北奥法律事務所

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追憶の欧州とドイツ料理

高1の夏、入試の褒美として、母に「欧州中央(独墺瑞仏)10日間弾丸格安?ツアー」に連れて行って貰ったことがあります(私を口実に本人が欧州旅行をしたかっただけかもですが)。

当然ながら、成人前に海外に行ったのは後にも先にもそのときだけです。

最後に2日だけ滞在したパリも素晴らしかったですが、私は最初の3日間を過ごしたドイツの方が性格(民族気質)的に親近感があり、高校時代は「そこそこの外語系大学に進学→ドイツ留学→中堅商社の現地駐在員→日本と縁を切り独語圏に骨を埋める」という人生に憧れがありました。

残念ながら?憧れは幻に終わる人生になりましたが、そんな事情もあり、いずれはドイツ料理のお店で当時を懐かしむ時間が持てれば・・と思っていたものの、その機会に恵まれないまま、この歳になってしまいました。

というわけで、ゴー券の御利益もあり、先日、現在の盛岡では唯一と思われるドイツ料理のお店に初めて伺い、ようやく年来の希望を叶えることができました。

旅行の際は、中世の宝石箱とも言われるローテンブルグのレストランで昼にいただいた極太のソーセージなどが大変美味しかったことを覚えています。

可能なら、またドイツなど欧州方面に旅行できればと思いますが、時間云々もさることながら、これから十年ほどは「そんなの絶対無理」と感じる綱渡りのカネ負担の日々が続くので、夢のまた夢というのが残念な実情です。

余談ながら、訪問したお店は一皿あたりのボリュームが割と大きく、3~4人で伺うには丁度良いのですが、相応の年齢の夫婦2人だけだと種類をこなすのが厳しいと感じました。

可能なら、量も単価も控えめな小盛りメニューも作っていただければ幸いです。

盛岡北RCと岩手女子高IAとの懇談会と「RCのきほんのき」

以前にも投稿したことがありますが、私が所属する盛岡北ロータリークラブは「インターアクトクラブ(IA)」という形で岩手女子高のJRCクラブさんと協力関係にあります。

ただ、詳細は存じないものの、私が入会した10年近く前の時点で、すでに相互の交流は希薄になっており、毎年12月の当クラブのクリスマス会に部員さんと顧問の先生をご招待して手話を用いた歌唱を披露いただくこと以外には、特段の関わりはない状態が続いています(今は、ウィルス禍のせいで、それも絶えています)。

私は3年ほど前に2年間だけIA等の担当委員長を務めましたが、そうした経緯や私自身の多忙さもあり、名ばかりの状態が続きました。

ただ、何もしないのもどうかということで(ある年の会長さんから、活性化を促されていたこともあり)、一度、IAにアンケート調査を行うと共に、その結果を踏まえて会員5名ほどで岩手女子高にお邪魔し懇談会を行ったことがあります。

その際にIA(高校生)向けに作成、配布したレジュメを、折角なので本ブログでも載せることにしました。

うわべだけの綺麗事は好みませんので、「どうしてロータリーには金持ちが多いのか」「バブル崩壊で人数が減った」など、敢えて「本音トーク」的なものも書いていますが、反面、ロータリーの本部?から「こいつは問題児だから懲らしめろ」などというお達しが出ないか、少し不安に思わないこともありません(笑?)。

当日は、敢えてレジュメの棒読みはせず、「宮澤賢治の思想とロータリー運動との関係」について話をしたのですが、それよりも、当方の会長さんが紹介した海外留学支援の説明の方が好評を博していました。

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(目次)
第1 ロータリーとは何か、どのような活動をしているか
第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

※ 本レジュメには、ロータリーなどの「公式見解」ではない個人的な見解が多数含まれていますので、取扱にはご注意ください。

第1 ロータリー(RC)とは何か、どのような活動をしているか
 1 RCの発祥と発展など

1905年に米国シカゴ(ミシガン湖畔の大都市)で執務するポール・ハリス氏(弁護士)が、仕事上の付き合いのある友人同士の相互交流(親睦グループ)として計4人で結成したのが発祥。

その後、1920年代頃から「単なる親睦ではなく、団体または構成員個人として社会への奉仕を実践すべき」と掲げたことが契機になって賛同者が増えて戦前戦後の米国の躍進なども相俟って世界中に広がり、現在は200カ国以上の国々に3万以上のクラブが存在し、120万人以上の会員が所属している。

