹の丸」だけに本丸(天守)の直下にあり、徳清倉庫さんも、どうせなら城から離れた場所ではなく下ノ橋の袂あたりに建てていただければ、今頃は「盛岡城址の定番周遊コース」になっていたのにと、少し残念に思いました。

また、竹の丸と二の丸との間にステンドグラス美術館があり、折角なので立ち寄ってきました。

館内の解説によれば、作品自体はヴィクトリア王朝期のイギリスで作られて英国国教会に設置されたものが中心とのことですが、1960~70年代の英国で、「反王朝文化」の風潮が起きて国教会の多くが閉鎖され、協会内のステンドグラスの多くも無惨に破壊される中、たまたま日本に収集家がいるとの話があって、その方が多数を買い集めて保存されていたものを公開しているのだそうです。

館内はさほど広くはありませんが、教会に飾られていた同一サイズのステンドグラス群が聖堂のような雰囲気で並んでいる様は、かえって上品で荘厳な印象を与え、心地よい空間を演出しているように感じます。

ところで、「1960~70年代のイギリス」は、現代欧州史は不勉強なのでさほど知識はないものの、ビートルズを生んだイギリスであり、サッチャー時代の前史=英国病と後日に非難された時代であり、王朝時代への反感や国教会の衰退などという点からしても、それまで社会で抑圧されていた労働者達(の利害を代表する労働党)が、保守党(の支持者たる富裕層)に代わって社会の主役に躍り出た時代でもあるのだと思います。

だからこそ、そうした社会の光と影がステンドグラスの向こう側に垣間見えるようにも感じますし、そんな時代の荒波に晒された文化財を日本の愛好家が保護して現代に価値を繋いだということにも、大いに意義があるように感じます。

館内の解説では、ヴィクトリア王朝文化は日本の浮世絵等の影響を受けており、その原因は幕末~明治の混乱期に日本の美術品が大量に国外流出したことによるのだと記載されており、そうした「洋の東西でそれぞれ生じた美術品の受難と伝播の交錯」も、歴史や文化の深さを感じさせるものがありました。

最後に立ち寄った「二の丸茶屋」では良心価格で抹茶と和菓子をいただき(城の拝観と竹の丸や茶屋がセット券になっていました)、ちょうど休憩が欲しくなるミニ周遊の最後ということもあり、大変ありがたく思いました(茶菓子は、地元の和菓子屋さんのものを使っているそうです)。

盛岡城址には、このようなサービスを提供する庭園等を備えた施設等はない(そもそも、和菓子と抹茶を気軽に堪能できる店舗自体が城跡公園の周辺にない)ように思われ、改めて残念に感じます。

例えば、建替中の教育会館や亀ヶ池などの周辺に、そうした施設ないし店舗を設置してはいかがかと思うのですが、どうでしょうか。

掛川城周辺は、民家や公共施設なども、掛川城の景観を壊さないよう、多くの建築物が、瓦屋根や白い壁のような外観にするなど、非常に配慮された街並みを形成しており、その点もとても心地よく感じました。

盛岡は、城の建築物はおろか武家屋敷などが全く残っておらず、その原因は、南部氏が戊辰の敗戦で転封の憂き目に遭い、その際に家臣団が根こそぎ移転し家屋敷を売り払ったからだという話を聞いたことがあります。そうした「旧支配層たる公権力の喪失」は、一方で、民間活力の勃興や明治期の人材輩出に繋がった面もあるかもしれませんが、他方で街全体の香気を損なってしまったような印象もあります。

盛岡の人々も、「盛岡ブランド宣言」などと称するのであれば、公園の名称改変などという子供騙しの話ではなく、一人一人が「南部の殿様」になったつもりで、城を取り囲む風景について都市規模に相応しい歴史と現代の双方の美と用途を備えた都市計画を練り、ハードとソフトの双方を100年かけてでも作っていく努力こそが必要というべきではないかと思いますし、それが、「主権者」たる地域住民のあるべき姿ではないかと思います。

