北奥法律事務所

岩手・盛岡の弁護士 北奥法律事務所 債務整理、離婚、相続、交通事故、企業法務、各種法律相談など。

〒020-0021 岩手県盛岡市中央通3-17-7 北星ビル3F

TEL.019-621-1771

ブログ

インターネットを通じて著名人からブログにコメントを頂戴した件

2年前、事務所Webサイトの仕様変更(http→httpsの切替)を依頼した際、副作用?で、検索で相応に登場していたブログの記事がWeb上で全く検索されなくなり、Web世界の彼方に消えてしまうという悲しい出来事がありました。

自称・代表作であるJCIクリードと日本国憲法の関係を書いた記事など、検索上位に表示される投稿が幾つかあったため、しばらくは枕を涙で濡らす日々を送りました。

で、せめてもの悪あがきとして、昨年、昔書いた記事を読み返した際、誰か見てくれればと思ってツィッター上に掲載するセコい作業をこっそり行ったことがあります。

すると、宮崎監督と庵野監督の作品思想の違いについて論じた記事で引用した、ある著名人の方(浅羽通明氏)からツィッター上でコメントをいただいたので、大変仰天しました(1年以上前の出来事で、当時、FBには載せたのですが、ブログに掲載するのを失念していました)。

同世代の方で、若い頃、思想・哲学など「知の世界」に憧れを抱いたことがある方なら、浅羽通明氏の「ニセ学生マニュアル」三部作などをご覧になったこともあるかもしれません。

私は学生時代にこの本に強い影響を受け、今も、歪な自我を抱えた者だからこそ社会に役立てる「何か」もあると信じて、町弁のはしくれとして田舎の片隅で地を這うような悪戦苦闘の日々を送っています。

面識等はもちろんありませんが、私にとっては知の世界に触れる機会を与えていただくと共に、学生時代に道を違えずに済んだ、或いは真っ当な路線に辿り着く原動力を頂戴した恩人のような方だと思っており、それだけに

「長生きはしてみるものだ、たまにはいいこともある」

と、天に感謝した次第です。

先日も、浅羽氏が執筆された「『君たちはどう生きるか』集中講義」を拝読し、マルクス思想をテーマとする点では「人新世の資本論」と共通するものの、総論ばかりで有意な各論(実践論)が伴わないと感じた後者よりも遙かに具体的・実践的で面白い(マルクス思想は革命=権力闘争の思想と実践が伴わなければならず、そのことに正面からきちんと触れている)と、改めて浅羽氏の「読ませる力」に圧倒されました。

また、浅羽氏が現代の様々な社会事象に鋭い分析・解釈を示した新たな書籍を世に送り出して下さる日を、心より楽しみにしています。

 

菅田義経に与えられるべき「アイヌ王」の物語と、八重と清衡を巡る圧倒的なまでの共通点

話題の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も中盤となり、先日は義経の最期が描かれていました(後述のとおり、私はまだ見れてません)。

今回の義経は、性格に難があるものの天才的な軍略家として描かれていたので、どうせなら北行伝説を仄めかすシーンがあればよかったのに、と思っているところです。

この点については、以前にブログで

この時代の北方世界(北海道からサハリン広域)では、当時のアイヌ民族(擦文人)が勃興して大陸まで暴れ回っており、北の元寇と呼ばれる大戦争もあった。いっそ、義経はその指導者になって暴れ回っていたという物語を作った方がよいのでは

と書いたことがあり、今回の菅田義経には、その物語を与えてあげたかったように感じています。
岩手県PR動画「都会のオラオラ、岩手のおらおら」そして北方世界を制覇したアイヌ王・源義経の物語 | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

***

ところで、主人公・北条義時の妻として登場するガッキーこと八重は、史実では不明な点が多い御仁ですが、ドラマでは、最初の夫(頼朝)との間の子を実父(伊藤祐親)に殺され、実父や実兄も夫に殺された後、義時と結ばれ、嫡子・北条泰時を授かっています。

この八重の人生を見ていると、平泉の創始者こと藤原清衡に似ているのでは?という印象を強く受けます。

ご承知のとおり、清衡は幼少期に父(藤原経清)を殺され、母は父を殺した勢力(清原氏)に再嫁を強いられ、やがて、父違いの弟(清原家衡)との対決を余儀なくされ、その弟に本拠地を衝かれて妻子を殺され、最終的には弟(家衡)を倒し、東北に平和をもたらしました。

父・経清や父が属した勢力(安倍氏)を滅ぼしたのが源氏の棟梁・源頼義であり、当初は安倍氏の方が源氏(頼義)を圧倒していたのに、現地勢力たる清原氏(いわば北条氏ら反平家の板東武者)の力で逆転した点も、共通しています。

