北奥法律事務所

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「希望党」パクリ疑惑?に沈黙する達増知事と、幻の「増田寛也副知事の都知事昇格案」

「希望の党」の発足に関する報道以後、衆院選を巡る激しい動きが続いていますが、世間の関心事の一つとして、小池知事が知事を辞任して衆院選に打って出るのか否か注目されているように思われます。

現時点での国民(都民)一般の感覚は、「カリスマ性が乏しい寄せ集め集団を引っ張って欲しい」という期待感よりは「他に都政を託したい御仁が明確になっているわけでもないのに、また都知事選で巨額の税金と時間等を無駄にし、都政を混乱させるのは勘弁して」というウンザリ感の方が勝っている(ので、マイナス効果の方が大きいから出馬しない)のではというのが私見ですが、自信満々に出馬は既定路線とネットで仰るジャーナリストなどもいるので、しがない田舎人にはさっぱり分かりません。

ところで、私は、先の都知事選の際に「当選した小池氏が増田氏を副知事にスカウトし、自民都連と縁切りさせ信頼関係を作って自身の後継者とし、かつ、都知事を途中で辞任する際に副知事に委譲できる法制度を作り、都政に一定の成果を挙げた上で、次の総選挙で増田氏に知事職を譲って国政復帰するというシナリオはいかがか」と書いたことがあります(引用ブログ記事)。

仮に、そうした制度・展開が現時点までに作出されていれば、現在よりも遙かに小池氏の出馬環境が整っていたのでは?と、些か残念に思わないでもありません。

余談ながら、当県の達増知事はご自身が平成18年に出馬した際、「希望王国マニフェスト」なる言葉を旗印にして圧倒的勝利を収め、県内の自民系首長さんから「王国の主は小沢氏か」とケチを付けられた後は、「希望郷いわて」と言葉を変え、現在に至っており、今も県庁の広報等には「希望」の言葉が充ち満ちています(岩手の現状ないしここ数年の推移が、そう称するに足る内実を伴っているかはさておき)。

今回の衆院解散をはじめ、自民党側の動きに対しては真っ先に批判を述べ、小沢氏勢力の動きには率先して賞賛コメントを放っておられる達増知事が、今回の新党騒動について、現時点で「俺のパクリだ」などという批判に限らず、現時点で特にコメントをされず沈黙を保っておられることは、ある意味、注目すべきことなのかもしれません(コメント報道をご存知の方がいましたらお知らせください)。

まあ、今朝の岩手日報などで黄川田議員の引退報道がありましたので、岩手の民由合併は確実だろうと思っていたところ、午後には小沢氏も希望党に合流との記事も出ていましたので、明日には希望党万歳の知事コメントが報道されるのかもしれませんが、ここまで何でもありの状況なら、いっそ「大物」国会議員が不足気味の希望党の総理候補として、小沢氏が推挙される展開を岩手県民としては期待したいような気もします。

ともあれ、知事のマニフェスト自体、岩手県民に忘れ去られている(ご本人も含め?)というのが残念な実情だと思われますので、適切な公約や実行力、ひいては代表者と選挙民の意思疎通(コミュニケーション)のあり方などについて候補者及び選挙民の双方に良質な議論が深まることを期待したいものです。

それと共に、希望党については「都知事の度重なる身勝手?な辞職により選挙が延々と繰り返されてきたこと(その母体と見なされた既存政治の有様)へのウンザリ感」が小池知事誕生の原動力になったことを踏まえ、冒頭に述べたとおり、知事が辞職しても当然には選挙にせず一定の場合には副知事などに交代させるなど「やたらに選挙を強いて税金と労力を浪費させる現状を改める制度(公職選挙法や地方自治法などの改正案)」を検討し提案いただくことを期待したいと思っており、そうした議論がなされないことは残念に感じています。

縄文遺跡群が世界遺産になるために必要なこと

先日、世界遺産の推薦に関する国内審査で、仁徳天皇陵を主とする大阪の大規模古墳群が当選し、一戸町の御所野遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」の審査が来年に延期(落選)されたとの報道がありました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20170801_1
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170801-OYT1T50003.html