掛川城は、山内氏の性質上、ご夫婦で裸一貫から事業を興す方にとっては何かと御利益がありそうな気もしますし、そうでない方にとっても、様々な思索の源泉となる場所として、一度は訪れてよいところではないかと思います。

 

大人も楽しむワンピース世界とホンモノ志向のちぐはぐ感

年末に、妻の実家への帰省に伴い、妻の提案で、東京タワーで行われている漫画「ワンピース」のテーマパーク(東京ワンピースタワー)に行きました。

私自身は大学の頃に少年ジャンプは卒業しておりワンピースは全く見ていなかったのですが、1年ほど前、家族に見せようかと思ってアニメ(ドレスローザ編のSOP作戦決行直前)を録画して見ていたところ、ドフラミンゴの悪辣ぶりが妙に気になり、少年時代に起きた社会の最上層からの転落と矜持や怨念という人物像に逆説的な人間らしさを感じる部分もあって、以来、恥ずかしながら、番組を録画して毎週深夜に見ています。

もともと、同作が、ジャンプの黄金時代が過ぎ去った後、「努力、友情、勝利」という旗印を背負ってきた作品だという話は聞いており、だからこそ、(のめり込まないよう)意識的に避けていたのですが、世界観の壮大さや個々の人物造詣の緻密さ、現実社会にも通じる論点を取り上げて閉塞感を吹き飛ばす爽快さなど、売れるのもよく分かるというか、大人も相応に楽しめる作品だと感心する面は強いです。

また、弁護士の仕事も、「本人の努力、依頼主との友情(共同作業と信頼関係)、事件での勝利」が求められるという点で、ジャンプの価値観そのものと言えなくもない性質があり、次から次へと敵(対処すべき仕事と厄介な論点ないし当事者)と相対しなければならないという点でも、ともすると、子供時代以上にジャンプ作品の当事者にシンパシーを感じてしまう部分はあります

そんな訳で、そこそこ事前知識のある中で「タワー」に行ってみると、大人の鑑賞に耐えうるホンモノ志向が強く表れているものもあれば、そうでないものもあって、ある意味、ちぐはぐ感が否めないところはありました。

良いと感じた点は何と言っても「ライブショー」で、麦わらの一味が、ある洞窟内で得体の知れない何かと闘うという設定になっているのですが、演じる役者さんの格好や人相などはもちろん、踊りの際の様々な仕草や手足の動かし方が、本物を彷彿とさせる面が多く、司会役の女性のアドリブの巧妙さなども含め、ショービジネスに本格的に携わっている方々が作り込んでいるのだろうと強く感じました。

折角ということで、メインである「麦わらの一味のショー」のほか、「ボン・クレーのニューカマーショー」も見てきたのですが、本物と見紛うほどの御仁が登場し、大人も子供も楽しませる工夫が随所に見られる一方で、その種のショー(いわゆる夜?の大人向けのもの)にありがちな痛々しさ(尊厳が損なわれている印象)はなく、そうしたことも含めて感心しました。

参加者も大いに盛り上がっており、例えば、前者のショーでは、多くの若い?女性から「サンジー!」などと黄色い声が盛んに飛び交っていました。

他方、昼食はビュッフェ形式の「サンジのレストラン」を利用したのですが、様々なメニューに作品の登場人物の名前などが付けられているものの、食事自体は値段相応の「テーマパークのありふれたバイキングそのもの」といった感じで、少なくとも大人の「ワンピースファン」が満足できるほどのものではありませんでした。

あまりマイナスなことを書くのは差し控えたいのですが、例えば、普通のポタージュやミネストローネを、いくら黄色や赤色だからといって、「黄猿の~」「赤犬の~」などと命名するのは、かえって興醒めというか、こじつけ感が丸出し過ぎて本物への冒涜ではと思わないでもありません。