 2 国際RC(世界全体)や各地RCの活動や実情

RCは、会員内部の懇親や相互扶助(クラブ奉仕)のほか、対外的な活動として、地域社会や青少年、国際社会などへの奉仕を理念に掲げ、その一貫として様々な活動を行っている。

典型的な例では、地域の若者(高校生など)の海外留学を支援(費用補助)したり海外の有為な若者の留学を支援するなどの活動を行うほか「大がかりではないが地域の美観・景観などを良くするための小規模な設備」などの設置(北上河畔の花壇など)といったものを行っている。

国際RCが世界的に行っている取り組みとしては、かつて深刻な難病として数十年前の日本をはじめ世界中に蔓延していた「ポリオ(小児麻痺)」の撲滅のための活動などが行われている。

 3 日本のRCの活動や実情(どうしてロータリーは「お金持ち」が多いのか)

もともとRCは事業活動を行う者同士の親睦を目的として始まったが、日本で最初にRCの結成を提唱したのが三井物産(日本を代表する総合商社の一つ)の経営者(米山梅吉氏)であり、地域を代表する大物経営者(要するに、お金持ち)を中心に広がったことに基づく。

そのため、現在も日本のRCは、企業経営者や高度専門家(医師等)、地域内の大企業の幹部社員など、いわゆる地元の名士さんが会員となっていることが多く、一般庶民(私を含む)から見れば、敷居の高さを感じる面がないとは言えない。

しかし、これは世界共通のこと(RCが前提としていること)では全くなく、海外では、ごく普通の企業のごく普通の立場の従業者が、男女を問わず会員として多く参加する例も多いそうであり、日本のRCのあり方が「当たり前」と考えるのは正しいことではない。

そうしたことも含めて、RCのあり方は次世代に託されている面がある。

第2 盛岡北ロータリークラブの活動や実情など
 1 盛岡北RCの発祥と現状など

盛岡では、1939年(昭和14年)に盛岡ロータリークラブが結成され、1958年(昭和33年)に盛岡RCの一部会員が脱退(分裂?)するなどの形で盛岡北RCが結成された。

その後も、数十年間は、盛岡RCや盛岡北RCから分かれる形で新たなRCが幾つか結成され、現在、市内(盛岡広域圏内)で計8個のRCが存在している。

なお、喧嘩別れ等の話は特には聞いておらず、親睦団体という性質上、1個の大規模団体よりは、親しい仲間が個別に結成する複数のRCが地域内に並立する方が望ましいとの考え方がとられたものと思われる(ちなみに、東京に3つの弁護士会が存在するのは会長選挙を巡って昔々に喧嘩別れしたからと言われている)。

盛岡北RCは最盛期(平成元年頃?)には80名以上?の会員がいたものの、現在(5年ほど前頃から)は36名前後(40名弱)の会員数に止まっている。

これは全国的な傾向であり、30年前は、バブル経済などの影響で地域の有力・著名企業の経営者や役員などがこぞって加入したものの、バブル崩壊後にそれらが撤退したため、本気でRCが好きな人達(とバブル崩壊後も会費支払が可能だった人達)が残ったという面は強い。

ともあれ、盛岡北RCでは、より多くの会員の加入を望んでいる状態である。なお、現在の会員は各種の事業を営む会社の経営者や幹部社員、専門職(医師など)が多い状態である。

 2 盛岡北RCの「奉仕活動」について

盛岡北RCでは平成18年頃から令和元年頃まで、盛岡市のこども科学館の近くにあった原野(市有地)を借りて「どんぐりの森」と称する植樹・整備事業を行った。

これは、「盛岡は市内に緑が少なく、子供達が地域で自然に触れあう機会が乏しいので、そのきっかけ作りにしたい」などという理念のもと行われた事業であった。

「どんぐりの森」は令和元年頃に終了し市に返還され、一部が現在も活用されている。

第3 インターアクトクラブとは何か、どのような活動をしているか
 1 インターアクトクラブとは何か、インターアクトとローターアクト

RCでは、「ロータリーの理念(社会奉仕など)を若い世代に伝え、理解を得ると共に将来のRC或いは社会全般の担い手として育成する」ことを目的に、各地RCに、若年者を構成員とする関連団体を設置することを推奨している。

インターアクトクラブは、そのうち12~18歳まで(中高生)を対象とするもので、他に18~30歳までを対象とする「ローターアクトクラブ(の制度)」も存在する。

ローターアクトは、将来のRC会員候補になりうる社会人との親睦を深めることが目的とされやすいが、インターアクトクラブは「奉仕活動を目的とする活動を行っている生徒(学校のクラブ等)の支援」を目的に結成されることが多いようである。

