北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

憲法関係

弁護士の死神営業と泣いた赤鬼

最近になって、社会派ブロガーで有名な「ちきりん」さんのブログや著作を読むようになりました。

先日は、延命治療の技術進歩により「本人が必ずしも延命を望んでいないのに、誰もそれを止めることができない(勇気や制度がない)との事情から高額な医療費を(若い世代に)負担させ、何十年も延々と延命をするような例が、今後、続出して巨大な社会問題になるのではないか」という趣旨のことが述べられていました。

尊厳死を巡る問題については、法律業界でも古くから議論され、ネット上でも多数の論考などを見かけることができますが、私自身は関わった経験等がないこともあり率直に言って不勉強で、今のところ大したことを述べることはできません。

ただ、単純に、ちきりんさんのブログに即して感じたことだけを言えば「本人も望まず、社会的にも不要有害と言わざるを得ない長期延命治療を関係者に無用の負担等を生じさせない形で止めさせる制度」が必要なのだろうとは思います。

それは、言うなれば、医療技術上は長期延命が可能な方に対し、「死」を宣告する(延命治療の中止による死亡を法的に正当化する)ような手続であり、それが「誰しもが、やりたいとは思わない嫌な決断だが、社会通念上は必要とされる仕事」だというのであれば、それに従事(主導)すべき立場にあるのは、法律実務家というべきではないかと思います。

酷い例えだとお叱りを受けるかもしれませんが、延命治療の中止判断(決定)は、それに従事する者に慎重な姿勢と重い決断を伴う「死の宣告」にあたるという点で、死刑判決と似たような面があり、後者が法律家(裁判官)が行うとされている以上、前者についても、法律家こそが担うべきだと言ってよいのではないかと思います(ちなみに、「執行」は、適切な方法で医療関係者に行っていただくことは、当然です)。

もちろん、そのような制度を作るのであれば、「必要」が生じた場合に、関係者の(本人の事前届、近親者、医療従事者や検察官など)の申請に基づいて、何らかの「審査会」的なものが設けられ、そこで延命治療の中止の当否について判断することが想定されます。

当然、そこでは、単純に本人の同意があるから中止だとか、近親者の同意がないからダメだなどというのではなく、ご本人の人生経歴や治療経過など、中止の当否を巡って斟酌すべき様々な要素を適切な事実調査を踏まえて判断するという形になるのではないかと思います。

このような「様々な事実の調査・整理を含む、諸要素の総合的な価値判断」は、法律実務家が得意とするところですし、「死」という判断の重さに照らしても、一般の方が軽々に従事できるものでもありません(その点は、重大事案における裁判員裁判の当否を巡る議論も参考になるかもしれません)。

もちろん、利害関係者などによる不服申立(最終的には裁判所の司法判断を含む)もあってしかるべきだと思います。

なお、費用については、なるべく自己負担が望ましいので、審査制度の利用額を定めた上で、延命治療の長期化を希望しない方が事前に予納するとか、何らかの保険制度に組み込むなどの方法が適切だと思います(最後の綱は、法テラスでしょうか)。

************

で、どうして今こんな話を延々と書いてきたかというと、そのような制度が社会に必要とされているのであれば、給源たる弁護士業界(なかんずく日弁連)が、制度設計をした上で制度の導入に向けて積極的に提言・運動してもよいのではと思うのですが、私の知る限り、そんな話は聞いたことがありません(単に不勉強で存じないだけかもしれませんが。なお、法案への反対意見の類なら日弁連HPなどで拝見できます)。

変な話かもしれませんが、仮に、そのような「審査会」が設置される場合、医師であれ、他の何らかの資格商売であれ、或いはお役人(公的機関)であれ、弁護士以外にも、「自分にそれを担わせて欲しい」といった「ライバル」が出現することは予測されますし、TPPなどを引き合いにするまでもなく、新たな制度を構築する場合は、なるべく早期に制度設計を巡る議論に参加、主導しないと「置いてけぼり」となることは、容易に想像できることだと思います。

ただ、逆の見方として、この制度が、死という人間にとって最も忌避したいはずの事態をダイレクトにもたらす意思決定であり、しかも、重大犯罪者ではなく、全うに生きてきた方のための手続という性質上「究極のケガレ仕事」と言えなくもなく、そのような制度を導入すべきだ(しかも、自分に担わせて欲しい)などと言い出せば、「お前は死神か。おぞましい奴だ」などという批判を世間から受けてしまうのかもしれません。

そうした意味では、この仕事は、ちきりんさんの見立てからすれば、社会的必要性が認知されれば膨大な需要を生じさせる可能性がある一方で、「貧困に喘ぐ町弁業界を一挙に救済する、素晴らしいブルーオーシャンだ!」などと無邪気にはしゃぐ話になるはずもなく、色々な意味で、弁護士(法律家)という職業の悩ましさ、本質に迫る話ではないかと感じる面はあります。

************

ところで、法律家が「死」に関わるのは、重大犯罪の刑事事件だけではありません。相続は言うに及びませんが、それ以上に、「企業のお葬式」としての倒産事件には、申立代理人であれ破産管財人であれ、多くの町弁が日常的に関わっています。

裏を返せば、ほとんど弁護士を利用される機会がない小規模な会社さんなどにとっては、弁護士と関わるのは倒産のときだけという面が無きにしもあらずで、そうした方から見れば、我々は、「企業が死を余儀なくされるときだけ関わる連中で、必要かもしれないが、嫌悪・忌避すべき死神のような存在」ということになるのかもしれません。

恥ずかしながら、私の場合、中小・零細企業向けの仕事をもっと沢山お引き受けしたいとの希望がありつつ、人脈の無さなどの悲哀から、東京時代とは比較の対象にならないほど、そうした機会を得ることができていないので、せめてもの営業活動?ということで、企業経営者の方々が集まる団体さんに参加することもあるのですが、遺憾ながら、何度出席しても、あまり親しい関係などを築くことができずにいます。

人付き合いや「他愛のない和やかな会話」が苦手な私のキャラの問題も大きいのでしょうが、接する方々の雰囲気を見ていると、弁護士という存在が「敷居が高い」という形容よりも、忌避すべき存在として意識されているように感じないこともなく、ある種の悲哀を感じる面はあります。

著名な児童文学作品(童話)で、「泣いた赤鬼」という物語がありますが、弁護士は、「人々を守る仕事をする(かつ、守りたいと思っている)一方、人々からは忌避されやすい面がある」という意味で、この作品の主人公である赤鬼に、よく似ているのかもしれません。

そのように考えると、以前にも取り上げた「日弁連ニコニコCM」は、赤鬼が、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておくようなものだと感じてしまいます。
日弁連CM問題と、今こそアピールすべき弁護士像を考える

さすがに、同業の先生に「青鬼よろしく筋の悪い裁判を私が面識がある企業の方々に起こして下さい。そうすれば、私はその裁判に勝って、自分が良い鬼だと知ってもらい、仲良くしてもらうことができます。」などと、お馬鹿な頼みをするわけにもいきませんが、さりとて、私が赤鬼くんのような看板を立ててもそれが奏功するとも到底思えず、どうしたものやらと嘆くほかなしというのが、お恥ずかしい現実のようです。

安倍首相談話と小沢氏談話から学ぶ、法の支配と民主主義

安倍首相の「戦後70年談話」を巡っては色々と議論もあるようですが、内容についての論評はさておき、文章としての読み応えや読みやすさ、一読了解性という点では、過去の2首相談話よりも遥かに秀逸だと思いますし、それは首相個々の資質の差というより、現在と当時の日本の置かれた状況の違いによる面が大きいのだろうと思っています。

他方、ネット上で流れていた小沢一郎氏の「70年談話」も拝見しましたが、安倍首相の談話に引けを取らず、読み応えのある文章だと思いました。また、双方を読み比べてみると、互いの政治理念の差(ひいては、民主政治のあり方や統治機構に関する憲法観の違い)が見えてくる面があるという点でも、興味深いと感じました。
http://blogos.com/article/128288/

なお、安倍首相談話については、仙台の小松亀一先生のHPに、村山首相・小泉首相の談話と共に掲載されているのが参考になりますので、ご紹介します。
http://www.trkm.co.jp/syumi/15081501.htm

双方の違いとして私が感じたことを少し具体的に述べると、小沢氏の談話では、大日本帝国が草の根の民主主義を軽視し庶民を残酷に取り扱っていた(大戦直前の混乱はその帰結である)ということが強調されており、これは、満州事変以後に大日本帝国が道を誤ったという観点を強調しているように見える安倍首相の談話では、ほとんど指摘されていない視点だと思います。

韓国が「植民地支配を謝罪しろ」と言い続けることに抵抗感を感じる方も多いと思いますし、そのことを安易に批判するつもりもないのですが、帝国内に重いヒエラルキーがあり、朝鮮人であれ日本人であれ、ピラミッドの下の方に属する人にとっては非常に抑圧的な体制があったことは、理解、認識が必要なのだろうと思います。

また、小沢氏が、現在の課題について、「内実ある民主政治の定着」を強調しているのに対し、安倍首相談話が「今後の課題」を列挙した後半部分では、その点(民主主義)はほとんど強調されていません。むしろ、憲法学を勉強した人間からは、「民主主義と緊張関係を持つ原理」としてすぐにピンと来る「法の支配(自由主義)」の言葉が重要なタームとして登場し、女性の人権や自由主義経済体制など、自由主義と親和性のある話題が主に取り上げられているように感じます。

ですので、アンチ安倍首相の人が批判的に談話を解釈すれば、「自由や平和、福祉を強調するが、民主主義(その実現の過程における、民主的な意思決定)を強調していない。これは、国権主義・官僚主義的な政治思想が背後に潜んでいるからではないのか」という見方も出来るのかもしれません。

少なくとも、法の支配=自由主義は、多数決を排斥してでも国の力で一定のルールを守る・守らせるという点で、官僚主義的な側面があることは確かだと思います。また、国権主義云々が、安保法案などを巡って安倍首相が批判されるキーワードであることは、しばしば語られるところだと思います。

