北奥法律事務所

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ブログ

宮古に咲き続ける桜と、草木も生えない?町弁道の短歌集

6年ほど前、月1回のペースで宮古広域振興局の法律相談を2年間担当していました。

が、この「沿岸広域振興局が開催する無料相談」は、何年経っても主催者である県庁をはじめ、誰も真面目に宣伝等をしてくれず、震災後間もない時期も含め、私が関わった担当日は、ほとんど毎回閑古鳥で、全く予約がなく内職だけして帰る日も珍しくありませんでした。

当時も(事務所では)多数の案件を抱えて起案をこなすのに負われ、仮に宮古でも依頼が殺到すればパンクになりかねない有様でしたので、私自身、恥ずかしながら、内職起案ばかりで帰る日々を変えようとする努力をしたわけではありません。

が、当時は、沿岸には震災等で苦しむ多数の潜在的相談者がいるはずなのに、ハコ(相談所)だけ作って宣伝もしなければ相談者の開拓(地元ネットワークの活用)もせず人々を弁護士相談に繋げるようとする努力が全くみられない、役所ほか関係者の無為無策っぷりに唯々腹立たしさを感じるばかりでした。

私にもう少し余力があれば、「勿体ないから困っている人達を連れてきて」と様々な関係機関・民間団体などに働きかけることもできたのではと悔やむ面はありますが、こればかりは何を言っても致し方ありません。

ともあれ、せめてもの慰めに当時は往復の度ごとにインチキ短歌を多数作りましたので、今さらながら載せておきます。

ぼく町弁 徹夜起案後の宮古にて
相談者も無く瓶ドン食べる

これは早世の歌人・萩原慎一郎氏に倣った一首ですね。

早春賦 弁護士会の小言かな

何かゲンナリすることを言われたのでしょうか?思い出せません。

山積みの起案残して
また誰も来ない被災地相談に行く

今日もまた閑古鳥鳴く港にて
瓶ドンに問う我いらぬかと

通えども空回りしたこの8年
やりがい搾取か身の非力さか

盛岡にもさほど居場所は無き身にて
浜で独りはさらにさびしく

このあたりは、当時のがっかり感がしみじみと伝わってきます。

宮古には嫌われたのか
月山もこの有様よ
負けてたまるか

その日は重茂半島のシンボル・月山展望台に向かったのですが、頂上付近の道路が工事中で立入禁止になっていました。

対岸を埋め尽くしたる長城を
鳥と眺めて砂ふみしめる

収容所の壁のような防潮堤を眺めるたび、これで良かったのかと感じずにはいられません。

この店もあの日は黒に呑まれたり
共に闘う人ぞ恋しき

これは、宮古湾そばの「海舟」で瓶ドンを頂戴したときに作った一首だと思いますが、海舟さんは残念なことに数年前に倒産・閉業してしまいました。

避難所で眩しく見えた花びらは
今年もひとを癒やし続ける

私は、震災直後にも沿岸の避難所相談に何度も赴き、様々なお話を伺いつつ、瓦礫のそばで佇む満開の桜を眩しく感じていましたので、当時を思い出しつつ詠んだのでしょう。或いは、宮古小学校前の桜並木を見ながら作った歌かもしれません。

当時は写真を添えてFBに投稿していましたが、写真を探し再掲する余力がなく、投稿のみでご容赦下さい。

生演奏付き例会はアンサンブルで

最近は過去にFBに投稿した内容のブログ転載が精一杯となっており、昨年の話で恐縮ですが、市内大通の「アンサンブル」さんにて、オムカレーをいただきました。

ライブ演奏のあるレストランとして市内では昔から著名なお店で、名前だけは知っていましたが、私が夜の街にご縁がないこともあって、在住約20年目にして初めて伺いました。

店内の奥にライブ演奏のステージがあるのですが、食事をいただこうとしたところ、それまで隅の席で書類仕事をなさっていた熟年のご婦人がおもむろにピアノに着席され、我々が食事を終えるまで数曲、演奏いただきました。

「おねだん以上」の貴重な経験に大変満足して、お店を後にしました。

私が所属する盛岡北RCは、以前は、重鎮女性会員のTさんのとても上手な生演奏でRCソングを斉唱していたのですが、Tさんの引退後は他のRCと同じく録音再生のみとなり、味気なく感じていました。