 2 岩手女子高インターアクトクラブについて(掲載は割愛)

 3 日本各地(及び、岩手・宮城地区)のインターアクトクラブの活動など

回覧資料のとおり、①子供やお年寄り、留学生などとの交流・支援事業(RC側も設営等で協力)、②各種の募金活動(同?)、③その他、地域内の様々な慈善活動(同?)、などが行われている(ようである)。

 4 ライラ(RYLA)について

ライラは、RCの各地区(盛岡の場合、岩手・宮城のRC全部で構成される地区)ごとに年1回の頻度で行う「インターアクトクラブ及びローターアクトクラブのための1泊2日の研修大会」であり、岩手又は宮城県内の研修施設を借りて行っている。講演を聴いてグループ討論などをすることなどを内容とし、交流行事(身体を動かすもの。スポーツ的な?)も行われるようである。

岩手・宮城のRC内に、「IA・RAに特に力を入れているクラブ」が幾つかあり、そうしたクラブが中心となって運営がなされている(ようである)。

第4 岩手女子高JRCクラブの「インターアクトクラブ」としてのあり方など

既述のとおり、インターアクトクラブには、ロータリークラブという資源を生かした様々な活動を行う可能性がありうるところではあるが、現時点でそれがなされていると言えるとは必ずしも言い難い。

学業優先など、時間の確保に困難が伴うことはやむを得ないところではあるが、ぜひ、この機会・資源を生かして「関わってよかった、自分ひいては社会のためになることができた」と思える何かに繋げていただければ幸いである。(以上)

 

「街もりおか」から田中舘秀三教授の顕彰と映画化を目指して

先般、盛岡市のタウン誌「街もりおか」(2022年9月号)に、下記の文章を掲載いただきました。

数年前にも寄稿したことがありますが、一度、田中舘秀三教授の物語で投稿できればと思って運営の方に相談したところ、快諾をいただいた次第です。

このテーマで文章を書くのも最後の機会になるかもしれず、関心のある方はご覧いただければ幸いです。

【忘れられた盛岡出身の偉人・田中舘秀三の顕彰と映画化を目指して】

皆さんは、明治初めに二戸で生まれ、旧制盛岡中学を経て東京帝大に進み、大戦前後に地理学などの分野で活躍した田中舘秀三・東北帝大教授のことは知っていますか。

ミマツダイヤグラムで世界に名を轟かせた三松正夫氏に火山観測の方法などを指南し、昭和新山の名付け親になった学者さんと言えば、ご存知の方もおられるかもしれません。

しかし、秀三氏が歴史に果たした役割はそれだけに止まらず、太平洋戦争の開戦直後、旧日本軍の侵攻により陥落したシンガポールに突如、単身で現れ、大英帝国が長期に亘り築いた貴重な学術資産や当時の先端的産業研究施設としての植物園(同国唯一の世界遺産である、現在のシンガポール植物園)などを戦争の混乱に伴う散逸や消失の危機から守り抜いた功績があることは、一部の歴史愛好家を除いて、ほとんど知られていません。

この物語は、同国到着直後の秀三氏が、欠かすべからざる相棒として軍に直談判し釈放させ、秀三氏と共に奔走した英国人研究者(コーナー博士)が執筆した、「思い出の昭南博物館」(中公新書)にも詳しく描かれています。

私は平成29年に3日だけ同国に旅行したことがありますが、その少し前に偶然その話を知り、この功績は多くの人々に知られるべきと感じるようになりました。そして、何を血迷ったか?帰国便の中で、突如、「顕彰のための物語を作って映画化を目指したい」と思い立ち、長文のあらすじ案を作成して、当事務所のブログで連載しました。

もちろん、中公新書の内容をなぞっても仕方ありませんので、公知の史実と反しない限度?で壮大感動巨編に仕上げるべく、様々な工夫をしています。

例えば、シンガポール華人大虐殺を行った張本人であり、旧軍の「悪の?カリスマ」としても名高い辻政信参謀との対決や、若きリー・クアンユー(建国の父)との邂逅など、幾つかの見せ場を考えました。また、他作品の真似と言われそうですが、導入部では現代パートを設けて、主人公が秀三氏の物語を偶然知り・・・という展開にしています。

今も、あらすじ案は事務所ブログに載せていますので、興味のある方は、「田中舘秀三物語」などと検索してみて下さい。また、ご希望の方は当事務所Webサイトからメールを送信いただければ、私からPDF版を返信することも可能です(もちろん無料です)。