御所野遺跡は以前から行こうと思いつつ後回しになっており先月にようやく初めて訪れたのですが、環境の良さ(閑寂さ)はさておき、これが世界遺産に選ばれるのかなぁと考えると、率直なところよく分かりません。

ただ、以前も書きましたが、御所野はさておき、日本の縄文文化それ自体は、世界にその価値が理解・伝達されるべきものであり、特に、現時点で日本で登録された古代~中世の世界文化遺産が、京都・奈良・日光・平泉の寺社仏閣群など、弥生期以後に中華文明の強い影響下で生じたものばかりのように感じられ、縄文文化を伝える遺跡で世界遺産とされたものがないことから、その点でも文化遺産として登録を求めること自体は大いに意義のあることだと思います。

それだけに、繰り返しになりますが、「北海道(東部)と北東北」に限定しなければならない理由はなく、「日本列島で成立した縄文文化が世界的に独自の価値があること」というコンセプトに再構成し、他の地域も含めた縄文文化の痕跡が残る遺跡のチャンピオン的な存在を列挙・再構成して世界遺産登録を申請した方がよいのでは?と考えます。

そのように考えれば、三内丸山や大湯環状列石は残るでしょうが、小規模な遺跡群は「関連遺産」扱いでもやむを得ないと思いますし、反面、国宝指定された長野県茅野市の「縄文のビーナス」や「仮面の女神」、或いは亀ヶ岡の遮光器土偶など著名な土器・土偶が発掘された場所などは、小規模でも遺産として申請すべきだ(でもって、現地が貧弱でも発掘された物自体の価値をPRして世界遺産登録を狙う)ということになるのではと思います。

少し調べてみたところ、やはりというか、同じようなことを考える識者の方もおられるようです。

理想論としては、稲作=土木工事により自然を作り替えた弥生文化と異なり、縄文は自然と共に生きる文化というべきでしょうから、アニミズムに基づく自然信仰の文化が残る地域などと連携し、文化・自然の複合遺産的な路線を考えるのも適切なのではと感じる面もあります。

まあ、具体例を挙げろと言われてもすぐに思いつくものではありませんし所詮は素人の戯言ですが、それはさておき、まずは北東北ではなく北奥と改めることから検討していただいても良いのでは、と余計なことを思わないこともありません。

また、この記事によれば、「北海道・北東北」云々の運動は、関連4県の知事らが地域振興目的で始めたもののように見受けられますが、そのような発想では、何年経っても、イコモスはおろか、文化庁からも「縄文文化がどんなに素晴らしくとも、貴方たちに世界遺産は無理」と言われるだけに終わってしまいそうです。

そうした意味でも、一部の関係者だけの運動ではなく、地元民が、真に縄文文化を自分達のルーツとして価値や意義を理解し、自身のメンタリティに取り込むことができるようになるまでは、世界遺産などという栄誉を得ることは半永久的に望めないことなのかもしれません。

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主要地銀も認めた「北東北=北奥」というブランディングと当事務所の魂

4月5日の日経新聞に、北東北の主要3地銀(岩手銀行、青森銀行、秋田銀行)が「北奥 HOKUOU 北東北の味とカタチ」と題する観光小冊子を共同で刊行したとのニュースが出ていました。
http://www.claska.com/news/2017/03/do_hoku-ou.html

主に女性の周遊客の獲得を狙って全国展開しているようで、ネットで調べた限り、タイトルを「北奥」とした理由を見つけることはできませんでしたが、女性観光客にこの地域を「オシャレ」にPRするには「北東北」という言葉ではなく、「北奥」と名付けた方が適切だと判断したものと思われます。

せっかく、そうした雑誌を出すなら、当事務所にも一声かけて欲しかったというか、それはさておき、北東北の主要3行が「北奥」という言葉(概念)に「北東北」の言葉にはない魅力や価値があると感じていることの表れなのでしょうから、一過性のものとせず、「北奥」という言葉を、北東北を象徴する概念として多くの方・企業などに用いていただければと思います。