現在の当クラブの例会出席者は、このお店の収容で十分間に合う規模なので、高級ホテルの最上階の大広間を贅沢に使う例会もさることながら、いっそ、このお店に例会場を移して水曜の昼は当クラブで借り切り、お店の方の生演奏で斉唱したり、演奏を拝聴しながら食事をいただく方が、よほど優雅な例会なのでは・・と思ったりもしました。

ともあれ、悔いの残らないうちに、一度、夜の部もお邪魔してみたいと思いますが、その前に、あの仕事もこの仕事もその仕事も終わらせないと・・

国会議員批判を巡る議論と処方箋(劇薬?)としての間接選挙制

先日の衆院補欠選挙は、現在の政権与党ないし国政(社会情勢)への批判票が反映される結果となりました。

岩手でも数ヶ月前に自民党の国会議員さんに残念なニュースが連続して生じ、Web上では国会議員の数や報酬が過大ではないかとか、議員のリコール制度がなくてよいのかといった議論がなされていたように思います。

ただ、小選挙区制で単純に議員数を減らすと、一人一票の原則(投票価値の平等)の関係で今以上に選挙区割が困難となるでしょうし、まして参院では複数の県に跨がる選挙区が必要となり、「オラの県の議員」を選出することすらできなくなると思われます。

いっそ、国民は各選挙区で「国会議員を選ぶ(選解任する)だけの役割を担う人」(選挙人)を何人か選び、選ばれた選挙人達(例えば、国全体で2000人程度とか)の投票で、数十人~100人以内の国会議員を選ぶものとすれば(間接選挙制)、一人一票の原則を守りつつ、議員の大幅削減ができるように思われます。

政治資金を巡る諸問題(自民系を中心に国会議員の活動にカネがかかりすぎるとか、それを言い訳に不透明なカネが作られすぎる云々)も、間接選挙制であれば、かなり変容するというか、一定のリスクはあるにせよ、「国会議員が選挙区民から支持を集めるため、あまりにも様々な雑事にカネを必要とせざるを得なくなる」という現在の慣行を抜本的に変えることはできると思われます。

野党勢力に政権を任せるのは無理だろうと感じつつ、自民党に「もっとお灸を据えたい」と思っている方々や、現在の国会議員を巡る諸制度に閉塞感を感じたり、こうした制度の思考実験に関心のある方は、半年前に書いた下記の投稿もご覧いただければ幸いです。
国会を少数精鋭の府に~歳出削減と定数不均衡の一挙解決策としての間接選挙制~ | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

余談ながら、私も最近は老化等の影響でこの種の投稿をするのが激減しましたが、近時のfacebookを拝見していると、ジャスミン革命のインフラと称賛された昔日の姿がすっかり色褪せて、アホンダレインチキ広告群にまみれて劣化し、パブリックフォーラムとしての機能も失いつつあるように見えるのを、とても残念に感じています。

万物の尊厳を志し、何もできずにはや8年

本日は憲法記念日です。

8年ほど前、人にあらざる存在の尊厳(万物の尊厳)を日本国憲法に取り入れたい(現行憲法に新設13条の2を追加する改正案)と思い立ち、FB上で何度か投稿してきました。

いつかはそれを世間に問う本を出版してみたいと思いつつ、仕事と諸事に追われ何もできずに時間を徒過し、そのまま寿命を迎えてしまいそうです。

先日の世論調査でも、与野党・国民全体が幅広く合意できる、未来に希望を示す憲法改正を国民が望んでいることが示されており、万物の尊厳の新設こそがそれに相応しいと確信しています。

以前に掲載した引用の投稿なども読み返し、今年こそは原稿を書き始めてみたいと願うばかりです。

万物の尊厳を掲げる憲法改正を岩手から(前編) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
万物の尊厳を掲げる憲法改正を岩手から(後編) | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
司馬遼太郎氏も語っていた「万物の尊厳」 | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
憲法記念日に考える「万物の尊厳」と書籍出版を夢見る日々 | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
万物の尊厳を掲げる憲法を世に問えるのはいつの日か | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
憲法記念日が来るたび、万物の尊厳を掲げる憲法を願って | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

東京五輪の「違法な弁当大量廃棄」と食品ロス削減推進法などの改善を求めて | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
アイヌとイスラムの異同を踏まえて日本と人類の未来を論ぜよ~函館北方民族資料館の呼ぶ声~ | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)
人が関わる生き物の尊厳ともう一つの憲法改正論 | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