といっても、「田舎の町弁として地域社会と人々に全力で尽くす」との旗印?のもと、多数の赤字仕事に追われ事務所の運転資金を稼ぐのに汲々とした日々を送る私には、小説を執筆する能力も余力もありませんので、作成したものは「映画化を目指すあらすじ案」に過ぎませんし、残念ながら、5年を経た現在もWebの片隅に埋もれるだけの有様です。

可能でしたら、読者諸氏や本誌の発行などに携わっておられる本職の方々に本格小説を執筆いただくなど、この「たった1人の運動」に皆様のご助力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
                    
弁護士・北奥法律事務所代表 小保内義和

【備考】

掲載された文章には、秀三教授のお名前に「しゅうぞう」というフリガナが振られていますが、一般的な読み方は「ひでぞう」と思われますので、ご留意下さい。

 

庄内から善政の光景と庶民の魂を考える(象潟・庄内編4)

鶴岡の藩校致道館は、庄内藩の降伏協議の舞台にもなった重要な施設ですが、すぐ隣には、近未来的な外観を備えた鶴岡市民文化会館(荘銀タクト鶴岡)が聳えており、双方が並び立つ光景は、江戸と現代が鋭く交錯しているように見えます。

このような光景は、岩手・盛岡では見たことがなく、稀有なものであると共に、若い世代への教育的な効果という点でも、意義が大きいと感じました。

大戦争で連戦連勝を経て天下に降伏し、城下も藩も保全された庄内藩。
一進一退の中で降伏し、責任者は斬首され多くの辛酸を嘗めた南部藩。
城の包囲戦では負けることなく天下に降伏し、何もかも失った九戸城。

何が三者の運命を分けたのか。
本間家の財や最新の軍備、名将・鬼玄蕃、そして西郷隆盛の有無だけか。

答えの一つは、藩主が領民から強く支持されていた(根底に、善政で領民も相応に豊かに暮らしていた?)ことにあるかもしれません。

その企画展が、致道博物館で行われていました。

藩の転封を反対し既存の藩政を求める大規模な領民運動などというものは、飢饉と一揆が繰り返された南部藩では到底考えられません。

そうした事情も、庄内藩の戊辰の健闘を支える力になったのでしょう。

明治以後も領主(酒井公)が領民により神格化され祀られている荘内神社(鶴岡城址)も、その現れかもしれません。

酒井家よりも遙かに長い歴史を持つ南部藩(南部本家)には、藩主一門を領民が崇敬する思想はついに生じなかったと思います。

盛岡城址の桜山神社も信直公らを祭神としており、「四柱を祀る」という形式の共通性を含め、荘内神社に相当する施設と言えますが、住民の総意で創建されたと強調する荘内神社サイトの紹介文と桜山神社サイトの創建経緯に関する文章を見ると、住民との結びつきに温度差があるように感じます。

「よそ者」の酒井家は地の利(西回り航路)を活かし人の和(地元の豪商や藩士・領民の協力)を得て、天の時(戊辰戦争)にも屈指の足跡を残しました。

その姿は、数百年も北東北に君臨した南部家を擁しながら、平泉以後は、天下に轟く逸話に縁の薄い歴史を続けた岩手の民にとって、眩しく見える面はあるかもしれません。

反面、明治後、庄内からは天下を動かす政治家等がほとんど生じておらず(唯一の例外が石原莞爾でしょうか)、これに対し岩手は宰相など多くの人物を輩出してもいるわけで、そうした対比も興味深いものと言えるでしょう。

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これまで数回に亘り、象潟・鳥海の自然と酒田・鶴岡の栄華や軌跡について、取り上げてきました。

ただ、庄内は、貧困や苦難に生きた「おしん」の舞台でもあります。

私は、弁護士登録直前の平成12年3月、リマの街角で、地元の沢山のペルー人達と一台のテレビを囲んで、「おしん」の最終回を見ていました。

きっと、私の弁護士人生も試練の連続になるのだろうと思いました。

酒田随一のオサレ施設となった山居倉庫内には、今もあの曲が流れています。

私はおしんのテーマ曲を聴くと、身震いがして泣きそうになり、1週間以上、延々と口笛を吹きたくなる症状が生じます。

重度の「おしん病」患者であることは間違いないでしょう。

皆さんも象潟・鳥海や庄内(酒田・鶴岡など)に旅してはいかがでしょうか。

霊峰の麓には、おくりびとに限らず、意外な出逢いや発見があるかもしれません。

芭蕉の足跡から詩情を掻き立てられることもあるかもしれません。

以上をもちまして、象潟・庄内編は終幕です。

多数の投稿にお付き合い下さり、ありがとうございました。

最後に、帰路の川下り街道にて、同行者にもおしんの爪の垢を煎じて飲んで欲しいの一句

さあ勉強、寮へと急かす最上川

~完~

 

