北奥法律事務所

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小保内一族のルーツを求めて(後)~南部藩の古文書から考える~

標題のテーマに関する前回の投稿の続きです。

Webで偶然見つけたのですが、盛岡市中央公民館で保管されている南部藩の古文書群に、前回の話とは違った形で、小保内源左衛門が登場しているのでは?との想像をかきたてるものが存在しているようです。

この古文書群の内容を整理して紹介するディープなサイトがあり、南部藩に仕えた諸氏の来歴などを説明しているのですが、その中に「生内(おぼない)賢一郎家」を紹介するページがあります。そこに「生保内源右衛門」なる御仁が登場し(左ではなく右なのが残念ですが)、同人又はその親族が秋田と二戸の双方と関わりがあると記載されているのです。
https://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/kirokukan/kirokukan_view.cgi?mode=details&code_no=50624

古文書を紹介する内容のせいか、矢鱈に人名が登場し噛み応えのある文章ですが、本稿に関連する部分を要約すると、次のような事柄が書かれています。

①古文書Aによれば、秋田(角館)出身の高橋信真は福岡(二戸)で南部利直(信直の子で、南部藩では名君と謳われる初代盛岡藩主)に登用され、名字を変えて生内(おぼない)信真と名乗った。信真の直系は孫の代に家禄没収に遭ったが、庶子が明治まで家臣?として存続し、末裔が雫石に住んでいる。

②生内信真の先祖は四国の出身で、信濃を経て佐竹家や戸沢氏に士官していたが、信真の親の代?に角館城が落城し戸沢氏が没落したため岩手(南部家)に士官したものである。

③古文書Bによれば、信真の父方の叔父に「生保内源右衛門」がおり、同人の子も源右衛門と名乗っていた。源右衛門の素性の説明は無い。諱(名前)の記載もなく、通称の「源右衛門」しか記載されていない。なお、古文書Aには信真の父・信家の兄の信忠は角館落城後も角館に留まり佐竹家に仕官したとあり、信真の叔父で「秋田から岩手に移住した者」の記載はない。

④古文書Cによれば、南部信直は、秀吉の小田原征伐に参陣する途中に、仙北で小保内禅門の館に宿陣した(※この「仙北」は、仙北町=盛岡ではなく秋田の仙北郡を指すと考えられる)。その際、信直は禅門の子を召し抱えた。なお、小保内禅門と高橋(生内)信真一族との関係は不明(記載なし)。

*****

高橋信真が秋田出身とされることから、信真の叔父の「生保内源右衛門」も秋田にゆかりがあると思われますし、稲荷神社の記録に伝わる小保内源左衛門も、素直に考えれば南部信直・利直時代の人物であることは間違いありません。

わざわざ「(信真が)二戸で仕官した」とある点にも、本家(小保内一族)との何らかの繋がりを感じさせる面があります。

「盛岡で居場所を持てず二戸にやってきた小保内源左衛門」と「二戸で南部家に仕官し(恐らく)盛岡に移住したものの孫の代に家禄を失った生内信真」も、二戸との関わりや盛岡との相性の悪さ?などから、ビミョーな類似性を感じます。

もし、この生保内源右衛門が実在するとして、この御仁が稲荷神社(本家)の始祖たる小保内源左衛門義信と同一人物(どちらかが誤記?)と言えるのであれば、これらの古文書からも、本家は秋田出身と裏付けられると共に、小保内と名乗る前は、高橋と名乗っていた(しかも四国に先祖がいた?)という話になります。

なお、本家の始祖の小保内源左衛門は秋田城介=安東通季?の家臣とされているのに対し、こちらの古文書では角館を拠点とする戸沢氏の家臣となっています。

ただ、前出の「湊合戦」の際には戸沢氏も安東通季に加担していたとwikiに表示されているため、「安東実季(檜山安東氏)に敗れて秋田の支配権を失った一派」と捉えれば、双方は共通することになり、その点は興味深く感じます。

ともあれ、このサイト記事のみを根拠に「源右衛門と源左衛門が同一人物だ」などと推測するのは無理があるでしょうから、現時点では妄想の域を出ません。

ちなみに、上記①~④のうち、②は史実ないし一般的な歴史認識に照らし誤った記載が多々含まれています。角館城をWebで調べると、戦国・織豊期に落城したとの記録は全くなく、角館城主たる戸沢氏は敗亡や没落はせず、関ヶ原(対上杉戦の北方戦線)での働きが不十分だとして常陸に減転封されたに過ぎず、その後、山形県新庄の藩主として存続しています(他にも、数世代に亘り生じた出来事の時系列に関する記載に不合理さを感じます)。

ただ、高橋(生内)一族が戸沢家の家臣だったなら、奥州仕置の際に失職して南部藩=仙北町に来た可能性はありうるのでしょうし、戸沢家臣時代に戸沢氏の勢力下にある田沢湖町(旧生保内村)の領主だったのなら、私の父が田沢湖町で聞いたという伝説にはピタリあてはまります。

余談?ながら、本家=稲荷神社の当主(神職)は、稲荷神社サイトによれば、源左衛門の子・定義を筆頭に、江戸時代には「定●」という名前を名乗る(2文字の最初に定の字を用いる)のが通例となっています(理由はわかりません)。他方、生内信真の子孫は、江戸末期頃から数代に亘り「定●」という名前を名乗っていたようで、不思議なものを感じます。
歴代宮司について(1) : 呑香稲荷神社ブログ (blog.jp)

ともあれ、本家の始祖たる小保内源左衛門義信の正体(出自)を考える上で、このサイトの文章が様々な示唆ないし想像をかきたてる面があることは言うまでもありません。

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以上で小保内源左衛門義信の出自を探る考察を一旦終えますが、もう一つ、純個人的に、大変興味深い事実に気づきました。

