北奥法律事務所

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盛岡と2つの福岡の三角関係

先日知ったのですが、福岡市に「旧日本生命九州支店」という文化財があるそうで、その外観は、盛岡市の岩手銀行旧本店と非常によく似ています。
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/51
http://www.iwatebank.co.jp/restroom/legacy/nakano/index2.html

ご存知の方も多いとは思いますが、これらの建物は明治の著名建築家・辰野金吾の設計によるもので、我が国には辰野式と呼ばれる、同種のデザイン(色遣い)の建物が幾つかあります。

それはさておき、同じルーツのよく似た建物を持っている都市同士ということで、この話題を起点に、福岡市と盛岡市が何らかの交流を図ってもよいのではと思いますが、そのような話が過去にあったかは存じておらず、前例がないのでしたら、どなたか考えていただければと思わないでもありません。

とりわけ、両市は、古くは江戸時代初期に、栗山大膳という人物(「軍師官兵衛」で登場する腹心・栗山善助の子)を介して関わりがありますので(黒田官兵衛の現存する唯一の兜が、栗山大膳を経て盛岡南部家に寄贈され、現在は盛岡歴史文化館=盛岡市が所有しているそうです)、そうした話を色々と集めて、両市民の関心を高める工夫をしても良いのではと思います。

私は残念ながらまだ福岡市には行ったことがないのですが、福岡市には、北東北三県のアンテナショップがあるとのことですので、例えば、そうした店舗に、上記のような「福岡市等と共通する話題」を集めたコーナーを常設するなどしてもよいのかもしれません。

ところで、以前も書いたかもしれませんが、盛岡の実質的な創設者というべき南部信直公は、当初は青森県田子町の領主で、その後、岩手県二戸市を舞台とする南部家の跡目争い(秀吉・家康連合軍が絡んだ大戦争)に勝利し、その際、一旦は二戸を本拠とし、その地を「福岡」と名付けた後、浅野長政の勧めで移転し、移転先の地(不来方)を「盛岡」と名付けたと言われています。

福岡市の方は、黒田長政が関ヶ原の勝利で筑前を拝領した際、黒田家の実質的な発祥地である備前(岡山)東部の福岡という街(名称の成立は平安~鎌倉期とのこと。刀剣の名産地だそうです)に因んで名付けたそうですが(wiki情報)、果たして、岩手の方の「福岡・盛岡」の命名の由来に、そちらの福岡が何らかの形で関わっていなかったのだろうかと想像を膨らませてみるのも、歴史の一つの楽しみ方かもしれません(残念ながら?奥州征服軍のメンバーには、黒田父子は含まれていないようですが)。

廃れゆく第三者検証と田舎弁護士

「大雪りばぁねっと」事件では、岩手県が山田町に多額の補助金(税金)を支出した(のに回収不能となった)関係で、補助金の支出に関わった県の対応に違法不当な面がなかったか検証する趣旨の委員会が行われ、先日、報告書が出されましたが、「県の対応は一概に不適切とまでは言い難い」等の検証結果に対し、県議会では検証不十分との批判の声があがったというの報道がなされています。http://www.nhk.or.jp/lnews/morioka/6045634511.html?t=1393991536424 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20140304-OYT8T01513.htm

「第三者検証」については、平成11年頃に発覚した岩手青森県境不法投棄事件の際、当時の増田知事の指示で県の対応を検証する第三者委員会が設けられており、これは、「第三者検証」としては初期に作成されたもの(恐らく、第三者検証がその後に流行するきっかけとなったものの一つ)と思われます。

その際は地元の大ベテランの弁護士の方が委員長となり、我が国の環境系の行政法学者の第一人者の一人である北村喜宣教授が委員の一人として大鉈を振るったとも聞いており、この事件では岩手県は被害者という色合いが強いものでありながら最後の時期の県の対応には権限行使(許可処分)について違法な点があったと断言するという点で、画期的と目された検証報告書が提出されています。

その後も岩手県では、競馬場問題など幾つかの県の政策課題で第三者検証委員会が行われていますが、私の知る限り、報道で大きく取り上げられたとか県政に相当な影響を及ぼしたという話は聞いたことはありません。

私は、県境事件の検証報告書のほか、その後に公表された幾つかの報告書も見ていますが、県境事件に比べると、あまり踏み込んだ検討をしていないという印象を受けた記憶があります(釜石の鵜住居センターの報告書はまだ拝見していませんが、相当に膨大なものだと聞いており、地元の気鋭の弁護士さんも関わっているため、例外に属するのかもしれません)。

全国的に見ても「第三者検証」が期待はずれと言われることも少なくないようで、現在は「第三者検証」ブームの廃れ?に伴い、検証に関する取組も、徐々に低調になっているように思われます。

今回の「りばぁねっとへの補助金の検証」では、過半数が県職員で、外部者は県内の大学の先生お二人だけとのことですが、その布陣に止まったのも、低調な潮流の流れの一環と理解した方が賢明なのかもしれません。

ちなみに、山田町による検証報告書(こちらも地元のベテランの弁護士の方が委員をされています)もネットで概要版が公表されていますが、実務家としては、「補助金受領者の対応の検証」や「行政対応の検証」を目的とするのであれば、個人名は伏せるにせよ、受領者や関係職員等の具体的な作為・不作為を抽出し、それらに関わる法令・規則等も明らかにして、前者が後者に抵触しないかについて具体的に論及するような内容にした方がよいのではと思わないでもありませんでした(それがないと、何となく、行政の政策や執行のあり方に関する抽象的な見解に述べているに過ぎないように見えてしまいます)。http://www.town.yamada.iwate.jp/osirase/daisansha-iinkai/houkoku-gaiyou.pdf