庄内から神仏習合と古層の精神を考える(象潟・庄内編3)

今回と次回は、酒田・鶴岡を巡りながら感じたことを幾つか述べていきます。

鶴岡市中心部にある致道博物館の「文化財収納庫」には、庄内藩民が背負子の背中当てとして愛用した「ばんどり」と呼ばれる民芸品が多数、展示されていました。

インカ(ペルー・アンデス)やアイヌの民族衣装を彷彿とさせるように感じました。

山形は、日本海を通じて古代から大和政権=ヤマト文化との同化が進んだせいか、蝦夷・アイヌの文化の痕跡をほとんど聞いたことがありませんが、縄文(古モンゴロイド)の血の記憶は、この地にも流れているのかもしれません。

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最後に訪れた羽黒山の五重塔は、国宝9塔のうち「神社」と冠する施設内にある唯一の五重塔であり、我が国の神仏習合を象徴する施設の一つと言えるかもしれません。

江戸初期の羽黒山は天海上人の弟子が管理する寺院であり、その御仁の強力な指導のもと、比叡山のように藩領から独立した勢力として地域に君臨したのだそうです(ご本人は政争の末に失脚)。

修験道や古神道は「万物に神宿る」のアニミズムの系譜に属しますが、神仏習合もアニミズム(自然崇拝、多神教、多様性、多元主義)と親和性があり、日本では縄文文化がその根源にあると考えます。

山形がその聖地となっているのは、霊峰・名山に恵まれただけでなく、この地が縄文文化圏であることを示すものと言えるかもしれません。

アニミズムと対をなすのが一神教や原理主義であり、これらは科学的合理性を重視し自然よりも人類を優先する人間中心主義の傾向があり、弥生文化もその系譜に属すると理解しています。

以前、伊勢神宮に伺った際に、双方の違いなどを考えましたが、古神道の殿堂としての出羽三山は、弥生文化の象徴たる伊勢神宮と対置する存在として、双方の異同を比較するのも意義があるのかもしれません。

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羽黒山神社(三神合祭殿=本殿)では、巨大な建物の壮麗さも見事でしたが、それ以上に、本殿の目の前に池が配置されている光景に驚きました。

このような光景は初めて見ましたが、平等院鳳凰堂とその手前にある浄土庭園に、何か通じるものがあるようにも感じます。

意図的に作庭したのではなく、もともと池があったそうですが、これも神仏習合のなせる業なのでしょうか。

神社なのに、大きな鐘と立派な鐘楼もありました。私は神社仏閣には詳しくありませんが、鐘楼を備えた神社も現代ではほとんど聞いたことがないのではないでしょうか。

近くには、小規模な社殿が並び立つエリアもあり、上杉家廟所や男鹿半島の五社堂を彷彿とさせるものがありました。これらには、共通のバックグラウンドがあるのでしょうか?

 

庄内でも懲りることなくエセ歌人(象潟・庄内編2)

象潟・庄内方面への旅行の続き(2日目・3日目)です。

にかほ市内の宿泊先を出発し、どしゃ降りの中、地元出身の英雄を顕彰した白瀬南極探検隊記念館を拝見し、その後、道の駅象潟を経由して、主要目的地の一つである酒田に向かいました。

白瀬中尉が南極点踏破を断念した後、数十年を経て初めて南極点に到達した日本人(村山雅美隊長)は、田中舘愛橘博士の孫弟子なのだそうで、先日の岩手日報では、二戸の田中舘愛橘記念科学館が、南極観測隊を顕彰する企画を行っている旨の記事が掲載されていました。

白瀬記念館と愛橘記念館も、南極繋がりで様々な交流や企画を行い、自然への挑戦と畏敬の精神の涵養に努めていただければと思いました。

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酒田への途中、県境の名所「十六羅漢岩」に立ち寄りましたが、日本海の荒波に気を取られたせいか?勘違い(岩を仏像に見立てているのかと思っていました)で羅漢像を見ることなく海岸風景だけを堪能して立ち去りました。