裏を返せば、アンチ小沢氏の人が批判的に同氏の談話を解釈すれば、「法の支配=自由主義に関する話題が一切出てこない、金権問題で司法と対決し失脚した小沢氏(ひいては田中角栄系)らしい談話だ」などという見方も出来るのかもしれません。

私は、大学で憲法の勉強を最初に始めたとき、その年に司法試験に合格された大先輩の方から、「憲法学、なかんずく統治機構の本質は、自由主義(法の支配)と民主主義という、相対立する2つの基本原理の対立と調和である。主要な論点では必ずこの問題が出てくるので、常に意識するように」ということを強調されました。

もちろん、どちらの理念を重視するかは、個人の思想良心(主権者としての政治的決断)の問題であり、双方の理念にヒエラルキーを付けるのが憲法学の発想でないことは、申すまでもありません。

安倍首相と小沢氏の双方の談話を読み比べることで、ご自身が、現在、自由主義と民主主義のどちらに重きを置いて社会と向き合っているか考えてみるのも、意義があるのではないかと思います。

また、民主党全盛の当時を含め、小沢氏の主張を見ていると、三権分立の中でも議会の影響力を優先(優位)に考える発想の強い方(「国権の最高機関」に関する統括権能機関説。憲法41条参照)と認識しており、三権を同格に考える通説的見解(政治的美称説)とは一線を画しています。

こうした、当否ないし支持の是非はどうあれ、「憲法学も視野に入れた政治哲学を感じさせる国会議員さん」は、残念ながら我が国には実に少ないように感じており、小沢氏の引退が視野に入ってきている現在、そうした「憲法=国家統治などのあり方を巡る視野の大きい議論」ができる人材を国政の場に送り出すことができているのかという点で、今こそ、国民に問題意識が広く共有されるべきではと感じています。

余談ながら、先日、オレオレ詐欺に従事する若者達の内幕などを論じた「老人喰い」という本を読んだのですが、小沢氏談話に登場する青年将校のテロと同一視するのは行き過ぎであるにせよ、主として貧困層出身の若者によるテロ行為という面で、通じるものがあるように感じました。
http://president.jp/articles/-/15501

岩手県知事選の顛末と安易になぞらえるつもりはありませんが、仮に、現在の自民党政権が、民主政の過程を軽視する側面があるのだとしたら、或いは、格調高い安倍首相談話をあざ笑うような事態が、水面下で進むということも危惧されるのかもしれません。

JCIクリードと日本国憲法の不思議な関係と、JCにこそ求められる憲法学

2年前、JC(青年会議所)の例会の際に必ず唱和している「JCIクリード」という綱領的なものが、日本国憲法の理念ないし構造と酷似していることを述べた投稿を、旧HPに掲載したことがあります。

現在、集団的自衛権に関する法案を巡って政争や反対運動が激化していますが、憲法改正を悲願の目標にしている安倍首相が長期政権化した場合、経済に一定の成果が生じた(とされた)時点で、ご自身が希望する改憲論議を拡げていこうという気持ちは強いと思われます。

日本JCは、以前から自民党以上に復古調・民族主義的な憲法改正案を掲げており、今後、そうした動きに同調した運動を各地JCに実施するよう求めてくることは十分考えられることだと思います(今年は、「国史」という言葉ないし概念を強調する活動をなさっているのだそうで、肯否云々の評価はさておき、その点も、その一環なのでしょう)。

もちろん、JCの会員マジョリティは、日本国憲法との関係では穏健(良くも悪くも無関心)な立場の方が圧倒的で、日本JCの議論を主導しているのは上記の国家観・憲法観を持つごく一部の方なのだろうとは思います(その意味では、これと反対方向のベクトルを持つ日弁連によく似た面があります)。

それだけに、JC会員の方々が、憲法の基本的な考え方、実務を含む過去に積み上げられた憲法学の一般的、平均的な物の見方を学ぶ機会を、もっと持っていただきたいと、JC在籍中にそうした営みに関わる機会に恵まれなかった身としては、残念に感じています。

というわけで、2年前(平成25年)に掲載した文章を再掲することにしましたので、当時ご覧になっていないJC関係者などの方は、お目通しいただければ幸いです(最後に少し加筆しています)。

*********

JC(青年会議所)には、「JCIクリード」という綱領的なものがあり、毎月1回の例会の場などで、全員で唱和することになっています。JC関係者には申すまでもないことですが、ご存じでない方は、全国各地のJCのWebサイトなどをご覧になれば、全文が載っています。

ご参考までに、福生JCのサイトが分かりやすいので、紹介します(同サイトに表示されている訳文は、JC手帳に載っているものです)。

この「JCIクリード」ですが、弁護士に限らず法についてそれなりに勉強した人間が読むと、日本国憲法の基本原理とよく似通っていると感じるはずです。今回は、この点について、少し書いてみたいと思います。

順番とは異なりますが、最初に「That government should be of laws rather than of man」という箇所をご覧下さい。

手帳(公式の訳)には「政治は人によって左右されず法によって運営さるべき」とありますが、日本国憲法の理念(基本原理)の一つに、これと同じような言葉が用いられています。

同業の方には申すまでもありませんが、今回は、そうでない方(主にJC関係者などでこの文章をご覧いただいている方)向けに書いていますので、少し丁寧に書きますと、その理念を「法の支配」と呼んでいます(76条、81条等)。

「法の支配」とは、憲法学上は、国家は個人の正しい権利を保障する正義の法に基づき運営されなければならず、法律上の根拠に基づかない恣意的な人の支配はもちろん、国会が多数決を濫用して人権を抑圧するような法律を制定した場合も無効にすべきという理念であり、憲法学ひいては法律学全体を勉強する際に、最初に勉強しなければならないことの一つです。

次に、「That earth’s great tresure lies in human personality」をご覧下さい。

手帳には「人間の個性はこの世の至宝」とありますが、日本国憲法では、個人の尊厳(13条。文言は「尊重」ですが、講学上は「尊厳」と表記)という言葉が用いられています。

憲法学上は、憲法に定める個々の人権保障の規定や統治機構のシステムはすべて、個々人の「人としての尊厳」を守ることを根本的な目的としており、個人(人間)の尊厳は日本国憲法の最高原理であると言われています。

次に、「That faith in God gives meaning and purpose to human life」をご覧下さい。

手帳には、「信仰は人生に意義と目的を与え」とありますが、日本国憲法も、信教の自由(20条)を定めるほか、これと隣接する個人の精神的な営みの自由を保障する権利として、思想良心の自由(19条)や表現の自由(21条)を定めており、これらは憲法上、特に保護されるべき自由ないし権利とされています。

次に、「That the brotherhood of man transcends the sovereignty of nations」をご覧下さい。

手帳には「人類の同胞愛は国家の主権を超越し」とありますが、日本国憲法が前文で非常に理想主義的な国際平和協調主義を謳い、その象徴的な規定として憲法9条を掲げていることは、よくご存知だと思います。

次に、「That economic justice can best be won by free men through free enterprise」をご覧下さい。

手帳には「正しい経済の発展は自由経済社会を通じて最もよく達成され」とあるところ、日本国憲法も、財産権の保障に関する規定(29条)などを通じ、資本主義を基調とする自由主義経済体制を規定しているとされています。

そして、ここまでの説明で概ねお分かりのとおり、これらの部分は、日本国憲法の中でも、重要な原理に関わる肝の部分であり、JC会員の方々は、JCIクリードを唱えながら、実はある意味、日本国憲法の勉強もしているのだと考えていただければと思っています。

ところで、クリードの最後の部分、「That service to humanity is the best work of life」についての説明を敢えて飛ばしました。

手帳では「人類への奉仕が人生最善の仕事である」と記載されていますが、私の理解の範囲では、このような趣旨のことを定めた規定は、日本国憲法には存在しません。

どうしてか、その理由は分かりますか。

日本国憲法は、個人の自由と尊厳を根本原理とし、それを政府が国際社会の力を借りて守っていくという観点から作られています。そのため、個人がどのように生きるべきかという一人一人の生き方の問題について、敢えて道標となる規定を設けず、各人の判断に委ねています。

これに対し、JCは社会のリーダーたらんとする方々の集まりですので、リーダーたる者は人類社会全体に奉仕する者でなければならないという理念を最後に置いて締め括っているのです。

そのような観点から最後の文言以外の箇所を見れば、それらは、リーダーの必須条件たる奉仕の精神を発揮するための前提条件に関する考えを述べたものと言うことができると思います。

ところで、どうして、JCIクリードと日本国憲法がこんなにも似通っているのか、その正確な理由は私には分かりませんが、両者の成立過程に思いを致すと、そこには共通の基盤らしき不思議な関係があるように見えます。

ご存知のとおり、日本国憲法は、日本国民が自力で元の政府を倒して作り上げたものではなく、大日本帝国軍が米国を主力とする連合国軍に滅ぼされた後、GHQが主導する形で策定され、大日本帝国憲法の改正手続をとって1946年に制定されたものです。

ですので、これを征服者たる米国の押しつけと見るか、日本国民が旧帝国軍が幅を利かせた旧政府にうんざりしてGHQの勧めに応じ自ら選び取ったと見るか、見解が分かれるところでしょうが、かなりの部分が米国に由来するということ自体は間違いないと思います。

他方、JCIクリードが最初に策定されたのは奇しくも日本国憲法の成立と同じ1946年、日本JCのサイトでは、米国人ビル・ブラウンフィールド氏が立案したと紹介されています。この方と、日本国憲法立案の主要人物とされるGHQのケーディス大佐は、接点があるかは全く分かりませんが、少なくとも概ね同年代と言ってよいと思います。

ちなみに、ケーディス大佐は、wiki情報によればハーバード大法科大学院を卒業したエリート弁護士だそうですが、ブラウンフィールド氏については、炭坑実業家だと記載したサイトを発見したものの、その人物像はよく分かりません。

ともあれ、両者とも米国で同じ時代を生き、当時の米国の理想主義を強く育んでいたという事情が、双方の類似性の大きな原因となっているのではないかと私は考えています。

JCは様々な目標や課題などを掲げている団体ですが、日本国民たるJC会員の方々にとっては、それらの目標、課題に取り組む際に、上記で述べたJCIクリードや日本国憲法の原理、さらには両者の複雑な関係にも思いを致していただければと思っています。