せっかく、サンジが作品中は著名なレストランの大物シェフの片腕を務めていたという設定があるのですから、上記のような「子供(ご家族)向け」のバイキングとは別に、作品で出てくるレストラン(バラティエ)を模すなどした本格的な料理を提供する店舗も考えて良いのではと思いました。

とりわけ、上記の「黄色い声を上げている女性陣」は、恐らくはディズニーにも湯水の如くお金を使うような購買力が高い(その種のものに出費を厭わない)層なのでしょうし、いっそ、ショーに対抗して、サンジに似た風貌の人を集めて髪もカツラ等で対応し質の高い料理をテーブルに給仕するサービスなども提供すれば、一人あたり単価で数千円以上の値段でも世界中から殺到する層が十分いるのではと思われます(それこそ、ナミやロビンの格好をして入店したいという層すらいそうな気がします)。

さほど作品世界を知っているわけでないので、作品中で、その「高級レストラン」に相応しいメニューが取り上げられているのか知らないのですが、そうであるなら、いっそ、名だたる若手シェフ(それこそ、作品のファンのような方々)に作品世界をイメージしたメニュー開発を依頼して、東京タワーの近くの本物のレストランに協力依頼して特別メニューを出すといった試みもあってよいのではと思いました。デザートも、相応のパティシエに依頼して、皿に作品の絵柄を表現するような一品を出せば、より好評を博するのではないでしょうか。

あと、物産店舗(ショップ)についても、ローの帽子とか海軍大将衣裳などと称するモノが売っていたのですが、これも、本物志向の強い人からすれば、買わないだろうなぁという印象は受けました。

決して安い帽子ではなかったのですが、その「(普通の)子ども向け商品」とは別に、その5倍から10倍かけて、高級ブランド店でも取り扱うようなものを敢えて加えた方が、「なりきりたい大人」には受けるのではと思いました。

ちょうど、ショーで前に座っていた女性が、エースの帽子とそっくりなものを被っており、てっきり売店で購入したのかと思ったのですが、それらしいものが見あたらなかったので、手作りなのか似たものを他で入手したのか、単なる私の勘違いかは分かりませんが、子供以上に大人(外国人を含む)の集客を多く見かけたこともあり、出費を惜しまない本物志向のニーズは相応にあるのではと感じました。

ワンピース自体は、ディズニーに負けない強力なコンテンツとして世界で勝負できるように思われるだけに、本物志向でレベルの高いショーと、それと反対方向の印象が否めないレストランやショップの落差のようなものを感じ、後者のグレードを軽視しない(ように見える)ディズニーに見習った方がよいのでは?(それこそが「花の都・大東京」の役割と責任なのでは?)というのが、とりあえずの感想といったところです。

アニメの方は、ようやくルフィーとドフラミンゴの対決が決着するところまで来ましたが、ワンピースの世界の様々な問題や矛盾に伴う負の部分を一手に引き受けて「暴力による非人道的な解決の万能性」を主張する存在であるドフラミンゴを見ていると、現実世界の「イスラム国(IS)」などに重なる面が大きいように思われます。

それだけに、混沌をもたらした世界の矛盾の象徴というべき西欧列強による爆撃などでは本当の解決が実現するはずもなく、非人道性の核にある矛盾を根元から洗い流すような営みが広まって欲しいですし、そのことに貢献することこそが、中東などに迷惑をかけた過去がなく、他方で圧倒的な強者達に挑んだ経歴がある「地味でイケてないルフィー」というべき日本の役割として、求められているのだろうと思います。

田子の浦にて歌聖と戯るの記

旧ブログで掲載していた、平成25年1月に静岡県富士市にある「ふじのくに田子の浦みなと公園」を訪ねた件について、再掲しました。

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万葉集に登載されている山部赤人の歌は、教科書でも必ず取り上げられていることもあり、これを知らぬ日本人はいないと言っても過言ではないと思います。