もちろん、関係者の法的責任の有無の解明を目的とするか否かという前提の問題はありますし、私自身、検証のあるべき姿についてさほど心得があるわけでもありませんので、個々の作業に関し偉そうなことを言うつもりはありませんが(なお、通常は検証結果をもとに職員に対する懲戒等の処分をするはずなので、少なくとも、行政の担当者の作為・不作為(法適用等)が関係法令に合致したものと言えるかについて具体的な検討をする内容でなければ、やる意味がないのではと思いますが、その点の実情はどうなのでしょうか)。

ところで、弁護士会には「弁政連」という政治家の方への陳情等を目的とした別働隊のような団体があり、私も、名ばかり(昼飯穀潰し要員)ですが入っています。

岩手では「日弁連の偉い方々が掲げている憲法や人権云々の大きな話(集団的自衛権反対など)について、岩手の代議士や県議に陳情せよ」との指令?に基づき、年に1回くらい、議員さん達と懇談会をして、そうした話をしています。

ただ、そうした事柄もいいのですが、個人的には、個々の弁護士にも議員さん達一人一人にもさほどの影響力がない上記のような「大きすぎる話」ばかりでなく、陳情する側もされる側も一定以上の影響力を直ちに行使できる地元固有の事柄に、もっと力を注いだ方がよいのではないかと思わざるを得ないところがあります。

例えば、県議さんに対し、「県内で起こった、税金(県税)の使い道に関する大きな事件・問題の検証については、県職員や学者さんばかりに任せるのではなく、事実の調査や分析等に研鑽を積んだ(又は積む意欲のある)地元の若い弁護士に機会を与えて欲しい。(りばぁ事件のニュースで)県の幹部の方に、『県議自身が、検証委員は県職員で良いと選んだのだから、報告書を見て検証委員が県職員だから身内に甘くてダメだなんでいうのは間違っている』と言われるくらいなら、その方がマシではないですか」といった陳情をしてもよいのでは、と思わないでもありません。

とはいうものの、私が余計なことを口にしても皆さんに嫌な顔をされるだけなのだろうなぁと思って、会議・会合の類では毎度ながら貝になってしまうのがお恥ずかしい現実です。

個人的には、可能なら、岩手県に絡んで作成された過去数年ないし十数年の第三者検証委員会報告書を全部集めて、法律家の立場から、それらの精度を検証するような(いわば第三者検証ランキングのような)レポートを、意欲のある弁護士が作成して公表してもよいのではと思わないでもありませんし、私もそうした試みに関わってみたいという気持ちがないわけではありません(まあ、岩手弁護士会については、以前に身内で起きた大事件の検証もしていないじゃないかと言われそうな気もしますが)。

ただ、私自身、今や業界不況の真っ直中のせいか、事務所の運転資金のための労働と兼業主夫業で精一杯というお寒い現実があり、大言壮語を吐く資格が微塵もない有様で、ただただ嘆くほかありません。

少なくとも、「第三者検証なんて何の意味もないね、やっぱり警察に捕まえて貰うしかないじゃないか」という形で世論がまとまるのであれば、民主主義を標榜する社会としては寂しい限りというほかなく、関係者の奮起と国民・住民一般の後押しを期待したいところです。

追記(3/6)

この投稿をfacebookで紹介したところ、「友達の友達」である学者の先生から、預り金の信託に関する判例(最判H14.1.17及び最判H15.6.12)の紹介がありました。

私自身、十分に咀嚼できていませんが、例えば、自治体(金員交付者)がNPO法人(金員受領者)と信託契約を締結し、交付金を他の財産と区別して管理させる(特定の口座に預金させ目的外の預金払戻等もさせない)ことを徹底しておけば、仮に、法人が倒産しても、その交付金(預金)が特定され保全されていれば、破産の効果(総債権者による差押)が及ばず(信託法23条?)、取戻権のように全額を自治体が返還請求できるということもありうるかもしれません(後者の判決の補足意見参照)。ただ、信託は残念ながらご縁がなくほとんど勉強もしていませんので、まだ思いつきレベルです。

まあ、今回(りばぁ事件)は、自治体側の監視等の不行届が著しそうなので、そのような話をする前提すら欠いているということになるかもしれませんが、少なくとも、自治体が補助金を交付する例に限らず、預り金なども含め、返還の可能性を伴う高額な前払金を交付する場合には、信託的手法の活用も意識すべきことになるのかもしれません。

 

カーリング日本代表とヤカーリング

岩手限定のネタで恐縮ですが、本州で一番寒いとされている盛岡市(旧・玉山村)の山中にある岩洞湖では、毎年この時期に「すがフェスタ」というイベントをやっており、例えば、ヤカンを湖上(氷上)で転がす「ヤカーリング」なるものをやっているのだそうです(引用記事は去年のものです)。
http://morioka.keizai.biz/headline/1269/ 

私はまだ行ったことがなく、深夜に少しばかりカーリングの五輪中継を拝見したこともあり、今年こそはと思っていたのですが(但し、氷上ガリガリ君はJCで懲りたので遠慮します)、残念ながら、主催者側の高齢化や人手不足により(超過疎地帯です)、今年は不開催になったと、今日の岩手日報に書いてありました。

 

ちなみに、そのすぐ近くの記事には、「カーリング日本代表の苫米地選手(二戸出身)が、カーリングを始め、競技生活を続けてこれたのは、長野五輪の頃に二戸の青年会議所のメンバーが二戸でカーリングの振興を立ち上げ、支えてきたからだ」という趣旨の記載がありました。