荒磯に十六羅漢を見忘れる

名勝・二見岩付近も通過したのですが、道路から確認できることを知らず、見過ごしてばかりでトホホの連続です。

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酒田市に到着後は、最初に本間美術館を訪問しました。

栄華を極めた本間一族の美術館に相応しく、江戸期を代表する名匠達の作品(いずれも国宝級?)が一人一点ずつ厳選され展示されていたほか、2階では江戸期に活躍した女性画家の作品も展示されていました。

庭園(鶴舞園)と邸宅(清遠閣)も、大変美しく、満足して拝見しました。

私が東京で大変お世話になった兄弁は独立直後に本間ゴルフの民事再生に関与し、当時は頻繁に酒田にも出張していたそうです。

当時、江戸時代に流行したと言われる「本間様には~」の名文句を4回くらい?聞かされた記憶があり、その都度「先生、その言葉、昔から知ってます・・」と言いたいのを我慢して聞いていました。

というわけで、その先生に敬意を表して一句ならぬ一節?

本間様には及びもないが いつかなりたしプチブル弁

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その後、本間旧邸山居倉庫日和山公園を経て土門拳記念館に赴き、最後に2日目の宿泊地(湯野浜温泉)に向かいました。

土門拳記念館では、絵画と見まがうような印象的な構図で撮影された写真群に感銘を受けましたが、さっさと宿に行きゲームをやりたいなどと宣う同行者には、巨大な丸いものでもぶつけてやりたいと思わずにはいられませんでした。

魂と感性の刺激には、土門拳を
ゲーム中毒の輩には、怒モンケーンを
暑さで弛んだ身にも、怒モンケーンを

モンケーンが何のことか分からない方は、鋼鉄参謀や浅間山荘事件をお調べ下さい。

***

翌日(3日目)は、最初に、加茂水族館を訪問しました。

同館をもって、ついに東北の主要水族館を踏破できましたので、記念の一句。

カモられる暗げな家族 列をなし

館内は決して大きくありませんが、日本随一とも言われるクラゲの展示が圧倒的な存在感を有しており、詳細な解説コーナーなども含め、オガールの遙か以前から、ここはピンホールマーケティングの聖地なのかもしれません。

個人的には、小粒のクラゲの大群が隊列をとっているように見えた展示が、

巨大な敵を~(撃てよ~撃てよ~撃てよ~)

というガンダムのオープニングテーマの画面(シャアザクが大量のザク群を率いている画面)によく似ていると感じて、印象に残りました。

また、目玉焼きに酷似したクラゲの展示もありましたが、私の実家にあった、「肩凝りなどを治すための吸引カップ(を身体に設置して装置を作動させたときの光景)」に似ているように感じました。

しびれるぜ 凝りに吸い付く目玉焼

あと、オマケに前夜の湯野浜温泉にて一句。

カニ喰えば疲れ花火を見忘れる

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その後は、鶴岡市内に移動し、致道博物館藩校致道館荘内神社(鶴岡城址)などを拝見した後、最後に、羽黒山五重塔と羽黒山神社(出羽三山神社)を拝見し、帰途につきました。

盛り沢山の旅行でしたが、時間の都合で断念した箇所も多く、再訪の機会を楽しみに待ちたいと思います。

鶴岡などを歩いて感じたことは、次回の投稿で述べることとします。

 

象潟に町弁来たりてエセ歌人(象潟・庄内編1)

先般、庄内(酒田・鶴岡)方面を初めて旅しました。秋田の日本海方面から入ることとし、折角なので、1日目は鳥海山の麓のエリアを廻りました。

最初に、出羽の名瀑・奈曽の白滝にて一句。

太古より轟く その名その白滝

続いて、元滝伏流水にて、次世代の飛躍を願って一句。

伏龍の世に湧く日を待つ岩清水

周辺は、湧水の冷気(温度差?)で霧に包まれる幻想的な雰囲気です。

霊峰の息吹 涼しく厳かに

この日は、天気予報では昼から豪雨のはずでしたが、秋田県南は全く雨に遭わずに済みました。ただ、津軽・秋田県北に豪雨をもたらした分厚い雲に覆われ、鳥海山までは望むことができず、その点は次回に持ち越しとなりました。

というわけで、鉾立駐車場の奈曽渓谷展望台にて、全国のしがない町弁の皆さんに捧げる一句

喰らはずに仰ぎ生きたし ちょうかいさん

懲戒・・・もとい鳥海ラインの出入り口付近で、対向車が猛スピードで下山し、激しくセンターラインオーバーをしている光景を目の当たりにし、あと少しタイミングがずれていれば・・と恐怖すると共に、安全運転の大切さを感じずにはいられませんでした。