田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける

私にはこれを訳すだけの力はありませんので、ネットで検索される代表的な訳を引用すると、次のように述べられています。

大和朝廷の官吏である山部赤人が東国に赴任する際に田子の浦付近から見た雄大な富士の姿に心打たれて、素朴な感動を高らかに詠み上げたものと理解されているようです。

“田子の浦を通過し視界が開けた場所まで出てみると、富士山の高いところには真っ白い雪が積もっていた”

田子の浦は、静岡県富士市の太平洋に面する付近にある海岸であり、その港は、現在は同県有数の工業都市たる富士市の玄関口として、企業の工場や油槽所、港湾関連施設などが立ち並んでおり、詩情を感じることがあまり期待できない状況が何年も続いていました。

私は、ご縁あって何年も前から時折、富士市周辺を訪れているのですが、最初に訪れた際、「ここは山部赤人の歌で有名な田子の浦なので、きっと風光明媚な公園などがあり、先人を顕彰しつつ市民の詩情を育成しているに違いない」と思っていました。が、ガイドブックを見てもそれらしい記載を見つけることができず、大いに残念に思ってきました。

で、今年の元日は時間が出来たので、数年前に入手した「富士市観光マップ」を片手に、山部赤人の歌碑がある場所に向かうことにしました。

歌碑の存在は何年も前から知っていたものの、マップによれば、歌碑は、港湾地帯の隅にひっそりと設けられているように見えることもあって、これまでは優先的に行こうとする意欲が湧かなかったのですが、今年は富士市に点在する史跡巡りツアー(平家越=富士川合戦記念碑など)の一環として、行ってみることにした次第です。

ところが、現地に行ってみると、大変驚かされました。

富士市は、そこ(田子の浦東端の太平洋岸)に、「ふじのくに田子の浦みなと公園」という都市公園を造営しており、土砂の埋立による防潮堤としての活用を兼ねた高台の見晴らしのよい公園として、平成25年の春頃?の完成を目指し、整備を行っていました。

それまで田子の浦港の一角で不遇を託っていた山部赤人の歌碑も、公園の中心部に移設され、付近からカメラを向けると、歌碑の背景には富士と愛鷹山だけが綺麗に収まります。

人の背丈よりも遥かに大きい歌碑は、ストーンサークルの石柱やオベリスクの類を見ているようでもあり、このような視界が開けた場所に設けられるのがよく似合います。

振り返ると、駿河湾全体を見渡すような広大な海岸線に、太平洋の白波が打ち寄せている壮大な光景を目にすることができ、伊豆半島西岸の荒々しい断崖も、手に取るように見ることができます。

波打際がテトラポット群となっている点だけが残念ですが、砂浜の護岸のためやむを得ないのかもしれません。

公園の造営そのものに関しては、観光客が知ることが出来ない、綺麗事だけでない地元の事情もあるのかもしれませんが、率直に言って、この光景は、新富士駅で途中下車しタクシー又はレンタカーで往復するだけの価値はある、なかなかのものだと言えると思います。

そんなわけで、甦りつつある和歌の聖地・田子の浦を素朴に祝って一首。

青空に映ゆる白嶺に白波に 田子の浦から詩情ふたたび

これだけでは物足りないので、蝦夷の末裔の1人として、歌聖への返歌の真似事のつもりで一首。

蝦夷らも うらみを捨つる白雪を 田子に見ゆるはいつの頃から

大意:大和朝廷に祖国を滅ぼされた東国の民=蝦夷(えみし)には、田子の浦から富士を高らかに詠み上げた山部赤人の歌すらも、勝者の凱歌のように感じ、哀しみを深めずにはいられなかったのではなかろうか。

しかし、そんな彼らも、田子の浦から見える白雪を纏った美しい富士の姿を目にすることで、過去のわだかまりを捨て、新しい社会(統一国家・日本)のために己が身を尽くすようになったに違いない。