ところで、私は平成16年に東京を引き払って岩手に戻る際、北東北の社会と人々のために生きる弁護士というコンセプトのもと、それを体現する言葉として「北奥」という企業名(事務所名)を考案し、以来、当事務所のアイデンティティとして掲げています。

もちろん「北東北法律事務所」などはネーミングセンスが悪い(また、北東北の三県全部に店舗展開しているならまだしも、ちっぽけな個人商店に過ぎないのだから、雅称を拝借するに止めておくべきだ)という判断があったことは言うまでもありません(他にも色々と候補名はありましたが、ここで挙げるのは遠慮します)。

もともと、他所で使われていたのを拝借したのではなく、自分なりに思いついた言葉でしたが、全くのオリジナルよりは、多少とも歴史などの重みがある由緒ある言葉を使いたいという欲があり、少し調べてみると、「北奥」という言葉は滅多に見かけないものの、全く使われていないわけではなく、歴史関係の書籍で北東北を一括りに論じようとする際に、稀に使われていることが分かり、それが決め手になっています。

以前にも書いたことがあるかもしれませんが、「東北(地方)」という言葉は、基本的に明治以後に成立した言葉ないし概念と理解しており、それ以前から存在している「奥州(陸奥・出羽)」という概念と比べて、歴史の重みを欠くというか、私自身はあまり好きではありません。

wikiによれば「東北」は幕末頃に使われるようになった言葉で、明治期に西南=勝者たる薩長土肥に対抗・抵抗する「民権(反官)の牙城ないし象徴」といったニュアンスで、この地を表す概念として広まったようです。

しかし、私に言わせれば、東北(奥州)は、明治政府(薩長土肥)の敵役であることが本質(地域のアイデンティティ)ではなく、戊辰戦役は「政見の異同」に過ぎないわけで、東北という言葉に縛られる(「ありき」で考える)のは、「この地が何者であり、どこから来て、どこに行くのか」という本質的な考察を失うことになりかねないと思います。

その上で、私自身は、この地の本質(固有の特徴)は、日本列島(北海道を除く本州)では弥生人(大和国家)の征服が遅れたことで縄文人の文化が最後まで残った地域であり、縄文人の末裔たる蝦夷(奥州人)がアイヌ(北海道人)と大和国家(弥生人)の双方と交流を持ちながら独自の文化・社会を維持していた(が、最終的に平安朝から鎌倉期にかけて大和国家に呑み込まれる形で同化した)という点にこそ求めるべきではないかと考えており、そのような理由から、必ず言われる「辺境性」と共に、異質な文化・民族が交わる結節点(融合点)的性格(地域的な事柄だけでなく、人的役割などを含め)を掘り下げる視点があってよいのではと考えます。

そうした意味では、大和朝廷に名付けられたものとはいえ、奥州という、何か得体の知れぬ異形の存在が潜んでいるかようなニュアンスを含む言葉を私自身は大いに気に入っており、この地域の人々は、もっと大切にしなければならないのでは?と思っています。

だからこそ、大和国家との同化の程度が強く「奥州人」としてのアイデンティティが現代ではほとんど消失している南東北と異なり、同化の程度が低く(遅れて)、抵抗と闘いの歴史や独自性の強い文化を擁している北東北の人々には、そのことへのこだわりを全国・世界に正しく表現して欲しいと思っています。

平成10年頃に「道州制」が盛んに語られていた際は、北東北三県の統合なども話題にされていたと思いますが、人口減少という大きな社会変化に伴い、改めてそうした議論が盛んになってくるかもしれません。

その際の「統合された地域の組織のあり方や名称」は、行政の都合で役所を統合するだけといった話ではなく、この地のアイデンティティを掘り下げ、地域の一体化に相応しい統合の哲学や言葉を探して欲しいと思いますが、「北奥」はそれに相応しい概念・言葉というべきで、地銀さん達に限らず地域の方々に広く使っていただきたいと思います。

現在は、当事務所の職員が電話口で事務所名を伝える際に「奥様の奥です」などと話している(しかも、県内の方に向かって・・)のを聞く都度、「せめて、みちのくの奥かムツノクニの奥と言って欲しいんですけど・・」という愚痴ばかりの日々というのが正直なところですが、いつの日か、「北奥州」の輝かしい成立の光景?を見届けることができればと地域の片隅で願っています。