今作で描かれる頼朝の非情・非道さは、経清が頼義に残虐な方法で殺されたこととも通じるものがあるように見えます。

他にも、

・自分の身内の大半を殺されただけでなく、殺した側が源氏の棟梁又はその協力者であること、

・その後、源氏と入れ替わる大勢力(清原氏=北条氏)の主(の妻・母)となったこと、

・その大勢力は、源氏と正面から喧嘩せず、源氏と協力しながら現地を乗っ取ったような面があること、

・そして、後継者は相当の長期に亘り、平和な時代を築いた(が、遙か後年になって、新たな天下の主に滅ぼされた)こと

など、八重と清衡(或いはその母)を巡る物語に、あまりにも共通点が多いことに驚かされます。

**

ただ、ここまで考えると、この二人(八重・清衡)とよく似た人生を余儀なくされた超大物が、もう一人いることに気づきます。

他ならぬ、源頼朝です。

言うまでもなく、頼朝こそ、幼くして父(源義朝)や兄など身内勢力を仇敵(清盛)に殺され(滅ぼされ)、若くして授かった我が子(八重との子)を、敵勢力(伊東祐親)に殺され、長じては身内(義経ら)と不和になり、いわば殺し合いを余儀なくされています。

また、親の敵を討つと共に、(その地域では)新たな時代の主となったという点も、三者共通すると言えるでしょう。

(清衡は源氏を倒したわけではないものの、直接の仇敵たる清原氏を倒すと共に、朝廷との政治交渉を通じて源氏を東北から追い出していますし、八重の家族としての北条氏が源氏を事実上滅ぼしたことは言うまでもありません)。

他方、清衡が築いた楽土(藤原四代)は、頼朝に滅ぼされるまで100年ほど続き、八重?の子孫たる鎌倉北条氏は、(同じく源氏の傍流たる)足利氏らに滅ぼされるまで、150年続いたのに対し、「頼朝の天下」は、事実上、彼一代(それも、ほんの数年)か、せいぜい二代(殺された2名の子)までしか続きませんでした。

頼朝が身内(同族)を次々と殺した(殺さざるを得なかった?)報いだからなのか、それに止まらない「業の深さ」が本人や源氏一門などにあったのか、軽々に申せませんが、この陰陽の鮮やかさもまた、色々と考えさせられる面があります。

**

余談ながら、当家では、当初、歴史学習の意欲のカケラもないガッカリ同居家族が珍しく一緒に視聴していたものの、「上総介がかわいそうだ、もうイヤだ」などと、子供みたいなことを言い出して放棄したため深夜視聴が後回しになり、まだ屋島で録画が溜まっています。

急を要する書類仕事に一区切りがついたので、そろそろ深夜に消化をと思っているのですが、大物起案が一つ控えているほか、既存の仕事も益少なくして労多しの追加仕事が次々見えてきて、ため息の日々が続くばかりです。

誤振込(過誤送金)事件の迅速・抜本的解決策としての預金凍結制度の切望について

山口県阿武町の誤振込事件では、送金受取人A氏の刑事責任と町側の責任ばかりが世間で話題になっており、最近では、A氏が送金した関係業者を通じて喪失金の大半の返還の目処がついたという報道も、地元の敏腕弁護士さんへの賛辞なども含めて拝見しています。

その報道が出るまで「お金の回収は無理ではないか」として、関係者の責任を問う声が大きかったと思いますが、銀行の役割(に関する制度のあり方)に言及する方を見たことがありません。

もし、誤振込が発覚した時点で、役場が銀行に通報し、既存残高を超える額については、一旦、払戻などの口座操作を不能とする措置を講ずることができれば、誤振込預金が保全され、A氏が拒否しても法的手続により返還が可能となります。

ただ、残念ながら、私の知る限り、単なる誤振込について送金者側の要請や銀行側の判断で預金の即時凍結を可能とする制度は、現時点で導入されていません。

TV等では仮差押に言及する方も多く見かけましたが、実務家の感覚では、少なくとも地方の裁判所なら、発覚から裁判所の命令まで、1ヶ月前後を要することが珍しくありません。

役場が弁護士に相談する等で数日、弁護士の準備に1週間前後、肝心の裁判所の審査に2週間前後を要する(最短でも1週間前後)ことが珍しくなく、日本の裁判官は本件のように急を要する事件でも「コレが足りない、アレができてない」などと、申立人=救済を求めてくる者に難癖を付ける自分達の役割だと思っている人種ですので(一部の善良な方々を除く)、あれよあれよと2週間以上を経てようやく発令=既に全額払戻で手遅れ=裁判所なんて何のために存在するのさ、という展開になりやすいです。

誤振込を行った役場担当者のミスなどは非難されるべきでしょうが、所詮、人間の作業ですから万能ではありません。核ボタンのように?1人では操作できないようにすれば予防が容易になるのでしょうが、人的資源として可能かという問題は避けられないはずです。

当事務所も、受任事件で依頼者や相手方などから受領する預り金の清算は(私が内容を確認するなどした上で)担当事務局が1人で行いますので、理屈上は誤振込(誤操作)のリスクが避けられません。このようなリスクを抱えているのは阿武町のお役人さんだけではなく、全国・全世界に当たり前に存在するはずです。

実際、著名証券会社のPC誤操作による巨額賠償訴訟=ジェイコム株事件=も、一昔前にありましたし。

というわけで、このような事件では、銀行が直ちに預金凍結を行うことが不可欠で、最高裁や刑事専門の法律家に任せるべき?A氏の刑事責任に関する法解釈云々よりも、迅速な凍結を可能・容易にする制度の導入にこそ、国民的議論を費やすべきではないかと考えます。

預金凍結に関しては、オレオレ詐欺が世間に知られるようになった頃、詐欺(組織犯罪行為)に起因して送金した口座については、被害者が弁護士等を通じて申告することで預金を凍結させる制度が導入されています。私は残念ながら?凍結そのものに関わったことはありませんが、当時(平成15~20年頃?)、その種の書式を見たことがあります。