 
旧玉山村は、盛岡と合併してから、「玉山牛」がいつの間にか「盛岡牛」になったりして、何となく地域のブランド価値やアイデンティティの維持に苦労しているような感があり(実質的に、吸収合併と見られてもやむを得ないと思います)、それだけに、JCに限らず、盛岡の中心部等の人々に、こうした営みを支えていただくべきではないかと思ったりします。

「小保」な人々のルーツを求めて

昨日あたりから、iPS細胞に続く新万能細胞の作製を実現したとして、小保方さんという女性の方が報道され、一躍時の人になっています。

私も「小保方」という名字がこの世にあるということを初めて知ったので、小保方という姓は「小保内」の姓と関係があるのだろうか?と不思議に思い、少し調べてみました。

で、ネットですぐに出て来たのは、群馬県伊勢崎市内に小保方という地名があり、江戸時代から東小保方村・西小保方村という村があって、その地域に住んでいる方は、小保方という姓を名乗ることが多いという話でした(もちろん、そのことと冒頭の小保方さんとのつながり等は一切不明です)。

他方、肝心の「小保方」という姓ないし地名の由来等に触れたサイトまでは発見できませんでした。江戸時代より前は別の地名だったと書かれたサイト(小保方地区にある神社について触れたもの)も見かけたのですが、真偽は不明です。

ちなみに、「小保内」姓のうち、私の一族(本家)の発祥については、江戸時代初期から二戸に在住していたことは間違いないとされており、また、桃山期には秋田県田沢湖周辺(現・仙北市、旧・田沢湖町=生保内町)の領主?をしていたとの伝承があります。

以前、私の本家のルーツについて色々と調べたことがあり、いずれ長々と書いてみたいと思っているのですが、少なくとも、「小保方」という姓や地名と接点があるという話に接したことはなく、残念ながら無関係と思われます。

ちなみに、小保内の「内」はアイヌ語の「沢(小川)」を意味すると言われており、この点は、「ナントカ内」が山ほどある北海道に見られるように、よく知られた話かと思います。

他方、肝心?の「小保」の由来は何を調べても見かけたことがなく、未だに謎です。

ちなみに、福岡県大川市(佐賀市との県境で有明海に面する場所)には、「小保」という地名があるそうですが、こちらの地名の由来も不明です。また、読売新聞の4コマ漫画「コボちゃん」は、wiki情報によれば、主人公の名前が「田畑小穂」で、作者が幼少時に「小さい子」の意味で呼ばれていたあだ名に由来するとありますので、「小保内、小保方」等とは何の関係もないようです。

というわけで、「小保(内)」や「小保方」などの由来をご存知の方がおられれば、ぜひご教示いただければ幸いです。

追記(2.1)

この記事をfacebookに投稿した後、他の方から「古代の常陸の国に勢力を伸ばしたオホ氏という人々がおり、多氏とも呼ばれていた」等のお話を伺いました。

wikiでは「多氏」について「於保とも記され」とあり、思いつきレベルの仮説として、遙か古代に、多氏(古い皇族と述べているものもあれば、渡来人である秦氏から分かれたものと記載するものもあります)の一族から分かれた人が、「オホ氏」となって常陸を中心とする東国に分布し、その中で、秋田県田沢湖周辺に住むようになった人が、アイヌ語の「ナイ」と組み合わせて、「小保内」を名乗るようになった(或いは、その流れの中で小保内の姓や生保内の地名が成立した)、ということも考えられるかもしれません。

私も、多少の壁にめげることなく?、さらに調べて分かったことがあれば、またネタとして書いてみたいと思いますが、私のことを書いても世間の注目は浴びないでしょうから、便乗?したい身として、小保方さんの益々のご活躍を祈念しています。

五戸と菊駒へのいざない

少し前の話ですが、父の葬祭の最中に今度は青森県五戸町に在住の母方の伯父が亡くなったとの知らせを受け、私も一度は葬儀に出席すべきということで、先日、通夜に出席してきました。

私の母も五戸町の出身で、小学3、4年頃までは、半年に1回以上の頻度で母の実家を訪問し、当時は大家族であった実家の方々に可愛がっていただきました。

当時は、私は自分の生家(父方)にあまり居心地の良さを感じていなかったせいか、不思議なほど母の実家の方が、楽しかった思い出ばかりとの記憶があり、また、どういうわけか、子ども向けのテレビ番組について、母の実家で視聴した記憶だけが残っている(自宅で見た記憶がほとんどない)という不思議な感覚があります。

具体的に言えば、「ウルトラマン80」、「ザ・ウルトラマン(アニメ)」は五戸で見た記憶しかなく、ガンダムも五戸で見たときの記憶の方が鮮明に覚えているという有様です(黒い三連星の回だったせいかもしれませんが)。

幼少時、自宅のテレビは父が野球中継、祖母が時代劇(水戸黄門等)と横溝正史シリーズで占領していた記憶しかなく(後者は私も一緒に見ていましたが)、そうしたことも影響しているのかもしれません。

それはさておき、通夜の際には、予定時刻より少し前に到着したので、五戸の中心街などを少し自動車で散策しました。

私の場合、小学校高学年に達した頃には、母が私達兄弟を連れて実家に帰ることがなくなり(兄が中学に達したことが関係しているのか、その辺はよく分かりません)、それ以後、五戸に行く機会が全くなくなり、7、8年前に、青森地裁に一度だけ自動車で行った帰りに、高名な馬肉店(尾形)で馬刺を買って帰るため五戸を少し垣間見たという程度です。

が、改めて五戸の中心街を廻ると、私の子供の頃の風景がかなり残っており、また、二戸をはじめ岩手の主な市町村では薄れてしまった独特の香気というか、昭和の風情や気品を色濃く残しているものがありました。