多浪が田老に集うとき、そして二つの「たろう」の誇りと救い

大阪大学や東京大学に「多浪の会」なるサークルが結成され、「多浪」の方々の単なる交流だけでなく、全国の同じ境遇の方を支援する情報提供などにも取り組みたいなどと述べられた記事が掲載されていました。
https://www.j-cast.com/2017/07/28304395.html?p=all

折角なので、岩手県宮古市(田老地区)は、「多浪の聖地(或いは故郷)」を標榜し、この方々の全国大会などを行って欲しいとの誘致活動をなさるべきではないかと思います。

参加者の方々には、震災時に巨大津波に飲み込まれてしまった「防潮堤の長城」に全員で並び、多浪を乗り越える力強い人生の誓いを叫んでいただくと共に、たろう観光ホテルの最上階で「あの映像」を見て「どんな高い人生の津波にも打ち砕かれない多浪の誇り」を新たにしていただくのも良いのではないかと思います。

また、当然のことながら、東大や阪大など優秀な方々の集団であることは間違いないのですから、地元側は田老地区のまちづくりや活性化、全国や世界とのつながりの支援なども含む長期的な関係形成を彼らにお願いすべきではと思います。

それこそ「多浪」が「田老」を助ける中で双方の誇りが取り戻されるという点で、「救いに至る道」とも言えるのかもしれません。

特定のイベントを揶揄したいわけではありませんが、震災から何年も経て、政治家やマスコミなどの「形だけ・かけ声だおれの復興エール」ばかりが目に付く一方で、現実に沿岸被災地と全国・世界の様々な方々が共同した取組をしているなどという報道などに接する機会が減っているだけに、こうした「多少のユニークさも含めて、多くの人々の関心を引きつけ、現地に行きたいと思えるイベント(風化対策)」が求められているのではなどと思わないこともありません。

ちなみに、私は司法試験では2浪していますが、多くの先輩方に「そんなのひよっ子だ」と笑われてしまいそうです。

このおうちの変と北奥のボソっと道

本ブログを何度もご覧いただいている方はご存知かと思いますが、私は時折、短歌(狂歌?)や川柳(俳句?)の真似事をするのが現在のささやかな楽しみになっており、奥のほそ道に倣って多少の文章を書いた上で一句(一首)を載せるのを常としています。

といっても、学校の国語の時間以外に短歌や俳句などを勉強したことはもちろんなく完全な自己流なので、その種の教養のある方にとっては見苦しい限りなのかもしれません。

ただ、短歌であれ川柳・俳句であれ、特別な技量や素養のある方々の世界を大切にしつつ、「防人の歌」のように一般大衆が素朴に感じたこと、考えたことを表現したり、そのことにより時代を何らかの形で映し出すような営みが盛んになって良いのではないかと思っており、そうした理由から、敢えて厚顔無恥ぶりを発揮して、今後も気に入ったものが出来上がれば、懲りずに投稿し続けたいと思っています。

今も昔も、功成り名遂げた立派な弁護士さんが回顧録などを出版なさる光景をよく目にしますので、いつの日かそうした方々に対抗?して「北奥のボソっと道」などと題し、ブログで掲載した短歌や川柳を文章を添えて出版してみたい・・などと妄念に囚われないこともありませんが、一笑に付されるだけというのが関の山でしょう。

というわけで、連歌?を気取るわけではありませんが、先日思いついたものを何点か。

家事はいま 私せんたく 妻はネコ 鈴の音で知る このおうちの変

カビ落つる クーラーの風せきとめて

網戸ふき 今年の手相も黒一色

教育の抗弁 こちらに勝ち目なし

今宵また家と事務所の天の川 共にソファで仰ぐ星空

余談ながら、5月に旅先で芸能人の方々が俳句の腕を競い合う「プレバト!!」なる番組を始めて知りましたが、夏井先生の添削シーンを拝見しながら、私はどうしても理屈がちで言葉がほとばしるような作品は作れないので、せいぜい凡人2位止まりだろうと痛感せざるを得ませんでした。