その後、下山し、九十九島・坩満寺に赴き、芭蕉を偲んで緩慢な一句。

行く末を案ずる間もなく象潟に

この日(時間)は当方以外に人影はありませんでしたが、人間以外の来訪者がありましたので、寂しさは感じませんでした。

象潟で我も詠まんと鳥一羽
警察は歌わぬ鳥をサギといい

さすがに、私が近づくと飛び立っていきました。

というわけで、この日の最後に、句心のない同行者に一喝もとい一句

ゲームに病んで夢が枯野に散るなかれ

現在ブログでは写真の掲載はすべて割愛していますので、ご覧になりたい方は、FB投稿にてご確認ください(今後の投稿も同じ。反面、公式サイトなどを引用しています)。

 

私と岩手県庁の20年、そしてその先にある事件

19年前、私は、岩手・青森両県庁などのご協力のもと、全国の廃棄物問題の凄腕弁護士さん達を連れて、岩手青森県境不法投棄事件の現場に行きました。第二の豊島事件になるかもしれないと思われたこの事件は、増田知事の全面撤去の決断を機に、弁護士の出番を必要とすることなく決着しました。

14年前、岩手・青森の海の境界紛争と呼ぶべき「なべ漁場事件」が勃発し、私は、岩手県庁(水産振興課)の全面支援のもと多数の岩手県漁業者の代理人として、青森県庁と闘いました。数十年前から続いていた漁業紛争にケリを付けるため始まった事件は、苦心惨憺の末、実質勝訴と言える和解で終了しました。

7年前、長年の岩手のサケ産業システムに不満を持つ一部の岩手県漁業者による「サケ刺網訴訟」が勃発し、私は岩手県庁(水産振興課)の代理人として原告漁業者らと闘いました。この件も苦心惨憺の末、3年後に全面勝訴で終了しました。

ただ、岩手のサケ産業の現状に照らせば、ある意味、勝者なき闘いだったのかもしれません。彼らが数十年続けた闘争を終わらせるために起こしたのではと感じた訴訟は、裁判で語られたことの意義が世間に伝わることもなく、些か不毛さを残すものでした。

あくまで単発的なご依頼であり「地元の大物センセイ」でもありませんので、県庁の顧問などにご縁はありませんでした。

そして今、数十年前に行われた廃棄物の大量埋設事件で、被害者代理人として、岩手県庁(医療局)を訴える側の代理人として訴訟を提起しました。

自治体と関わる地元弁護士は数多あれど、こうした形で地元県庁と様々な関わりを持った弁護士は、珍しい部類に入るかもしれません。

提訴自体は、当日は地元TVで全局一斉に取り上げられたほか、国内向けWeb記事でも表示されていました。
軽米町が県を提訴 病院跡の廃棄物めぐり 総額1億9000万円の損害賠償請求<岩手県>|FNNプライムオンライン

反面、翌日の岩手日報では紙面の片隅に小さな記事が載っているだけでした。新聞には、訴訟の概要や事件の問題点などについて、提供資料などをもとにTVでは対応できない腰を据えた詳細な記事を書いていただければと願っていたのですが、その点は残念です。

ともあれ、この事件は数十年前に埋設された膨大な廃棄物の撤去費用などの賠償を埋設行為者に請求する事件ですが、以前に投稿した「あなたの街の森友学園事件」のとおり、全国に膨大な数の同種被害が潜在していると危惧されます。

とりわけ、数十年前とはいえ県庁が運営していた施設が起こした事件であることは関係証拠から間違いなく、県庁が県民から借りた土地に、現時点で1億強もの原状回復費用を要する投棄行為を行い放置し続けたことの当否を問うことは、県民にとっての県庁という存在の意味=信頼も問うことに他ならないと思っています。

本件自体の解決もさることながら、将来発覚する同種の事件で適切な対処がなされるようにするためにも、全力を尽くしていきたいと思います。

事件の適正解決のため、県民など多くの方々のご理解・ご協力も賜れれば幸いです。

三島由紀夫の自決事件から安倍首相の殺害事件を考える

3年前に、三島由紀夫事件からの着想で、以下の替え歌を投稿したことがあります。安倍首相殺害後の一連の報道を見る中で、この歌を思い出しました。

真っ赤だな 真っ赤だな
きれいごとって 真っ赤だな
戦後の平和も 真っ赤だな

三島由紀夫が そう言って
真っ赤になり問うた この世界
真っ赤な嘘は まだそこにある

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一連の報道で、安倍・岸家三代と強い関わりのあった勝共連合=統一教会が多くの日本人に災禍を及ぼし、国民から搾取された富が文鮮明ファミリー(ひいては韓国社会?)に還元されていたことと、安倍首相の代名詞とも言われていた朝鮮両国(韓国・北朝鮮)への強硬姿勢との間に、強烈な矛盾・不整合を感じずにはいられなかった人は、少なくないのだろうと思います。