以下、今回の再掲にあたり加筆した部分です。

ところで、日本JCも憲法改正案を公表していますが、その内容を見ると、上記で解説した「JCIクリードとよく似た、日本国憲法の特徴的な部分」の幾つかについては、相当に改変ないし後退している印象を受けます。

特に、改正案は現行憲法と比べて民族主義、国家主義(国家主権?)的な面を強調し現行憲法の国際協調主義や自然権思想(人権は国家が付与するものではなく人に当然に備わっているという考え方)が大きく後退しているため、その点は、JCIクリードとも異なる思想と言うべきでしょう。

改正案(JC憲法案)を策定した日本JCの方々が、JCIクリードの破棄や改訂も求めて運動されているのかは存じませんが、そうした両者の関係性などについて、ご認識・ご意見を伺う機会があればとは思います。

ちなみに、「JC 憲法改正」などと検索すると、憲法意識の向上(改憲世論の高揚?)を目的とした運動に対する批判なども見つけることができます(引用したのは、いわゆる「市民派」の方のサイトのようにお見受けしますので、思想的にも真っ向対立という感じはありますが)。

余談ながら、JCも日弁連も、名実ともノンポリの方が中核をなす強制加入団体であるのに(JC会員の多くが、様々な人間関係などから半ば強引に入会に至ることは、笑い話ではありますが、必ず語られることです)、一部の人が団体の名前で先鋭化した活動をし、残りの大多数が関心を示さず放置、放任している(先鋭化している面々も、会員マジョリティと広く誠実な対話をして支持を得ようとする努力をあまり感じず、宣伝的な広報ばかり見かける)という点で、よく似た印象を受けます。

私自身は、大多数の国民(フツーのJC会員や弁護士を含め)は、党派的な主義主張を伴う極端な言説・現状変更ではなく、日常面の不具合を少しずつ改善するような穏健な議論・方法論を好んでいると思いますし、弁護士会もJCも、そうした中間派・ノンポリ層というべき大多数の国民のための憲法学、憲法論をこそ興すべきではないかと思っています。

残念ながら、そのような観点での有志による具体的な活動はほとんど(全く?)見られず、「憲法」を冠した小集団は、いずれも特定の党派的な主張を好む方々が、ご自身の見解を披瀝するための集まりになっているに止まっていると感じています。

本来であれば、異なる思想の持ち主と対話し、実務的、事務的な制度、慣行を中心に、穏健な方法での現状の改善を図る地道な営みが行われるべきではないか(それこそが、日本国憲法やJCIの理念、理想ではないのか)と思いますが、そのような光景を見かけることはほとんどありません。

法律実務家の集まりである弁護士会にも、様々な職業人の集まりであるJCにも、そうした各論的な地道な取り組みや意識の喚起を期待したいところですが、この種の問題に力不足の私には、高望みなのでしょうか。

私としては、JCIクリード(JCIの理想)は、米国で生まれたキリスト教の理想主義に基づく普遍的な人権思想に基づくもので、「それを組織の象徴として受容し掲げながら、それでもなお(或いは、そうであるがゆえに)民族主義的な思想信条を標榜せずにはいられないという矛盾」を抱えているように見える日本JCの姿こそ、とても人間的というか、日本ひいては戦後世界の姿を凝縮したような面があると思います。

そうであればこそ、JCの方々には、この矛盾と向き合い、苦しみながら、世界の人々が「個人の普遍的な尊厳と民族の矜持」(JC宣言に倣って個人の自立性と社会の公共性、と言い換えてもよいと思いますが)の双方を生き生きと協和させることができる姿を社会に示していただければと願っています。

政治過程の憲法不適合に関する官と民の役割と責任

平成25年7月に実施された参議院通常選挙に関する選挙無効訴訟の最高裁判決(最大判H26.11.26判時2242-23)が、直近の判例時報に掲載されていました。

参院選に関しては、平成22年7月に実施された参院選(議員定数配分規定が最大1:5.00)に関し投票価値の平等違反等が問われた最高裁判決(最大判H24.10.17)で、その選挙当時、本件定数配分規定の下で選挙区間の投票価値の不均衡は違憲の問題が生ずる程度の著しい不平等状態に至っていたが、本件選挙までの間に本件定数配分規定を改正しなかったことが国会の裁量権の限界を超えるとは言えない=配分規定が違憲とまでは言えない=違憲状態だが裁量違反なく違憲でない、とされています。

そして、当該判決を承けて、平成24年に公選法が改正されており、その改正法のもとで平成25年の参院選が行われたものの、議員定数配分は最大1:4.77の格差となっており、改めて、この論点に取り組んでいる弁護士の方々が、選挙無効を求めて提訴したものです。

最高裁は、今回も、違憲問題が生じる著しい不平等状態にあるものの、本件選挙までに定数配分改正がされなかったことをもって国会の裁量権の限界を超えるとは言えぬ=本条違反に至らずとして、原告の請求を棄却(違憲違法・事情判決とした2審を変更)しています。

但し、都道府県を単位として各選挙区の定数を設定する現行方式を改めるなど、仕組みを見直す立法措置が必要だと指摘し、できるだけ速やかに、そのことを内容とする具体的な改正を行うなどして違憲状態を解消すべきだと述べており、国会がこれに応じずに違憲状態を放置した場合には、次回(平成28年)の参院選に対する訴訟では、より厳しい判断が予想されると言えます。

判文や解説をきちんと読み込んだ訳ではありませんが、平成24年最判との違いとして、平成24年は違憲を主張する反対意見が3名だったのに対し、今回は反対意見が4名となっています。また、4名のうち1名(山本裁判官)は、1票の格差は2割未満でなければ許容されない(0.8を下回れば違憲)とし、0.8を下回る選挙区から選出された議員はすべて身分を失わせるべきという徹底した投票価値平等論に立っていることが、特筆すべき点として挙げられます。

この山本裁判官ですが、経歴(出身)をネットで確認したところ、前内閣法制局長官で、最高裁判事の就任時の記者会見で、当時の安倍内閣が推進していた集団的自衛権に関する議論に関し、現在の憲法の解釈の限界を超えると発言して注目を浴びた方であることが分かりました(当然、そのニュースは私も見ていましたが、お名前はすっかり忘れていました)。

もちろん、当時の議論・定義を前提にした発言でしょうから、その後に行われた閣議決定に対する見解を述べたものではないということになるでしょうし、さすがに最高裁判事の就任後は、山本判事がその後の集団的自衛権を巡る閣議決定などのシーンで存在感を示すことは無かったと思います。

とはいえ、国会の存立の基本というべき選挙制度に関する訴訟で厳しい判断を示されているのを見ると、「政のあり方(国会が憲法の基本原則に従うべき身の正し方)」について、強い信念をお持ちなのだろうと感じられます。

ちなみに、反対意見4名のうち残りの3名(大橋・鬼丸・木内の3判事)は、いずれも弁護士出身で、「違憲・違法を宣言すべきだが事情判決の法理により選挙は無効としない」との判断を示しています。政治的な対立を含みやすい論点で最高裁判事の票が割れる場合には、弁護士出身の判事が「少数派寄りの憲法の理想重視の少数意見」に立つことが珍しくないのですが、ある意味、(議員と同じく憲法の尊重擁護義務を負う)行政官の頂点というべき内閣法制局長官の経験者が、弁護士出身判事達よりも厳しく、憲法(国家権力のあり方を定めた法)の解釈について、最も先鋭的と言える意見を示している光景には、官の矜持とでも言うべき、大いに示唆に富むものを感じずにはいられません。

以前に、最高裁判事の経験者の方の著作で、実際の合議では、表に出せないような生々しい議論が交わされることもあるという趣旨の記載を読んだ記憶がありますが、前回よりも反対意見が1票増えていることも含め、こうした経歴の方に最も厳しい反対意見を表明させていること自体が、最高裁自身の、組織としての何らかの意思を示すものではないかと感じたのは、私だけではないのではと思われます。

ところで、山本判事は安倍内閣により任命されており、当時は、集団的自衛権の閣議決定を目指す安倍首相が、山本氏を最高裁に厄介払いしたなどと評する報道もあったような記憶もありますが、私個人の漠たる感覚としては、恐らくそれは一面的な見方というべきで、現下の社会情勢を踏まえて、山本氏の良さは現在の政治過程の中枢(法制局)よりも一歩離れた場所(最高裁)の方が生きるという「高度な政治判断」があったのではないかと思いたいところです。

ですので、山本判事の先鋭的な反対意見についても、単純に「政治(国会)と官(最高裁)の対立」と捉えるのも正しい理解ではなく、「官の最高峰まで上り詰めた人が、現在の国会議員の選出の仕組みは憲法の理念に反し、選挙無効=一部の議員の地位を剥奪すべきだとまで言っている。だからこそ、民(政治家はもちろん、国民全体)がそのバトンを受け止めて、選挙制度改革の気運を高めるべき」という、国民的な議論や運動(選挙制度改革を旗印にした政治勢力の登場などを含め)が求められていると言うべきではないかと考えます。

残念ながら、現在もなお、選挙制度改革を巡る議論等が国内で盛んに行われているとは到底言えず、このままでは、従前と同じく小手先だけの改正のみが行われ、平成28年の選挙では今度は反対意見がもう1、2名増えるだけ、といった展開になるのではと危惧されます。

集団的自衛権に関しては、選挙制度改革に比べれば、まだ議論のある方だとは思いますが、相変わらず、異なる政治的立場の持ち主が自分の価値観に基づく主張を繰り広げているだけの、価値観を異にする者同士の対話のない示威行動的な運動に止まっている感も否めません。

また、上記の観点からは、一票の価値の問題も、憲法9条に絡んだ問題も、根底の部分では相通じる面があるのに、それぞれに携わっている方々同士に何の連携も見られないという点も、憲法を深く考える上では、とても残念に感じます。