なお、オレオレだけでなく闇金の利用(借入)による返済に対しても口座の凍結を認めるべきではないかという議論が当時あり、議論の到達点がどうなったか私も分からない(覚えていない)のですが、結局、ヤミ金では口座凍結は簡単には認めてくれない(オレオレのように、コテコテの犯罪行為でないと厳しい?)という展開になったような気がします。

ヤミ金被害に関しては、オレオレほどには「預金の凍結」(よく知りませんが、銀行側が嫌がるようです)に対する世間の後押し(支持)が得られなかったのかもしれません。

余談が長くなりましたが、例えば、

・一定額以上の高額な誤振込に関しては、送金行為者(役場)が誤振込であることを疎明する資料を名義人口座の銀行に提出する。

・銀行は(所定の判断基準に基づき)誤振込の疎明が確認できれば、直ちに、残高を超える額の払戻等を不可とする暫定的な凍結措置を行い、その上で、名義人(A氏)に通知する。

・暫定的な凍結措置の期限は2ヶ月程度とし、送金行為者は、最初の1~2週間で名義人との協議で解決できなければ、その間に仮差押の措置を講ずるものとする(最後は本案訴訟で決着)。

・名義人が凍結に凍結を述べ「誤振込ではないこと」の疎明資料(判断基準に耐えうる資料)を提出した場合、銀行は、自身の責任で凍結を解除するか、送金行為者に所定の担保を積ませた上で凍結を継続するか、いずれかを選択できるものとする(前者の場合、銀行が法的リスクを負うので、通常は後者が選択される)。

・凍結が継続する場合、名義人も凍結解除の仮処分の申立等を行い裁判所の判断を求めることができるものとする。

という形で、誤振込預金を簡易迅速に凍結し、散逸を防いで返還を実現する制度を速やかに構築すべきではないのか、というのが私見となります。

少なくとも、この程度の制度なら直ちに導入できると思いますし、こうした制度の不備ゆえに、巨額公金を無益に喪失すると共に、誤送金をしなければ犯罪者?にならなくて済んだはず?の人を犯罪者?兼返済不能債務者にさせ、つまらない?ミスを犯した人(役場の担当者など)にも甚大なトラウマ等や住民訴訟賠償リスクを生じさせたかもしれない、という視点は持つべきではないかと思います。

制度の導入は第一義的には議員さんなどの仕事なのかもしれませんが、裁判官に限らず、国民が働きかけないと何も行って下さらないことも間違いないのでしょうから、こうした事柄にも関心を持っていただければ幸いです。

弁政連岩手支部なども、候補者と雑談・・もとい懇談するばかりでなく、こうした話にも関心を持っていただければと思いますが、私が何を言っても・・(以下、自粛)。

****

ところで、先日、好摩方面に仕事があり、玉山地区のA店で「DXナポリタン」を美味しくいただきました。

本当は、現場近くのB店に一度も行ったことがなかったので、最初、B店に行こうとしたのですが、最近発売されたばかりのゴー券にB店の名がなく、

「昨年のリストにはB店あったよね。昨年も、食べた翌週とかに追加掲載されたお店が何軒もあったんだよね・・なんだか今年も同じことになりそう・・」

と、みみっちい考えが脳裏をよぎり、数年ぶりながら、掲載されているA店の方に行かせていただきました。

ケチでビンボーって、こういうことさ。

 

遠野の水光園から二戸の水光苑への追憶とお尋ね

前回も投稿したGW中の遠野巡りの際、観光名所の一つ、たかむろ水光園に行きました。
https://www.tono-suikouen.jp/
https://tonojikan.jp/kanko/suikoen.php

昭和期に作られた人口池ですが、崖上の浄水場から大量の水が滝となって流れ込み、十分に風光明媚な場所と言えるでしょう。

ところで、水光園に関しては、二戸ゆかりの方々にぜひ伺いたいことがあります。

40年前の二戸をご存知の方ならお分かりかと思いますが、現在の二戸ロイヤルパレスが存在している(先般閉鎖されたそうですが)場所には、当時、「水光苑」と呼ばれた宴会施設がありました。

二戸RC(ロータリークラブ)の例会場などで利用されていたせいか、幼少期の私は何度かお邪魔しており、もし現在も存続していれば、昭和レトロ感満載として見直されていたと思える、味わいのある作りだったような記憶が微かにあります。

この二戸の水光苑ですが、その名のとおり敷地に大きな池があったような気がするのですが、幼少期の微かな記憶のため勘違いの可能性が高く、全く自信がありません。

また、たかむろ水光園が開設された時期は、二戸の水光苑の最盛期とさほど離れていないはずで、双方の接点があるのかも不明です(なお、水光園(苑)で検索すると、全国に幾つかの施設があることが分かりますが、互いの関係性は無さそうです)。

もし、在りし日の水光苑の姿をご存知の方がおられましたら、コメントを頂戴できれば幸いです。

ともあれ、たかむろ水光園の庭園施設自体は、現在はさほど注目されることもないせいか、寂れ感が目立っており、上部の温浴施設の収益でどうにか維持されているのだろうという印象は否めません。

イベントや映画撮影などで活用できそうな古民家群があり、少し傷んでいる雰囲気が、かえって味わいを醸し出しているので、どうにか活かしていただきたいものです。

 