仙台地裁の資料室と無慈悲なアナウンス

先日、当方が1審で勝訴した裁判で相手方が控訴したため仙台高裁で第1回期日があり、出張してきました。

東京時代は、銀座の事務所に勤務しており控訴審=東京高裁への出頭も頻繁にしていましたが、岩手では仙台の往復交通費などが馬鹿にならないこともあり、依頼主に判決等の強い希望がなければ、なるべく1審で決着させたいと考えて進めることも少なくなく、仙台に仕事で赴く頻度はせいぜい半年に1回くらいという感じです。

ともあれ、7月はバーゲンの季節でもありますので、学生時代からバーゲン巡り(買えるかどうかは別問題)をささやかな楽しみにしている身としては、閉廷後、重い事件記録を抱えながら中心部のデパートなどをウロウロ巡った後、ハイライトというべき仙台三越にやってきました。

が、割引品が少なく、どうも様子がおかしい、最近は6月末からバーゲンが始まるそうなので、もう売り切ってしまったのか?と思ったところ、予想外の無慈悲なアナウンスが響き渡りました。

「あたしミツコー。 明日から、みんなお待ちかねの三越クリアランスバーゲンだよー」

そんなわけで、毎度の一句。

炎天下さまよい晩菊ひとつ買う

ちなみに、私の実家では父がたまに晩菊を土産に買ってきたので子供の頃はよく食べていたのですが、私の知る限り盛岡では晩菊が手に入らず、仙台出張の際に駅前など幾つかの商業施設の地下コーナーで時々買っていますが、私以外の家族は漬物を好まず、一人さみしく頂戴しています。

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ところで、今回の仙台出張では、仙台地裁の資料室(図書室)を尋ねることも目的の一つでした。

これは、先日、盛岡地裁の資料室(図書室。岩手弁護士会の会員にも利用が認められています)で探しても見つからなかった本について、仙台地裁ならあるかもと思って尋ねてみたのですが、残念ながら、仙台地裁にも所蔵されていませんでした。

仙台地裁の資料室にお邪魔したのは初めてで、総務課に伺ったところ、基本的に仙台弁護士会の会員にのみ開放しているが、相応の理由があれば許可するということで、ご了解いただき立ち入りました。

さすがに盛岡地裁の資料室よりも蔵書量は多い(ざっと1.5~2倍くらい?)感じでしたが、新しい書籍の充実度はさほどでもないような印象もあり、盛岡のラインナップとも似ている感じもしました。

裁判所で購入する本を誰がどのように決めているかは存じませんが、折角なら、仙台では東北の他の地裁で購入しない本を優先的に揃えるといった営みがあってよいのではと思いました。

が、それ以前に、そもそも岩手弁護士会にそうした書籍を買って欲しいというのが痛切な願いですが、会運営に何の影響力もない末端木っ端会員には、望むべくもありません。

学童保育が地域で果たしうる役割

以前にも投稿したことがありますが、先日、私が運営に少しだけ関わっている盛岡市内の学童保育所の責任者の方の指示で、県内の多くの学童保育所が加入している「岩手県学童保育連絡協議会」の総会に参加し、当方施設の実情や県連協への要望などについて5分ほど簡単な報告をしてきました。

要望といっても、県連協の最大の課題とさている「学童支援に関する県内自治体間の格差」(北上や久慈などは相当の予算措置が講じられて立派な施設が作られている一方、児童センターを重視する盛岡が学童に冷淡だとされていることなど)をその場で述べても意味がありませんので、当方施設が昨年に経験した出来事(NPO法人化)に関する経過や意義のほか、私個人の経験を踏まえて学童保育一般に求めることなどを簡単に述べました。

率直なところ、その場で私に求められている内容が何なのか最後まで考えがまとまらず、しどろもどろで全く堂々としていない拙い報告でしたが、

マンション暮らしの住民をはじめ、現代の地域社会が互いの繋がりの乏しい関係になっている状況の中、子ども達が地域の良質な大人達から影響を受けて育つ機会が損なわれていること、