五戸の中心部は斜面に沿って形成されており、最下部に五戸川と後記の菊駒酒造があります。岩手には、傾斜地に古い街並みが形成されている町自体が全くと言ってよいほど存在しない上(敢えて言えば花巻駅前付近くらいでしょうか)、県北などでは二戸のように旧街道沿いに一直線の街並みになっている場所が多く、斜面に密集するような形で中心部(旧市街)が形成され、今も一定程度は保全されている町は、北東北でも珍しい部類に入ると思います。

そうした意味では、古い街並みが好きな方にとっては、歩いて楽しい場所であると思います。中心部だけでなく、川原町を中心とする五戸川のエリアも独特の風情があります。

ところで、二戸に南部美人があるように、五戸には「菊駒」という日本酒(銘柄)を製造している長い歴史のある企業(現在は、菊駒酒造という会社名)があります。 http://www.kikukoma.com/

私の実家は酒類卸をしている関係で、成人後(司法修習の際や受験生時代の合宿時)に実家から日本酒を送って貰うことがあったのですが、その際は、二戸の酒である南部美人と、五戸の酒である菊駒の2つを送って貰っていました。

南部美人は、今やすっかりメジャーになったのでご存知の方も多いとは思いますが、飲みやすい酒で、とりわけ大吟醸は刺身や上品な和食と非常に相性がよく、日本酒に苦手意識のある女性の方なども安心して飲める酒だと思います(修習生の際には、クラスの方々への社交道具として、大いに重宝しました)。

他方、菊駒は、私の感覚では南部美人よりも重く力強い酒で、日本酒が心底好きな人に向いており、酒肴も、刺身などあっさりした上品なものではなく、塩辛や酒盗のような味の濃いものと非常に相性がよいと思います。修習生の際にも、そうした理由で自分は南部美人よりも菊駒の方が好きだと仰る男性もいました。

いわば、双方は個性が全く異なる好対照をなす酒であり、飲み比べながら双方とも大いに味わっていただきたい銘酒同士と言えると思います。

ただ、青森の方はご存知かも知れませんが、ここ十数年は順風満帆そのものの南部美人とは逆に、菊駒は、その間、協力関係にあった八戸のメーカーと紛争が生じるなど苦難の道を歩んできました。

私は経営者の方を存じているのですが、現在はその問題も終息し、長い歴史のある酒造家を継いだ若い真面目な社長さんを中心に、懸命に酒造りを続けておられます。

そんなわけで、二戸及び南部美人だけでなく、五戸及び菊駒も大いに贔屓にしていただければというのが、2つの街にルーツを持ち、2つの銘酒に浅からぬ縁を持って生きてきた私からの皆さんへのお願いです。

最後の代表的二戸人

1月4日に父が亡くなり、13日の葬場祭まで色々と対応に追われました。葬儀の段取りなど大半の実務は喪主である兄に任せきりで、私は多少の手伝いをした程度ですが、10日間ほど毎日のように自動車で二戸に往復し、心身ともに多少は疲労を感じています。

ともあれ、ご参列、弔電、供花など、父の弔いにご配慮を賜りました皆様には、改めて御礼申し上げます。

この間、HPの更新等も差し控えていましたが、50日間(神道の忌中期間)も差し控えるのもいかがかと思いますので、本日以後、更新を再開させていただくつもりです。

父は、癌のほか、かなり以前から糖尿病や心筋梗塞など様々な病気を患い、生死の境を行き来するようなことも一度ならずありましたので、私達家族にとっては「突然の訃報」ではなく、ここまで生き続けることができたことの方が奇跡的なことであると、私自身は淡々と受け止めているというのが正直なところです。闘病生活に関しては、遠方で生活する私はほとんど役に立つことはなく、兄と母に任せきりでしたので、父への弔いに劣らず、兄と母に感謝の言葉を述べなければならないと思っています。

私の実家は今は昔日の勢いはありませんが、曾祖父が商人として成功し、少なくとも数十年前は二戸でも有数の商家と目されてきました。父も、先代までに築かれたものを引き継ぎ、流通業に押し寄せた荒波から家業を守り抜くと共に、地域社会や所属業界等の様々な役職等をお引き受けし、その責任を全うしてきたことは間違いありません。

その点では、誰にも恥じることなく往生を遂げたものと、遺族としては理解しています。

父は昨年末頃、やり残したことが幾つかあるので、あと3年は生きたいと申していましたが、心はともかく身体が燃え尽きてしまったというほかなく、その点は致し方ないものと認識しています。

父をご存知の方なら共感いただけると思いますが、父は、単に地域の小企業の経営者であっただけでなく、朴訥・愚直な性格であると共に、里山の枯れ木に話の花を咲かせるような「田舎の気さくな好々爺」という一面もあり、様々な意味で、「質実剛健」などの言葉に代表される二戸の気風を体現する人でもありました。

以前、某社の二戸支社にお勤めの方と親しくなった際、「二戸の三悪」という言葉があると教えて貰ったことがあります。いわく、①福岡高校出身者、②野球部出身者、そして、③「だんなさま」(地域の有力者)が地域に隠然たる力を持ち、それが北東北の田舎にありがちなある種の閉鎖的体質と相俟って、様々な弊害を地域に生じさせている、というものでした。

「悪」かどうかはさておき、地元で著名な商家の後継者であると共に、旧制福岡中学の最後?の入学者にして発足間もない新制福岡高校野球部のレギュラー選手でもあり、長期間に亘って福高野球部のOB会長を務めていた父は、二戸のキーワードというべき上記の三大要素のすべてを強く備えた人であったことは確かです。