私の名前は「義和」で、兄も漢字2文字で「義」が名前の先の方に用いられている(漢字1文字違い)ので、兄弟そろって「義」の字が使われているのですが、私の実家(数代前に総本家から分かれた家)の家系には、そのような名前=名前に「義」の字が用いられている方は全くいません。

また、本家の家系図を見ても、始祖の源左衛門義信と子の定義以外に「義」の文字が用いられた者(当主たる神職)がおらず、不思議なほど「義」の字が使用されていません(まあ、特に理由もないのでしょうが・・)。

そのような中、私の父が自身の子供二人に、一族の始祖たる源左衛門義信と同じ「義から始まる漢字2文字の名前」を命名したことには、不思議というか、興味を掻き立てられずにはいられません。

残念ながら父は数年前に亡くなり、私は生前に聞きそびれましたので(兄も聞いていないとのこと)、この点に関する真相究明は困難です。

ただ、以上に述べたことを踏まえると、もしかすると、父は何らかの理由で、子供達に一族の始祖と同じ「義から始まる漢字2文字の名前」を定めたいと考えたのではないか、と妄想せずにはいられない面があります。

では、仮に、その「妄想」が本当だったとして、どうして父はそのようなことを考えついたのか。以下も全くの想像ですが、折角なので、とことん妄想してみようと思います。

私の実家は曾祖父が商家として身を立て(盛岡なら三田一族にあたるような、地元で最も著名な商家で奉公し独立したと聞きました)、祖父の代に最盛期を迎えたものの、頑張りすぎた反動?で祖父の晩年に斜陽となり存亡の危機に直面したこともあったそうです(私が物心ついた頃には、危機は去り緩やかな衰退期に向かっていました)。

そのような状況下で家業を継承する前後に我々を授かった父は「ここで家を潰してなるものか」という緊張感と闘っていたと思われ、本家=一族の始祖の加護を欲して「義」の字を子供達に付すことを思いついたのではないか。

これが、現時点では立証困難な妄想の終着点となります。

ただ、そのように妄想すれば、実家を離れ「新たな家を建てるべき立場」になった私にとって、一族の始祖と同じ「義」の一字を授けてくれたことは、相応に意味や価値があるように感じます。少なくとも、他の名前を授かった場合と比べ、親近感は全く異なると言ってよいでしょう。

故郷の秋田を不本意な形で離れ、第二の故郷となるはずだった?盛岡に馴染めず、何らかの理由で二戸に落ち着き、城跡の一角にある神社の神職として、大戦争で荒れ果てた地域の鎮守となった小保内源左衛門義信。

小さな商家の次男として生まれ、故郷(二戸)に身の置き場がなく、都会にも馴染めず、盛岡=主君を滅ぼした敵が作った都(二戸人は政実公が主君ですので信直公は主の敵です)で身を立てることにした小保内義和。

この二つの物語が交差する有様を眺めつつ自分のなすべきことを考えてみるというのも、多少はおもしろいのではと思います。

この物語をみていただければ、どうして私が北奥法律事務所(北東北のために働く弁護士)と名乗ったのかという理由も、若干はご理解いただけるかもしれません(もちろん、以上の理由で考案したのではなく、直感で思いついただけですが)。

余談ながら、私の実家の親族には盛岡に定住した方がほとんどおらず、実家以外で本家から分かれた他の方々を含め、この一族には「盛岡で身を立てた方」がいるのか知りません(本家にこれほどの歴史があるだけに、些か不思議に感じます)。

そのことも、私が盛岡で生きることに何らかの意味や価値を与えてくれるのかもしれません。

皆さんも、ご自身のルーツを探る旅に出かけると共に、その果てに、自身のあり方を深める物語に辿り着いていただくことを願っています。

 

小保内一族のルーツを求めて(前)~稲荷神社の公式記録から考える~

皆さんはご自身の先祖を把握されていますか。中には数百年前まで分かるという方がおられるかもしれませんが、ごく少数かと思います。

私の実家は「江戸晩期に本家から別れた後、6代ほど続いた家」で、曾祖父が商家として身を興し、祖父の代に一旦は二戸でも著名な商家の一つとして最盛期を迎えたものの、祖父の晩年から斜陽気味になり、様々な方の支えで現在も何とか存続しています。

本家(総本家)は二戸市にある呑香稲荷神社ですが、本家は神社の正当な伝承に基づき、江戸初期(盛岡南部家2代・利直の時代)に「小保内源左衛門義信」なる御仁が、当時、浄法寺(稲庭岳の麓あたり?)にあった稲荷大神を現在の地(二戸市五日町)に遷座させたのが発祥とされ、以来、数百年も連綿と続いています。
http://tonkouinari.blog.jp/archives/1388136.html

本家は、私が聞いた話では発祥時から現在まで男子直系が続いているわけではないものの、血族(当主の姉妹の子)を養子に迎えるなどしており、血筋は絶えたことがないはずです。

ただ、この「小保内源左衛門義信」については、引用の稲荷神社のサイトをはじめ、Web上の多くのサイトで秋田城之介の家臣と書かれているものの、それ以上の情報が得られず、どこで何をしていた者か(そもそも「秋田城之介」自体、何者なのか)、突き止めることができていません。

上記のサイトでは、この人物(本家の始祖)は秋田出身で江戸初期に、主家没落に伴い南部家に移籍し盛岡市の仙北町(秋田の仙北郡出身者が移住した地)に身を置いたものの、不遇の身に憤慨し二戸に移住したなどと書かれており、他に同種の記載があるサイトも見かけましたが、Web上の情報は全てそこで終わっています。

もし、それ以上の話をご存知の方がおられれば、ぜひご教示をお願いしたいところです。

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で、今回の投稿は、この「小保内源左衛門義信」の出自・正体について、私なりに調べて推測したこと(現在の到達点)を記録に残しておきたい、との目的で書いたものです。