私自身は、異なる政治的価値観を有する者同士が、時に議論を交わし、時に妥協を重ねながら、平和的な手段・手続によって高次の政治的価値を実現していくべきだというのが、そうした社会を実現できなかった戦前の反省の上に立つ、日本国憲法の理念だと理解していますし、投票価値(政治的意思決定に対する終局的な影響力)の平等は、そうした社会を支える基本的な原則(インフラ)だと思いますので、そうした観点から、双方の論点を有機的に結びつけるような方向で、議論が深まればと思っています。

定数配分では往々にして有利な結果を享受している地方の立場からすると、定数不均衡問題では、ともすれば、現状肯定の発想に陥りやすいのではないかと思いますが、「国民一人一人の政治に対する影響力という価値が軽視されている表れなのだ」という視点に立ち、悪しきアファーマティブアクションとして断ち切るべき、地方の声を届けるのは別の手段によるべしとの姿勢も必要ではないかと思います。

なお、冒頭の訴訟は定数不均衡問題に取り組む2つの訴訟グループ(元祖派と升永弁護士派)のうち前者を当事者とするものですが、その主力メンバーとして携わっておられる方の中に、私が東京で勤務していた事務所に、私と入れ替わりで入所された先生がおられます。岩手県内に「定数不均衡問題に取り組んでいる弁護士さんから講演を聴きたい」との奇特?な方がおられれば、私までご一報いただければ、お役に立てることもあるかも知れません。

議員定数(総数)の削減と立法府の役割

先日の総選挙では、前回の総選挙に先だって解散を決めた野田前首相が、議員定数の削減を与野党の共通課題として安倍総裁も同意したのにそれを反故にして解散をしたとして、厳しく批判する一幕がありました。

私も、現在の国会の様子を拝見する限りでは、削減に反対する立場ではないのですが、前提として、国会議員とはどのようなことをすべき仕事であるか(どのような人が選ばれ、何をすべきか)についての議論(意見ないし認識の集約)が必要ではないかと思っています。

この点、国会議員が、「官僚が準備する法案の承認と税金(利権)の分捕り合戦をするだけの仕事だ」というのであれば、少数で十分だとか、素人や業界代表だけでも足りるので報酬も減らせ(タダでもよい)ということになるのかもしれません(言い換えれば、数を減らせ、報酬を減らせという主張は、そうした政治システムと結びつきやすいとの意識が必要だと思います)。

しかし、議員のあり方をそれでよしとするのは、民主政治という観点からは、いささか寂しい主張のように感じます。

他方、民主党政権が試みた?ように、議員一人一人を行政府にドシドシ送り込んで行政の活動に密着させ、様々な分野で影響力を行使させるべきという考え方に立つのなら、人数もそれなりに必要だとか、人材確保の見地も含め、報酬もそれに相応しい額にすべきということになると思います。

また、その場合には、「威風堂々中身無し」という形容があてはまるような方が無為な神輿になったり、独りよがりな方が無用の混乱を現場に生じさせるといったことがないよう、その役割を任せるに相応しい人材を議員に当選させるべきで、一定の能力・資格などを立候補等の要件とすべきだとか、政策の立案・執行に関する力量がなければおよそ務まらないような業務を日常的に個々の議員に課すような仕組みをつくるとか、そうした人が選ばれやすい選挙制度・選出風土にすべきだということになるのだと思います。

もちろん、そのような考え方は、突き詰めれば官僚制度のあり方(高級官僚は政治任用=現在の公務員は政治任用の対象にならない限りは出世できないという方式)、ひいては公務員制度全体の設計に影響が出る話でしょうから、そのことも視野に入れた議論が必要になるのだと思います。

結局、そうした話は、この国に相応しい民主政治(民と官との関係)のあり方についての認識ないし議論に関わることであり、そうした大きな視点での議論が、ここ数年の政治の光景を踏まえて行われるべきではないかと思っています。ただ、私の知る限り、このような観点から生産的な議論や提言などを聞く機会には恵まれず、その点は残念に思っています。

「投票したい人に投票する権利」から考える選挙区制度

先日の総選挙では、投票率の低迷が全国的に指摘されていましたが、岩手県内では山田町の投票率が前回との比較で突出して低下したという趣旨の記事が出ていました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20141216_3

これは、山田町が鈴木俊一氏(岩手2区)の親子二代に亘る地元であり、定数不均衡の是正のため今回から岩手3区に編入された関係で、町内の同氏の支持者の方の多くが投票の意欲を無くしたためであることは間違いないと思います(抗議目的の無効票も相当にあるかもしれません。無効票のデータも見てみたいのですが、報道されておらず残念です)。

このように、「選挙区内の住民の多くが、区外の候補者に投票したいと思っているのに、選挙制度の関係で投票できない状態」というケースは、上記のように区割り編成がなされる場合はもちろん、政党などの都合で候補者自身が選挙区の移動をする場合にも起こり得ます。

また、選挙民の立場からすれば、例えば、「自分はA党の支持者だが、自分の選挙区内のA党の候補者として出馬しているB氏は、国政を託するに足りない人だと思うのでB氏には投票したくない、どうせなら隣の選挙区のA党の候補者のC氏に投票したいのに」というケースは、多々あると思いますし、小規模政党の支持者の方だと、支持する政党が選挙区に候補者を立てることができないという問題もあると思います。

そうした意味では、小選挙区制は、選挙権者の「投票したい人に投票する権利(利益ないし自由)」という意味では、強い制約のある制度だと言えます。

それ以外でも、岩手に関しては、盛岡市と合併した玉山区が、定数不均衡の関係で岩手2区のままの状態が続いている(当面は1区にはなりそうにない)という問題もあり、地方自治(合併した自治体や広域圏の一体性)に対する悪影響も指摘されるべきだと思います。

そもそも、小選挙区制は、①中選挙区制では同一政党(特に与党)から複数の候補者が出馬し、各人が地元民や支援団体などの利益誘導にばかり熱心になりやすい=腐敗リスクがある②有力な二大政党(自民党に代替しうる政治勢力)が出現すれば、55年体制で延々と続いた自民党の万年与党時代が打破され政権交代が可能な政治体制になる(中選挙区のままでは、自民党以外の政治勢力が政権を取るのは無理だ)、といった理由で推進されたものと理解しています。

ただ、②二大政党については、民主党の凋落後は、当面は野党に統合などを推進できる強力な指導者も見あたらず、今回の選挙結果や前後の政治情勢などを見る限りでは、自民党が分裂するような強烈な出来事(今のところ、憲法改正と権力闘争が連動するような事態くらいしか思いつきませんが)でもない限り、今後の選挙でも、当選議員数の程度の差はあれ、自公の万年与党化への逆戻りは避けられないようにも見えます。

また、①ハコモノ行政による財政悪化が盛んに言われる現在の政治状況下で、「中選挙区制に起因する利権誘導政治」なるものがどれほど生じるのかピンと来ない面がありますし、ここ十数年に政治資金・汚職絡みで問題となった事件については、地元(の利益団体)への利益誘導とは異なる次元の話が多いように思われ、腐敗リスクは、現在の社会では、中選挙区制(同一選挙区に同一政党の複数候補者が生じる制度)を否定する理由としては弱いのではないかという感じがします。

むしろ、冒頭に記載した、選挙権者の「自分が投票したい人に投票する自由」という観点からは、全国規模で好きな人をというのは行き過ぎだとしても、例えば、岩手のように4人前後の定数になっている県については、県を1個の選挙区にした方が、自分が県の代表者として国政に送り出したい人を厳選して投票することができるようになると思います。

そもそも、特定政党の強固な支持者の方であれば、「支持政党の擁立候補」であれば、どんな方であれ無条件・問答無用で投票するということになるのかもしれませんし、無党派でも「風(そのときの各政党などへの世論の勢い)」で投票行動を決める方であれば、同様に、気に入った政党の擁立候補であれば、候補者の資質その他を吟味することなく、とりあえずその候補者に投票するということになるのかもしれません。

しかし、(私のように)広義の無党派であると共に、候補者間の「国政の権力行使の従事に相応しい力量、見識を備えている程度(将来性を含め)」を投票行動の最終的な決定要素として重視したいという人間にとっては、むしろ、基本的な価値観を同じくする同一の政党から多数の候補者が出現して欲しい、その中でリーダーとして特に託したいと思える人に投票したいという希望があるはずで、そうした需要に応える選挙制度が導入できないか、議論してもよいのではと思います。

特に、昔と違って日常的に中・広域移動をする人が増え、「盛岡に住んでいても仕事の関係などで他圏(の候補者)の方が親しみがある」といった方も少なくないはずですし、人口減少やネットを含むメディアないしコミュニケーションツールの発達などを視野に入れれば、どちらかと言えば選挙区の単位を大きくする方向に考えてよいと思われます。

とりわけ、冒頭の山田町民のように「地元のセンセイに入れたい」という人にとっては、地元から候補者が引き離される事態を避けたいという面からも、選挙区の単位が大きなものになった方が、「自分が入れたい人に入れる」という希望を満たすことができるのではないかと思います。

その場合、大雑把な感覚ですが、従前の中選挙区に戻すのではなく、もう少し大きい単位(岩手くらいの人口規模なら県単位か隣接県を含む道州単位、首都圏等なら複数の特別区や市の単位)で考えてよいと思われ、1選挙区に4~10名程度の定数を割り振る選挙制度であれば、その需要を満たすと共に、選挙制度の合理的な運営、定数不均衡の是正、投票率の向上といった、選挙制度に関する他の幾つかの要請にも、概ね応えることができるのではないかと思います。

なお、このような選挙制度をとった場合に、「A党の候補者BCDEの4人のうち、Bばかりに票が集中した場合、全体としてA党候補者の得票が多いのに、個人としての得票が少ないCDEの3名が共倒れになる」という問題が生じ得ます。

このような2番手以下が共倒れになるリスクについては、例えば、投票用紙に「票を入れたB氏が必要以上の票を得た場合に、B氏ないしA党が、C氏ら2番手以下に配分することを了解するか否か」という項目を作るなどの方法で、全体として選挙区内で多数の票を獲得した政党がより多くの議員を擁することができるシステムを構築することは可能ではないか(上記の例なら、投票者がB氏以外の候補者には当選して欲しくない(B氏以外は他党の人を当選させたい)と考えるのであれば×、A党の支持者なのでB氏が十分な得票を得るなら他の候補者に配分して構わないと考えるなら○を選べば、死票にならない)と考えます。