東国の人々も西国に行き来するようになり、雄大な富士の姿を目にして、そんな思いを共有できるようになったのは、いつの頃からであろうか。

皆さんも、ぜひ一度、訪れて歌聖と戯れてみてはいかがでしょうか。

富士市におかれても、駐車場や子供向けの遊具等だけでなく、気の利いたカフェテリアなどの整備も検討いただければと思います。

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感動は小さな一歩から

今年の夏休みの際に、東京スカイツリーの展望台に初めて登りました。

眺望は見事なものでしたが、高所からの風景を楽しむという点では、私には登山の方が性に合っているような気がします。

“汗かかぬ空木塔より空木岳”

というのが、率直な印象でしょうか。

修習生時代(卒業試験後の休暇)にペルーのナスカの地上絵に行ったことがあり、その際も、セスナ機で空中から様々な地上絵を眺めるより、地上の観測塔から小さな地上絵や様々な直線を眺める方が心に残りましたので、感動は、自身の努力や身体感覚に合致するものでなければ、成立しにくいのかもしれません。

まだ中央アルプスに足を踏み入れる機会には恵まれていませんが、最近、登山への意欲(執着)も復活してきたので、受験生時代に計画だけで終わってしまった「木曽駒から空木岳の縦走ルート」の再検討を考えたいと思います。

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余談ながら、展望台(最上層)にバッタが来ており、よくぞ登ってきたと誉めたくなりました。

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「弥生の血」の象徴としての伊勢神宮と縄文の魂

先日も書いたとおり、今年の夏休みは、伊勢神宮に行きました。私は総本家が地元の神社の宮司さんで、実家は本家を支える氏子の主要メンバーですが、恥ずかしながら、2年前の式年遷宮に関する一連の報道までは、伊勢神宮でそうしたことが行われていること自体、知りませんでした。

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そんなこともあり、以前から伊勢神宮に行ってみたいと思っていましたが、いざ、行ってみると、「神社仏閣と言えば、築何百年が当たり前で、その古さ(歴史)こそが有り難み」という固定観念に縛られていた私としては、どこに行っても新しい社殿が並び、隣に遷宮のための砂利の空き地が並んでいるという神宮のスタイルに、凄い違和感というか、神社に対する固定観念を覆すような、不思議なものを感じました。

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7月末に沖縄に仕事で行ってきたこともあり、沖縄と並んで縄文文化の跡を遺している北東北の人間としては、「縄文(と弥生)」というものを意識する機会が増えていたのですが、弥生時代(から飛鳥時代?)の建築様式が継承されている伊勢神宮の社殿群を見ていると、「ここは弥生だ」という印象を、強く受けました。

詳細は書きませんが(私自身、自分の知識に出来ているわけでもありませんし)、伊勢神宮で行われている様々な営みを見ると、ここには、豊作祈願や新米への感謝をはじめ、弥生文化(稲作農耕)を象徴するようなものを守り伝えていこうという強い意志のようなものを感じました。

反面、神宮では、狩猟や漁労などという縄文文化的なもの(への礼賛、信仰)を見かけることがほとんどできなかったように思います。古代文化に知見が深いわけではありませんので、思いつきレベルで恐縮ですが、伊勢神宮には、「主として縄文人と弥生人の混血で、概ね弥生人の血の方が濃い」とされる日本人のルーツのうち、弥生的なものを凝縮して継承している面があるのではと感じました。

裏を返せば、日本の宗教文化(神道を含め)の要素と目されるのに、神宮で見かけないものがあれば、それは、縄文的な文化に由来する面があるのかもしれません。

例えば、私の薄い知識の範囲では、古い神道には「万物に神宿る」という感覚(アニミズム=精霊信仰。山岳や巨木・巨石などへの信仰)があると思うのですが、伊勢神宮には、立派な大木や見目麗しい池などが多数配置されているものの、それらを天照大神ら(伊勢神宮が祀っている神々)と連なる独自の信仰対象として位置づける姿勢は全く感じません。むしろ、伊勢神宮の庭園に対する姿勢には、一神教の文化であるフランス式庭園(自然は神や神の延長にある人に仕えるものという思想)を思わせるものがあるとすら感じました。