それゆえ、地域の子らの生活の場所の提供者たる学童保育所には本来的な役割だけでなく、地域の人々の結節点などという形で潜在的に大きな可能性、果たしうる役割があること、

だからこそ、その意義や価値を多くの方に伝達いただくと共に無理のない形で地域社会との良質な繋がりを深めていただきたいこと

などをお伝えしました。

とりわけ、現代の社会は、バラバラになった地域のコミュニティの再構築や地域住民に対する公的サービスの提供のあり方に関する再編成=「官から民へ(お役人や税金に依存しない住民の自律的・自治的な地域社会の再形成)が重要な課題になっていることは言うまでもありません。

私が関わっている学童保育所で、地域社会と有意義な関わりを持つ先進的な試みがなされているなどという事情を聞いているわけではありませんので、私の願望を述べたものに過ぎませんが、学童に限らず、そうした事柄への貢献も視野に入れた幅広い活動を様々な方に考えていただければと思っています。

東京に負けない地方制度の大改革と「方言政党んだんだ」結党を目指して

都民ファーストの会の躍進で「にわか地域政党ブーム」が再燃しそうな気もしますが、これまで「方言や訛りを用いた政党名」は聞いたことがないように思いますので、岩手など過疎県ではそうした蛮勇を振るう方がいてもよいのではないでしょうか。例えば、

①いわでがいづばんの会 ②岩手でいがったの会 ③地域政党んだんだ

なんてどうでしょう。

近年、方言や訛りの文化(ひいては言葉に宿る思想・哲学の多様性)の消滅の危機が叫ばれているだけに、敢えて地域独自の言語の意義や価値を地域のオリジナリティや誇りの象徴として標榜する運動があってもよいのではと思わないこともありません。

まあ、ネット上で「田舎の勘違い泡沫キラキラ政党」と揶揄されて終わってしまうのかもしれませんが・・

もとより、私自身は、零細事務所の維持と家族政党「あたしの都合が第一」の活動に精一杯というのが恥ずかしい現実です。

都知事選の際(1年前)、小池氏には東京から日本の閉塞的な政治文化をぶっ壊すという心意気で頑張っていただければという趣旨のことを、対抗馬たる増田氏へのエールと共に述べた投稿を載せたことがあります。

都議会に限らず、地方自治の統治機構制度が現状のままで良いのかと感じている方は少なくないでしょうから、首都圏に限らず地方でもそうした機運が盛り上がることを期待したいものです。

・・・とFBに書いて投稿したところ、大学時代の先輩から、事務所名を「岩手でいがった法律事務所」にしたらどうか、とコメントをいただきました。

が、職員に

そんたひょんたななばでんわぐぢでへんのやんたべじゃ、
んがおらさそだなほずねえごどやれつったってわがねんだ

と拒否されますので、謹んで遠慮させていただこうと思います。

余談ながら、最近の「ケンミンショー」では、上記のような「地域の方言コーナー」が登場していますが、こうした試みを通じ、地域の言葉を保全し、そこに潜む文化を考える潮流がより盛んになればと思っています。

岩手は東北の中でも「住みよさ」の劣る地域なのか?

東洋経済新報社が行っている全国の各自治体の「住みよさランキング」に関する記事が出ていましたが、北東北なかんずく岩手・盛岡の自治体の順位が南東北(ひいては全国)に比べて残念なものとなっているようです。
http://toyokeizai.net/articles/-/177362

あくまで同社の独自評価であり、同社が有意と考える特定の要素が重視されるなどのバイアスがあるのだと思いますし、素人感覚では東北でダントツ一位になって良いはずの仙台市が上位ランク内に入っておらず(前年(2016)のランキングも含め、かなりの下位のようです)、隣接する名取が1位になっているという奇妙さもあるなど、割り引いて考える必要がありそうな気はします。
http://toyokeizai.net/articles/-/123956

ともあれ、盛岡も長年住んでいれば、学童保育への公的支援が薄いとか(市が児童センターを優先し学童は敵視しているらしい?)、二戸(私の頃)と異なり中学校に給食制度(センター)がなく、仕事のある親(早朝労働)か子(がっかり弁当で、しかも付け合わせ禁止とのこと)のいずれかが泣く羽目になるとか、残念な話を聞くこともありますので、そのことも考慮されたのかもしれません。