また、選挙区の単位を大きくする主張には、「選挙費用が嵩む」との批判が向けられやすいことは確かですが、広すぎることで、かえって掛け声だけの選挙カーが意味をなさない(費用対効果が悪い)として、有権者に対する別のアプローチ(選挙期間以外の時期を含め)ないしコミュニケーションの文化が開発・醸成されるのではと期待したいところです。

少なくとも、小選挙区導入以後の岩手1区の各候補者の得票率(wiki情報)などを見る限り、浮動票の占める割合が非常に少なく、各党ごとの得票率の固定化ぶりが著しいように思われ、そのことは、個々の候補者の得票の大半を固定客=政党等の支持者が占めていること、裏を返せば、現在の選挙制度(小選挙区制)が、無党派(各候補者を吟味して投票行動を決めたい人)にとって魅力(選択肢)のない制度になっていることを示しているように感じます。

一朝一夕にできることではありませんが、少なくとも、小選挙区・比例代表並立制を所与の前提とせず、我が国の現在及び将来の民主政治にとってどのような選挙制度(代表者を選ぶシステム、ひいては選挙で抜擢される代表者のあるべき姿)が最良なのかを、国民が広く議論し認識を共有できるような文化が醸成されて欲しいと願っています。

集団的自衛権を巡る、逃げる自由と戦略的思考

盛岡駅構内(フェザン南館)のさわや書店では、しばらく前から「今でしょ」で有名な林修氏が強く推薦する書籍として、岡崎久彦氏の「戦略的思考とは何か」(中公新書)が山積みで販売されています。

冷戦時代真っ只中の昭和58年頃に刊行された本ですが、日露戦争前後の極東諸国の情勢や国情を論じた冒頭部分などは古さを感じさせない内容となっており、そうした話は15年前に「坂の上の雲」を読んだ後はほとんど勉強していませんでしたので、先日、購入して少しずつ読んでいます。

日本を取り巻く諸外国の近現代の動向に関する基本的な知識やそれを前提とする安全保障に関する理解を得たい方にとっては、学ぶところが多い本だと思いますし、「戦略的思考」を学ぶ教材としても著名人が推薦するだけのことはあるのだろうと思います。

ところで、著者(元外交官)のことは殆ど存じませんでしたが、ネットで少し調べたところ、情報分析を専門とする親米保守派の論客として著名な方で、最近では集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定にも強い影響を与えたという趣旨の記事が多く出ていました。

上記の書籍でもその話は取り上げられており、「米国民はフェアネスを問題にするから、日本が犠牲を払わないで自由民主主義の恩恵にだけ浴そうとすると、アメリカから見捨てられるおそれがある」、「大事なときにアメリカを不利にするかたちで日本が非協力、中立の態度をとると、米国民は怒り、米国のコミットメントがなくなり中立をした瞬間に、その中立がいつソ連に侵されるかわからないという事態が生まれる」などという米国の学者の発言に触れるなどして、日米同盟堅持・強化の観点から集団的自衛権の必要性が示唆されています。

この点は、尖閣諸島問題で、1、2年前に「日米安保条約が尖閣に適用される」ことについて日本政府(ひいては日本国民)が米国高官から言質を取ることに腐心していたことなどを思い起こすと、諸外国の事情(中国の国力の違いなど)はともかく、日本の置かれた立場については、30年前とほとんど変わらないという感じがしてきます。

また、イデオロギーを排したパワーポリティクスの観点から見た現実として、黒船来航以来、日本は世界で最強の力を持ち続けてきた英米と連携しているときは上手く行き、英米と疎遠、険悪になると賢明な政治的判断能力を失い迷走する、それは、「クラスの中で最優秀のグループに入っていれば、的外れの勉強をしたり怪しい情報に振り回されずに済むのと同じことだ」という点が強調され、その延長線として、日米同盟が強固なもので、対立国(当時はソ連、現在なら露・中・北朝鮮でしょうか)に付け入る隙がないことを内外に示すべきだといったことなどが書かれています。

ところで、集団的自衛権を巡っては、当然のことながら?日弁連(の憲法委員会)は、「現行の憲法9条が集団的自衛権を容認していると解釈すること」について、憲法の解釈の限界を超える=9条に反する公権行使だとして強く反対しており、改憲による集団的自衛権の明記にも反対している(要するに、手段を問わず、集団的自衛権という結論に反対)と思われます。

私も名ばかり委員となっている岩手弁護士会憲法委員会も、日弁連の方針に強く賛同する方々が集まっており、先日、集団的自衛権に反対する立場を鮮明にした学者の方(早稲田大の水島朝穂教授)の講演会を企画、実施しています。

私自身は、9条問題に関してはガチガチの護憲派・改憲派いずれにも親近感を持つことができないため、企画が「運動」の様相を呈してくると、汗もかかずに身を引く傍観者的対応になってしまうのですが、委員会でタダ飯(会費に基づく会議の弁当)に与かっている以上、不義理をするわけにもいかず、参加して拝聴してきました。

講演では、①憲法は権力(日本政府)を拘束する制度だから、改憲はそれに拘束されない国民に許されるもので、政府自身が憲法の改変を行おうとするのは断じて許されない、②憲法の基本理念に属する規定の改変は、国民にも許されない(9条の改正否定を含むかは不明)、③米軍の空襲の際、多くの人が、逃げるのを禁じられて実現可能性のない無用の消火活動を強いられ焼死を余儀なくされた。これは敵前逃亡を禁じてその場で上官が銃殺するのと同じである。集団的自衛権を容認すれば、次に導入されるのは軍法会議であり、それは「上役の命令に従わない者はその場で殺される」社会に逆戻りする道で、そうした点(庶民の逃げる自由の確保)からも集団的自衛権は断固反対すべきである、といったことなどが論じられていました。

私の聞き落としかもしれませんが、「反対の根拠」として主張されているのは、上記のとおり、専ら「国家権力(及びその追従者)による暴走抑制の必要」であり、前掲書籍で論じられているような、隣接国の軍事行動のリスク(米国と共同した潜在敵国に対する軍事的プレゼンスによる戦争抑止の必要や、その立論を排斥するのであれば、その代替となるリスク対策の手法)といったこと(いわば、自国の権力者ではなく外国の軍隊などから逃げる自由)には、触れていなかったと思います。

上記の講演に限らないと思いますが、自衛隊(軍事力)や国民統制の強化に反対する立場の主張は、「国内向けの主張(権力抑止)」という意味では、外国の攻撃もさることながら、自国の権力行使に晒される一般庶民の立場としては、傾聴すべき点は多々あるのですが推進派の主張する「必要性を基礎付ける国外事情(中国の軍拡や対外的膨張、北朝鮮の不安定さや米軍の規模縮小など)」に対し、集団的自衛権(自衛隊の活動領域の拡張)以外の方法で、どのように立ち向かっていくのか(或いは、必要性を基礎付ける事実が存在しないというのであれば、その根拠を含め)については説得的な解説を伴わないのが通例で、その点は残念に感じてしまいます。

反面、上記の点(軍事力強化等)を推進すべき立場の方々も、私は講演等の類は聞いたことはありませんし不勉強なので偉そうなことは言えないと思いますが、必要性(外国の脅威)の説明に力点が割かれ、反対派の方々が主張する「権力暴走の抑止策」について、国民性(集団主義など)も視野に入れた十分な配慮が論じられることは、あまり無いようにも思われます。

そのため、結局、双方とも、それぞれの正義を論じるに止まり、主張が噛み合わないと感じることが多く、ノンポリ無党派の庶民としては、双方の主張ともそれなりにざっと拝見し、社会全体の視野から自分の周辺までを考えて、そうした論点に関する判断をしていくほかないのかなと思っています。

ただ、上記書籍を読んでいる最中だからかもしれませんが、安全保障は相手(外国)のある話なのだから、国内問題だけを論じられても違和感は拭えず、隣接諸国の軍事的脅威にどのように向き合い、国家や領土の維持存立と国民の安全を守るのかという点は、きちんとした説明やその前提としての実践をお願いしたいところです。

個人的には、国民の多くが周辺諸国に軍事的脅威を感じる事態になれば、軍事力等の強化を国民が支持するのは不可避なのだから、それに反対したいのであれば、国内であれこれ言うだけでなく、自ら対象国の人々と様々な形で接触し、その国と我が国との相互依存関係=その国にとっても戦争等の手段を取ることが他の選択肢よりも明らかに損になるような関係を構築するための努力をすべきでないのかと常に感じています。

そうした意味では、盛岡の人々がロシアにさんさ踊りに行くなどというのは、言葉であれこれ言うよりも遥かに価値のあることだと思いますし、そうした営みに参加できる方々を羨ましく感じる面があります(もちろん、敗戦時のソ連参戦で満州などで国民の多くが悲惨な目に遭ったという歴史も学んだ上での交流という視点は持っていただきたいですが)。

日弁連(弁護士会)でも、アジア諸国の法律家団体と交流しているという話は伺っていますが、現在のところ、ごく一部の方々の小規模な営みに止まっているようです。仮に、各地の弁護士会が、アジア諸国の法律家団体などと交流を盛んにし、「立憲主義のインフラ輸出」的な営みにつなげることができたり、協力関係にある団体(中国の弁護士会など?)がその国の軍部などの強硬派を抑える力を持つこと(それを支援すること)を通じ、周辺諸国の内部で安全保障(平和)に絡む問題にプラスの影響力を行使できるようになれば、それこそ、「俺達(文民)がアジアの安全保障を守るから、軍人やその追従者に出番はないよ」と、国民に説得的に言えるようになるのではないかと思われ、そうした営みがなされないことを残念に思っています。

講演でも、自民党のハト派の重鎮や(維新等を除く)各野党が結集して安倍政権を倒して欲しいとのお話もありましたが、民主党政権が倒れた理由は、(原発事故を含め)国家的・対外的危機に立ち向かえない(託せない)政権だと国民に見なされたという点が最も大きいはずで、自民政権を倒し安定的な別の政権を構築したい(させたい)なら、安全保障等に関する代替手段を説明すると共に、権力を託すに足る信頼と実績を支援者自身が積み上げるほかないのではないかと思われます。