まず、この「秋田城之介」とは、秋田市中心部の千秋公園=久保田城(佐竹氏の居城)ではなく、大和朝廷により創建された古代の秋田城(秋田市北部に遺跡があります)の長官を指すことは間違いありません。

そして、当時=安土桃山~江戸草創期に「没落した秋田城之介」がいたのか調べてみると、以下の理由から、現在の秋田市周辺などに勢力を有していた「安東通季」だと推測されます。

そもそも、北東北は頼朝の平泉征服に伴い甲斐から移住した南部一族が席巻し、鎌倉後期には広い圏域を支配下に収めていましたが、室町期に退潮し、戦国期の秋田県は、安東一族が勢力を伸ばしていました。

安東一族は「奥六郡(狭義は岩手県、広義には北東北全域)の正当な支配者」たる安倍一族の末裔を自称し、かつて北東北随一の港湾と謳われた十三湊を領有していましたが、室町期に一旦没落した後、戦国期に復権し、秋田市のエリアに拠った湊安東氏と、能代市エリアに拠った檜山安東氏に分かれて覇を競っていました。

当初は湊安東氏の方が優勢で、最盛期は秋田県の大半を勢力下に収めていたのですが、戦国後期に檜山安東氏に有力武将が二代続けて出現し(安東愛季・実季父子)、織豊期には檜山安東氏が湊安東氏を併呑してしまいます。

で、その際、湊安東氏が「呑み込まれてなるものか」と秋田の覇権を賭けて檜山安東氏に戦いを挑むものの、敗亡するという出来事(湊合戦)があり、その最後の当主である安東通季のwiki情報を見ると、敗亡後は南部氏のもとへ逃れ、復権運動を行ったものの奏功せず、やがて南部氏の家臣となった、と記されています。

そして、安東通季=湊安東氏は秋田市周辺を本拠とし、一時は秋田県の大半を勢力下に置いたことなどから、秋田城介(旧秋田城の長官=秋田県域の正当な支配者)を自称していたと記されています。

以上から、小保内源左衛門義信が仕えていた(と称する)「秋田城之介」とは、安東通季に間違いないと考えられます(義信自身又は他者が創作したかどうかはさておき)。

ちなみに、安東氏ひいては秋田の覇者となった安東実季は、秋田制覇後には秋田氏と名乗るようになりましたが、関ヶ原後は天運に恵まれず、佐竹氏と入れ替わりで常陸の一角に移封された後、子の代には陸奥国三春=現在の福島県三春町に移封され、そのまま三春の小領主として明治を迎えています。

三春は言わずと知れた福島を代表する桜の名所の一つで、現在でも古い建物が点在する小京都的な街ですが、そうした歴史を踏まえて訪れていただければ、また違った光景が見えてくるかもしれません。

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それはさておき、没落した秋田城介こと安東通季については相応にWeb上で分かるものの、さすがに家来?の小保内源左衛門義信のことまでは、Web上で辿ることはできそうにありません。

ただ、私は子供の頃に亡父から「自分が秋田県の旧田沢湖町(現仙北市)の中心部(生保内地区=旧生保内村)に赴いた際、地元の人から『あなたの先祖は、ここの領主だった』と言われた」と聞かされたことがあります。

ここからは憶測になりますが、小保内源左衛門義信(の先祖)は、湊安東氏の最盛期に生保内村の領主をしており、その関係で「小保内」と名乗っていたのかもしれません。

漢字が違うじゃないかと言われそうですが、それこそ、秋田を去って南部(岩手)の人間となることを決めた際、旧領への未練を断ち切るため「生」を「小」に変えたのかもしれません。

ちなみに「内」はアイヌ語で「小さな沢」です。「小保」の由来は不明ですが、古代に東国の有力豪族と言われた「オホ氏」と関係があるかも、という独自説(笑?)もあります

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私は幼少期に亡父から「我が一族の先祖は、田沢湖(生保内村)の領主をしていたが、秀吉の東北征服(奥州仕置)により領地を失い、南部家の食客になった。そして、南部公から『二戸には九戸政実の残党が今も多数あって政情不安であるから、この地を鎮めて欲しい』と頼まれ、神官として二戸にやってきたものである」と聞かされたことがあります。

稲荷神社は、言わずと知れた九戸城(九戸戦争による政実公の敗亡=信直公の入城後は「福岡城」)の敷地内(旧三の丸及び松ノ丸)にあります。ですので、神社の敷地は、福岡城の城主たる南部氏が盛岡に移転した際に、何らかの理由で南部公から引き継いだ(託された)ものと考えるのが合理的だと思います。

ですので「小保内源左衛門義信が南部公の意を受け神官として二戸にやってきた」という父の説明(伝承?)には相応の信憑性があることは間違いないでしょう。

次回は、Web上で偶然見つけた「小保内源左衛門の出自を突き止めることができるかもしれない、もう一つのネタ」から考えたことを書きます。

(追記)
今、Webで少し調べたところ、「オボナイ(小保内、生保内等)」とは、アイヌ語で深い川、或いは深い谷を指すと書いてあるものを拝見しました。

 

中央通三丁目の黄金樹(ゴールデンバウム)は倒れた

啄木新婚の家やバス停に立ち寄ったことのある方なら、その北側(岩手山側)に、スギの一種とみられる一本の巨木が屹立する光景をご覧になったことがあるかもしれません。

この巨木は、啄木新婚の家と岩手山の間で両者の光景を引き締める役割を担っており、私は、当事務所を開設した直後から、この威風堂々たる巨木が好きで、「中央通三丁目のマザーツリー」と呼んできました。

この巨木が生えている場所は、中央通三丁目から長田町界隈の中では、最も古い歴史のある(らしい)邸宅であり、啄木新婚の家の往時の貸主だった(現在は同所は盛岡市が所有しているはずです)ほか、昔々は、この界隈の大半の土地を所有する大地主であり名家だったとも聞いています。