遠野からの薫風

今年の連休は山積する仕事や有り難くない雑事に追われて終わりましたが、家族1名の要望で、遠野に日帰りでぶらり旅しました。

最初に、高速を下りてほど近い場所にある、あまり観光客が来ることのない名所に行きました。

周囲はありふれた樹林帯ですが、この谷間だけ、羅漢像が彫られた多数の花崗岩に埋め尽くされています。

花崗岩はいずれも深く苔生した状態なので、羅漢像はほとんど確認できませんが、かえって神秘的な印象を高めていると言えるでしょう。

さしずめ、遠くの苔寺より遠野の五百羅漢、といったところでしょうか。

次に、中心部に赴き、最近オープンした「こども本の森」に行きました。

書籍が整然と本棚に並ぶ光景は、スーパーカミオカンデを彷彿とさせますが、建物の外からは、内部の光景は到底想像できず、古民家活用の新たな可能性を示したものと言えるかもしれません。

この日の遠野の国道沿いのジンギスカン等の著名店はすべて大渋滞で、当方は、ごはん屋「花りん」にて唐揚げカレーをいただきました。ボリュームが多く、盛岡の「とんかつ熊さん」の遠野版という印象です。

その後は、定番の淵で観光客に叫んだカラスの鳴き声を訳して一首。

昨晩に俺達キュウリをかっぱらい やった!カッパ!と闊歩する君

そして、隣接する遠野伝承園。

最深部の部屋は何も怖くありませせんが、部屋に続く通路の蛍光灯の回りには、この時期に限り大量に現れる禍々しい奴らが飛び交っており、恐怖体験に飢えた皆さんにオススメです。

門番のカメムシ怖い オシラサマ

その後、たかむろ水光園(次回に取り上げます)を経て、遠野物語の実質的な作者というべき佐々木喜善の実家や著名な水車などがある山口地区を散策しました。

こちらにも伝承を謳った河童淵がありましたが、近くには帽子が落ちており、河童の襲撃による被害者の遺留品かもしれません。

そして、遠野編の最後に、名勝・続石にて家族の未来を願って一句

少年の大志は続き 風薫る

巨石の下はゲートのようになっており、隙間を通ると異世界に行ける人もいるかもしれません。

この道も 花の入口 裏の道

異世界だけではく、若くして周囲の人々と違う人生を歩んでいる少年達にとっても、花の道が開けてくれればと願っているところです。

というわけで、今回も、どんどはりぇ。
写真をご覧になりたい方はFBをどうぞ。

誰もが才能を開花させる世界を夢見るダンブルドアは、偽善の狭間で孤独を余儀なくされるのか

連休期間中に、映画「ファンタスティックビーストとダンブルドアの秘密」を見ました。

正直、上映中はアクションシーン中心の退屈な映画なのかと思いましたが、後でWebで少し調べて、ようやく面白さが多少は分かってきました。

以下、作品の中身(ネタバレ的な話)とは別な観点から、感想を書きます。

ご承知のとおり、このシリーズは、魔法使いによる人類(マグル=ノーマジ)の支配を掲げるグリンデルバルドに、ダンブルドアとその協力者たる主人公らが立ち向かう物語が骨子となっており、それだけを見れば子供向けの勧善懲悪の作品ということになります。

ただ、前作では、グリンデルバルドも単純な悪党ではなく、彼なりの正義を掲げていたと記憶しています。

本作品の世界では、人類から迫害や何某かの抑圧を受けたり、能力を活かすことができず貧困など何らかの不満を抱えた魔法使いも相応におり、それを「能力の解放(人類への魔法の使用禁止の解除=魔法による支配)」により解決するのだという点が、彼の旗印・求心力として示唆されています(前作で、デップ氏が、そのように述べる下りがあった気もします。勘違いかもですが)。

ただ、今回は、その点=敵方の正義(彼が支持される理由)の説明がなく(作り手にとっては前作で済ませたとの認識かもしれませんが)、「魔法暴力で人類を支配しようとする悪い奴」的な描き方に終始したような印象でした。

そして、それを止めようとする主人公陣営の行動も、単に「相手は悪だ、だから相手の行動や価値観は全否定だ」と述べているようにしか見えず、思想的な葛藤を見出すことができなかったので、上映中は何となく退屈に感じたのでした。

***

ところで「自分が抱えた不満や身内の困窮(内部不経済)を解決する手段を、自分達が敵視する他者への暴力や収奪(外部不経済)に求める」というグリンデルバルドの主張は、現在の露国に喩えるまでもなく、暴力を振るう側のありふれた論理で、何の目新しさもありません。

これは露国に限った話ではなく、欧米日などの富裕地域(グローバルノース)も、自分達の社会の安定を図るため貧困地域(グローバルサウス)から様々な搾取を行ったり、海洋ゴミ等を含む汚染など(外部不経済)を転嫁させていると言われて久しく、「露国の方が、グローバルサウスとして、ノースの端(欧州の一員としてのウクライナ)に異議申立しているのだ」と見立てる人もいるかもしれません。

ですので「暴力で人を支配しようとするグリンデルバルドやプーチンは間違っている。倒すべきだ」というなら「構造的暴力を通じて世界中で搾取するグローバル富裕層(富裕諸国)も間違っている。倒すべきだ」という帰結になるべきと言えます。