私に限らず、古い神社と言えば、異形の巨木や巨岩・奇岩が境内に存在して霊的な存在として崇められている例が多いのではと感じる方は少なくないのではないかと思うのですが、そうした「霊的なものを体現した自然物」は一切存在せず、遷宮による真新しい社殿群が、人間の生々しい営みを想起させることと相俟って、人間中心主義と言わんばかりの思想を感じる面がありました。

そういえば、伊勢神宮は、大日本帝国=国家神道では全国の神社の総本山とされていた(今も、神社本庁の制度のもとで同じような位置づけにあると思います)だけでなく、鎌倉末期に伊勢の外宮の神官(度会家行)が提唱した理念(度会神道・伊勢神道=反本地垂迹説)が、国家神道ひいては国粋主義の源流にあるとされており、それらの事情も、「伊勢神宮にアニミズムが存在しない(感じない)こと」と近接性があるように感じます。

また、太陽神たる天照大神を祀る内宮ではなく、産業従事者=一般の人々の神を祀る外宮の神官が、国家神道のもとになった思想の提唱者であることも、伊勢神宮を形づくる思想と関わりがあるように思います。

大雑把な感覚ですが、伊勢神宮には、人間中心主義(農耕及びその基盤としての土木文化に代表されるように、人間が自然を凌駕し支配する存在であるとの思想)が背景にあり、それは、中国の儒教思想(現世利益的な合理主義)と近接性があり(感覚的なことばかり書いて恐縮ですが、伊勢神宮には密教的な神秘主義思想の匂いを全く感じませんでした)、また、西洋の合理主義や一神教(キリスト教)の根底にある人間中心主義とも近接性があるように感じました。

だからこそ、国家神道の行き着く先が、あたかもバテレン神父の布教活動のような、日本民族の主導による欧米植民地等の解放と救済という啓蒙思想(ひいては、そのなれの果てとしての世界征服思想?)になったのではという見方もできるのではないかと思います。

そのことは、裏を返せば、古神道などと称されるアニミズム(自然崇拝)が、弥生人の文化ではなく縄文人の文化であり、神道は、山岳信仰などの「縄文寄りの神道」と、伊勢神宮などに代表される「弥生寄りの神道」の二種類に分かれていると考えると、神道を巡る様々な物事が理解し易くなる面があるのではないか(ひいては、「平和」のあり方を考える上でも、縄文的な思想にもっと目を向けてよいのでは)と感じました。

私自身は、思想という点では、人間中心主義や一神教が決して嫌いではないのですが、自分の信仰心や身体感覚という点では、アニミズムやそれを前提とする価値多元思想に馴染む面がありますし、私が北東北の人間であることも、そのことと関係があるのではと感じるところがあります。

伊勢神宮を歩きながら、「これは、私が好んでいる神道とは、ちょっと違う」という違和感を感じていたのですが、上記に述べたこと(伊勢神宮の思想が、自然からの採取=自然のコントロールを諦めた恩恵的思想=アニミズム的な縄文色を排除ないし抑制し、農耕=自然のコントロールを指向する思想=人間(文明)中心主義的な弥生文化を全面に押し出しているのではないかと感じたこと)が、その理由ではないかと思った次第です。

私も、伊勢神宮が日本人にとって大切なものということに異論はないのですが、正直なところ、宗教的崇敬心はあまり掻き立てられませんでした(むしろ、上記のとおり学問的な関心が湧いた面があります)。そのことは、以上に述べたこと(私自身の思想ないし宗教的感覚との相違点)が関係しているのだと思います。