しかし、数年前、この邸宅の最後のご当主が亡くなり、相続人もなく家が絶えてしまい、様々な経過を経て、先般、ついに邸宅は人手(不動産業者)に渡りました。

そして、この巨木も、昨年末に邸宅と共に歴史の彼方に消えてしまいました。

どうして、そのようなこと(この木の持ち主のこと)を私が知っているかと言えば、その話に本業で少しだけ関わったことによるものです。

ですので、あまりペラペラと書いてよい話でもないのですが、この巨木へのレクイエムとして、ご容赦いただければと思います。

長寿の末に老衰で亡くなられた最後のご当主は、某英伝の(実質)最後の皇帝と異なり、放蕩には全くご縁のない生き方を何十年も続けていましたが、様々な残念な事情が重なり、後継者を得ることなく旅立たれたそうです。

私は、何年も前、ご当主が亡くなられた直後に、ご当主と一定の関わりがあり、この邸宅を何とか残したいという気持ちを持った方(現在は遠方にお住まいの方)から相談を受け、少しだけその件に関わりました。

その方は、何年ないし何十年も前に、ご当主などと相応の協議をなさっていれば、或いは、邸宅などの管理を引き継ぐこともあり得たのではと思われましたが(相応の事情のある方でした)、現行法の壁が大きく、その方のご希望に沿うことはできませんでした(或いは、旧民法なら、私の主張が認められる余地がありえたかもしれません)。

私自身、当事務所を開設した(盛岡に戻ってきた)ばかりの頃=15年ほど前、最後のご当主に一度だけお目にかかったことがあり(一時的な駐車場として短期間借りた区画が、ご当主が所有する土地だったようで、玄関で挨拶させていただきました)、そうしたことも含め、この界隈を代表する一族が、後継者を得られずこの地から絶えてしまったことに、寂しさを禁じ得ない面があります。

そうしたこともあり、この巨木の最期を垣間見た際、銀英伝を訳も無く思い出し、「あぁ、この地の黄金樹(ゴールデンバウム)がついに倒れた」と思わざるを得ませんでした。

もしかすると、この巨木は、この一族と共に当地の守り神のような役割を果たしていたのかもしれません。

別に、呪詛を唱えたいわけではありませんが、半月ほど前に撮影した在りし日の巨木の最期の姿を眺めつつ、せめて、このマザーツリーが成仏してくれることを願わずにはいられません。

今冬、盛岡は数年以上ぶりに、度重なる大寒波の猛吹雪を浴びています。降雪は、この巨木の死後間もない頃から始まりました。

或いは、この雪は、この巨木と一族の涙が、形を変えた姿なのかもしれません。

悪いことは重なるの巻~法廷のすっぽかされ被害と駐車料金~

先日、11時の法廷に自動車で盛岡地裁(石割桜)に向かったところ、珍しく駐車場が満車になっていて、やむなく桜山そばの県営内丸駐車場(噂では、盛岡で一番料金が高いそうです)に駐めて、法廷に向かいました。

で、そんな日に限って相手方代理人(若いイソ弁さん)が期日をすっぽかし、のんびり屋さんオーラ漂う担当書記官が、15分位過ぎてようやく先方の事務所に電話したところ、11時半と勘違いしていたとのことでした。

30分経ってようやく出廷したイソ弁さんは、ドアを開けたときに、小声ですいませんと言っているのが後ろ(背中)から聞こえましたが、着席時には私に謝りもせず平然と相対していました。

この種の話は5年~10年に1度は経験しており私も1回位は身に覚えもありますので、自分から騒ぎ立てることはありませんが、私が逆の立場なら関係者全員に顔を合わせるたびに平謝りという感じになるでしょうから(それが人に迷惑をかけて反省している人の態度だと思います)、なんだかなぁと残念に感じました。

よりによって駐車料金の負担を余儀なくされた日に限ってこんな目に遭い、貴方のせいで増額された料金分を賠償してくれよと言いたくもなりましたが、若い弁護士さんが作法に欠ける点があるという類の話は、すればするほど自分自身に跳ね返ってくる話でしかありません。

また、引き籠もりがちで若い弁護士さん達と交流もなく、聞く耳があるのか分からない人に苦言を呈するエネルギーもありませんので、このイソ弁さんも、いずれ強面の事件関係者にこっぴどくどやされ・・もとい、有益な経験を積み重ねていただければと加持祈祷する程度のことしかできませんでした。

ともあれ、私自身は岩手を代表するベテランの先生方のように、

実るほど頭を垂れる稲穂かな

の路線を目指したいものです。

まあ、こんなことを書いていると「だったらお前も会合に時間どおり来い(日頃の行いが招いたことだろ)」と言われるだけなのでしょうけど・・

 

さよなら、そして、ありがとう、バーニーズ新宿

1月上旬に、バーニーズ・ニューヨーク新宿店が閉店するとのニュースを見かけました。
https://www.barneys.co.jp/personalities/the-barneys-team/thank-you-shinjuku.html

このお店が誕生したのは私の大学時代と記憶していますが、異性のためにお金を使う機会に微塵も恵まれない生活を送っていたこともあり、多摩地区から新宿に出没した際、精神衛生のため大変お世話になりました。

最初に入店した頃、扉を開ける係の人がいるのを初めて見て、目を丸くしたことを最近のことのように覚えています。

ケチでビンボーな司法試験受験生ですので、基本的にはバーゲン日だけに出没し、値札を見て溜息をついては最安値価格帯の何かを記念品的に買って帰るという程度ですが、駆け出しの頃に背伸びして購入したコートを20年も経てようやく(そこそこ)着こなせるようになったこともあります。

開店当時のあのお店の雰囲気は、他のデパート等で得られない「本物の西欧っぽさ」があり、唯一無二の価値を提供する場所と感じていました。修習生前後の頃、こちらで購入したネクタイを身につけて褒められたことも覚えています。