お別れのゆっちゃんと、あの頃の無化調

2ヶ月ほど前の話ですが、盛岡駅前通のラーメン店「ゆっちゃん」が閉店すると聞き、最後のお別れに行ってきました。で、懐かしの一曲を混声合唱で。

さ~よ さよなら~ ゆっちゃん
さ~よ さよなら~ ゆっちゃん
わすれない この味 いつまでも

恥ずかしながら食べログの投稿をみて初めて気づきましたが、こちらは「無化調」を売りにしたお店だったのですね。

これまで味の繊細さの反面、微妙に物足りなさを感じていましたが、最後の最後でようやく得心できました。

東京時代=平成13年頃、都営浅草線の中延駅から徒歩10分ほどの場所に、当時、ラーメン王の人達が「日本で一番美味しい無化調」と絶賛していた「桃桜林」というお店があり、一度だけ行列に並んだことがあります。

そのお店では、ツウの人達は「ナシナシ」(調味料なし、油なし?)でいただくのだそうで、私も店主さん(ワンオペおっちゃん)に「本当に大丈夫かい」とお約束の言葉を言われつつ、折角なのでお願いしました。

あとにも先にも、「これはきっと美味しいものなのだろうけど、自分はこの味が分かるレベルではない。そもそも、これはラーメンと呼ぶべき食べ物なのか、別の名称が相応しいのではないか」とラーメン店で感じたのは、その一度だけだと思います(メニュー名も、当時から「手打ち麺とスープ」でした)。

それはさておき、私が「ゆっちゃん」に伺ったのは平日の昼でしたが、別れを惜しむ多くのお客達で賑わっていました。

延々と閉店セールを続ける大阪の某物販店のように、ゆっちゃんも「閉店しようと思ったけど、やめた!」と遠慮無く翻して、いつの日か復活を果たしていただければと思います。

そういえば、最後まで、店名の由来が分かりませんでしたね・・

尋問の東京出張からキュビズム経由で縄文の思想と近代の超克を考える

昨年末、約20年ぶりに東京地裁で尋問のため出張してきました。本来は色々な意味で尋問などの重い手続には相応しくない親族間の少額の金銭問題に関する事案であり、当方は穏当な解決を目指してきましたが、相手方が強硬な対応に終始し、やむをえず尋問・結審となった事案です。

この件に限らず、ここ数年「親分肌(姉御肌)だが我が強く自分本位な御仁に振り回され、弱者いじめのような扱いを受けた人が、これ以上は耐えられないと思って私に相談し、その後も相手御仁が不当・強硬な要求を続けたため、やむなく訴訟等に至るケース」の受任が多いような感じがします。

その種の事案は受任の時点で何らかの不利な条件が生じていることが珍しくなく、相手方はそれをタテに因業な要求をしてくるのが通例で、絵に描いたような古証文事案も複数あります。

そのうちの一つは、テレビをご覧の岩手県民なら誰でも知っている著名企業の創業者が、子分格の小規模企業経営者を長年いじめていた事案で、都会の豪腕弁護士さんと死闘を繰り広げた末、当方勝訴の心証開示を前提に、ご本人の希望で手打ちのような形で譲歩した勝訴的和解をしています。

昨年は、因業な元街金業者に長年いじめられた「保証人の保証人」たる債務者の代理人として、古証文事案で時効が成立するか激しく争い、無事に当方主張が認められ勝訴確定した事案もありました。

が、私自身も似たような経験を昔も今も余儀なくされている?せいか、この種のご依頼は絶対に負けさせるわけにはいかぬと死に物狂いで取り組む結果、時間給換算で大赤字となるのが通例で、ぢっと手を見るばかりの日々です。

***

というわけで、今回も数年ぶりの東京に、「長時間出張でますます大赤字だ」と全く嬉しくもなく行ってきたわけですが、せめてもの悪あがきということで、国立西洋美術館のキュビズム展に立ち寄りました。

私は高校1年次にパリのオルセー美術館でミレーの晩鐘に感動して以来(ここだけ昔の自慢話・・)、モネとかコローなどの素朴で美しい印象派の風景画ばかりを好んで見てきたので、キュビズムに小利口なことを言える身分ではありませんが、それでも、私も年を取ったというか、昔よりも色々と考えたり感じたりできるものがあったように思います。

個人的に一番感銘を受けたのは、キュビズムの源流がアフリカやオセアニアなどのいわゆる未開文化が創り上げた、祝祭や呪術などに用いていたとみられる異形の木像などである、という冒頭の解説でした。