そうであればこそ、縄文と弥生の混血である日本人、なかんずく滅ぼされた縄文側の文化を継承する立場にある北東北(北奥)の人々は、伊勢神宮に匹敵するような、縄文人の文化と思想を後世に継承するような何かを創出する姿勢を持つべきではないか、そのことは、人間中心主義や統一性(体系性)を感じさせる弥生と、自然中心主義と多元性(共生性)を感じさせる縄文の思想的な違いという面でも意味があるのではないかいうのが、「初めての伊勢神宮」で私なりに感じた結論でした。

伊勢神宮は、「日本人の心のふるさと」と称されることが非常に多く(例として、伊勢市観光協会のHPを引用します)、弥生という観点から見れば、それは至極正当なのですが、縄文という観点からすれば、伊勢神宮だけを「ふるさと」として強調するような考え方には、異論を唱える必要があるのだと思います。

以前、世界遺産登録を目指している「北海道・北東北の縄文遺跡群」について少し書いたことがあるのですが、京都・奈良をはじめとする登録済みの日本の世界文化遺産群が、いずれも弥生文化や大陸文明(仏教等)の延長線上に形成されたものと見受けられるのに対し、もう一つの日本のルーツである縄文文化について、世界遺産(人類の共有する価値)として認められたものはないと思います。

そうであればこそ、縄文文化の価値を適切に理解、説明し世界に認めさせることは日本人の責務であり、日本国憲法も期待するところ(安倍首相が仰る「積極的平和主義」に適う道である)ではと思うのですが、いかがでしょう。
→ 縄文の遺跡群と北東北のオリジナリティ

余談ながら、外宮(正宮)の参拝を終えた後、参拝者向けの朱印帳コーナーの隣に将来の式年遷宮の寄付を受け付けている窓口があることに気づきました。で、私の父(実家)が、地元(氏神)の神社や祖霊社の維持のため長年に亘り相応の負担をしていたことや、2年前の式年遷宮の際も何人かのJC関係者の方が参加等されていたことなどが脳裏をよぎり、自分も、そうしたものの庇護を受けて今に至っているのに、単なる観光客として通り過ぎるのは筋が通らないと思って、ささやかながら、寄付をしてきました。

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そのとき初めて知ったのですが、寄付の感謝として、正装(スーツ)して行けば、観光客よりも社殿の少し内側に入れていただけるのだそうです。

平成28年末まで有効(本人限り)とのことで、次に行けるチャンスとして、津地裁に係属する尋問付きの訴訟のご依頼が舞い込んで来るよう、日々祈願している次第です。

惜しい!志摩スペイン村

今年の夏休みこと家族接待は、思い切って伊勢・志摩地方に遠征しました。初日に志摩スペイン村に行き、2日目には鳥羽水族館と鳥羽湾巡りなどを行い、3日目には伊勢神宮(外宮・内宮)を巡って、鳥羽からフェリーで帰りました。

往路は、初日に某県を出発して高速道路を進みましたが、途中で玉突き事故による大渋滞が発生し、到着が大幅に遅れました。それがなければ、四日市あたりのSAでトンテキを賞味できたかと思うと悔やまれます。

ただ、巨大な高架と橋が連続する伊勢湾岸道路は見応え十分で、走っているだけで楽しく感じました。高速から見る御在所岳方面も、深田久弥の日本百名山で、「名山なのにロープウェイで遊園地化して残念」と書いてありましたが、ぜひ行ってみたいと思いました。

志摩スペイン村は、お店と建物群が並んだ入口の雰囲気や夜のパレード、「キャスト」などの言葉遣い、周囲から隔絶されており外の風景がごく一部しか見えない点など、東京ディズニーランドやディズニーシーを相当に意識した作りになっているように思いました。
http://www.parque-net.com/parque_espana/index.html