最近になってWebで服を買うことを覚えたので家族に蛇蝎の如く敵視されているのですが、当時バーニーズで買ったスーツのブランドをこの歳になってようやくきちんと知ることができ、色々と懐かしんでいます。

東京を離れてからは2~3ヶ月に1度、東京駅周辺を往復するだけの関わりでしたので、新宿店には10年以上ご無沙汰になっていますが、あの頃に感じた眩しさを、国内で、また経験できる機会に恵まれたいものです。

これもまた一つの時代が終わったことを示すものなのでしょうが、今を担う我々に、あなたは現代に相応しい本物としての価値を社会に提供しているのですか、とバーニーズが問うているのかもしれません。

ともあれ、残念なニュースですが、改めて感謝の気持ちを伝えたいです。

おら南郷スキー場さ行ぐだ

福島県の南会津町にある南郷スキー場のポスターが、「つぶれそう」などと自虐的なフレーズで話題になっている、との記事に接しました。

すると、最初のフレーズが、どこかで聞いたことがある曲に似ているということで、突如、作った応援ソングこと替え歌です。タイトルは「おら南郷スキー場さ行ぐだ」でしょうか。

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バスもねぇ 電車もねぇ 
高速道路も超遠い

ゴンドラねぇ クワッドねぇ 
3つのリフトを乗り継ぎ

名山に囲まれた 
頂上絶景ただひとり

連れもねぇ さびしぐねぇ
異性の「いいね」もたまに来る!

あぁ南郷スキー場 あぁ南郷スキー場
今季は保つかい?

今季保ったなら 貯めだ銭で
新幹線延伸させるだぇ

*****

東京時代、友人やお世話になった方に那須や長野のスキー場に連れて行ってもらったことはありますが、南東北のスキー場にはまだ行ったことがなく、行ける方が羨ましい限りです。

こちらのスキー場も、在りし日の八幡平スキー場をスケールアップさせたような印象で、いつの日かお邪魔したいものです。

最初、記事の表題を見たとき「八戸の南(南郷村)にスキー場があったのか?」と一瞬だけ勘違いしたのですが、この両者がどうして同じ地名になっているのか(双方の由来など)は調べておらず、いつか調べてみたいものです。

 

本年最初のご挨拶と「いいね」の嵐

正月をかなり過ぎてしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。

早速ですが、正月から実話をもとに全開で行ぐべの一首。

年賀状 ようやく見つけた手書き付き
めくると 破産者・転送郵便

(日弁連年賀状あるある狂歌集・令和3年度応募作品)

それはさておき、かくいう私自身が年賀状の衰退容認派で、数年前から手書きをする気力(精力)も失われてしまい、今年も「ほぼ全員、シール貼っただけ」という体たらくでしたので、他人様のことを申せる身分ではありません。

そんなわけで、約10~15年前から、顧問先・仕事関係など一部の例外を除き、新たに知り合った方には親しくなっても自分からは年賀状を全く送っていません。

で、昨年(当方から送らなくても)頂戴した方のみ投函し、想定外の来書の返信用に若干の予備を残し、足りなければゴメンナサイで済ませ、今年来なかった方は、(生身の世界で良好な関係を続ける意思があっても)来年は出さないという、「徐々に減らすべ作戦」を続けています。

それでも、15~20年以上何の音信もなく、当時から関係も希薄で、きっと二度と接点を持つこともないだろう東京等の先生や一度も会ったことも話をしたこともない県内の同業の先生などから沢山の印刷だけの年賀状をいただくと、「お互い、もうやめませんか・・別に、年賀状交わさなくとも、万一にも仕事等の機会があれば話はできるでしょうし・・まあ、文章つきのものは色々と参考にさせていただいてはいますが・・」と、複雑な思いにかられてしまいます。

ともあれ、(事務局任せの流れ作業でなく)ご自身の意思で当方に年賀状を下さった皆様は、誠にありがとうございました。

と、新年早々からネガティブな投稿はさておき。

昨年暮れに、当事務所のWEBサイトについて、技術的な修正(http→httpsへの変更。といっても何のことやら私にはよく分かりません)を行い、併せて私自身が主要ページの文面を訂正できるようにしたので、年末に、主立った記載のうち内容が古くなっていたものを微修正しました。

が。

これに伴い、これまでトップページから各ブログ記事まで、作業前に付いていたfacebookの全ての「いいね」が消え、ゼロカウントに戻ってしまいました・・・

ブログ記事の中には、皆さんに数十の「いいね」を付けていただいたお気に入りの作品や、たった一つだけ、某著名人に紹介いただいたおかげで数百の「いいね」が付いていた投稿もあり、公私あれこれで傷ついたとき密かに読み返しては我が身を慰めていたので、これから先、何を楽しみに生きていけばいいんだと、ますますネガティブなことばかり考えてしまいます。

消滅前にトップページに頂戴した「いいね」は、記憶では、41個でした。

そこで。

本年の目標その1。

トップページに42個以上の「いいね」をいただく。

記念すべき42番目の方には、お年玉ならぬ豪華「無料相談山ほど可能券」付き!

っていうか、誰が押したのか検証できないので、10人くらいから「俺が押した!」と言われたらどうしよう・・

いや、それ以前に、10年かかっても42個以上付かなかったらどうしよう・・(たぶん、そうなりそう・・)

仕方ないから、明日以降も、あの手この手でトップページの引用投稿を延々と続けるほかなさそうな気が・・

というわけで、不憫に思って下さる方は「もう、新年挨拶投稿への『いいね』ボタンは押し飽きたよ」などと仰らず、愛の手をポチッといただければ幸いです。

・・・という投稿を正月にfacebook上で行ったところ、大変ありがたいことに、沢山の方からご温情を賜り、HP(トップページ)には、本日現在、83個もの「いいね」を頂戴しています。