少し前に一世を風靡した「人新世の資本論」のように?そうした主張をする論者も無いわけではありませんが、戦争やウイルス禍と比べるとインパクトが乏しいのか、或いは実践可能な具体論を欠くせいか、後者の議論は最近はすっかり下火になったようにも感じます。

ともあれ、現代のグローバル社会は、GAFAの創業者など魔法使いのような特別な能力・才能を有する一部の人が、特別な知恵と技術で世界に新たなサービスを提供し巨万の富を築くのを認めつつ、取り残された人々が貧困層に転落するのを防ぐことが大きなテーマであったものの、現実の格差・断絶は深まる一方というのが、ここ20年以上の現実ではないかと思います。

言い換えれば、「特別な力を持った人々が能力を発揮して社会に貢献し、その対価として大きな幸せを得ることができる一方で、そのような力を持たない人々も相応に幸せに暮らせる(酷い目に遭わない)社会」が現代世界の中心テーマですが、現状は、実現したというにはほど遠いと考えられているように思われます。

***

それを踏まえて改めて本作を見ると、気になるセリフが見つかるのです。

冒頭、グリンデルバルドは、ある重要人物に対し「お前はかつて俺の同志だった(が、今はそうではない)」という趣旨のことを語ります。

そして、終盤、その人物に対し「お前は俺としか分かり合えない、いつまでも孤独だ」とも語っています。

本作では、魔法使い達(魔法界)の伝統的な政策として、人類(マグル)に関わらずに生きるべきとされていますが、自らが強大な力を持つこの人物が、その政策の当否について見解を表明する場面があったか、記憶にありません。

グリンデルバルドのセリフからは、この人物=ダンブルドアは「魔法使いを解放しつつ人類を支配しない(魔法使いも人類も、魔法の力で共に力を合わせて幸せになる)社会」、言い換えれば、「特別な力を持った人々=魔法使いが能力を発揮して社会に貢献し、その対価として大きな幸せを得ることができる一方で、そのような力を持たない人々も、相応に幸せに暮らせる(酷い目に遭わない)社会」を理想としているのではないかとも思えてくるのです。

それは、理想主義的なユートピア思考ではあるものの、魔法と人類との隔絶よりも、グリンデルバルドの論理への対抗軸として、魅力的に感じるものと言うことができます。

平たくいえば、「強者(魔法使い)が自由に生きて(自己実現して)、それにより皆が幸せに暮らせる社会」と「強者が自由に生きて、それゆえに限られた者だけが幸せに暮らせる社会」という二つの世界観の対立という構図です。

ダンブルドアの思想をそのように捉えた場合、それを否定して「お前は孤独だ」と述べるグリンデルバルドは、グローバル社会なんて弱肉強食の搾取社会だ、能力主義(知価社会)はヒエラルキーが不可避なのに、皆が幸せになって欲しいなどというのは不可能かつ欺瞞だ、そんなことを吹聴する奴は自己矛盾に嫌気が差して孤独に沈むだけだ、というリアリズムを代弁しているようにも感じます。

乱暴に言えば、ダンブルドアはグローバル社会の勝ち組としての英米などの富裕層を、グリンデルバルドは、グローバル富裕層が作り上げた秩序に対し暴力により挑戦するロシア(や中国?)などの比喩という見方も可能かもしれません。

そして、そのようなダンブルドア(米国の勝ち組)に対し、グリンデルバルド(露国の独裁者)は、「お前は(どうせ勝っても)一人ぼっちだ。俺だけがお前のことを分かってやれる」といい、現に、ダンブルドアは(ハリーポッターシリーズで描かれるように)、さらなる圧倒的強者(ヴォルデモート)との関わり・対決もあったとはいえ、ある意味、孤独な人生を歩む(歩んだ)ようにも見受けられます。

であればこそ、ダンブルドアの今後の行動を垣間見ながら、このリアリズムにどのように抗うのか、グローバルノースの社会に生きる鑑賞者自身の実践が問われているのかもしれないというのが、最終的に私が抱いた本作への感想ということになります。

それはそれで、ハリウッド映画としては陳腐なメッセージというべきなのかもしれませんが、単なる勧善懲悪よりは、続きも見ようと感じることができそうな気もします。

一般的には、グリンデルバルドのセリフは別の意味で理解されるのでしょうが、私自身は、上記のような意味(思想的対立)も含めて解釈した方がより面白いのではと感じました。

と、あれこれ書きましたが、敵役の方は他作品で拝見したことが少なかったせいか、上映中は何度見ても松重豊氏に似ている・・と感じていました。

***

余談ながら、私は1年ほど前、エヴァンゲリオンの最終回(映画)を見に行っており、それ以来の映画鑑賞でした。

私は平成9年の司法試験・最終合格発表の当日(発表直前)に、当時のエヴァンゲリオン最終回(映画)を見ており、このシリーズにはそれなりに思い入れもあったので、しみじみと拝見しました。

鑑賞直前、昼食をとりながら、このようなことを考えていました。

「平成9年の映画は、アスカをヒロインとするような終わり方だった。今回のシリーズは、前回までの流れだとアスカとの関係が希薄だが、他の登場女性と懇ろになるような終わり方をするのだろうか。それだと、まるで『なんとかルート』みたいな、恵まれない男性諸氏のためのゲームのような感じになってしまうな。」