そして、数十年前、福高・野球部そして二戸の社会が、恐らく今よりも強い輝きを放っていた「古き良き二戸」の時代をよく知る者の一人として、その誇りと価値を守り、ささやかながらも次代に語り継ぐ役割を懸命に果たしてきたと思います。

反面、幼少期の私の実家は昼夜とも多くの人が出入りする特殊な家であり、私達家族はそうした「普通の家庭にはない光景」と否応なく向き合わなければならなかった上(母をはじめ家の者の負荷も決して軽いものではありませんでした)、当時の父は多忙等を理由に家族を顧みることがほとんどなかったことなどから、少年時代の私は、正直なところ父とは良い関係を持つことはできませんでした。

父が背負うものが「古き良き二戸」であればこそ、光には影が伴い、光強ければ影もまた濃しというように、私自身は古い商家には避けがたく生じる光と影の双方に時に翻弄され、複雑な感情を抱きながら育った面もありました。

とりわけ、中学卒業後に郷里を遠く離れ、運動能力に極端に恵まれず、家業とも無縁の道を歩んだ私にとっては、未熟なまま郷里を遠く離れて生きる身の支えとして郷土の様々なものに強い執着を持ちつつ、他方で、それと対をなすように、自分は郷土で生きることができず故郷に居場所を持てなかった人間だという屈折した思いもあり、郷里に対するそうした愛憎のような思いが父への感情と重なる部分があったことは確かだと思います。

幸い、私も成人した頃には父とは良い関係を持つことができるようになり、また、父も新旧の価値観の挾間で時に悩み、父なりに色々と犠牲も払って家業と郷土を支えてきたことも多少は理解できるようになりましたが、私も自分のことで精一杯の日々が続いたこともあり、結局、子供の頃の断片的な思い出とは別に、大人同士としての父子の交流や共に何かを作り上げるような機会を持つことはほとんどできませんでした。

ただ、1月2日、私の出身中学(二戸市立福岡中)の歳祝いの会(同窓会)があったため、2日と3日に帰郷し、昨年末に病院から帰宅した父も含め、家族4人だけの時間を過ごすことができ、その点は私にとっては最後の良い思い出になりました。

3日には、朝に盛岡に戻るつもりでしたが居間で寝付いてしまい、気が付くと居間に敷いた布団で寝ている父を含む家族4人が居間で一緒に雑魚寝するような状態になり、小学生の頃、親子4人で夜に麻雀をした頃のような懐かしさを感じることができました。私には、恐らくそれで十分なのだと思っています。

ともあれ、私にとって、父は故郷を象徴するような存在であり、現に、身内が申すのも恐縮ながら、父が二戸に多くの足跡を残してきたことは確かだと思います。それと共に、私が幼い頃に憧憬と反感を抱いた、様々な方が絶えず集まってくる古い我が家、それは、多くの方が、家業の名称でもあり、曾祖父以来、祖父と父が襲名した名前をもとに「小岩」と呼んできた場ですが、私の知る「古き良き小岩」は、父の死により、名実ともに終焉を迎えたのだとも思っています。

しかし、「古き良き小岩」が終わっても、家業と私の実家が終わったわけではありません。兄は些か出不精(引っ込み思案?)なところがあるものの、相応の商才と父の持つ地域のリーダーとしての将才(器)を受け継いでおり、父の遺志を踏まえつつ、兄なりの方法で実家と家業を盛り立ててくれるものと信じています。

実家の家業に関わっておられる皆様や二戸の皆様におかれては、末永く兄と家業をご支援下さるよう、深くお願い申し上げます。

私は、次男という、ある意味、家にとっては「出番が来ないことが幸せ」というべき立場に生まれ育ちました。そんな自分が、法律家という、これもある意味、「(弁護士が必死に主張立証を尽くさなければならない深刻な法的紛争という)出番が来ないことこそが社会にとっての幸せ」というべき仕事に就いたのですから、不思議なものを感じますし、それが自分らしいのではないかと思っています。

私にとっては実家の円満な存続と精神的なものを含めた次代への継承こそが実家に対する最後の望みですので、今後も私の出番が来ないことを祈って、私なりに公のためにできることを模索しながら、遠くから静かに実家と二戸の社会を見つめ続けたいと思っています。

明治の思想家・内村鑑三の著作に「代表的日本人(Representative Man of Japan)」という作品があります。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮上人などの人物とその思想を海外に紹介する内容となっており、明治期の日本が、海外(欧米)に対し、日本の伝統的な精神文化の積み重ねと価値(キリスト教の精神文化に劣らぬ深さを持っていること)を理解して欲しいとの思いで書かれた作品と言われています。

諸説あるものの、ケネディ大統領が、この本を読んで「自分が尊敬する政治家は上杉鷹山である」と述べたとの逸話があり、同時代に記された新渡戸稲造の「武士道」と同様に、多くの影響を当時の欧米社会に与え、新参者たる明治日本が当時の国際社会に加わっていく上で、大いに資するところがあったと考えられます。

仮に現代の我々が「代表的二戸人」という本を作るとすれば、多くの方が、九戸政実、田中舘愛橘、国分謙吉、相馬大作といった方々を挙げるでしょう。二戸の歴史をきちんと勉強した方なら、私達の本家が維新期に輩出した偉人である、小保内定身氏も入れてくれるかもしれません。

しかし、私にとっては、父こそが、その本の締めくくりを飾るに相応しい、最後の代表的二戸人です。

今、その大きな星が天に召されました。しかし、その光は最後に弾け、身内に限らず二戸を愛する多くの方々の胸に、光の欠片が届いているはずです。

ぜひ、その光を手にとって受け継いでいただき、それを踏まえた新たな価値を二戸の社会に届けていただければというのが、郷土愛を支えに生きてきた父を知る、遺族としての願いです。