なんと昨年の2倍以上ということで、押していただいた皆様には改めて御礼申し上げます。

これに味をしめて?今後も何と理由をつけて、HPへの「いいね」をお願いしたい誘惑にかられますが、しつこい奴は嫌われるでしょうから、今後も、皆さんのご理解をいただけるのに相応しい投稿のネタがあるとき、こっそり励んでみたいと思います。

ともあれ、本年もご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

 

平成30年~令和元年の取扱実績③家庭(離婚・親子・後見)、相続、行政、刑事ほか

前回に引き続き、平成30年~令和元年の業務実績(従事ないし解決した紛争の概要)を、守秘義務の範囲内で簡単にまとめました(全3回)。依頼先の弁護士を選定する際に参考にしていただければ幸いです。

(6) 家庭生活や親族関係、相続を巡る法的問題やトラブルの解決

離婚やこれに関連する紛争(離婚時までの婚姻費用、面会交流、離婚後の養育費のほか、破綻の原因となった不貞行為を巡る賠償問題など。否認事案を含む)については、現在も多数のご相談・ご依頼を受けています。

主なものとしては、夫婦の不和(親権争い)に伴い、夫が幼児を自身の実家に連れて行った上、妻に対し自宅からの単身退去を求めるなどしてきた案件で、それまで育児の大半を担っていた妻の代理人として「子の監護者指定及び引渡しの審判」の申立をした案件があります。

実務的には当然に認められるべき事件と判断して申し立てましたが、1審(盛岡家裁)で予想外の敗訴審判を受け、驚いて即時抗告(不服申立)を行ったところ、2審(仙台高裁)で無事に全面取消(当方勝訴)の決定をいただき、かなりの長期を要したとはいえ、無事にお子さんの引渡し等を受けることができました。

他にも、嫡出否認の問題を抱えた方(男性側)のご依頼で、女性側と交渉して必要な法的手続を行った案件もあります。

前回(交通事故の項)にも書きましたが、夫婦間の紛争を依頼される方の中には、弁護士費用保険を利用して委任される方もおられます。現在は勤務先など(所属団体)が従業員などを被保険者として契約する保険商品が主流のようですが、夫婦間の紛争はご本人・受任者双方にとって負担の多い手続になることが多く、保険の普及を期待したいものです。

成年後見に関しても、財産管理や後見支援信託など基本的な対処を行う事案のほかに、後見審判後も施設入居を拒否して自宅で独居を続ける方に関し、様々な問題に対処・苦慮しつつ、生活の継続を見守っている事案もあります。

また、意思疎通は問題がないものの身体に障害のある方で、家庭内に複雑な事情を抱えたご年配の方から財産管理の依頼を受け、福祉関係者と協議しつつ家庭内の問題への対処を含む様々な対応を行っている案件もあります。

相続分野では、亡夫の預金などの相続について、前妻のお子さんとの交渉等(遺産分割)の依頼を受けた事案や、亡父の遺産分割の対処の依頼を受け、相手方の特別受益をはじめ、様々な論点の検討が必要になっている事案などを担当しています。

また「県内の山間の集落に多数の不動産を遺して亡くなった方について、相続人である兄弟姉妹らが長期間、相続手続をしなかったため、相続人が数十名、権利の調整を要する物件(相続不動産)も多数に上り、墓地の扱いなど様々な論点が存する(放置されたまま、現在に至った)案件」の依頼を受け(相続人の調査等を対応された司法書士の方のご紹介)、現在も多くの関係者と協議しながら解決のため対処に追われています。

また、遺言により財産相続をしたAが、不和な状態にあるきょうだいBから遺留分減殺請求を受けたものの、B氏が生前贈与を受けていることなどから減殺(代償金の支払)はできないとして争った事案(A氏代理人として受任し当方の主張どおり解決)、相続財産管理人として受任し多数の関係者が生じている共有物分割請求(土地の権利関係の処理)に対処した事案自筆遺言の検認やその後の対処(他の相続人との交渉など)を要する事案親族関係者全員での相続放棄の申立事案(音信不通になっている親族との連絡調整を含む)などを担当しました。

身寄りのない方であれ、身内の「争族」が危惧される方であれ、法的手続を通じて相続財産の処理をせざるを得ない事案や、信託のような特別な配慮をするのが望ましい事案は今後、ますます増えていくと思われます。

なるべく生前に、相続や財産管理のあるべき姿について遺言などを通じ適切に意思を表明していただくのが、紛争やトラブル発生の防止のため望ましい面がありますので(遺言の内容や書き方などに関する弁護士等へのご相談も含め)、ご留意下さい。

(7) 行政との訴訟、刑事事件、その他の業務

行政を当事者とする紛争では、特定の産業分野(行政の規制対象)で自治体に営業許可を申請して不許可となった多数の方々が、その行政処分に不服があるとして取消や許可の義務付けを求めて請求している訴訟(報道でも大きく取り上げられた「サケ刺網訴訟」)を、自治体(岩手県)の代理人として受任し、3年ほど膨大な作業を通じて闘ってきました。

平成30年に1審判決があり、主要争点で当方の主張を全面的に認める勝訴判決を受け、昨年2月には控訴棄却(県勝訴)の判決がありました(先方が上告し、本年に上告棄却=当方勝訴で終了しました)。

刑事弁護も、被疑者段階を含め、窃盗や詐欺、傷害、器物損壊、住居侵入、迷惑防止条例(盗撮)事案などに関して幾つかの事件を手掛けています(大半は国選事件ですが、私選のご依頼はタイムチャージ形式で受任しています)。

否認事件や大規模な詐欺組織の構成員の国選弁護人として、無罪の主張立証や多数の被害者への弁償など様々な作業に負われたこともありました。

少年審判についても、保護観察がなされた事案のほか、「生育環境に気の毒な事情が多く見られたものの、従前の素行の問題や現在の生活環境の悪さから、やむなく少年院送致となった事案」も経験しています。