それがなされず、国内問題としての「権力の抑止」のみを主張するに止まるのであれば、国民一般としては、そうした主張をする方々は、国策そのものに反対する(代替手段を実践する)のが真意なのではなく、追認を前提に弊害の抑止と現体制下の平和による果実の配当を求めることを目的とした補完勢力に止まるものと理解するのが適切なのだろうと思います。

そうした意味では、弁護士会がそのような営みに関わっている本当の理由・意義は、反体制派の暴走の抑止を通じた体制の補完(大きな論点では意見表明などの場を与えて不満を解消させ、小さな論点では地道に得点を稼ぐことを通じ、体制の維持を前提とした緩やかな変革を目指す?)という見方もできるのかもしれませんし、案外、それこそが、弁護士業界の伝統的な戦略的思考なのかもしれません(それが今後も続くかはさておき)。

ところで、講演を拝聴しながらそんなことを考えていた矢先、前掲書籍の著者である岡崎氏が亡くなられたと報道されていました。ご冥福をお祈りすると共に、「権力の不安を感じつつ、現在のところは米国との同盟を基調とする安全保障に依存する見地から、政府の適切な権限行使に期待するほかないと考える一般庶民」の立場としては、本書で記されているように、戦略的思考を一部の限られた国策の決定権者だけに委ねる(庶民が戦略的白痴の惰眠に陥る)のではなく、広く国民一般が共有し、そのことで、軍事・外交について国家が誤った選択をしないことに資することができるよう、多少なりとも学んだり考えたりしていきたいと思っています。

参院選・岩手選挙区結果を過去の投票結果と比較したプチ分析(H25.7.22再掲)

今年は国政選挙や大きな地方選挙などがなく、「国民(住民)の選択」という意味での政治のあり方等に関する議論が盛り上がっていません。

昨年の7月の参院選の開票当夜に、以下の文章を書いて旧HPの日記に載せていたのですが、改めて、岩手県における選挙(政治)の実情を考える機会にしていただければということで再掲しました(一部、表現を修正しています)。

*************************:

平成25年7月21日に投開票が行われた参院選ですが、岩手選挙区の結果を過去のそれと比較すると色々と興味深い現象を感じ取ることができます。

選挙結果の見方は人それぞれだとは思いますが、何かの参考にしていただければと思い、少し長いですが、書いてみることにしました。

まず、最初に、岩手日報HPに掲載された今回の選挙結果(得票状況)をざっとご覧下さい(閲覧できなくなったときは、wiki等でご確認下さい)。

大雑把に得票率を見れば、次のように算出されると思います。

平野氏(無所属・40%弱)、田中氏(自民・26%強)、
関根氏(生活・15%弱)、吉田氏(民主・10%強)、
菊池氏(共産・7%強)、高橋氏(幸福・1%強)

次に、これと、wikiに表示されている前回(平成22年)や前々回(平成19年)の同じ岩手選挙区の選挙結果(但し、半数改選の関係で、前回については、立候補者は全員異なります)を比較してみて下さい。

これらを比較すると、最初に目につくのは、自民系の候補者(今回の田中氏(26%)、前回の高橋雪文氏(30%)、前々回の千田勝一郎氏(25%))の得票率が、さほど大きな違いがないという点です。

ちなみに、この中で、高橋雪文氏は県議(盛岡選挙区)を2~3期ほどお務めになっていましたので(千田氏もご出身は岩手ですが出馬までは他県在住で、今回の田中氏と同じく議員秘書をなさっていたとの記憶です)、他のお二人と比べると基礎票があると思われ、その点が、得票率の違いの大きな理由の一つと推測されます。

お三方とも、出馬時の年齢に大きな差がなく(性別も同じ)、小選挙区を中心とする当時の自民党の勢力図にも大きな違いがないため、お三方の得票率の違いは、上記の点など候補者間の多少の違い(変数)を除けば、純粋に、それぞれの年における「岩手の自民党(誤解を恐れずに言えば、鈴木俊一氏を中心とする勢力)の県内における支持率を表したもの」と言えそうな気もします。

そして、ここ10年ほど「岩手の自民党の支持率」が大きく変動したとはあまり感じられない(全国レベルの風を別とすれば、鈴木氏ら県内の自民党議員の方などに、県民の支持が大きく増えるような政策的成果も、大きく減らすような不祥事もなかった)ことに照らせば、毎回の得票率に大きな違いがないということも、ごく自然に納得できます。

*****

今回の参院選では、当初から「岩手と沖縄以外は、自民候補は盤石」との報道が流れ、岩手県では前代未聞と思われる、安倍首相・石破幹事長・進次郎氏の複数回の波状攻撃が岩手でも繰り広げられましたが、それでも、自民党の得票率という点では、過去の選挙とほとんど変わらない結果となったと言うことができます。

また、「政党の離合集散を経験していない」という点から、同様に共産党系の候補の方を見てみても、5~7%ほどの幅ということで、あまり大きな違いがありません。

今回に関しては、社民党から立候補がなく、同党支持者の票が一定数は流れたと推測されるため、今回選挙での全国的な「共産党躍進」と比べると、自民党と同様、岩手は異なる風が流れていた(共産党に風が吹いたとは言えない)と見るほかないと思われます。

次に、民主系列ですが、得票順に、平野氏・関根氏・吉田氏を全部併せると、合計で約65%の得票率になります。これは、平野氏が、民主党(小沢氏系)候補として圧倒的な勝利を収めた6年前の選挙(得票率62%強)とほとんど同じ比率です。

そのため、6年前の結果と比べれば、自民・共産は、多少は得票率が増えたものの過去の結果と大差はなく、非自民・非共産の勢力が、得票率は若干減りつつも、単に3分割されただけに過ぎない(この勢力の内部で票の取り合いをしただけ)という印象を強く受けます。

要するに、現在の参院選の制度を前提に、過去10~15年ほどの岩手県の政治状況を見る限り、有権者のうち、①自民系が25%程度、②共産系が5%程度、③非自民・非共産系が55%程度(過去の選挙結果からの大凡の推計)の基礎票を持っていて、残りの15%程度の浮動票(無党派層ないし各党支持者内部の流動層)を奪い合っている(政治状況に応じてこの15%の層が揺れ動き、得票率に影響を与えている)が、少なくともこの間のほとんど全部の選挙で、その浮動票は主に非自民・非共産系候補に流れていた、という姿が見えてくるように思われるのです。

そして、平野氏が2期目の当選を果たした6年前は、非自民・非共産系が、小沢氏という、諸党派の糾合に関し稀有な才能を持った方の全盛期であった上、順風満帆の状態(候補者が官僚出身の2期目の候補で政党に対する逆風も一切なし)であったことも重なり、非自民・非共産系の候補として最大級の得票率(62%強)を獲得できたのではないかと思われます。

******

このような観点から、今一度、今回の選挙に戻りますと、今回の参院選においては、当初から最有力候補の1人と見られていた平野氏が、民主離党後に自民党に支援を求めたものの、自民党岩手支部が独自候補の擁立を重視して、支援を拒否したという報道が流れたことがあったと記憶しています。

もし、この時点で、自民党(岩手支部)が、「平野氏が、自民の基礎票=25%を超える得票をする可能性が相当にある」と予見することができれば、独自候補の擁立を見送り平野氏と手を組む方向で動くことができたのではないかとも思われますし、仮に、自民党側に最盛期の小沢氏のような方がいれば、勝つためには手段は選ばずということで、そのような選択肢をとったのではないかと思われます。

もちろん、選挙のプロの方々ですので、上記のような予測をしつつ「負けてもいいから、独自候補を擁立したい(平野氏と手を組むのは避けたい)」といった、何らかの込み入った理由(内部事情)があったのかもしれず、そうした事情の有無については、そうしたものを発掘することこそメディアの役割ということで、報道関係者にはご尽力いただきたいところです。

また、上記の観点から、三分割された「非自民・非共産」系の票が、3者(平野氏:関根氏:吉田氏)で、大雑把に言って、60:25:15の比率で分かれたことは、旧民主(小沢氏が糾合した勢力)の岩手県内における行く末を考える上で、なかなか興味深い印象を与える数値ではないかと思います。

吉田氏が関根氏に及ばなかったという点は、今もなお、小沢氏(の勢力)を強く支持する方が県内には相当におられるということでしょうし(保守層のうち反TPPの票を集めたという要素もあるのかもしれませんが)、分裂後の民主党(岩手支部)が、全国の選挙結果と同様、基礎票と目される幾つかの労組などの方々以外には、支持の広がりを持つことができていないことが強く印象づけられたように思います。

少なくとも、吉田氏個人は、新人云々という点をさておけば、県外出身のハンディを跳ね返す快活さ(人柄の印象の良さ)、熱心さなどがあったと思われ、ご本人の資質はマイナス要素としては働いていなかったと言うべきだと思います。

そして、平野氏が「非自民・非共産」(55%)及び無党派(15%)のうち、かなりの得票を占めたのは、民主党政権の大臣さん方には珍しく?バッシング報道も無いに等しかった地元出身の復興相として、「派手さはないが、地道に実績を積んだのだろう」という印象を有権者に残したため、県民の多くが、昨今の政治情勢で被災地の復興問題が何かと置き去りにされているように感じている(そのことに対する問題意識が、全県的に共有されている)ことと相俟って、被災県の代表として送り出す上で最も相応しいと考える有権者が多かったというのが、素直な見方ではないかと思われます。

もちろん、報道によれば、鈴木氏の地元である(山田町を含めた)旧岩手2区では、沿岸部も含めて、軒並み、田中氏の方が得票していたので、上記だけでは説明がつかない、南北問題や沿岸・内陸の違いなども、視野に入れなければならないとは思いますが(平野氏の地元である北上市は、数十年の幅で見れば、県北・沿岸の地盤沈下と入れ替わるようにして発展してきた地域だと思いますし)。