大変な長文になりましたが、最後までご覧いただいた方に御礼申し上げます。

 

龍泉洞とブルーチーズ

以前、TBSの「世界遺産」で、極上チーズを生んだ羊と洞窟(南仏のコース地方とセヴェンヌ地方)が取り上げられており、拝見する限りでは、ロックフォールという世界で最も著名なブルーチーズ(青カビチーズ)の産地となっていることが、世界遺産として認定された大きな要因のように見受けられました。
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20130922/

そのチーズですが、石灰岩が浸食され網の目のように作られた洞窟にチーズを保管すると、その洞窟にだけ繁殖する菌のおかげで極上のブルーチーズができあがるのだそうです。

で、後で思ったのですが、日本の鍾乳洞も、「石灰岩が浸食され網の目のように作られた洞窟」ですので、例えば、岩手の龍泉洞やその近辺にある幾つかの洞窟で、高級ブルーチーズを製造し、それをブランド化して販売することはできないのでしょうか。

とりわけ、龍泉洞の近辺(北上高地北部)は本州でも有数の乳業が盛んな地域ですし、我が国には高級チーズを国産する文化等があまりない(仏国などから高い代金を払って高級チーズを輸入するのが通例)と理解しています。

最近では、NHKの「プロフェッショナル」で取り上げられた岡山の方のようなケースもあるのでしょうが、岩手でも、そうした試みに挑んでいただける方の出現を期待したいものです。
http://www.nhk.or.jp/professional/2013/1014/

セヴェンヌ地方の羊の大移動と櫃取湿原などの放牧を重ねるなどして、この地域全体のプロデュースも考えていただければ、なお良いのではと思います。

「あまちゃん」と遠距離交際したがる盛岡、奥手な?隣人の八戸

他の弁護士さんのブログでグーグルの検索ランキング(都道府県版を含む)なるものが紹介されていました。昨日の投稿のとおりFB上で「あまちゃん」が話題になっていたので、その点について注目してみたところ「あまちゃん」は「急上昇(全体)」で3位、岩手では1位でした。
http://www.google.co.jp/trends/topcharts
http://www.google.co.jp/trends/topcharts#cid=cities

個人的に興味深く感じたのは、「あまちゃん」の舞台である久慈市は、盛岡ではなく八戸の経済圏であるのに、「あまちゃん」は、青森県のランキングでは全く入っていない点です。青森の3~5位として表示されている項目は岩手県民には馴染みのない話題で、そもそも何なのかすら分かりません。

盛岡駅をはじめ、岩手県内では、久慈から遥か遠く離れた各所で、「あまちゃん」効果にあやかろうと、ポスターその他が散見されますが、先日、八戸を少し訪れた限りでは、「あまちゃん」に触れている(活用ないし便乗しようとしている)印象は受けませんでした。

全国的に見ても、「あまちゃん」は、広域レベルとしては、岩手を舞台にした作品と考える人の方が圧倒的で、この作品と八戸を結びつけようとする動きはほとんどないのではないかと思われます。

そうした意味で、「あまちゃん」(久慈)のすぐ隣人である八戸は、別の県というだけ?の理由で、縁の薄い状態となっているのに対し、遥か遠方にある盛岡等(岩手内陸部)の方が「あまちゃん効果」なるものにあやかろうと、あれこれもがいているという感じもして、地理的に不自然、不合理な感じがしてしまいます。

「あまちゃん効果」なるものを誰がどのように活用し、利益を享受したのか、青森(八戸)の人々は、「あまちゃん」には見向きもしなかったのか、そうでないのか、そうでないのならその原因は何であるか等、久慈を起点にした岩手内陸と八戸との関係なども視野に入れて分析してみると、面白いものが見えてくるかもしれません。

 

ヒッチハイクのIT化による公共交通の補完は可能か

「あまちゃん」効果で今夏の久慈市は観光特需に湧いたそうで、私の周辺でも、妻の友人で東京在住の方が、夜行バスで「あまちゃんバスツアー」なるものに参加され、帰り際に当家に立ち寄っていかれたことがありました。

現在は、特需終了後の反動に対する不安が話題になっているそうで、先日、友人が、FB上で「『あまちゃん』で久慈が脚光を浴びたが、一時的な現象に終わるのではないかとの危惧が大きい。検討すべき論点の一つとして、盛岡等と久慈との公共交通網の整備が挙げられるのではないか」と書いているのを見かけました。

ただ、これだけ、個人による車社会が発達し、バス等の公共移動手段の衰退が激しい現代にあっては、結局は税金依存の道が透けて見えるバス云々よりも、個人の車両を公共移動手段として活用させた方が、個人レベルの広域移動手段の整備としては現実的ではないかという感じもします。

例えば、バス等がほとんど来ない場所を起点に移動したい人(バスの時間に乗り遅れる例も含め)が、通りがかりの一般車両の力を借りて移動できる、ヒッチハイク的な移動方法をより有効活用できないかと思っています。

具体的には、次のようなシステムを考えてみました。

①例えば、久慈地域を旅行中の個人(需要者)が、旅の途中(特に、バス等の便が悪い土地)で盛岡に移動したくなったとする。

②その需要者が、公道を歩行中に、携帯のアプリ?でSOSボタンを押す(できれば、久慈方面から盛岡方面、希望乗車人数1名といった程度の情報は提供する。提供情報はある程度、需要者の判断で増減できるものとする)。