その他の業務としては、岩手県民生活センターが主催する消費者向け相談紫波町社会福祉協議会岩手県総合福祉センターの高齢者・障碍者向け相談など幾つかの相談事業を担当しているほか、東北厚生局の訟務専門員として、保険診療の不正受給問題に関する解決のお手伝いをしています。

 

平成30年~令和元年の取扱実績②交通事故等(賠償)、生活上の問題(消費者・契約)

前回に引き続き、平成30年~令和元年の業務実績(従事ないし解決した紛争の概要)を、守秘義務の範囲内で簡単にまとめました(全3回)。依頼先の弁護士を選定する際に参考にしていただければ幸いです。

(4) 事故等による被害の賠償等の請求や防御に関する支援

現在も交通事故の被害者側での受任事件が多数あり、大半の方が、ご自身等が加入する任意保険の弁護士費用特約により、本来であれば数十万円からそれ以上を要する弁護士(当職)への委任費用について、自ら費用の負担をせずに利用されています。

受任の内容も、過失割合(事故態様を巡る事実関係)が主たる争点となる事案、物損の金額(全損評価額・評価損など)が争われる事案、むち打ち症(頚椎捻挫など)に基づく人身被害の賠償額算定が中心となる事案、重度の後遺障害が生じて多様かつ多額の損害の算定が必要となる事案など、幅広く取り扱っています。

事故直後など、加害者側の示談案提示前の時期から受任して後遺障害の認定申請なども含めた支援を行う例も増えており、「神経障害に関する後遺障害(14級9号)」をはじめ、幾つかの後遺障害につき、認定を受けるための調査や医療機関への照会などを行いました。

また、自賠責で等級認定が認められなかったものの、訴訟で14級相当の後遺障害の認定が認められた事案なども経験しています。

万一のときに後悔しないためにも、自動車保険などでは必ず弁護士費用特約が付された任意保険にご加入ください(某大手損保が販売している、相談のみの特約に加入される方もおられるようですが、必ず委任費用を対象とした保険にご加入下さい)。

近年、弁護士費用特約は企業クレーム対応や家事事件などにも導入されており、従業員などを被保険者として勤務先・所属先で契約する例もありますので、活用をご検討ください。

(5) 個人(消費者)が交わす契約や社会生活を巡る法的問題の解決

投資詐欺の被害に遭った者同士が責任の所在を巡って争った訴訟」(主犯格Aの知人Bが、知人CにもAを紹介し、CがAの勧誘で多額の投資をして被害に遭ったことから、CがBにも紹介者責任があるとして訴えた事案)で、B氏代理人として対応しています。

B氏は詐欺的商法に対する認識が甘く、以前から懇意にしていたAに誘われるがまま、自ら少額の投資(金銭預託)をし一定の配当を受けたことから、Aらが破綻し自身への配当も停止するまで詐欺的商法との認識を持つことなく、主観的には善意でCにも勧めてしまったという事案で、B氏に過失によるCの損害の賠償責任(紹介者責任)が認められるかが大きな争点となりました(Aの受任はしていませんが、当然ながらCの損害の全部又は大半にAの賠償請求が認められることが前提です)。

結局、尋問を含め双方の主張立証が激しく争われた末、B氏にはAらのような巨額の賠償責任が認められないことを前提とした勝訴的な和解で終了しています。

また、転職後に前の勤務先から「職場で負担した仕事で必要な資格試験の受験料などを支払え」と請求された方の依頼を受け、基本的な法律論をもとに、請求棄却(勝訴)の判決を得ています。

昨年は、Web上のやりとり(誹謗中傷的な投稿)を理由とする名誉毀損企業の従事者の方が企業情報を他社に漏らしたことを理由に賠償請求を受けたケースなど、個人が特定の不法行為を行ったことを理由とする賠償問題で相談・依頼を受けた件も複数ありました。

他にも「D社に務めるEが退職後に同業他社に就職したところ、Dから競業避止義務違反だと主張され、賠償要求などを受けたため、E氏代理人としてそれが不当だとして反論した案件」職場内での個人間の暴行事件を巡る賠償請など、様々な事件を手がけています。

また、震災無料相談制度(令和3年3月終了見込)や扶助相談制度などを通じ多数の方々にご来所いただき、各種の消費者被害や近隣トラブル、労働事件をはじめ、生活上の様々なトラブルに関するご相談や簡易な交渉対応などに応じています。

 

平成30年~令和元年の取扱実績①全体、中小企業法務、債務整理・倒産

当事務所では毎年1回、前年の業務実績の概要をブログで公表しています。ただ、本来の予定が大幅に遅れ、昨年=令和元年分は本年8月にようやく顧問先に送付しており、ブログでも載せようと思いつつ、余裕のない状態が続き、現在に至りました。

その上、さきほどブログを見返したところ、2年前=平成30年の業務実績の掲載を失念していたことに気づきました。

というわけで、今回は、平成30年・令和元年の実績概要をまとめてお知らせします。

当事務所WEBサイトの「取扱業務」に基づいて分類し、3回に分けて掲載します。依頼先の選定などの参考としていただければ幸いです。

(1) 全体的な傾向など

当事務所は、①交通事故などの各種事故(主に被害者側からの賠償請求)、②離婚や相続など家族・親族間の紛争や各種法律問題、③企業倒産や個人の債務整理、④企業の取引や内部の紛争、⑤個人の方に関する各種の民事上の法律問題などに関する様々な紛争の解決や法的処理のご依頼に対応しており、この5大分野が業務の柱となっています。

近時は①②の受任が多くなっていますが、企業の重大な紛争や大型の行政訴訟(現在は行政側での受任)など他の様々な事件の解決やご相談の対応にも注力しています。

(2) 企業・団体の業務や経営上の法的問題に関する支援

企業取引に関する問題では、受注業務を巡る紛争や賃貸借に関する典型的な紛争などほか、2~3年前に社会問題化した「詐欺まがいの求人広告(無料出稿を装い簡易なFAXのみで契約させ、最初の無料期間経過後に当然に有料に移行したとして高額な請求を行うもの)の請求」に関する対応依頼などもありました。