ただ、その話は決して今に始まった・露見したことではなく、戦後政治や統一教会被害問題に多少とも知識のある人なら、半ば分かりきったことでした。それでも、安倍首相の在任中に限らず、その前後も含めて、「反アベ」を標榜する方々すらもキャンペーンすることなく、誰もが忘却していたと言ってよいと思います。

今回の事件は、忘れられた世界で塗炭の苦しみを強いられた御仁による、強烈な異議申立と見ることもできるのかもしれません。

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米国にはラストベルトで忘れられた没落中級層の代弁者としてのトランプ大統領が出現しましたが、日本では同氏に匹敵する存在は現れていません。

そんな中、誰よりも同氏と懇意にしていたと言われる安倍首相が半ばとばっちりのような形で「忘れられた日本人」の凶弾に斃れる光景も、皮肉というのか、得体の知れない恐るべき何かを感じざるを得ません。

我々が経験してきた「戦後の平和」にも「戦後レジームの脱却(の先にあるとされる平和)」にも何らかの嘘や欺瞞があるのだろうと感じつつ、何が真実なのかと問われても答えに窮する方は、少なくないと思います。

或いは、我々自身がそれらに依存する面が大きいがゆえに、真実を見ることも困難な状況にあるのかもしれません。

今回の事件で誰が問うたのか・何が問われたのかはさておき、真っ赤な嘘がはびこる社会には、真っ赤な光景をもって、その嘘を問おうとする人が、出現せざるを得ないのかもしれません。

三島由紀夫は自決直前の演説で、戦後社会には欺瞞が溢れているという趣旨の社会批判をしていたようですが、或いは、そのメッセージは、今回の事件に限らず、数十年を経た現在の社会に対する批判としての意味も持ちうるようにも感じています。

3年前のブログ記事は、今回の文章とはあまり関係ありませんが、末尾に替え歌の全文を収録しています。

福田家三代の言葉たちと政治家にとっての他人事・自分事

福田康夫首相のことは忘れても「あなたと(は)違うんです」なら覚えている、という方は珍しくないかもしれません。

今回の福田総務会長の不用意?な「何が問題か分からない」発言を聞いた際、お父さんは記者会見で数々の名台詞を残し、「フフンの人」と揶揄されながらも世間に結構愛されていたことを思いだしました。

祖父の赳夫首相は宮沢首相と並んで戦後の秀才首相の双璧と言われている方ですが、この方も言葉の達人で、「人の命は地球より重い」など、多数の名言を歴史に残しています。

お孫さんは、自身が(安倍家と違って?)統一教会と公私とも関わりがないとか、俺達はそんな奴らに左右されるほどヤワじゃないと言いたかっただけなのかもしれませんが、言葉の使い方が悪くて、傲岸不遜な印象を与えてしまったように見えます。

冒頭の康夫首相の名ゼリフ?は、「他人事のように政治を語っている」との記者発言への反論として、自分は物事を客観的に見ているのだとの意図で発したそうですが、DNAを感じさせる面はあるのかもしれません。

小沢一郎氏は陸山会事件の公判で「自分の関心は天下国家のことだ(だから、こんな話に自分は関わりがない)」と述べたと報じられましたが、政治家の自負心が、かえって自分の足元を支えている人達・物事への無関心・無責任を印象づける面があり、その後の小沢氏勢力の退潮にも繋がるように見えました。

そういえば、康夫首相も官房長官時代、北朝鮮との国交樹立等?を優先させ、拉致被害者家族への対応が冷淡だったと批判されたことがありました。

福田家三代も、高い知的能力を有し自負心の強い一族だろうと拝察しますが、天下国家のことばかりでなく、あたかもその養分として吸い取られたかのように、政治に関わろうとする様々な周辺勢力(統一教会に限らず)の活動を通じて辛酸を嘗めるなどした庶民の思いも代弁できる言葉を紡いでいただければと思います。

赳夫首相ひいては清和会の政敵であった田中首相は、曲がりなりにも、自身が貧しい戦後庶民の「豊かになりたい」との思いを代弁する存在だと印象づけたことが、強固な政治力の根底にあったのではと思いますし。