そこで展示されていた西アフリカの木像の目とピカソの「キュビズム直前期」の女性画の目が酷似しており、ああ、これが元ネタなんだと素人目にも分かるものがありました。

企画展の入口で、これまでの絵画は(被写体たる人物や風景の)模倣に過ぎないが、キュビズムとは創造を目指したものである、と書かれていました。

ピカソ達の作品は、当時の西欧社会内で、この木像などと同じ役割・機能を果たすことを目指していたのではないかと思いました。

アフリカやオセアニアなど(いわゆる第三世界)では、意味づけや役割などが判然としない異形の人物像などが多く作られていたことは現代では誰もが知っているところですが、これらの異形の像は、現地の何らかの儀式に使われたり、或いは部族支配者の権威付けに用いられるなど、何らかの呪術的なメッセージを伴っていると考えられていると言って良いと思われます。

ピカソ達は、「なんだこれは」と人々が驚くと共に、知性や悟性(思考能力)では捉えることができない、禍々しさも含むのかもしれない何らかの異形の価値を社会に見せつけることを狙って、ああした異形の作品を送り続けたのではと思いました。

やがて多くの人々がキュビズムに熱狂し、その後、それまでの宗教画や印象派絵画とも全く異なる様々な抽象絵画が生み出されたのは、その絵画等に、自分達がまだ言語化できない、呪具・呪物のような得体の知れぬ価値が宿っていると感じたからなのかもしれません。

そのため、キュビズムひいては現代芸術を理解しようと思うのなら、源流・発祥とも言えるアフリカなど第三世界(グローバルサウス)の呪術文化を理解することから始めなければならないのではないか、しかし、現代社会は、果たしてその努力をどこまでしているだろうか、どこまで成果を挙げているだろうか(それこそ、我々の方が発展途上なのではないか)とも感じました。

それと共に、日本で「なんだこれは」と言えば岡本太郎ですが、彼が「発見」した縄文の異形の諸像は、アフリカなどの異形の諸像に通じるものがある、だからこそ、欧州の芸術家は第三世界に惹かれ、同時代の欧州で育った岡本太郎は縄文に惹かれたのだろうと思いました。

第三世界のプリミティブな文化と縄文の思想。

双方の根底には何某か通じるものがあると共に、現代を今も覆っている近代欧州文明の閉塞感を打破する何かが潜んでいるのかもしれません。

本日は企画展の料金で常設展もOKと言われたので、常設展も20年以上ぶりに拝見しましたが、キュビズムのあとに16世紀の宗教画を見ると、あれもこれも同じ「絵」なのか、絵とは何なのか、何のためにあるのか、などと目眩を感じる面があり、そうした感覚にまどろむ意味でも、常設展も併せてご覧になって良いのではと思いました。

あと、地域限定ネタですが、個人的には、ゴンチャロワさんというロシアの画家さんに親近感を持ちました。

余談。

これまで家族で東京に立ち寄る際は、いつも家族の申入で駅のコインロッカーを利用していたので、今回もその習慣で400円を払ったのですが、美術館に入館した直後、ああしまった、ここならタダだった(しかも駅の目と鼻の先なのに)と後悔しました。

というわけで、帰りは贅沢駅弁を諦めて、戒めの500円ニューデイズ唐揚弁当を泣く泣く・・もとい美味しく頂戴しました。

小さなことにクヨクヨしろよ(見城徹語録集より)。

地方の外国人当番弁護士に関する通訳の実情とげんなり感

3ヶ月前の話です。

12月上旬は、例年、賞与の原資確保(そもそも支給できるか・・)に悩みつつ、外食もできず安価な配達弁当に依存する日々となっています。

誕生日 自分にパスポを贈れども
店には行けず ただ見てるだけ

おまけに、当番弁護士で逮捕直後の外国人の接見に行けとの配点を受けたのですが、通訳の手配の関係で散々な目に遭いました。

外国人事件の配点自体が10年以上ぶりだったので、あれこれ調べ直した上で弁護士会の通訳人名簿に従って電話したところ、不通とか無理の返事が続々続いたほか、別人の番号(名簿ミス)だとか何年も前に東京に転居したなどという返事まであって、結局、名簿の10人以上の対象語の通訳さんがまさかの全滅(唯一きちんとお話ができた方は、本人の取調で通訳を担当しているので無理と言われる始末・・)。

もはや、20年も前の東京時代の刑事当番の経験をさほど覚えているわけではありませんが、通訳さんの手配で苦労した経験はなかったので、色々な意味で、あんまりだと思わざるを得ませんでした。