ともあれ、上記の分析の見地からすれば、今回、平野氏が集めた「40%弱」という得票率のうち、約15%位が無党派などの浮動票であったと思われ、仮に、この層の投票が全く得られなかったなら、平野氏の得票は25%ほどに止まるため、田中氏に敗北していたはずだと言えることは確かなのではないかと思われます。

******

また、今回の選挙は、かつて保革を含めた非自民・非共産系の糾合という偉業を成し遂げた小沢氏の時代の終焉を完全に印象づける結果になったことは確かと思われますが、それと同時に、他の理念・論理・剛腕で岩手の政界を糾合・再編したり、岩手から全国に向けて、新しくより良い政治のあり方を発信できる方の不在もまた、印象づける結果になったと感じます。

無党派層の1人としては、そのような力量を備えた政治家の方が出現して(もちろん、既存の方々がそのように成長することも含め)、新しい政治風景が現れてくれればと願っているところです。

というわけで、今後の参院選であれ、岩手県知事選であれ、岩手県全域を射程に入れて選挙をなさる方にあっては、現在の勢力図を前提とした、上記の各政党ごとの基礎票と、有権者の約15%と思われる浮動票を視野に入れて、自派の足場固めと支持拡大を検討いただくのが賢明ではないかと思った次第です。

また、上記の見地から、市町村毎の得票状況を年度ごとに調査して分析できれば、さらに興味深いものが見えてくるかもしれません。

そうした仕事は、県内の政治学者さんが、ゼミ生を動員してやっていただくべきものだと思うのですが、いかがでしょう。

*****

ちなみに、毎回の選挙結果の得票率があまり大差がないという姿は、参院選に限らず、衆院選でも見受けられるようです。

この点は、岩手1区のここ10年ほどの得票率をwikiで見れば感じられるところですが、小沢氏の支援で登場してきた達増拓也氏(現知事)と、その後継者の階猛氏(現職)の得票状況を見れば、達増氏が徐々に増やしてきた得票率が、階氏への継承時にピーク(10~11万票=60%強)となり、それが、民主党分裂により、全体の得票率(6割)を維持したまま、真っ二つに割れた(前回選挙での階氏:達増陽子氏の得票比が、概ね35%対25%)という様相を呈しています。

そして、この間、自民(高橋比奈子氏ほか)は、26~30%の得票、社民・共産も約6%ずつの得票となっており、これらを見ると、参院選以上に、政治勢力ごとの得票率が固定化していることが分かります。

そのため、無党派層としては、選挙ごとに、もっと政治勢力間の得票率が変動するような仕組みないし仕掛けをして欲しい、そうでなければ無党派層(浮動層)の存在感が高まらないじゃないかと大いに感じてしまいます。

ちなみに、今回の参院選での盛岡市における各候補者の得票率も見たところ、田中氏(自民)は約25%で国政の岩手1区の自民候補者の得票率と大差なしですが、達増知事が支援する関根氏(生活)が15%強、階氏らが支援する吉田氏(民主)が12%弱であるのに対し、平野氏が40%もの得票率となっています。

平野氏を無党派層のシンボルのように捉えるのは間違いだとしても、盛岡市に関して言えば「盛岡を地盤とする達増知事も階氏も負けて、彼らの固定客(所属政党の固い支持基盤)ではない層が存在感を示した」と言うべき面があるようにも思われ、今後の県政の行方を考える上で示唆に富む面があるのかもしれません。

******

あと、ここまで書いてから思い出しましたが、「自民系」の得票には公明党支持者の投票が相当数を占めることは明らかでしょうから、正確には、「自公系」と言わなければならないと思います。というわけで、適宜、そのように読み替えていただければ幸いです。

この点に関し、岩手日報を見てもwikiを見ても、「自民候補者の得票数(得票率)のうち、公明票の占める割合」というのが表示されていないように思われ、この点は、残念だ(よくない)と思います。

とりわけ全国的には与党勢力ということもあり、自民系候補がどの程度、得票レベルで公明票に依存しているかを知ること(自公系における内部の可視化)は、公明党に対するスタンス云々に関係なく、他の党の支持者や無党派にとっても、投票行動を決める上で、一つの大きな要素になると考えます。

****

とまあ、ここまでダラダラと書いてきましたが、私は、選挙に象徴されるような権力闘争の類には適性が微塵もなく、片隅で書生肌の青臭い政策論(政治システムの理念論)にうつつを抜かす方が性に合っています。

そのため、選挙で勝つための方法なんぞを考えるよりも、上記のとおり、別の選挙制度を導入するなどして無党派=浮動層が影響力を持ちうるような状態を作出して欲しいなぁと感じているというのが正直なところです。

もちろん、政党を嫌悪しているわけではまったくありませんので、得票率が固定化しないという前提で、無党派(浮動層)が、もっと政党側と関わり(良い意味での影響力)を持てる仕組みも考えていただきたいです。

ところで、ここまで、主として公表された各選挙での得票率を基礎として、色々と書いてきましたが、統計情報をよく見ると、岩手日報もwikiも、白票(無効票)の割合(票数)について、一切表示せず、完全に無視しています(日報らが悪いのか、選管が公表していないのか、私には分かりませんが)。

ご承知のとおり、無党派層に投票を呼びかける方の多くが、「嫌なら白票を出して欲しい。それ自体が、既存勢力への抗議票になるから」と語っているわけですが、公表される統計情報の中で白票が無視されたのでは、上記の呼びかけに応じて?、民主政治の発展を願って白票を投じた方の思いが、完全に無視され、裏切られていることになります。

というわけで、選挙結果の統計情報で白票を公表しないのはもってのほかというべきで、ご賛同いただける方は、岩手日報に抗議電話(wikiには抗議メール?)をなさっていただければと思います。

また、過去の選挙の得票数と現在のそれを比較すると、改めて、人口減少を強く感じます。

その他、実際の数字を見ていけば、空理空論で抽象的な政治論などをするよりも、色々と見えてくる面があると思われ、皆さんも何らかの形で実践していただければ幸いです。

政党の分裂時における政治資金(献金や交付金)の分割のあり方について

平成24年7月に生じた、「小沢氏ら(生活党)が民主党を脱退した際に、同氏と共に脱退した民主党岩手県連の元幹部が、同県連名義で預金されていた県連の政治資金の大半(4500万円)を引き出したため、民主党側が元幹部に賠償請求した事件」で、先日、引出し金の大半(4000万円)を元幹部が民主党岩手県連に引き渡して終了とする和解が成立した旨の報道がありました。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20140312-OYT8T01146.htm

この訴訟の第1審・盛岡地裁判決は、民主党側の請求を全面的に認めたのですが、ちょうど、先日に郵送された判例時報(2209号119頁)に、この判決が掲載されていました。

裁判では、元幹部の行為が、県連の役員(資金管理者)としての権限を濫用、逸脱したか否かが争点となり、元幹部側は、「引出金(政治資金)は、小沢氏(判例時報では匿名表示)を支援するため集められたお金なので、小沢氏の脱退により小沢氏側が引渡を受けるべき=権限濫用等にあたらない」と主張しました。

が、裁判所は、当該預金が民主党側に帰属し、民主党と利害が対立する生活党側に利益を図る目的で資金移動をしたのは権限濫用だとして、元幹部側の主張を一蹴しています。

判例時報の解説では、「これ(党の資金が個人ではなく政党に帰属するとの考え)が、政党の離合集合時における資金処理のルールとなるか問題もあり、立法でこの点の法整備が望まれるとの意見もある」としていますが、判決文を見る限り、元幹部=生活党側が、訴訟でこのような観点から、事実関係や法律論を掘り下げて主張をすることはなかったようです。

この件では、提訴後まもない時期に、当時の事務所HP(日記)に、下記の投稿をしたことがあります。

要するに、元幹部の引出金が、小沢氏個人の政治活動を支援することを目的として献金等されたものであれば、手続云々はともかく、献金等の趣旨に照らせば生活党側が引き継ぎたいと思うのはごもっともと言えるので、仮に、そうした事情があるのなら、団体役員の権限濫用の成否とか預金の帰属主体などといった私法上の解釈に、政党の分裂時における政治資金の清算のあり方等に関するあるべき姿(公法上の議論)をどこまで斟酌することができるかという意味での「憲法訴訟」になればと期待した投稿でした。

残念ながら、判決を読む限り、元幹部(生活党)側は、預金(政治資金)の出所等に関する具体的な主張はしなかったようですので、そのような議論がなされる前提を欠いたと見るほかないと思われます(それを明らかにすることが生活党側にとって不都合だったのか否か、野次馬的には関心がありますが、判決からは何も読み取れません)。

この問題の本質は、原資が献金であれ税金(政党助成法に基づく交付金)であれ、争いの対象となっているお金(政治資金)が、本来的には争いの当事者(民主党側も元幹部=生活党側も)のものではなく、拠出者のものであり、それが特定の目的のために拠出されたものである以上、政党の分裂にあたっては、分割等の対象となる資金の拠出目的(拠出者たる献金主や納税者の意図)も斟酌した上で、分割等の内容や当否が判断されるべきではないかということではないかと思います。

とりわけ、現在は政党助成法に基づく交付金=税金のウェイトが大きくなっているやにも聞いたことがありますので、なおのこと、一般国民の立場からすれば、この種の議論や法整備が待たれるところではないかと思います。

*******************
(以下、平24年10月12日付・当事務所「日記」の引用)

【民主党分裂に伴う預金持ち出し騒動と代表訴訟】

民主党の分裂時に離党し新党(以下「生活党」といいます)に移籍した議員の方が、同党岩手県連の預金計4500万円を持ち出したため、民主党と生活党とが争っている事件が生じ、先日、盛岡地裁への提訴報道があったことは、多くの方がご存知かと思います。

この種の訴訟の依頼は、一般的には、当該政党の支援者や議員さんと懇意にされている方になされるのが通例なので、私のような無縁社会に生きるノンポリ無党派にはご縁のない話ではありますが、法律論としては非常に興味深い論点を含んでおり、関心を持って報道を拝見しています。