③そのボタンを押すと、半径5?㎞圏内の公道を走行中で、そのシステムに事前登録している車両のカーナビに「SOS信号」が出る(発信範囲(半径㎞数)等は、需要者側で一定の調節ができるものとする)。

④その信号をキャッチした車両の運転者が差し支え(家族連れで座席が満杯等)であればスルーして構わないが、上記の条件を満たす(上記圏内を走行中の)複数の車両のうち、対応してもよいと思った運転者が、その需要者を拾ってあげる(誰かが対応した時点で信号は消える)。なお、誰が誰の車両に乗ったかという情報は、アプリの運営法人を通して一定期間、記録される。

⑤あとは、その運転者が、差し支えのない範囲(例えば岩手町までしか行かない車両ならそこまで)で、その需要者を乗せてやり(この点は、ヒッチハイクと同じ感覚)、需要者は、便宜を受けた範囲で、例えば「バス代よりは少し上」程度の金額を、アプリの運営法人に支払う。

⑥アプリの運営法人は、事前登録(③参照)しているその運転者に、その便宜を行った範囲(距離その他)に照らして相当な運賃(例えば、ガソリン代+α程度など)を支払う。なお⑤や⑥の料金は、予めアプリの運営法人が標準(上限)額の算定のための基準を定めておき、それ以上の額の授受はできないものとする(白タク化の防止)。

⑦上記の支払等は絶対ではなく、需要者がSOSボタンの発信の際に無償の乗車希望を発信したり、運転者が運賃を辞退することもでき、それらの選択は当事者の判断、交渉に委ねる(無償乗車の場合、運営法人への課金も発生しない)。

これなら、旅行者の身元も運転者の身元もアプリの運営法人が把握しているので、見知らぬ人を乗せる・乗る不安も一応解消され、バスやタクシー等の長距離移動について運営側又は利用者側にとって高コストになりやすい手段とは違った、低コストでの個人旅行等を実現することができるのではないかと思われますが、いかがでしょう。

ジョークの類と笑われそうですが、かつてヒッチハイク的に何度か見知らぬ方の車両にお世話になったことのある身としては、現代のIT技術も活かした、なかなか面白そうなシステムと考えます。建設的なご意見を頂戴できれば幸いです。

 

盛岡青年会議所の卒業に寄せて

JC(青年会議所)は入会資格を40歳までとしているため、盛岡JCの12月の例会は、必ず年限に達した会員の卒業式として行われています。

平成17年入会の私もついに年限に達し、7日の例会にて卒業させていただくことになりました。

私は、主として仕事と家庭の都合により3年目(平成19年)頃から本格的な参加が困難になり、一部の行事だけに顔を出す程度の関わりしかできませんでした。

例外として、平成19年に出会った岩手県知事マニフェスト検証大会だけは、私らしさを発揮でき、JCも私を求めていると思うことができる唯一の機会だと思って、平成21年、23年の際にも相当にエネルギーを投入して関与しましたが、そんな身を嘲笑うかのように、23年は開催目前に震災が発生して中止となり、その後、マニフェスト現象の廃れに伴い、行事自体が立ち消えとなってしまいました。

入会時に一番お世話になった方は、その年の終わりに信じられない話で退会を余儀なくされ、その後も、同期で特に親しくなった方に限って入会早々に継続困難な事情が生じ退会や休眠をしてしまったり、大いにお世話になった方にありえないはずの不幸が生じたこともありました。

今も、どうしてこんな出来事ばかり起きたのか、参加環境の問題に限らず、どうして自分とJCとの間には引力ではなく引き離す力ばかりが働くのか、不思議でしょうがないと思わずにはいられません。

まあ、引き離す力ばかり働くという面では、弁護士会も似たようなものと感じており(こちらは親しくなった方に不幸が起きたわけではありませんが)、恐らく、そのような星を持って生まれてきた人間なのでしょう(高校入試のときの呪いなのだろうかと思わないでもありませんが)。

ともあれ、今さら愚痴を言っても仕方のない話で、すべて自分の責任として受け止めるほかありません。

卒業式では、僭越ながら私も卒業生の一人としてスピーチをさせていただきましたが、緊張等で言えなかったことが4点あり、そのうち3点について、他に述べる機会もありませんので、勝手ながらここで述べたいと思います。

ここからは、盛岡JC関係者向けの内容になりますので、他の関係の方は、基本的にスルーしていただければと思います。

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一つは、現役会員の方にお伝えしたかった、清水先輩(元盛岡JC理事長)の言葉です。

私が、まだ幽霊会員にはほど遠かった平成18年当時、私は、新入会員の勧誘等を担当する委員会(拡大委員会)の幹事をしていましたが、担当副理事長が清水さんで、同窓の先輩ということもあり、色々とお話を伺う機会がありました。

そのとき、清水さんがよく話していた言葉で、頭から離れずに覚えているのが、「JCに沢山参加できる者は、参加したくても参加できずにいる人の気持ちをよく考えて欲しい」というものでした。

当時の私は、幽霊化するつもりなど毛頭なく、「私のような余所者が、その土地の人間になるのに3代かかるのを、1代で達成できるのがJC」などと嘯き、休眠して全然参加しようとしない同じ委員会の方に、自分達がこんなに時間を犠牲にして頑張っているのにと不満すら持っていました。

しかし、それから1年も経たずに幽霊化に陥り、一部の行事等だけ辛うじて申し訳なさそうに出てくる身になり果てると、上記の言葉が肌身に浸みてきます。

JCは、参加できる人を中心に動かしている組織なので、諸行事の戦力として参加できず、かつ、行事の設営に直接役立つ特殊技能も持ち合わせていなければ、JC以外の場(生い立ちや仕事等)で中心戦力の方々と人間関係を築いていることもない私のような身では、どうしても、次第に居場所がなくなってしまうことは避けられません。