やむを得ず裏技的な方法(非違行為ではない)で接見だけはこなしましたが、原則として当日の接見が求められる逮捕直後の当番出動は、通訳の手配が不可欠な外国人事件では、かなり無理筋である(のに、弁護士会は対策を打っていない?)という印象が否めません。

弁護士会で通訳手配をして貰うのは無理でも、せめて通訳さん手配に関する直近の役立ち情報を会内で共有・提供するとか、何人か電話して手配できなければ、本格的な接見は被疑者国選弁護人の選任を待って行うものとする(当番は通訳を手配できなくとも簡易な説明翻訳文書の差入等の接見方法でも良しとする)など、現場に無理を強いない制度設計をお願いしたいものです。

或いは、最近世間で出回っている?簡易翻訳の機械を接見室に持ち込めるようにできれば、それが一番良いのかもしれませんが・・

というわけで、「その日」のとっても有り難い配点に心から感謝する一句。

お祝いに この仕事くれた弁護士会

 

フェイスブックと誕生日

今回は、旧ブログでH23.12.19に投稿した内容を修正して再掲します。

フェイスブック(FB)では、誕生日に「友達」として登録されている方から、祝意のメッセージをいただくことがあります。

FBでは、「友達」の誕生日になると、その旨が画面に表示等されるため、画面上で「友達」の方々が誕生日メッセージを交わし合う光景を垣間見ることがあります。

そうした光景は人気投票の論理で展開されるため、カリスマ性のある人気者の方の誕生日には多くの方から大量のメッセージが送信され、そうでない方にはそれなりに、となるのが自然の成り行きで、ひねくれ者の身には、なんだかなぁと思いながら拝見しています。

私は当然ながら後者の典型ですが、現在のFBは「友達A氏に対する、A氏の友達の方々がA氏のフィード上に送信したおめでとうメール」が、どういうわけか私のフィード上に根こそぎ?表示される設定になっているため、前者の方々の誕生日には、見ず知らずの人による他の方へのおめでとうメールが延々と表示され、FB画面を見るのも嫌、という感じになっています。

ただ、かくいう私も、FBに加入した最初の年は、予想外に、誕生日に少なからぬ方からメッセージを頂戴しましたので、せめてもの誠意として、お一人ずつ御礼の返信をお送りしました。

が、一人一人に気の利いた返事をしようとすれば、手書き年賀状のようにかなりの時間と労力を要し、それはそれでしんどいと思ったことをよく覚えています。

誕生日という概念ないし習俗に対しては色々な考え方があろうとは思いますが、私の場合、下記の理由から誕生日なるものを非常に苦手にしている一面があり、FBでは自分からは他人様に積極的に誕生日のメッセージを送ることは差し控えてきました。

メッセージを頂戴した方には当方もメッセージをお送りしないと不義理だとは思っていますが、もともとその種の習慣がない上、沢山の「友達」の一部にしかメッセージを送らないのも不公平ではとの感覚もあります(私は、人を選別するような営みは基本的に大嫌いです)。

そのため、現在は、私の誕生日の表示を抹消すると共に、「おめでとうメッセージ」は一切行わないとの方針とさせていただいており、ご容赦いただければと思っています。

***

恥ずかしながら、私は子供の頃、誕生日等を祝って貰うという経験をした記憶がほとんどありません。

両親とも朝から深夜まで働きずくめの零細企業(酒類卸売等)の子として育ち、私自身、子供の頃から自宅の小売店の店番や自宅の広間で開催される取引先との宴会の用意や片付け等に駆り出されるのが当たり前という生活をしていました。

そのため、小学生の頃の私にとって、誕生日は親に玩具代をせびるだけの日であり、中学くらいまではケーキを食べる習慣もなかったような記憶です。

ちなみに、子供の頃は、盆もクリスマスも大晦日も商売の日で、紅白の終了後に元朝参りの通行人向けに深夜3時まで店を開ける(店番は家族の交替制)といった記憶しかなく、親子全員揃っての旅行は年に1回、二戸ロータリークラブの家族会のときだけ(しかも父は別行動)、それ以外の遠出は母子のみで母の実家や八戸に遊びに行く程度でした。

中学生になると実家の商売が斜陽になり始めたせいか、良くも悪くも昔よりは両親が多忙でなくなり、実家への他人様の出入りも少なくなって、誕生日に家族でケーキを摂取する程度の「普通の家」になってきました。