多くの方がすでに映画をご覧になったかとは思いますが、鑑賞後の感想はあえて割愛します。

 

万物の尊厳を掲げる憲法を世に問えるのはいつの日か

半年前にFB投稿した文章をブログに転載する作業が一旦完了したので、最近書いた文章を載せます。

以下は、憲法記念日(5月3日)にFBに掲載した文章ですが、この日は例年、憲法改正絡みのニュースを目にする機会が多いかとは思います。

というわけで、今年も「万物の尊厳を掲げる憲法改正」について書きます。といっても、いつかは出版したいのに、今年も余力がなくて書けそうにない愚痴のようなものですが。

ここ何年もの世論が、「憲法改正は体験したいが、(自民党が長年呼びかける)9条改憲には消極的」という状態にあることはご承知のとおりです。

現在は、ロシアの西境(ウクライナ)侵攻の影響で、中台戦争どころか次は東境(北海道)侵略ではとの恐怖も吹聴され、軍備強化に期待する声が高まっていますし、それ自体は私もやむを得ないと思いますが、それでも、世論では9条改憲(現在案は自衛隊明文化)が多数を占めるまでには至っていません。

私は、9条はいつかは手を付けざるを得ないのだろうけれど、軍備強化目的で9条が最初の改正対象になるのは「戦争を止めた」と謳ったはずの日本人にとって不幸なことではないか、また、日本が米国・米軍の広義の属国となった戦後秩序に特段の変化が生じていない以上、9条改憲の持つ実質的意味はほとんどない(だからこそ、自衛隊設立から集団的自衛権に至るまで、解釈で足りる扱いが延々続いた)、自衛隊の明文化は「格上化(による文民統制逸脱)のリスク」があるなどの理由で、現時点では賛成ではありません。

その上で、初めての改憲は「国民が世界に誇れる改憲」を体験したい、技術的な改憲などではなく、戦後の9条がそのような意味を持ち得たのと同じく、日本人にとって地に足のついた思想であると共に、世界に向けて現代に相応しい理想を掲げる改憲が望ましい、というのが国民の意識だと思っています。

或いは、大戦の敗亡国として徹底的に自尊心を傷つけられた裏返しとして、世界に「日本スゲぇぜ」と世界に認められるような改憲を期待する国民感情があるのかもしれません。

9条改憲は、見方によっては対米独立どころか米軍従属の強化に過ぎないのかもしれず、どちらの見方が正しいのか判別しにくいこと、双方の当否自体も判断し難いことも、国民が逡巡する(法のお墨付きを得る前に、実務関係者の努力で望ましい安保環境を作って欲しいと思う)理由の一つかもしれません。

***

「万物に神が宿り、人間だけが特別な存在ではない(だからこそ、自然を畏れ敬い、共存しながら果実を得ていく)」という緩やかな自然崇拝・汎神論は、縄文以来、日本人にはごく当たり前の感覚ではと思います。

そのことは、古くは神仏習合、現代では12月24日をはじめ他文化の習俗も取り込むなど、何でも融合させる「日本の思想」に通じている(根底にある)と思っています。

そして、そのせいか、かえって、その思想(感覚)は、法の世界には取り込まれてきませんでした。

欧米や中国では、奇岩など自然の名勝に、数百年又はそれ以上前の時代に人の手が大きく加えられた光景を目にすることが多くあります。

欧米(キリスト教)や中国(儒教)は、人間が自然に優越する(ので、人が自然に手を加えることに基本的に躊躇がない)との思想(人間中心主義)があり、これが、日本国憲法の基盤(人間の尊厳)でもある近代人権思想の根底にありますが、神が宿る自然の造物に人が干渉することを好まない日本人の感覚とは多少の違いがあると思います。

日本人も、汎神論の縄文人が3割、人間中心主義の弥生人が7割なので、汎神論一色では全くありませんが、地球の持続可能性が問われている現代では、縄文人(古モンゴロイド)の思想に目を向けることで、行き過ぎた人間中心主義の修正を呼びかけるのが、現代日本人に求められていることの一つだと思っています。

言い換えれば、西欧文明や帝政ドイツの思想を基盤に大日本帝国憲法を策定した明治政府や「これが戦争放棄した日本に望ましい理想だ」と思って現行憲法を作成した敬虔なキリスト教信者達(GHQ)が取りこぼした(見落とした)、「自然(人にあらざる存在)との関わり」という日本固有の思想を、世界と未来に役立つ形で掲げていくことが、現代の憲法論として、求められることではないかと思っています。

私が4~5年前に突如、思い立った「万物の尊厳」(現行憲法に新設13条の2を単純に追加する改正案)は、このような考えに基づくものです。

このような話は、恐らく今の日本で誰も吹聴する人がいません。環境訴訟などに従事する法律家の方からも、聞いたことがありません。

私が日本の他地域よりも縄文の血が濃いであろう岩手の人間であることも、影響しているのかもしれません。

仮に、私が本を出したとしても、変人の世迷い言として、大型書店の片隅から短期間で消えていく運命なのでしょう。

それでも、仮に、この憲法改正が実現すれば、いわゆる自然の権利訴訟など環境保護を目的とした訴訟で、原告適格を理由に訴訟が門前払いされることは劇的になくなり、人間が自然を代弁し政策の合理性を厳しく問うことが、容易になるのではと思っています。