よく見ると、北上に比べ、ほとんどの指標が上回っているのに「住居水準充実度」だけが突出して負けており、学童も「北上未満」の典型例らしいので、そうした事情が関係しているのかもしれません(住居水準充実度は、住居スペースや持ち家比率などを指すとのことで、福祉制度は関係ないのかもしれませんが)。

ただ、今のところ大型ダンプが行き交う階段ピラミッドの街という様相を呈している陸前高田が「快適度」全国19位になっているというのも違和感ありますが・・
http://toyokeizai.net/articles/-/177113?page=4

「富裕度」については、他地域に比べて残念な自治体ばかりの東北・北海道管内では健闘している数字ですが、それは県内の富を集める一部の方が市内におられるというだけの話で、この仕事をしていると残念な生活水準・状況の方も多数お見かけしますので、地域全体の住みよさにどれほど関係あるのやらという感じはあります。

私も震災以前にはワークライフバランスはさておき収入面だけは分不相応の額をいただいた恵まれた年がありましたが、今や遠い目で懐かしむほかありません。

数年前、盛岡市役所が「ブランド宣言」なるものをしたという話があり、最近はあまりそうした類の記事を見ることもありませんが(田舎の行政関係者の抽象的なナントカ宣言の類なら今も昔もありますが)、まずは、こうした統計も踏まえて他者と比較しつつ要改善のポイントを探る姿勢を示していただければと思います。

全データが掲載された書籍を拝見していませんが、ネット上の情報から察する限り、二戸など北岩手・東青森=旧糠部地域(私の出身エリア)が全く見当たらず残念に思う反面、ぜひ「おらほの町はAがなくともBがある。町になくとも俺にはある(今、これから生み出してみせる)」などと、各人が全国、世界に向けて独自の存在感を発揮していただければと思います。

帰ってきた二戸ロータリークラブと田中舘秀三物語、そして「あれから30年」

5月の話で恐縮ですが、盛岡地裁二戸支部に所用があり、ちょうど二戸ロータリークラブの例会日でもあったので、折角だからということで、例会に参加してきました。

ちょうど今年の会長さんが私の小中学時代の同級生のお母さんで子供の頃に大変お世話になった方だったため、予めご挨拶していたところ、折角なので卓話をしてはという話になりました。

そこで、簡単な自己紹介(30年前の二戸RCの思い出話)の後、今年の2月頃に引用のブログでも連載した「世界遺産シンガポール植物園と同国の文化学術資産群を戦災から守った二戸人(兼盛岡人)・田中舘秀三博士(東北帝大教授)の物語」について、お伝えしてきました。

幸い、田中舘愛橘会の会長さんもいらしていましたので「あらすじ案」を印刷したものをお渡しし、愛橘博士に続き秀三先生の物語も漫画化していただければとお願いしました。

会員さんには、この話を初めて知ったという方も多数おられたようですので、地元の「知られざる偉人」の顕彰としては意味があったのではと思われます。

今後も秀三博士(先生)の物語についてどこかでお伝えできる機会があればと思っていますので、関心のある方は、お気軽にお声がけいただければ幸いです。

また、以前にブログで連載した「あらすじ案」は、「あとがき集」と共にA4用紙25頁分にまとめており、ご希望の方から直メールいただければPDFでお送りすることは可能ですので、ご遠慮なくお問い合わせ下さい。

例会のあと裁判所の所用まで時間があったので、会長さんほか何人かの方にお付き合いいただき、しばらく雑談をさせていただいたのですが、久しぶりに「ふるさとの人は有り難きかな」と感じる暖かい時間を過ごすことができました。

私は幼少期から同世代の子供達と一緒に過ごすよりも大人達に混ざって横で会話を聞いているのを好む変な子供だったせいか、少しばかりあの頃に戻ったような気もしました。

こうした機会に限らず、二戸の人々にも必要としていただける場を持つことができるよう、まずは研鑽に努めていきたいと思います。