それだけに、たまに参加した行事で何人かの方から暖かく声をかけていただけると、とても救われた気持ちになり、またいずれ復活したいとの気持ちを持ち続けることができたのではないかと思います(といっても、結局は一部の行事だけ辛うじて出てくる中途半端な状態を解消することはできませんでしたが)。

私の知る限り、参加環境に恵まれない人間に暖かい態度で接する文化がある団体は、JC以外には存じません。

そうした意味でも、この文化は絶やさずに大切にしていただきたいと思っています。

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第2点は、私から1期あと(平成18年)に入会した方々への感謝です。

もともと、平成16年に東京を引き払う以前から同業の先達にJCを勧められていたこともあり、JC関係者に誰一人として知人等のないまま、強い意欲を持って入会し、当時は強い期待をかけていただいた私でしたが、結局は、その期待に応えることができませんでした。

JCでの責任を果たせなくなった私に代わり、本来なら私がその責任を果たすべき時期に、その役割を担う一番の中心となったのは、私が拡大委員会の不肖の幹事としてお会いした、本年度の浦田理事長をはじめとする平成18年に入会した方々でした。

ですので、この方々には、今も頭が上がらないという気持ちを強く持っています。と同時に、その方々に限らず、その後にJCで活躍された皆さんには、羨望や嫉妬ではなく、感謝とお詫びの気持ちしかありません。

反面、そのような気持ちのまま、卒業することを余儀なくされましたので、本当は、卒業式に登壇する資格もないのですが、卒業式を迎えることができなかった大恩ある先輩へのけじめとして、恥を忍んで参加させていただいたというのが、正直なところです。

ただ、拡大委員会で親しくなれた新入会員の方々がJCの中心メンバーとなり、その活躍ぶりを嬉しく感じることができる面があったからこそ、辛うじて卒業式まで心が折れずに済んだのではと思われ、その意味で、あのとき、幹事を拝命できて本当に良かったと思っています。

ところで、私にとって、「後から来たのに追い越され」という経験をしたのは、このときが初めてではありません。

平成9年に司法試験に合格した際の体験記でも書いたことですが、卒業2年目という、当時の中央大生としては比較的早い時期に合格できた大きな理由の一つが、その前の年(私にとっては卒業1年目)に、同じ受験サークルに加入していた2人の後輩が在学4年で合格したことでした。

もちろん、薫陶という意味でなら、多くの先輩方に多大な薫陶を受けましたが、運悪く合格が遅れた方も含め、自分にとっては雲の上の方々でしたので、何を聞いても自分には縁遠い人の話という実感がありました。

2人の後輩は、私よりも才能に恵まれた人達だということはよく知っており、現役合格そのものには全く驚きませんでしたが、一番、心に刻まれたのは、自分は彼らがまだ法律のことを何も知らないときの姿を知っている、その彼らが、私よりも物凄い質量の勉強をして先に合格していく姿を間近で見て、自分は彼らよりも遥かに才能が劣るのに、彼らがこなした勉強量すらこなしていない、それでは嘆く資格すらないではないか、ということでした。

そして、それ以来、1年間、本当に死に物狂いで勉強したところ、不思議な運と勢いが生じ、十分な学力も備わっていなかったのに合格してしまいました(反面、分不相応な合格者として苦労と心労を背負う羽目になりましたが)。

翻ってJCですが、残念ながら、今回は、私も1期下の方々の勇姿に背中を学んでJC運動に邁進する、という流れには進めませんでしたが、地域社会に生きる右でも左でもないノンポリ的な法律実務家として、JC的な理念のもと、地域のためにできること、すべきことは幾らでもあるとは思っており、その際、この方々の姿が、自分にとっては大きな指標、目標になると思っています。

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3点目は、企業人という立場からのものです。

先日、同じく元理事長である金子先輩から、「小保内は青年経済人として頑張ったのだから、JCの事業への関わりに悔いが残ったとしても、恥じることはない」とのお言葉をいただきました。

実際、「弁護士として盛岡に事務所を構え、岩手(ひいては北東北)の人々の役に立つこと」が、私の前半生の目的ないし存在意義そのものでしたので、この10年間、様々な方が困難を解決していくためのお手伝いを地道に続け、曲がりなりにも大過なく事務所を維持できたことは、今も心からホッとしています。

また、当事務所は弁護士1人で支えている雇用の数も岩手では最も多い部類に属しており、その点は、5年程前までの岩手に厳然と存在した弁護士過疎や債務整理特需による受注過多という特殊事情があったとはいえ、ささやかながら誇りとするところです。

現在、数年前とは町弁業界を取り巻く状況が大きく変動し、この体制を来年も維持できるか正念場を迎えていますが、JCに十分な関与できなかった分、せめて弁護士そして企業人としては、多少の悪あがきも含め、自分を支えて下さる方々に恥じることのない生き方をしなければと思っています。

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卒業式の懇親会で、卒業生の面々が、JCの思い出を川柳にして詠むという一幕がありました。

残念ながら、私にはあの場で詠むに相応しい言葉が思いつかず、他の方のお力を借りてお茶を濁すような対応をしてしまいましたが、色々と言葉が湧き上がってくることも抑えられませんでした。

そんなわけで、洒落の類かどうかはさておき、幾つか思い浮かんだ言葉を紡いで、私なりの卒業のご挨拶とさせていただきます。

卒業の前日もまた事務所泊
月明かり悔い残してか光る頬
閑かなる骨身に浸み入る皆の声
寒空に逝く兵は道半ば
果たされぬ夢が脳裏をかけ廻る