ただ、それと入れ替わるように、私自身が高校から親元を離れて暮らすようになり、それ以後、誕生日に家族(親元)と一緒に過ごしたことも、特別な出来事を持った記憶もありません(母からは電話か手紙を頂戴したような気はしますが)。

私は、そうした生い立ちのせいか、自分の誕生日を誰かに祝って欲しいとか他人様の誕生日をお祝いしたい(すべきだ)という感覚が、平均水準と比べ極端に劣っているようです。

私の妻は、この点で私と真逆の育ち方をしてきたため、誕生日にイベントをしたくて仕方のないようで、一種の異文化交流になっていますが、私にその習慣や意欲が著しく欠けていることから、かつては妻の誕生日には毎年のように深刻な紛争が生じたりしました。

現在も、仕事の納期や事務所の運転資金に日々頭を抱える零細自営業者ということもあり、盆も正月も誕生日もクリスマスも要らないから仕事をさせて欲しいなどと、貧困の極みのような精神状態に陥りがちなのですが、妻に限らず異なる感性を育んだ方との接点を大切にすることで、バランス感覚を養っていきたいと思っています。

**

追伸。この投稿をWeb上に載せた直後、深夜にFBが繋がらなくなり、世界的に2時間ほど利用障害が生じていたようですが、最初は原因等が全く分からず、この投稿へのメタ社からの嫌がらせか?などと妄念を抱かずにはいられませんでした。

オラバリ、ンガバリ

盛岡オサレラーメン界の雄・K店さんに遅まきながら伺うことができ、大変美味しくいただきました。

ただ、ジャズが流れる店内に相応しく?当方以外は若いオサレアベックばかり。

カウンターの反対側では、エグザイルJリーガー風あんちゃんが、連れのおねいさんに向かって

「ここは塩も捨てがたいんだよね~云々」

この土日も事務所で1人書類仕事とがっかり電話に明け暮れる私に限らず、そんな光景を聞いて血鎌が脳裏に浮かんで来た皆さんのため思い浮かんだ、ラップ風方言ソング。

オメバリ ンガバリ リア充で~
オレバリ オラバリ この暮らし~

誰か、作詞作曲を完成させ、芸名「ぎゅうじろう」でユーチューブデビューしていただければ。

以下、「みっともねえなあ お前」は禁止で。

その列車には乗り遅れても

若い頃は誰しも多くの失敗を繰り返すもので、私も人並み以上に様々な経験をしています(今もそうだろ云々はさておき)。

35年前、函館ラ・サール高校に入学して最初の帰省となる高校1年のGWの際、寮(百人部屋)のすぐ近くで寝泊まりしていた仲間のうち函館駅から帰省する面々で一緒に駅まで行くことになり、4人でタクシーに乗って駅に着きました。

が、駅に到着した直後、パニックになりました。

切符(母から事前に送られたもの)を寮に忘れたのに気づいたのです。

どうしたらよいか分からず見苦しい状態になったものの、発車時刻までは余裕があったため、間に合うかもと思って、一人でタクシーに乗って寮に戻ることにしました。

しかし、考えの甘さは否めず、結局、青函線の発車から15分後ほどで函館駅に戻り、やむなく1~2時間後?の次発列車に乗って帰りました。

駅に荷物を置いてなりふり構わずタクシーに飛び込んだせいか、函館駅に戻った際は、無駄に大量の参考書?が入った重いバッグが駅構内の柱にそのまま置いてありました。

一緒に最初のタクシーに乗車した面々とは、つまらないご迷惑をお掛けしたこともあってか、ほどなく疎遠になり、その後の帰省は一人でバスか市電で行っていたと記憶しています。

当時も今も、集団行動に向いていない人生です。

さすがに、切符を忘れて戻った経験は、それが最初で最後だとは思っていますが。

何のために、こんな下らない昔話を書いているか。

先日、全く同じ話ではないものの、歴史は繰り返すという言葉を改めて感じることがありました。

私は最初に、彼は最後に。人それぞれ。

できることなら、彼もまた、ささやかな幾つもの失敗を糧に、学問で身を立てることができればと思います。

できることなら、私よりも遙か遙か先まで。

その出来事があったのは、母の死去により二戸を往復していたときでした。

母は残念ながら孫が大学生となる姿を見ることができませんでしたが、しかるべき場所で、彼らの健闘を祈念し続けているのだと思います。