報道の範囲で推測すれば、債務不履行=善管注意義務又は忠実義務違反と不法行為責任の二本立てのように見受けられましたが、原資の性格等を巡る争いや分裂直前の民主党内部の路線争い等の事情が、預金を持ち出した議員(政党役員)の義務や違法性などの解釈にどのように影響するのか、問題となった預金に関する権利の帰属のあり方やそれに関する政党本部と県連との関係、政党内部の紛争を規律する法の不備等の事情が、この種の訴訟の帰趨にどのような形で影響するか、といった事柄が議論の対象とされてよいはずで、私法と公法(なかんずく憲法)とが交錯する高度な論点を含んでいると思います。

ただ、原告=民主党側からすれば、そのような議論を避けて形式論理で違法性等を認めて欲しいと考えていると思われ、どちらかといえば、生活党の側が、どこまで議論を深めることができるか力量を問われる気がします。

その意味では、生活党側では、刑事事件における弘中弁護士のような、政治とカネに関する深い知見を有する第一級の弁護士の方に依頼してはいかがと思わないこともありません(原告代理人である岩手の先生方にとっては、余計なお世話としか言いようがありませんが…)。

ともあれ、政争にご縁のない庶民の立場からすれば、上記のような論点について検討が深められれば、国民に資するところが大きくなるのではないかと期待しています。

ところで、私がこの「持ち出し事件」の報道に最初に接した際に思ったのは、「仮に、残留組(現・民主党岩手県連)の役員の方々が、何らかの理由で訴訟提起を躊躇し続けた場合、その対応に不満を持った一般党員の方が、それに異議を申し立て修正させる法的手段はないのだろうか。或いは、設けなくてよいのだろうか」という点でした。

少し具体的に言えば、株式会社では、一部の役員等が問題を起こして被害を受けた場合に、他の役員(会社の意思決定権者)が役員等に賠償請求をしない状態を続けていると、それに不服のある株主が、会社に代わって当該役員等に対し、会社に賠償するよう求めることができ(代表訴訟)、一般社団・財団法人法にも同様の規定が設けられています。

地方自治体の運営においても、若干変則的な形態ではありますが、これと類似する(責任追及の対象はより広い)制度が設けられています(住民訴訟)。

しかし、私の貧弱な知識の範囲では、(マイナーな法令を別とすれば)このように、「組織・集団の少数者が、あるべき権利行使を怠るリーダー(経営者・多数派)に代わって権利行使をする(させる)」制度は、他に存在しないのではないかと思われます。

例えば、現在、国政(中央官庁の活動)に対しては、住民訴訟のような国民による異議申立制度は存在しないのですが、「行政に対する国民の監視」という観点から、国政でも住民訴訟と同様の制度を設けるべきだと主張する方は少なくありません。

政党に関しても、そのような制度は存在しないと思われますが(「政党法」の制定に関し、議論されているかどうかは存じませんが)、それでよいのかという問題は、これを機会に議論が深められて良いのではと思います。

少なくとも、離党騒動直前の段階では、民主党岩手県連に関しては、より多くの離党者が生じるのではと考えた方も少なくなかったはずですし、現在も、何らかの形での再合流等の可能性が囁かれている(達増知事等が期待している?)ことなどに照らせば、数ヶ月前の時点での可能性の問題として、提訴以外の展開もあり得たように思われます。

そのような展開を辿った場合、それに不満を抱いた一般党員には何ら救済手段がなくてもよいのかという視点は、検討されてよいのではと感じます。

なかんずく、本件で問題となった4500万円を出捐した方が現役の党員で、かつ、「この金員は現・民主党の側で使用すべきもので、生活党が持ち出すのは献金の趣旨に反する」と考えているのであれば、その救済を図る制度の必要性は高いと思われます(なお、報道によれば、生活党側は「本件4500万円は、民由合併時に自由党が寄付したもので、その原資は自由党=(主に)小沢氏への政治献金だ」と主張しているようです)。

逆に、生活党による「4500万円の出捐は、小沢氏の活動を支援したいとの目的でなされたものだ」との主張が真実なのであれば、当該金員を使用すべき実質的資格があるのは自分達だと主張したくなるのは、理解できない話ではありません。

仮に、本件持ち出し事件が生じない(引き出すことができなかった)状態で離党等がなされたケースを想定すれば、当該出捐を行った元?党員や生活党に移籍した元党員の側としては、「出捐(献金?)の趣旨に反する事態が生じた以上、返還(又は生活等に引渡)すべきだ」と請求したいと思いますし、そうしたことを実現する制度の当否が議論されるべきだと思います。

こうした論点は、「比例代表で当選した議員が、離党し他党に移籍した場合の議員資格の維持の当否」といった論点(平成8年の司法試験で出題されています)と類似すると思われ、その論点に関する議論が参考になるかもしれません。

さらに言えば、仮に、持ち出しの対象になった金員の原資が、政党助成法に基づく交付金であった場合、出捐者=納税者たる国民一般(或いは同法の所管の官庁)のコントロールを及ぼさなくてよいのか、という論点も生じると思います。

もちろん、この場合、政党の自治との衝突という別の視点が生じますので、余計に議論がややこしくなると思いますが、少なくとも、「金を出す者が口を出せない」ことの当否は議論されるべきかと思います。

長々と思いついたことを書きましたが、田舎でノンポリの町弁をしていると、こうした憲法や統治機構などに関する論点を実践的に勉強する機会がなく、その点は大いに残念に思います。

日弁連の憲法委員会などでは、秘密保全法問題など国策等に反対する運動に邁進するのも結構ですが、こうした制度のあり方などについて、価値中立的な立場で議論を深める活動もしていただき、その成果を、国民に資する形で会員に還元していただきたいと思わずにはいられません。

 

首相の靖国参拝とアーリントン墓地

購読している日経新聞が積ん読となり、さきほど、10月5日の新聞を読んだのですが、記者コラムで、靖国参拝に関し次のように述べられていました。

「今年の5月に、安倍首相が米誌インタビューに対し『靖国参拝は、米国人にとってのアーリントン墓地(戦没者追悼国立墓地)と同様に自然なことだ』と答えた。

ほどなく、米国の国務長官と国防長官が千鳥ヶ淵墓苑に献花し、国防総省高官が『千鳥ヶ淵墓苑はアーリントン墓地に最も近い存在だ』とのコメントを公表した。

これは、米国が、安倍首相に対し「靖国とアーリントンを一緒にしないで」とメッセージを送ったものに他ならないし、韓国や中国にもその認識(米国は靖国参拝を支持・容認しない)を示したものと見るべきだ。

実際、単一の宗教法人である靖国神社を、米国人戦没者でありさえすれば、無宗教を含むほぼ全ての信教の持ち主の埋葬を受け入れているアーリントン墓地になぞらえるのは無理がある。

安倍首相の言動によっては、日米同盟に対する米国内の支持も一部損ないかねない。両長官は米国民向けにメッセージを発したようで、高等なコミニュケーション戦術と言えようか。」

先日の、安倍首相の靖国参拝は、中韓の反発以上に米国からの「失望」コメントの方が国内の反響を呼んでいたように思いますが、上記のコラムを執筆した方は、当然そのようなコメントを予測していたのだろうと思います。

靖国を巡っては、あまりにも多くの論点が錯綜しており、ざっと考えても、大要、次のような論点が考えられ、個々の論点に関する論者の立場も、モザイク状に入り乱れていると思います。

先の大戦の意義に関する理解(大義の有無・程度)の問題(対東アジア政策を主とする大日本帝国政府の政策ないし統治思想に対する評価などを含む)、

政教分離の問題(最高裁の目的効果基準的な見地からの評価のほか、靖国神社と神道一般との関係(神道内部の路線の違い)なども含む)、

③個々の戦没者・遺族の靖国に対する肯否様々な感情及び信教の自由や思想などの問題(遺族会やその子弟などの肯定的立場と「靖国に祀られない権利」を主張する否定的立場との利害の調整のほか、国民を死地に送り込んだ基盤である大戦時の日本を覆っていた全体主義・集団主義と個人主義ないし人権思想(戦後民主主義)との関係等に関する考察や双方の評価等の問題を含む)、

A級戦犯合祀及びそれに付随する問題(戦没者追悼施設として相応しいのかどうかという議論のほか、前提としての個々のA級戦犯への評価(戦争犯罪者と言うに値するか等の論点)やBC級戦犯或いは戦犯であることから免れた個々の戦争責任者の評価、ひいては極東国際軍事裁判自体の大義云々の議論も含む)

靖国参拝を巡っては、各人の立場が強く出ている個々の主張が全く噛み合わない光景を目にすることが多いと感じますが、その背景にも、様々な論点が整理されずにゴチャゴチャのまま各人の言いたいことばかり声高に告げられていることが、主たる原因ではないかと感じています。

いわば、複雑な事案の訴訟で、裁判所等の強力なリーダーシップによる主張整理が伴わず、当事者が勝手な主張を繰り広げ、不毛な主張書面のやりとりばかり繰り返しているような状態だと思います。

それだけに、あくまで「首相の靖国参拝」を円満に実現したいのであれば、それらの様々な論点を解きほぐし、説得可能な論点について地道な努力を積み上げ、米国や中韓さらには国内も含む主要なステークホルダーが反発するのを不要視ないし躊躇するような環境作りをしなければならないと思います。

そのような努力の光景を欠いたまま、自分達のしたいことばかりを先行させ、結果として価値観を共有していない第三者的な周辺弱者(例えば中韓に工場移転し依存度が高い中小企業など)に損害を被らせることになれば、人心が急速に安倍政権等から離れてしまう可能性も否定できないと思います。

私個人を含め、現在のところ、国際問題等の形で騒がれることのない静謐な環境でなされるのであれば、殊更に靖国参拝に反対しようとまでは思わない(逆に、大騒ぎになるくらいなら自粛はやむなしと考える)立場の国民の方が多いと思われるだけに、この問題に関わっている方々には、冒頭のコラムで述べられているような「高等なコミニュケーション戦術」を学んでいただきたいと思うほかありません。

ともあれ、訳あって、1月1日に東京駅に立ち寄るので、可能であれば靖国神社と千鳥ヶ淵の双方に行ってみたいと思います。