また、「建築瑕疵の是非などを巡って複雑な争いがある賠償請求訴訟を建設会社側で受任した事案」、「商業店舗の賃貸借に関し、貸主側の対応の不備に起因し借主が退去等を余儀なくされたため、借主代理人として貸主に賠償請求した事案」などを受任し、責任論(賠償責任があるか)・損害論(責任があるとして、どの程度の請求ができるか)を巡り激しく対立した訴訟などを担当しています。

これらは相応に主張立証を尽くし、裁判所から相当な和解勧告を受けて解決しています。

他にも、取引先への売掛金請求に関する事案(請求者側)や、以前に契約関係にあった相手方企業から不当な要求を受けたため、必要な反論を行い要求を退けた事案などを扱っています。

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企業の内部紛争に関しては、「小規模な企業の経営者Bに頼まれ中途就職したAがBから企業承継(買取)を要請されて応じたものの、後日、Bに不正行為が発覚したとして、Bの法的責任を問う必要が生じた事件」をA氏側代理人として受任した案件があります(本年、1審で勝訴判決を得て、控訴審で勝訴的和解が成立しました)。

ある企業が有期契約社員の方が問題を起こしたため更新拒絶(雇止め)を行ったところ「辞めさせるのは違法だ」と主張され地位確認等(解雇無効)請求を受けた事案で、企業側代理人として2~3年ほど対応した案件があり、昨年、1審勝訴→2審も勝訴維持の心証を前提とした解決を得ています。

また、以前にA社を共同経営していた親族同士が数十年前にA社・B社に分離し互いに単独で企業を経営していたところ、近年になりB社がA社に重大な背信行為に及んだことが発覚したため訴訟を余儀なくされ(A社代理人として受任)、過去の様々な経緯から双方が激しく対立する事案なども担当しています。

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当事務所では、一般的な顧問料による顧問契約だけでなく、9年前から月額3000円(税別)による顧問契約をお引き受けしており、ここ2~3年は、顧問先の方々から、様々なご相談や簡易なご依頼などを受ける機会が増えてきました。

今後も、多くの県内などの中小企業・団体などの方々にとって利用しやすい利用頻度に応じたリーズナブルな顧問契約のあり方を追求すると共に、早期のご相談と必要な対処を実現し、手遅れになる事態の回避ひいては弁護士とご本人が共闘して物事の機先を制する、能動的・戦略的なリーガルサービスの提供につとめてまいりたいと思います。

(3) 債務整理と再建支援

震災以前に比べて、自己破産、個人再生、任意整理とも受任件数は大幅に減りましたが、現在は「債務総額がさほど大きな額ではない(100~200万円未満)ものの、僅かな収入しかない又は無収入ゆえ自己破産をせざるを得ない方」「複数の銀行などに300~400万円程度の借入と住宅ローンがあり、住宅を維持しつつ他の債務を圧縮するため、個人民事再生の手続を利用する方」からの依頼が多い傾向にあります。

また「法的手続をせず、リスケジュールのため任意整理を希望する方」の依頼もあります。近年は10年以上前に借りた債務を滞納していた方が「債権譲渡を受けた」と称する企業から最近になって請求を受け、消滅時効などにより解決を求める事案も幾つかあります。

近年は、債務額などからは民事再生や自己破産の手続をとるべき方が、Web上で大々的な広告を展開する東京の弁護士などに安易に任意整理(リスケ)を依頼し数ヶ月ほど委任費用を支払ったものの、結局、支払継続が困難となり、成果もないまま後日に当事務所に相談し法的手続を依頼する(ので、当初から当職に依頼していれば負担せずに済んだ多額の委任費用を無為に前代理人に支払ってしまっている)というケースに遭遇した(依頼を受けた)ことが何件もありました。

過払金の巨額横領が発覚した「東京ミネルヴァ法律事務所」問題のように、解決のための方法選択(依頼先の選定を含め)を誤ってしまうと、費用の無駄に限らず、後日に様々な問題が生じます。

債務整理に限らず、弁護士への依頼にあたっては、そうした事柄(後悔を余儀なくされた方が現に何人もおられるという現実)も視野に入れて早期のご相談をご検討ください。

過払金請求は時代の変化に伴い依頼を受けることがほとんどなくなりましたが、債権譲渡など特殊な論点が絡んだ事案の依頼があり、貸金業者側代理人との激しい闘いの末、裁判所から相応の和解勧告を受けて解決したものがあります。

企業倒産(破産管財)に関しては、平成28年に受任した相応の規模の建設関係の会社について、権利関係の処理がようやく完了し配当に向けた手続を行ったほか、小規模な事業者の方の管財事件で、動産の売却や原状回復の問題など様々な法的対応に負われました。

近年はごく小規模な企業の受任に止まっていますが、債権回収などを巡って特殊な交渉が必要になった案件実質的な経営者である元従業員に色々と問題があり、相応の対応が必要になった案件などを担当しています。

申立代理人としても、個人経営の飲食店の自己破産申立などを受任しているほか、本年になって「銀行等にのみ高額な債務を負っている企業及び代表者に関し、適切な方法で相応の弁済を行うことと引き替えに自己破産を回避し、破産のルール(99万円)を上回る資産を将来も保持するための制度(経営者保証ガイドライン)」により解決すべき事案のご相談を受け、現在も諸々の準備を行っている事案があります。

新型コロナウイルス禍のため残念ながら経営継続が困難となった方の中には、この制度を利用して債務問題の解決を図っていただくのが望ましい案件がありますが、あまり知られていない制度ですので、ご留意いただき知人などで必要とする方がおられれば伝えていただければ幸いです。

個人の方の破産管財でも、山林の換価が問題となった事案や個人への貸付の調査が必要になったケースなど、幾つかの事案を担当しています。