愛玩動物を家族のように感じている方々はもちろん、最近流行の「動物福祉」を掲げる方々にとっても、現行実務の改善の原動力になる憲法改正であり、相応の方々が取り上げていただければ大きな世論のうねりもありうるかもしれません。

何より、この改正案こそが、「世界から日本が祝福される、日本人が初めて経験すべき憲法改正」であると、信じて疑いません。

なお、「明日から肉が食えなくなる」ことはありませんので、その点はご安心ください(私も動物の肉の味を覚えた人間の1人として、そこから逃げられません)。

ともあれ、最近は出版費用を稼ぐ力も無くなってきましたので、まずは山積みの赤字仕事を片付け、今年こそ最初の一行だけでも書いてみたいものだと願っています。

薄く延ばした卵とじの「ひっつみ」が世に出る日を求めて

半年ほど前にFB投稿した記事の掲載も、ようやく最後です。この日(半年前のある日)は、昼に裁判所に所用があり、近くの北ホテルのレストラン窯で「ひっつみ定食」を美味しくいただきました。

ただ、大事なことなので何度でも言いますが、私の実家では「卵とじ」のひっつみを長年、愛食してきましたので、市内等のどこにも卵とじのひっつみを提供して下さるお店がない光景は、とても残念に思っています。

盛岡の方々は卵とじに馴染みがないのかもしれませんが(津軽の貝焼き味噌のように、卵とじは青森の文化かもしれません)、ひっつみは卵とじをした方が何倍も美味しいので、市内の飲食店関係者の皆さんにおかれては、プラス100円等で「卵とじサービス」を前向きにご検討いただければ幸いです。

あと、欲を言えば、キノコも椎茸ではなくナラタケ(二戸等ではカックイ。盛岡ではボリと呼ぶそうですが、カックイの方が音がいいと思います)にしていただければ、なお有り難いです(ナラタケ+鶏肉の組み合わせは、ひっつみ・蕎麦・雑煮など、どれにも抜群に相性が良いです)。

関連して、昔々に書いたこちらの記事もご覧いただければ幸いです。
「ひっつみ」に関する照会とお願い | 北奥法律事務所 (hokuolaw.com)

***

以上のFB投稿に、地元の先輩でもある二戸の著名人Kさんから「うちも昔は卵とじのひっつみだった(が、今は、見かけなくなった)」とのコメントをいただきました。

苦節四十数年、私の実家以外で、卵とじのひっつみを食べたことがあるという方に初めてお目にかかり、感動するばかりでした(笑)。やはり、二戸には、そのような食文化があるのかもしれません。

ともあれ、ぜひKさんの影響力で二戸や盛岡などの飲食店の方々に勧めていただければとお願いしました。

また、ひっつみは巨大な鍋に、ひっつみを可能な限り薄くのばし、グツグツした状態でひっつみを投入

→その後、グツグツ鍋に卵とじを投入

→共に極薄のひっつみと卵とじのハーモニーを、鶏肉等のダシの利いたツユで味わい至福のひととき、

というのが王道と認識しています。

というわけで、ウイルス禍明けにでも、Kさん?の仕切りで、パークホテルか馬淵川公園?等で

「南東北の芋煮に負けるな!北東北にはこれがある!」

とでも題して、自分たちで大鍋にひっつみ(と溶き卵)を入れて食べる一大パーティを開催いただき、それを皮切り?に、二戸の古くて新しい名物として売り出していただけないかと、願わずにはいられません。

物損事故に関する賠償問題の実情と任意保険の義務化の必要性

半年前の話で恐縮ですが、モーニングショーで、「幹線道路を直進する車両と路外施設から進入した車両との衝突事故における賠償問題」を取り上げおり、この種の事柄は当方も日常的に取り扱っているため、興味深く拝見しました。

で、ドライブレコーダー搭載や弁護士費用特約の加入の必要性が強調されていましたが、見落とされている問題が二つあると思っています。

まず、この事故は加害者も任意保険に加入していたため確定した賠償額の支払が得られたようですが、現実には、加害者が任意保険に加入しておらず賠償金の回収が著しく困難になっている案件が少なくありません。

当方も、様々な手法を駆使して回収に至った案件もありますが、それが奏功せず関係者と困難な訴訟を闘うなどして非常に難儀し、1円の回収の目処すら立っていない案件もあるのが実情です。

人身被害には「せめてもの填補」として人身傷害補償特約がありますが、物損に関しては(自身の保険料増額等を覚悟して)ご自身の車両保険を利用するのでない限り、加害者に回収可能な財産等がなければ、いわゆる「泣き寝入り」になるほかありませんし、それを突き止める手段も、現行法では相当な制約があります(これに関して、現在、塗炭の苦労を強いられているのですが、その件はまたの機会に)。

結論として、自動車(という重大な危険物)を利用する者には、全て任意保険の加入を義務化する立法措置が必要だと思っています。

近年の選挙でも「中身があるのか無いのかよく分からない福祉・ウィルス云々対策」以上に、そうした具体的な被害の回復を抜本的に解決する立法論こそが語られるべきではと思っていますが、そのような議論を全く聞くことがなく、残念です。