反面、3Dシアターの通路(出入り口から会場までの通路)が、何の装飾等も施されておらず、その辺に転がっている県民ホールなどと全く同じの無機的・無味乾燥な通路になっており、その点は、ディズニーの爪の垢を煎じて飲んで欲しいというか、残念に感じました。

他にも、遊園地そのものという感じの左側のエリアと、ハビエル城(フランシスコ・ザビエルが生まれた城を模したもので、内部が博物館になっている)のように、ディズニーシーに負けないくらいスペインの建物や街並みを表現している右側のエリアが混在している点は、大人も子供も楽しめるという点では良いのかもしれませんが、統一感の無さという意味では評価が分かれるところではないかと思いました。

個人的には、熟年夫婦など遊園地には興味のない旅行者なら、左側エリアに立ち寄らず、右側の建物エリアを散策して施設内の風景を生かしたレストランでワインと質の高いスペイン料理だけを楽しみたいと思うのではないかと思われます。そうした意味では、遊園地エリアと街並みエリアを分けて、共通パスポートのほか、一方だけの入園もできる方式も考えてよいのではと感じました。

私自身は、街並み群や風景など(右側エリア)はとても好ましく感じましたが(但し、宝探しコーナーには異議ありですが)、夏休み時期の割りにさほど混雑していないようにも感じましたので、HISや星のやグループなどに相談して、センスや集客のための工夫・リニューアルを考えた方がよいのではと感じました。

すでになさっているのかもしれませんが、例えば、パレードなども、世界遺産のTV番組に出てきた、バレンシアの巨大人形(それと似たものがハビエル城内にも展示されていました)を生かした火祭りなど(可能なら、一般客の参加的要素も導入したもの)も取り入れることができれば、ディズニーと差別化した、「ここだけの本物の魅力」を伝えられるのではと思いました。

また、ドンキホーテ物語が元になっているらしい、私自身は見たことのないオリジナルキャラクター群(ミッキーマウス達のようなもの)が色々と存在感を主張していましたが、「本家」ディズニーが成功している一番の理由は、自ら次々に新たな映像作品などを世に送り出して、施設の改装などに生かすことで、リピーターなどの集客に繋げているという点にあると思われ、この点(メディアミックス戦略やそれを前提とする知名度獲得のための全国的、世界的な努力の欠如)は、このパークの最大の課題ではないかと感じました。

この日の宿泊は、志摩を代表する「的矢かき」の料理旅館という、「いかだ荘山上」さんにお世話になりました。私自身は牡蠣にさほど関心がありませんが、同行者が牡蠣に執着する御仁のため、岩ガキのコース料理には十分に満足していたようです。

また、この宿はスペイン村からほど近くにあるため、スペイン村を一旦切り上げて4時到着→風呂と夕食→スペイン村に送迎(パレードと花火鑑賞)という有り難いサービスを受けることができます。我々の宿泊日にはこのサービスの利用者は多くなかったので、この点は、もっと認識・活用されてよいのではと感じました。

お店の資料によれば、海上の筏から吊して牡蠣の養殖を行う方式を世界?で初めて行ったのが的矢湾で、その方式を開発したのが東北帝大の出身の方であり、「いかだ荘」は、その方の勧めで開業したのだそうです。
http://ikadasou.jp/

三陸も言わずと知れた牡蠣の名産地ですが、牡蠣の養殖文化のルーツを知るという点でも、東北人にとっては、志摩地方・的矢湾に足を運ぶ意義は大いにありそうです。

ただ、志摩は温泉が湧出する場所が限られているようで(或いは、温泉排水による漁業権との利害衝突が絡んでいるのかもしれません)、こちらの旅館も、温泉付きでないため、その点は実に惜しいと思いました。また、私は海産物(生もの)はなるべく端麗辛口の大吟醸で頂戴したいので、その点もご検討いただければ(或いは、南部美人をはじめ岩手の酒造メーカーも、牡蠣つながりなどと銘打って、営業活動を行っていただけば)と思っています。