***

もう一つ、この事例では、様々な交渉の末に「進入車9:直進車1」で決着したとのことですが、番組では「この態様で被害者に過失あるのか?」というものとなっており、裁判所の現在の判断傾向そのものの当否が議論の対象になるのだろうかと一瞬期待しました。

かくいう私自身が、被害者から相談を受けた際、そのように言われることが日常茶飯事だからです。

が、玉川さんが「自分が事故に遭った際、「動いている車同士の事故は(追突などの類型を除き)100:0にはならないと言われた(これは業界で必ず言われる定型文句であり、私も毎回言っています)」と述べたあとは、誰も「被害者がかわいそうだ、裁判所が間違っている、ゼロでいいんじゃないか」などと熱弁を振るう方は誰もいませんでした。

(こうしたときこそ一茂氏の暴走に期待したかったのですが、他局ドラマ好き好き発言だけで終わってしまいました)

交通事故実務における過失割合は、裁判所が公表している基準本が実務を支配しており、これに該当する事故類型はすべてそれに従うことになっていますが、今回の事故のように、「動いている車同士の事故」でも被害者に本当に過失があるのか?と感じる事故は相応にあり、立法論による改善(幹線道路などを走行する直進車の優位性の明文化など?)を含めて、国民的な議論があればと思っています。

本当は、刑事事件より、こうした類型の方が裁判員裁判に馴染むのではとも思わないでもありません(司法委員なる方もおられますが、どこまで実効性があるのかよく分かりません)。

交通事故の保険義務化に関しては、以前に自転車の保険義務化について投稿したことがあり、参考にしていただければ幸いです。

***

補足ですが、私の経験上は、任意保険に未加入の方の大半が、年齢層を問わず低所得の方です(だからこそ、岩手には多い)。

そのため、任意保険の義務化は、低所得者等に一定の条件を付して任意保険の加入費を助成等する制度などが不可欠だと思っており、可能なら、ふるさと納税などを財源として導入する自治体があれば、「事故に遭っても余所よりも被害回復がされやすい、暮らしやすい町」としてアピールできるのでは、と思っています。

そういう意味では、国政(法律による義務化)だけでなく地方自治体の施策の問題でもあると思います。

「田舎は自動車が不可欠」と言われるからこそ、自動車保険に加入するのが容易でない方々も含め、万一の際に全員が適切に責任を取ることができるような仕組みを構築することが、地方の社会には求められていると考えます。

ところで、この話を半年前にFBで投稿したところ、同業の先生から「自己破産の依頼者には、生命保険や医療保険は解約を促し、自動車の任意保険は絶対加入すること(無保険で事故を起こすと再度の破産が必要になるが免責されない可能性があること)を促している」とのコメントをいただきました。

非常に重要なアドバイスですが、恥ずかしながら当方の定型的な注意事項書には盛り込んでおらず、さっそく参考にさせていただこうと思いました。

ただ、従前に保険加入をしていない方だと、弁護士が言ったから加入するのかという問題はあり、いっそ、裁判所が免責加入を強力に勧告したり(加入を同廃の事実上の要件とするとか)、立法?で自動車保有者には加入を免責の要件とすることも検討されるべきなのかもしれません。

 

北上から呼ぶ声

半年ほど前の話になりますが、ホテルエース盛岡の昼食ビュッフェを調べていた際にホテルのサイトを見たところ、公式ブログ「盛岡放浪記」のトップ写真が盛岡ではなく北上市の風景になっているのに気づきました。
https://www.hotel-ace.co.jp/blog/?p=6987

盛岡のホテルなのにナゼ?と不思議に思った矢先に、北上の会社さんからご相談の問い合わせがあり、新規の顧問契約の申込みまで頂戴しました。

お話しによれば、以前から当事務所のサイトをご欄になって、いつかは顧問を頼みたいと思っていたところ、弁護士に相談したい出来事があり、それをきっかけに依頼されたと伺ったので、大変有り難くお引き受けしました。

当事務所では、主として県内の小規模な企業さん向けに月額3300円の顧問契約を定めており、私自身が「高額な顧問料を支払う有力企業から次々お声が掛かる大物弁護士」にほど遠いこともあって、当方の顧問先の大半も、このコース(A型)をご利用いただいています。

(っていうか、それ以外の顧問先はほとんどありません。幸い、ゼロではありませんが・・)

上記の契約(A型)では、タイムチャージ(採算単価)に準じて年間2時間を無料対応時間と定めていますが、瞬発力で済ませる電話はともかく、メール相談にあれこれ調べたり考えたり入力していれば、あっという間に所定時間になるため、多少のオーバーは気にせず、というスタンスで行っています。

さすがに、以前にA型でお引き受けしていた某自治体さんは、近年にご利用時間が激増し大赤字になったので、若干の追加料金+次年度の微増をお願いしましたが・・

顧問契約(をどれだけ増やせるか)は人気投票や男女交際に類する面があり、万年窓際族でボッチ系の私には、あまり向かない世界だと感じることはあります。

ただ、時には、今回の会社さんのように「貴方だからこそ頼みたい」と仰っていただける方との出逢いに恵まれることもありますので、腐らずに頑張っていきたいと思います。

そんな出来事があったこともあり、その後に伺ったエース盛岡の昼食ビュッフェは、大変美味しくいただきました。

現在、昼食ビュッフェは休業中とのことですが、いずれまた、お伺いしたいものです。